#52 HOPE TREE <祥子視点>

文字数 6,594文字

ルナの声に合わせ、アーチャーさんの声に合わせ、一日が終る。
ここに滞在して驚いたのは食事。コーヒーにしても種類があって、ミルクに関しても、ホイップするのか、どこ牛のミルクか…大変だ。
分からないから毎回違うのを頼む。名前が違うから味も違うのだろう。美味しいのは確かだけど。

アーチャーさんの奥さんにも会った。綺麗な人だった。聞けばモデルだった方で、今はテレビで活躍している。

午後の練習が終わる。

「祥子、外、行きましょ」

ルナが誘ってきた。

「夜の練習は?」
「お父様がお出かけになるから自由よ」
「なら、心置きなく行けるわね」

車を待たせ、ルナと街を歩く。建物が眼を引く。日本みたいにどれも同じ感じじゃないから、一軒一軒楽しめる。クリスマスに向かって飾り付けも(にぎ)やかだ。クリスマスマーケットの準備も始まっている。
あちこち歩き回り、行き着いた所は大きな木の下だった。
ルナが木に近寄って幹に触る。

「大きな木ね」
「祥子、これモミの木よ」
「クリスマスの木ね」
「飾りつけされると綺麗なのよ」
「こんなに大きいと飾りがいがあるわね」

私も木に近づいて見上げた。

「祥子、この木はね HOPE TREE なのよ」
「HOPE TREE(願いの木)?」
「この木に願い事をすると叶うって言われているのよ」
「願い事が叶う」
「そうよ。私、毎年、この木に願い事するのよ」
「毎年」
「えぇ。大学に合格できるようにとか、コンクールで金賞取れますようにとか、公演が入ってくるようにとかね」
「凄いわ。願いが叶ってるのね」
「この右手になった時に、フルートを断念するんだからって必死になってたのよ。でも、毎年、叶ってた訳じゃなかったけどね」
「でも、凄いわ」
「シドが私のフルートで頑張ってるのを聞いていたから、私も頑張れたのよ。やっと一人前にオペラを演じられる様になったから、シドに堂々と会えると思ったの」

ルナもシドに負い目があるのかもしれない。事故に合わせてしまったという。
幹に手を当てながら、ルナが続ける。

「もう三回目になるけど、去年もこの木にお願いしたのよ。「シドに会えますように。話せますように」って。バカみたいよね。電話で話しちゃえば早いのに。でも、今更、電話が掛けられなくて」
「そこに私が現れた」
「えぇ。祥子の音をお父様が絶賛したのよ。お父様の声が興奮で大きすぎて聞き取れなかった位。「祥子の音なら大丈夫だ!」ってね」
「あらら」

ルナが顔を私に向ける。

「これは忘れないで。私もお父様も、祥子がシドの楽団員というのを知ったから頼んだ訳じゃないのよ。祥子の実力で決めたのよ」
「…光栄です」
「シドからのメッセージを持って来てくれるなんて思わなかったわ。…ねえ、祥子」
「何?」
「私は素直にシドに飛び込んでいいのかしら?」
「…はい。そう思います」
「祥子は…」
「シドは優しいお兄さんですから」

そう笑ってルナに言った。わざとらしくない笑顔を作れたと思う。

「お兄さんか。シドは…そうね。優しいわ」
「はい。今はマリーとどう接すればいいか困ってましたよ」
「マリーと?」
「マリーも今じゃ年頃の女性ですからね」
「あ、そうね。もうそんな年頃ね」

顔を見合わして笑ってる。私の心の中は少し揺れていたけど。

「祥子も願い事あったらするといいわよ」
「はい」

ルナと同じ様に幹に手を当てる。
私の願いは…これは願っちゃいけない。だから、こう願おう。
大きく深呼吸をする。

(エリックと一緒に居たい)

願いが叶うなら、何度でも願いたい。心の中で願うのは自由だ。

待たせてる車に戻る途中、ルナに付き合ってジュエリーのお店に入った。
入って直ぐ、支配人がルナに付き添って店の奥の部屋に(うなが)す。バーのカウンターみたいなショーケースがあって、「これが宝石」って大きさの物が並んでる。
ルナって…凄いんだ。唖然としながら、私はお付きの人みたいにルナについていく。

