#10 運命の歯車 <祥子視点>

文字数 9,001文字

私の就職先が決まった。

日本に居た時は公演依頼がくれば行き、あとは音楽教室の補佐をしてた。全てガド爺を通しての仕事だった。たまにCDやTVや雑誌のインタビューが入ったりしていた。細かく言えば協会とかにも所属して…そんなのはどうでもいいか。
ほぼフリーの身の上だった私が、ここで、それも海外で楽団専属を命じられた。
ガド爺にしてやられた状態だ。
断っても良かったのだろうけど、ここまでガド爺に世話になりっぱなしで、少しは恩返しを…と思ってしまったのが良かったのか悪かったのか。

ドイツ語もままならない、英語だって一生懸命なこの国で、私は暮らしていけるのだろうか。

楽団の関係者に紹介されてから、私は契約の為にガド爺の使ってる部屋に移動してきた。テーブルにコーヒーが置かれる。

「祥子、私とコーヒーを飲む事になりましたね」
「確かに」

シドが笑って私に紙を差し出した。
紙に書いてある文面を征司に日本語で通訳して貰いながら、分からない箇所は説明を受ける。最後にサインを促された。

  運命の歯車が回りだした

そんな気がした。もしかしたら狂い出したのかもしれない。

サインを書いて確認して紙をシドに返した。

「今後は私が祥子のスケジュールを管理します」

シドが言った。ガド爺が横で頷いた。

「まぁ、ワシからも飛び込みで何件か…おっと」

シドがガド爺に指を立てたから、ガド時は慌てて言葉を切った。

「シドを通してじゃな」
「そうです、そうです」
「しまった。専属にするのは早過ぎたようじゃ。もう少し祥子とあちこち回ってからにすりゃ良かったのぉ」

口惜しそうにガド爺が私を見て笑う。

「どうじゃ祥子、ワシからのプレゼント」
「もう、何が何だか」
「慣れるまでの辛抱じゃ。それが当たり前になった時、祥子にとって最高の日常になるんじゃ」
「そこまでが不安だらけですよ」

日本語でボヤいたから征司だけが笑った。

ボレロの追加公演と、国内での公演依頼のスケジュールを調整して解放された。

楽屋に戻りながら征司が話しかける。

「これで祥子は俺達の仲間入りだな」
「良く分からないですよ。私の知らないトコで話が出来上がってるんだもの」
「ガド爺だからな。でも、ガド爺と出会えたのもひとつの運だと思う」
「強烈な幸運ですね」
「全くだ」

征司と笑いながら私は思い出した。そうだ、花束。

「花束取りに行かなきゃ」
「花?」
「そう。征司とガド爺とエリックに。招待してくれたお礼にと思って」
「そうか」
「あ、預かり証みたいなのセーフティボックスの中」
「付き合うよ」
「大丈夫ですよ」
「ついでだし」

そう言って、征司が付き合ってくれてセーフティボックスに着く。
シドに教わった通りに…って上手くいかなくて征司に再度教わる事になった。

「一緒に来て良かっただろ」
「ありがとうございます」
「次はクロークだな」

隣を歩く征司を見て、一瞬高校の時とダブッて見えた気がした。私は…征司をもう一度好きになるのだろうか。頭を振ったら、征司はあの時とは違う大人の男性に映っている。

(昔は昔)

クロークで花束を受け取った。その場で征司に渡す。

「はい。征司に。いい音聴かせて貰いました」
「ありがとう」

一緒に楽屋に向かって歩き出す。

「あと、これからも宜しくお願いします」
「そうなるな」
「はい。あ、ガド爺にも渡してこなきゃ。征司、先に楽屋に戻って下さい。付き合ってくれてありがとうございました」
「あぁ。あ、そうだ。ガド爺はまだ興奮中だから気をつけたほうがいい」

