#59 記憶の断片 <祥子視点>

文字数 6,663文字

エリックを見送り、外の空気をもっと吸っていたいけど、寒さに気づき身震(みぶる)いした。

「エリックと一緒だったから寒さを感じて無かったのかな」

もう一度身震いが襲ってきて急いで車椅子を動かして病院に入った。クリスマスツリーの電飾が光っている。

「さっきのツリー大きかったな。あ、そういえば私、木にお願いしたような…」

ロンドンに来て()ぐだったと思う。大きなもみの木だ。願いが叶う木ってルナが教えてくれて、私は何かを願った。

「願い… HOPE TREE だ」

その木に何を願ったんだろう。
病室に着いてがっかりしている私が居た。白いベッドにまた戻らないとならない。

「着替えて化粧もしてるのにな」

シャワーを浴びる位、朝飯前だからさっさと済ませる。脚はビニール袋で保護する。椅子には脚を投げ出せるように補助板がある。よっかかって立って出来れば使わなくてもすむ。
最初は手伝って貰ってやっとだったけど、慣れてくるもんだ。

ベッドに入ってテレビを点けた。ケリーの演技がニュースで映っていた。嬉しくなってケリーに花束を贈る事にした。花屋にメールで注文してから、シドに電話を掛ける。

「祥子です。今、大丈夫ですか?」
「何かあったんですか?」

夜だったのを忘れてた。慌てさせちゃったみたいだ。なら。

「大有りですよ」
「どうしたんですか?!」

大慌てになってるから、笑ってしまった。

「なんて冗談ですよ」
「祥子の事故でこっちはハラハラしてるんですよ。それをお忘れなく」
「そうでした。ごめんなさい」
「まぁ、声が元気のようですから良しとしましょう。それで、どうしました?」
「シド。私、フルートに戻りました。ケースも一緒です」
「本当ですか?!」
「はい。ご心配をお掛けしました」
「吹けるんですね?」
「大丈夫です。吹けました」
「良かったですね。エリックのお陰ですかね」
「はい。きっと。エリックの事はまだなんですけど」

そう言ったら、シドの声が低くなった。

「そうですか。まだ…」
「あ、でも、エリックが居てくれて助かってます」

別れた経緯も、言い辛い事も伝えてくれたエリック。私と離れたくないと言ってくれたエリック。仕組まれたから別れたのであって、エリックがそう望んだ訳じゃない。
だけど、エリックから別れを告げられた後、私はどうしたんだろう。次に向かってたのか、それともエリックを忘れられなくて…好きだったのか。

バイオリンの音がまだ耳に残っている。あの音が懐かしく思えた。エリックはチェロ奏者なのに、バイオリンの音が私に伝えてきた。「好きだ」と。その音に(こた)えたい。そんな気持ちが私の中に湧き上がっていたのは本当だ。

「祥子、焦らないで下さいよ」
「はい。大丈夫です」
「エリックは明日迄の休暇ですからね」
「え? 明日…迄?」
「聞いてませんか?」
「…はい」
「祥子が寂しくてもエリックはウィーンに返して貰いますよ」
「はい。仕事ですもんね。大丈夫です」
「祥子も検査結果次第でこっちに戻れますから」
「はい。戻れるように頑張ります」
「頑張っても骨ですからねぇ」
「あ、そうでした。なら、骨しゃぶって、カルシウム食べてますね」

シドの笑い声が聞えてくる。

「皆、祥子が戻ってくるの待ってますよ」
「はい」

電話を切ってため息だ。

「そうだ。エリックにも仕事があるんだ。休暇を貰って駆けつけてくれたんだ」

エリックの顔、柴崎さんの顔、シドの顔、今迄付き合ってきた人の顔が浮かんでくる。
私が今見ていたい顔は、隣で笑っていて欲しい顔は、エリックだと思う。
寂しくなった。明日過ぎたらエリックはここに来ない。



松葉杖も車椅子も慣れてきたから日常生活はなんとかなる。骨のほうも運良くくっ付いてるみたいだ。打撲の痛みもなくなった。顔のキズも塞がってる。首はバイオリンを弾かなければ痛まない。一部の記憶だけが戻って無いだけ。
骨以外は元気だから入院の必要は無い。
他で必要な患者さんの為に病室を空けて下さいというのが、病院側が声に出していいたい事なんだろう。