「祥子、これどう?」

キラリと光る宝石の大きさに驚いて、引き気味の私が答える。

「ルナに似合うと思うわ。綺麗ね」

ケースから出して貰い、ルナが首に掛けて鏡に写す。

「これ頂くわ」

ルナはさらりと言って、2カラットものサファイヤのネックレスを購入してる。見てるだけでもため息が漏れるのに。

「こちらのお嬢様には、これなどいかがでしょうか」

支配人がケースからルビーのブローチを取り出して私に見せる。これも宝石が大きい。

「いい物ですね。でも、私、似た物を持ってるから、残念だけどまたにするわ」

似た物ったって、石の大きさは米粒位です。
ルナが他を見始めたから、私はお店のほうに戻ってケースを見て歩く。
こっちのほうが安心して見れる。

見て回ってて、エンゲージリングが眼に入ってきた。
隠されてたエンゲージリングを思い出す。隣のケースにはマリッジリングだ。その隣は男性物のタイピンやカフスが並んでる。

「すみません。これ、下さい」

店員さんに出して貰い確認する。ケースで気に入ったのが無かったから、希望を伝え作って貰う事にする。代金を支払った。

「祥子も買ったのね。何買ったの?」
「ぇ? あ、ルナ。ちょっとね。欲しくなったの」

ルナに声を掛けられて、自分のした事に驚いてる。
私、何買ってるんだろう。ケースまで特注しちゃって。

(願い事なんてしたからだ)

帰る車の中で思っていた。



ロンドン公演が迫ってきて、私は、アーチャーさんとルナ、二つの声を合わせるのに苦労していた。ルナに合わせるとアーチャーさんの声が(かす)んでしまう。

「二つを繋ぎとめる音って、どうすればいいんだろう」

今は誰にも頼れない。そんな気がしていた。エリックとの事があったから尚更だ。それに、シドにも頼れない。

(スケートの音は、ひとりで出来たんだ。大丈夫)

録音しておいたルナとアーチャーさんの二人で歌っている曲を流していく。
声を載せる音。それは出来ている。今の音でも充分なのかもしれない。だけど、曲の所々で片方の声が霞んでしまう。そう私の耳に聴こえてくる。

「どうすれば…あぁ、分からない」



明後日から始まる、公演会場の下見に来た。学生のオーケストラが公演中だったから、舞台袖(ぶたいそで)で聴いていた。

「祥子もあんな時があったのかな?」

アーチャーさんが声を掛けてきた。

「今なんか想像もしてなかった時がありました」
「祥子は今の人生が間違ってると思うかい?」
「間違ってないです。でも、嘘であって欲しいと思う時もあります」
「祥子はこれからの人だからね。そう焦らなくてもいいんだよ」
「私、焦ってる様に見えますか?」

アーチャーさんが笑う。

「今回の祥子は、がむしゃらに向かい合ってる」
「そう、ですね」

見透かされていた。ポンと肩を叩かれてアーチャーさんを見た。

「彼等みたいに気楽に楽しもうじゃないか。楽しい音なら声だってノッてくるんだよ」

アーチャーさんが学生達に視線を投げてから、私に目配せした。

「はい」

学生の音と私の音。違うのは歴然としている。その音に戻すのは出来ないと思う。
楽しい音。ケリーとのスケートの曲。あれはリンクを滑らせて(運んで)貰って気持ちいいと感じた。楽しいとも感じた。だから、音を創り直したんだ。

(楽しい…か)

アーチャーさんとルナの声で、オペラ歌手との競演で、楽しい音とは?



学生達が片付けを始め、舞台がガランとしてから私達の準備が始まる。

「祥子、この位置でいいかな? 確認してくれ」

アーチャーさんが呼び寄せるから出て行った。
舞台上から見る光景は劇場によって全然違う。ここは平面に感じる。
実際にフルートの音を出していく。音の響き具合によって位置をずらさなきゃならない。

「譜面台はこの位置に。フルートを置く台もお願いします」

床に印がつけられて、舞台担当の人が指示を出していく。
最後に簡単にリハーサルだ。
ルナの声、アーチャーさんの声。完璧だ。私の音もそれぞれに合っている。

「ルナ、ハレルヤとホワイトクリスマスの音、どう感じます?」
「祥子らしくていいわよ。歌い(やす)いもの」
「アーチャーさんはどう感じます?」
「歌い易いですよ」

歌い易い…それは賞賛されているのでしょうか。



ルナとアーチャーさんが用事があるからと、会場からタクシーで移動していった。私はラルフの運転する車が送ってくれる。

「あの。ラルフ」
「なんでしょうか?」
「少し待ってて貰えませんか」
「何か用事でもおありですか?」
「はい」
「では、一緒に行きましょう」
「一人で大丈夫ですよ」
「そんな事出来ませんよ。あなたにもしもの事があったら私が怒られてしまいます」