楽屋に行きかけた征司が振り向いて指を立てて言った。

「気をつけなきゃ、ですね」
「そうそう」

ガド爺の部屋を叩いて名乗ると勢い良く戸が開いた。

「祥子、どうしたのじゃ?」
「ガド爺に、はい」
「おっ、ワシにか?」
「はい。今日は何に驚いたのか分からなくなっちゃったけど、全部ひっくるめてのお礼です」

花束を受け取ったガド爺が私を部屋に招きいれる。花束をテーブルに置いてガド爺は私に向き合った。

「ワシも嬉しいんじゃ。まだ、こう…腕に興奮が残っとる」
「わっ!」

ガド爺が私の両腕を握る。

「素晴らしかったぞ。征司とのデュオ。祥子の気転の速さが成功を導いたのじゃ。あんなに息の合ったデュオになるとは思わなかった」
「ガド爺、ありがとうございます」
「同じ釜の飯を食った、ダケはあるな」
「(同じ釜の飯?)えっ? ガド爺?!」
「日本のコトワザじゃろ? 使い方間違っとるか?」
「い、いえ。でも、ガド爺、私と征司が同じ高校だったって知ってたの?」
「そりゃな。征司も祥子もワシが育てたんじゃ。子供の事は知ってて当たり前じゃろ」
「そっか」
「偶然とはいえワシだって驚いとるんじゃ」
「私だって、ここで征司に会うなんて。また一緒に出来るなんて思いもしませんでした」
「人の縁なんて分からんもんじゃて」

ガド爺が笑った。



楽屋に戻ろうと歩いていたら声が掛かる。

「ミス 祥子・苅谷?」
「はい?」

振り向いたら客席で私の後ろに座ってた奥様だ。

「×※▽▲◎●・・・」

ドイツ語で話しかけられた。慌てる私。

「えっ? 何?」
「※▲◎・・・」

彼女がにこやかに話しかけてくるじゃないか。通じてるふりして笑って「ダンケシェーン」だけ言っていればいいんだろうか。花束をくれる訳じゃなく話が続く。

「★▲※▽◎○◎・・・」
「ごめんなさい。ちょっと待ってて下さい。絶対戻ってくるから、ここで、待ってて」

英語の単語とジェスチャーで、通じたか分からなかったが、彼女が(うなず)いた様に見えたから大急ぎで楽屋に向かう。ドイツ語を英語か日本語に通訳してくれる人を連れてこなきゃ。

楽屋迄誰にも会えなかった。楽屋に飛び込んで、エリックが数人と話してるのが目に入った。エリックが私に気づく。

「祥子」
「エリック、助けて」

エリックが口を開く前に、私はエリックの腕を(つか)んで走り出してる。

「急いで。お願い。急いで。人待たせてるの」
「祥子?」

楽屋からエリックを引っ張って出る。彼女が待っている所迄連れて行く。

「エリック、ごめんなさい。通訳して。まず、私がドイツ語分からないからエリックを介して話しましょうって、彼女に伝えて下さい」
「分かった。 ★▲□※・・・」
彼女が頷いた。ここからエリックが彼女の言葉を伝えてくれる。彼女は機関銃の様に話しかけてくる。

「私、祥子の事を新聞で知って、ずっと興味を待ってたんですよ」
「ありがとうございます」
「バレエのほうはチケットが取れなかったのよ。あきらめてたら、今日、この席にあなたを見かけて驚いたのよ。なんて偶然、なんて幸運、なんて、なんて素晴らしい日になったんでしょうって」
「光栄です」
「更に幸運な事に、あなたの音を聴けるなんて思いもしなかったわ。今でも聴いているようよ。あなたの音。最高に素晴らしかったわ。ガドリエルの耳に(かな)ったというのは本当ね」

そう私に伝えてからエリックが少しの間彼女と話している。

「エリック、あなたもそうでしたよね。征司と一緒に」
「そうですね。ところで、あなたは?」
「あら、私ったら。興奮しすぎて名乗って無かったわね。カノンと呼んでちょうだいな」
「カノンですね」
「ガドリエルとは古くからのお友達よ」
「ガド爺のお友達ですか」
「そうよ。あら、祥子と話してたのに脱線しちゃったわ」