保護者代わりのアーチャーさんと一緒に説明を聞いて、ニ日後に退院となった。ウィーンで通う病院に紹介状を書いて貰う。ギプスは様子を見てウィーンで外し、そこからリハビリが始まる。保険関係の手続きもしなきゃならない。
ラルフに車椅子を押して貰い、病室に向かいながら思っている。

(今日、退院したかったな。エリックと一緒に帰れるのに)

「ニ日後の飛行機のチケット手配しておきましょう」

横を歩くアーチャーさんに言われて頷きながら、思いつく。ニ日も一週間も遅くなるなら同じだ。私の仕事も療養で休みになってるし。

「アーチャーさん。残りの演奏会していきます」

アーチャーさんが驚いて私を見つめる。

「車椅子でもフルート吹けます」
「祥子、君はフルートの事」
「思い出してます。大丈夫。昨日、吹きました。ケースも戻ってきています」
「そ、そうか! なら、是非、是非! ラルフ、急いで病室に戻ろう。スケジュールを組むぞ!」
「はい」

車椅子が病室に突進するように押されていく。アーチャーさんだって小走りになってる。看護師の注意も「あぁ、すまない」でどこ吹く風だ。
病室に着いても、私が自分でベッドに向かう時間が勿体無いのか、ラルフが抱き上げて乗っけてくれてる。

「さて、祥子、スケジュールを組むよ」

ベッドのテーブルを引き寄せて、カレンダーと紙が引き出されてくる。アーチャーさんが嬉しそうに万年筆を出して書き始める。

「クリスマス前に三日間だ。ラルフ、会場を」
「はい」

ラルフが電話を掛け(まく)る。大学の大聖堂がとれた。

「席の差分を発売だ。各メディアに流して。それと演奏会の宣伝と、準備の開始だ」
「はい」

ラルフが病室から出ていった。私はアーチャーさんのスケジュールを確認して質問する。

「アーチャーさん。他の仕事と重なってますよ」
「大丈夫だ。インタビューなんかは楽屋で出来る。レコーディングだって一回歌えば済む。ディナーショーは夕食と同じ。会食は面倒だけどね」

アーチャーさんは「会食は面倒」をしかめっ面をして言ってから笑った。

「さすがです。でも、ルナのほうは?」
「あの娘はクリスマス前からシドと一緒のつもりさ」
「悪い事しちゃったかしら」
「大丈夫。シドを呼べばいい。そのまま一緒にウィーンに連れていって貰えばいい。私と一緒じゃないクリスマスになるんだ、仕事位はやって貰わないとね」
「あらあら」

アーチャーさんが面白そうに書き足した。

/ ウィーン行きのチケットは24日 三人分確保

「お客さん来るのかしら」
「満員さ」
「どうしてですか?」
「チケットは完売だからね」
「これから販売じゃないんですか?」
「延期にしてるんだ。だから差分の席だけ販売さ」
「演奏会が中止になったら払い戻しじゃないんですか?」
「普通はね」
「普通じゃないんですか?」

アーチャーさんが笑って私を見て指をたてた。

「皆、祥子を捕まえておきたかったんだ。チケットが人質さ」
「え?」
「チケット持ってるから、祥子は演奏会をしなきゃならないってね」
「いつになるか分からないのに?」
「こっちの人間は好きな事は気長に待てるんだ。待った分楽しみが続く」
「待った分、期待されちゃいますね」
「祥子ならその期待に応えてくれると皆、知ってるんだよ」
「そう…でしょうか?」
「勿論だよ。本当の理由も似たようなもんだよ」

アーチャーさんが話してくれる。
事故が起こって、演奏会が中止になり、払い戻しの受付日を流したところ、相次いで「次の演奏会は?」と寄せられたそうだ。私の容態が良くなってから改めて演奏会を開きますと答えたところ、「このチケットで聴きたい」と反響があって、アーチャーさんが延期の演奏会チケットにした。

「チケットは即日完売だったからね。手離したら次は取れないと思ったんだろうね」
「嬉しいです。でも、急に決って来れない人が居たら…」
「払い戻しになりますね」
「そうですね。仕方が…無いですね」