ラルフの視線が私に向けられ、軽く笑った。
ラルフはアーチャーさんの指示に忠実だ。「付いて来ないで」と言っても無駄だろう。

「じゃ、一緒にお願いします」
「はい。どこに行くのですか?」
「ジュエリーを頼んでたので、それを受け取りに」
「分かりました」

お店に着く。ラルフが入り口の傍にあったベンチに座る。

「私はここで待っていますから。ごゆっくりどうぞ」
「ありがとうございます」

急いで店に入って頼んでいた物を受け取った。小さい箱をカバンに収め店を出た。

「ラルフ、お待たせしました。帰りましょう」
「早かったですね」

二人で来た道を戻る。
会場の楽屋口から駐車場に抜ける通路を歩いてたら、私達の前に演奏してた学生達が何人か居た。私達に気づいて笑う。
この笑いは何度も経験してきた。海外に出てきて何度もあった。

嘲笑(ちょうしょう)だ。

私とラルフが通り過ぎようとしたら、声が掛かる。

「イエローだ」
「ジャップだ」
「こんな所に何しに来たんだ」
「ゲイシャじゃないのか、男(くわ)えに来たんだろ」

一斉に笑われた。
ラルフが私の腕を掴んだ。

「祥子、気にしちゃ駄目です」
「…はい」

気にしない。気にしない。彼等は私の持ってるフルートケースに気づいたみたいだ。

「あれ見ろよ」
「猿がフルート吹けるなんて曲芸だな」
「童話であったな」
「あぁ、あったな。ジャップが笛吹いて男連れて行くのが」

大笑いが襲い掛かった。私の腕がラルフに引っ張られてる。それもそのはずだ。私は学生達に向かってる。

「祥子、気にしないで」
「ラルフ、離して下さい。侮辱(ぶじょく)です。ちょっと! あなた達!」

私が言ったのを見て、学生達がニヤニヤしてる。

「猿がキーキー言ってるぞ」
「僕達、サルゴ分かりませ~ん」

ドッと笑いが起こる。それを見て腹が立った。

「へぇ。イギリス男性は紳士って聞いてたけど大間違いだったのね。人種をネタにバカにする小さい男しかいないのね」

笑い声は止まったが、顔がまだニヤついている。

「イエロー? サル? ジャップ? それが何よ。そんなの日本を出て何度も耳にしてきたわよ! あんた達だってイギリスから外に出たら何て言われると思うのよ。あ~、そうね。ジェントルマンになり損ねてるから、どこの小さいお人?って聞かれちゃうわね」

ケンカしてるのに私は、英語習ってて良かった、なんて思ってる。
学生達の顔から笑いが消えた。

「サルが吠えてるぞ」
「行こうぜ」

逃げる様に行こうとするのを、ほっとけばいいのに追い討ちを掛けてる私が居る。

「待ちなさい! 私をバカにしといて逃げるな! ホントに小っちゃい男共ね。持ってるのも小っちゃそうね! こん位かしら!」

小指を立ててとんでもない言葉が口から出ていった。学生達の脚が止まり、私を見る。

「あんた達がサルと言う私の音を取り込めるかやってみない?」
「あんたの音を取り込む? 俺達に合わせるつもりか?」

リーダー格の男性が言った。

「あんた達の音なんか簡単よ。こん位だもんね~」

小指を振って挑発してる。

「おい、フルートでだとよ」

クスリと笑いが出ている。

「怖かったら尻尾巻いて小さいのぶら下げて帰っていいわよ」
「受けてやるよ。俺達があんたの音を喰った(取り込んだ)ら、そうだな」

仲間に視線を向けてから、ニヤリと私を見た。

「俺達と一晩付き合って貰うからな」

ヒューと口笛が響いた。

「いいわよ。出来るもんならね。私そんな小っちゃいのじゃ満足出来ないけど」
「…ついて来いよ」

会議室に入った。学生は4人。バイオリン3、クラリネット。

「祥子」
「ラルフ。ごめんなさい。少し、時間下さい」
「…はい」

ラルフが私を守る様に、私の後ろに座る。多分、ラルフの体格が良かったから、学生達は手出しをしてこなかったんだろう。

学生達は、私に向かい合う様に椅子を引き出した。
私の音を呑み込もうとしてるんだ。そんなのに負けるもんか。
ケースからフルートを二本組み立てる。硝子のフルートはタオルの上に置く。多分、使わなくて済むはずだ。