エリックが彼女の名前を教えてくれる。私に向き直った彼女は喋り出す。

「私、バレエの追加公演楽しみにしてるわ。主人にチケットを絶対取る様に頼んだのよ」
「ありがとうございます」
「ごめんなさいね。突然だったから、うんと大きい花束用意できなかったのよ。後で、あなたの滞在してるホテルに届けさせますから」
「えっ? こうしてお会い出来てるだけでも嬉しいですよ」
「いいのよ。受け取ってね」
「はい。ありがとうございます」
「じゃ、また会いましょう。失礼するわね」

VIP席に居たんだし、この物腰といい、彼女は資産家なのだろうか。彼女を見送りながら、エリックに聞く。

「彼女の事知ってる?」
「いや。でも、カノンだろ。どこかで聞いた事あるんだよなぁ。ガド爺と友達って言ってたけど」
「ガド爺の友達? そう言ってた?」
「言ってた」
「とすると、ガド爺のような…大きなワガママなヒト?」
「大きなワガママ?」
「だって、ガド爺の友達よ。それも私にうんと大きな花束を送ってくれる」
「そうかもな。強烈な…強烈だな」

エリックと笑ってて花束を持ちっぱなしだったのに気づく。ギュッと握り締めちゃってて花がくたびれてきている。

「ごめんなさい。エリックに渡そうとしてて今のがあったから」
「俺に?」
「招待してくれてありがとう。今も助かった。ありがとう」

花束がエリックの手に渡った。

「嬉しいよ。今日、祥子と合わせてみて、祥子とデュオをしたい。そう思った」
「私とデュオ?」
「そう」
「いつでも出来るわよ。私はここの団員になったんだし」
「そうだね。歓迎するよ」
「宜しくね」
「こちらこそ」

エリックが花束に顔を近づけて花の香りを嗅いだ。



楽屋に戻ると直ぐに数人に囲まれてしまった。エリックが通訳してくれる。

「私、頑張ってドイツ語も勉強します。頭悪いからゆっくりになっちゃうけど」
「大丈夫さ。アガシだって言ってただろ。俺達は言葉が無くとも音で通じる事が出来るさ」
「ありがとう。でも、頑張ります」
「日本人が勤勉ってのは征司見てて知ってたけど、祥子もなんだな。日本人特有なのか? って言ってる。俺もそう思ったけど」

エリックがそう言って笑った。

「私はいい加減なほうですよ」
「そうなの?」
「多分」

その場に居た皆に笑われてしまった。ちょっと居辛くなって逃げる事にする。

「わ、私、帰らなきゃ。荷物取ってこなきゃ」
「俺も荷物ひきあげよっと」

私の後にエリックも小部屋に向かう。私の横に追いついて声が掛かる。

「祥子、ミリファがゴハン一緒に食べようって」
「ミリファと?」
「もちろん、征司と俺も同行」
「あ…うん。分かった」
「帰る支度出来たら、そこに迎えに行くよ」
「うん」

私が開けた小部屋の戸を指さしてエリックは自分の小部屋に向かった。ミリファとゴハンだなんて、話が弾むんだろうか。…不安だ。戸を閉めて机に置いてあるフルートに向かう。

「あれっ?」

フルートの置いた位置が違う。タオルの上に置いたのに今は直に机の上だ。

「誰かが触った? きゃっ!」

私の右肩が掴まれた。この小部屋に誰か居るなんて思ってもみなかったから気がつかなかった。戸を閉めた時すら気づけなかった。だって、気配がなかった。
そのまま後ろに引っ張られて、顔を向けると男性がジッと私の顔を見た。

(何、この人?)

私が男性に体を向けたら掴んでた手が離れた。力なくだらりとその手が落ちた。

それよりも声を出せなかった。男性の顔を見て、その印象が怖かった。アルコールの香りがしている。いや、アルコールのせいだけじゃないと思う。眼…眼の焦点が合って無い気がする。…危ない。一言で表現するなら、この人、アブナイ。

ジッと私を見ながら呟くように口を開く。

「祥子…だな?」
「あなたは? きゃっ!」

 ダンッ

突然、壁に突き飛ばすように押し付けられた。眼が飛び出すように見開かれている。

「Du hast es kaputt gemacht.(お前が台無しにしてくれた)」

ドイツ語だ。何言ってるのかわからないけど、この人が怒っているのは分かる。私が叫ぼうとしているのが分かったのか掌で口を塞がれた。男性の体全体で壁に押し付けられていて、もがいても逃げ出せない。