その時、病室の戸が叩かれて開く。エリックが入って来て、病室の中のアーチャーさんを見て(たたず)んだ。

「え? ア、アーチャーさん?」

驚いて佇んでるエリックを見て、アーチャーさんが私を見て悪戯っぽく笑いながら、耳打ちする。

「彼が祥子のいい人なのかな?」
「アーチャーさんったら!」

私が慌てて言い返したら、アーチャーさんは立ち上がってエリックに向かって行き、声を掛ける。

「君の事は知ってるよ。チェロを弾かせたら陳腐(ちんぷ)な曲も名曲に変わる名手だ。エリック・ランガー君だね。フランク・アーチャーです。って知ってましたね」
「え? あ? は、はいっ。こ、光栄です!」

エリックが緊張してる。アーチャーさんが差し出す手に、機械のようにぎこちなく合わせて握手してる。

「お、俺、いやっ、私、アーチャーさんのオペラ、よく聴いていました。最高です!」
「それはありがとう。私も君の音を聴いた事ありますよ。そうだな、祥子が居なかったら君に頼んでたな。でも、君のギャラは高いからね」
「え? い、いやっ、それはっ」

しどろもどろになってるエリックを見て笑うアーチャーさんが、悪戯っぽく私に視線を向けたから、

「そんな事ないですよね。アーチャーさんなら思いのままでしょ」

私が冗談っぽく言ったら、アーチャーさんが大笑いになった。

「祥子のギャラも高いですよ。エリック、君は世界でひっぱりだこだからね。私が腰を落ち着けて聴けたのが一回だけだったんだ。祥子は一緒に競演したからね」
「アイーダでしたね。カーテンコールで感動しました。祥子とアーチャーさんのデュオ、声と音、二つが切なく響いてきて、感動してました」
「切なかったですか?」

アーチャーさんが笑いを止めてエリックを見た。

「はい。とても」

エリックの答えを聞いて、アーチャーさんは眼を細めた。私に向かって言う。

「彼も祥子と同じ奏者だね。一度、君達だけが合わせた音を聴いてみたいものだな」
「エリックと私の音ですか?」
「聴いてみたい」

エリックと顔を見合わせている。今、ここにあるのはフルートとバイオリンだ。エリックはチェロだけど、バイオリンも弾ける。その音は…私よりも征司よりも上手い。

「アーチャーさん、聴かせてあげます」
「「 えっ? 」」

エリックとアーチャーさんが驚いて私を見る。

「エリックはバイオリンも弾けます」
「祥子っ」

慌ててるエリックに向かって言う。

「チェロのほうが数倍良い音かもしれないけど、私はエリックのバイオリンの音は最高だと思う」
「…」
「祥子がそう言うんだ。聴かせてくれないかな?」

アーチャーさんがそう言ったらエリックが頷いた。

「は、はい」
「エリック、「星に願いを」。私は途中から入るわ」
「分かった」

エリックがバイオリンを持つ。私はフルートを組み立てる。
Aの音で調律。バイオリンの音を聴いてドキドキしてくる。
この音と合わせるんだ。ドキドキしている。
エリックが私を見る。小さく頷くと、エリックの腕がゆっくり動いていった。

 ♪♪♪・・・

 「一緒に居たい。いつも一緒に。俺を信じて。一緒に居たい」

私の音を合わせる。ドキドキが嬉しい。エリックの音に惹き寄せられる。音がひとつになる。バイオリンの音が包んでくれる。

(エリックと一緒に居たい)

頭の中に衝撃が走る。私、私はこう願ったんだ。HOPE TREE に(エリックと一緒に居たい)って。別れてたのに、一緒に…って。
その途端、私の頭の中に声が響く。「俺って、気づけなかった?」

(え? 何? 今の何?)

エリックの声が頭の中で響いた。気づく? エリックに気づく? エリックの事忘れてるから?

(だめ。今は演奏に集中しなきゃ)

フルートに集中したら、リッププレートの感触が呼び起こす。「じゃ、早く治るように」

(…キス?)

頭の中を駆け巡るのは、エリックとのキスだった。私が風邪ひいて、おまじないみたいにキスされた時がある。

(痛い?)