私はこんなに怒りっぽくないのに…。
焦ってるからだ。エリックの事があるからだ。シドの事も…。日本じゃケンカなんか出来ないけど、異国で、異国だから爆発したんだと思う。きっとそうだ。

「この楽曲でどうだ?」

楽譜を見せられた。ドヴォルザーク 交響曲第9番「新世界より」第2楽章「家路」

「いいわよ。何度も吹いてるわ」
「なら、楽譜なんかは」
「そんなのいらないわよ」

ピクリと学生達が反応してる。
お構いなしに金属のフルートを取り上げる。軽く調律で息を入れる。

 ♪~

怒ってても音は大丈夫。情景は私のを押し通せばいい。
他の音も入ってくる。
リーダー格のバイオリン。確かにいい音を出してくる。だけど、私はその音よりはるかにいい最高の音を知っているんだ。クラリネットだって最高の音を知っているんだ。その音に合わせて吹いているんだ。
四人の音を聴いていく。この音だったら金属のフルートで大丈夫。

 ♪~♪♪~♪~♪♪~

結果は歴然としている。学生の音を馬鹿にしてる訳じゃない。私が色々な楽団に混ざって吹いているから、経験の差だ。
部屋の中はフルートの音に引っ張られた小さなオーケストラになっている。
最後の一音が消えていって部屋の中が静まった。

私の後ろから拍手が響いた。ラルフが拍手をくれた。それに釣られるように、学生が楽器を置いて拍手を始めた。

「ありがとう」

私が立ち上がってお辞儀をしたら、リーダー格の学生が私の前に来る。

「その…んと…悪かった」
「からかうのはもう止めたほうがいいわよ」
「あぁ。もうしない」
「ごめんなさいね。私、日本人だけど、ウィーンの楽団でフルートトップを務めてるの」
「ウィーンで?」
「はい」

ザワッと部屋の中の空気が動いた。

「あ、俺、聞いた事がある」

クラリネットを持ってる男性が呟いた。

「でも、硝子のフルートを吹いてるって」

そう聞こえてきたら、皆が一斉に私が出してたもう一本のフルートを見る。
私は金属のフルートを置いて硝子のフルートを取り上げる。

「これよ」
「どうしてそれを吹かなかったんだ?」
「硝子だからって言われるのは嫌だからよ」
「…負けたよ」
「俺、聴いてみたい」
「俺も」
「いいわよ。明後日からここで吹くのよ。その曲を」

「ホワイトクリスマス」を吹いていく。途中で声が載ってきた。私はその声が入ってきて驚いている。私は、歌詞を頭の中で歌いながら、楽しみはゆっくりとやってくるイメージで吹いていた。そのイメージを拾って声が流れてる。もう一人加わった。もう一人、もう一人。四人の声が、質の全く違う声がヒトツになってる。あ…四人じゃない。五人だ。私も歌ってる。

伴奏じゃなく歌ってみるといいんだ。
頭の中で譜面を追いかけるんじゃなく、歌詞を追いかける。カラオケで歌っているみたいで楽しい。歌詞にワビサビがあって曲にノれる。ここはクリスマスが来る嬉しさを…ここはあの人の事を想い…。

アーチャーさんの言った「楽しさ」なんだろうか。違うかもしれないけど「楽しい」。見も知らない、さっきまでケンカしてた人達と歌ってる。

オペラじゃないから、これでもいいんだ。声を載せる事に構えなくていいんだ。
曲を吹き終えてもワクワク感が残されていた。



ラルフを引っ張って駐車場に行く。

「祥子、あなたには驚きましたよ」

ラルフがエンジンをかけながら私に声を掛けた。

「そうですか?」
「一時はどうなることかと、ハラハラしましたよ」
「悔しかったんです。なぜか抑える事が出来なくて」
「素晴らしい音でしたよ」
「ありがとうございます」
「何事も無くて良かったですよ」
「心配掛けちゃいましたね。ごめんなさい」

トラブルメーカー…そんな単語が頭を過ぎった。


- #52 FIN -

「ラルフ、苅谷祥子は口が悪いって思ったでしょ?」
「そんな事思いませんよ。挑発してるな。って思っただけですから」
「内緒ですよ」
「はい」
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