頭が痛くなった…んじゃない。エアガンで狙われて…エリックも私をかばって傷を受けた。痛そうだったから、私がおまじないをした。エリックの掌の真ん中に。

(おまじない…)

「10日間、寂しくならない為のおまじないをして」私は、そうエリックに言ってキスを貰った。

記憶が湧いてくる。そんな感じを受けていた。それでもフルートから音が出ている。エリックの音と絡まる度、甘く。…甘く。

(エリックと一緒に居たい)

フルートを離した時、自然と涙がこぼれた。別れた後も、私はエリックの事が好きだった。
アーチャーさんが、エリックを促した。

「祥子、大丈夫か?」

エリックが私の肩に手を置いた。

「えぇ。大丈夫。どうしちゃったのかしら」

訳は分かってるけど、急いで涙を(ぬぐ)った。
アーチャーさんが拍手をくれる。

「息が合った演奏だった。そうだな…」

言葉を切ってアーチャーさんは考え込んだ。顔を上げたアーチャーさんは楽しそうに私を見る。

「あ、祥子、退院の時にラルフに迎えに来させるからね。君はそのまま私の家に滞在だよ。シドにも連絡しておくから。さて、年寄りはお邪魔みたいだから退散しますか」
「アーチャーさんたら、もうっ」
「あとで詳細を送りますから。読んでおくように」
「はい。アーチャーさん、今日はありがとうございました」
「どういたしまして」

病室を出て行ったアーチャーさんの表情が気になった。

「エリック。アーチャーさんが何か(たくら)んでる気がする」
「企み?」
「そうよ。あ、そうだ。エリックはアーチャーさんの娘のルナとシドの事は聞いてる?」
「いや。何も」
「あのね、アーチャーさんが私をここに呼び寄せて、昔馴染みのシドとルナは恋人に戻れたの。先週、婚約したのよ」

シドのお父さんとアーチャーさんが友達だった事。その娘のルナがシドの家にホームステイしてた事。シドとルナはフルートを吹いていた事。お互い愛し合っていた事。事故にあってルナの右手が義手になってフルートを諦めた事。ルナのフルートをシドが受け取った事。事故の後、ルナはイギリスに戻り、シドと会えないでいた事。それでも、お互い愛し合ってきてた事。今回の仕事で、シドからルナのフルートを託された事。ルナがフルートに気づいた事。脱線事故でシドが見舞いに来てルナと会った事。
話しているうちに思い出す。

「私、エリックと別れてからシドに向かおうとしてたのよ」
「え?」

エリックが驚いて私を見つめる。

「でもね、シドは私を通して誰かを見ているって感じてたの。私を愛してくれないって」
「…そう」
「エリックの事、少し思い出してきてるの。風邪で寝込んでる私にキスしたのよね。「うつせば治る」ってね」
「あ、あれは。そう、そうだよ「うつせば治る」から」

焦ってるエリックを見て、もう少しいじめたくなった。

「エリックはキスが上手(うま)いのね。場数(ばかず)を踏んでるのかしら」
「そ、そんな事ない! キスは。祥子、祥子だって上手(じょうず)だ」
「あら、そう?」
「そうだよ。俺…そのままで居たくなる」

そう言われてドキリとした。そうだ。離したく無かった。そんな時があった。

「あ~。そう。そうね。話がそれたわ。つまり、私はいいように使われちゃったみたいなの。アーチャーさんは私を呼んで、ついでに上手くいけばいいかな、って言ってたけどね」
「そうだったのか。シドがね」

何事もなかったかのように話を外した。エリックもそれに合わせる様に答えた。

「明後日退院なの。それから、こっちで残してる仕事をしてからウィーンに帰るわ。アーチャーさんの家に厄介(やっかい)になるの」
「いつ、ウィーンに帰ってくるんだい?」
「24日に帰るの」
「クリスマス・イブだ」
「そうね」

昼食の時間を知らせる音が鳴った。エリックが時計に視線を向ける。

「俺、午後の飛行機でウィーンに戻らないとならないんだ」
「もう時間なの?」
「あぁ。帰ったら直ぐに演奏会」
「モーツアルトね。シドから日程と曲目は貰ってるわ」
「ウィーンでも祥子を待ってるんだ」
「早く帰りたいけど、仕事を残したくないから」

エリックの座ってる椅子が動く。

「祥子」
「何?」
「俺、仕事入ってるけど、祥子とクリスマスを一緒に過ごしたい」
「…うん」
「空港行けたら迎えに行く。連絡するから」
「うん。…エリック、耳貸して」
「何?」

エリックの顔が寄って来た。私も顔を寄せる。エリックが驚いてる。私は病室の時計の音を数えている。
1・・2・・3・・4・・5・・・
私が唇を離したら、エリックの手が私の頭を引き寄せる。もう一度、1・・2・・3・・・

「寂しくならない為のおまじない、だ」
「…うん。思い出した」

エリックとの記憶が湧いてくる。


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