「Du bist gleich.(お前も一緒にしてやる)」

空いてる手がポケットの中に突っ込まれた、何かを引っ張り出そうとして手間取っているようだ。私の口を塞いでる手が小刻みに震えている。

 パサッ

何かが落ちた音がする。男性が舌打ちをした。

「Noch ein Stück. (もうひとつ)」

ごそごそとポケットの中を探してる。その時戸が開く音と一緒に甲高い声が耳に届く。

「Was machst du? (何してるの?!)」

驚いたからか男性の力が弱まった。私は全身の力をこめて男性を押し返す。

「Halte dich von Shoko fern! (祥子から離れなさい!)」

同時に甲高い声が響き、男性が引き剥がされるように私から離れた。男性の後ろにミリファの姿があった。

「祥子、大丈夫?」
「うん」

ミリファが私を見てから、男性のほうを見て驚いてる。

「ランス…あなた、一体何を」

ドイツ語でも名前は何となく聞き取れる。この人がフルートトップだったランスなんだ。話の内容は分からないけど、ミリファが私の味方をしてくれたのが分かる。

「何でもねぇよ。ちぃと俺の席を奪い取った女に挨拶しようと来ただけだ」
「今日、定期演奏会だったじゃないの。無断で休んでどうしたのよ」
「どうもこうもねぇよ」
「あなたにとって最後だったじゃないの。それをすっぽかしたっての?」
「今更休もうが知ったこっちゃねぇ。俺は用済みなんだしな」

ミリファが足元に落ちてた小さな包みに視線を止めた。

「ランス。これってもしかして」
「な、なんでもねぇ。これは単なる」

そう言ってランスは慌てて包みを拾おうとして指が上手く動かない。ミリファが拾い上げる。

「ドラッグね」
「ち、違う! そんなんじゃねぇ。この女、この女が持ってた。そうだ、持ってたんだ」

ランスが私を指さして、ミリファが包みを私に向ける。

「これ祥子の?」
「違う」

ミリファがランスに包みを向ける。

「祥子のじゃないってさ。分かったわ。ランス、あなたが辞めた、いえ、辞めさせられた理由」
「な、何の事だよ。この女、こいつがあの爺さんと寝たんだろ。あの爺さんの事だ、若くて黒髪の女に手なずけられちまったんだ。さすが、黄色いサル(イエロー・モンキー:人種差別用語です)だけの事あるよな。かなり具合が良かったんだろ。痛っ!」

 パンッ

ミリファがランスの顔を平手打ちしていた。私だって今の単語位分かる。馬鹿に…見下されたんだ。

「何て事言うのよ! そんな言葉を使うなんて!」

ランスが顔に手を当てながらニヤリと笑う。

「あ~、そうだなぁ。ミリファも黄色いサルと仲良しだもんなぁ。腰振ってなぁ」
「な、何て事を!」

真っ赤になったミリファがもう一度叩こうと手を上げる。その手を止める人が居た。

「征司」

エリックと征司が開いていた戸から入って来ていた。征司がミリファの腕を掴んでいた。戸の外では残っていた人達が何事かと野次馬になっている。
征司がランスに向かう。

「ランス、君はもうここの関係者じゃない。出て行くんだ」
「黄色のボスザルの登場か。まだ俺の時間はあるさ。今、この女と引き継ぎしてんだ。邪魔すんじゃねぇよ。ほれ、ミリファ、お得意の腰振って征司を連れてってくれよ。そうだな。俺はコイツとでもすっかな。黄色いサルの使いようはそれしかねぇだろ」

ランスが私に腕を伸ばしてきた。その腕から守る様に、私の前にエリックの背中が広がった。

「ランス! もうよせ!」
「何だよ。エリックもコイツとやりてぇのか? 俺が先だぞ。黄色いサルなんて初めてだ」
「ランス! お前…」

「征司、エリック、ランスはドラッグをやってる」

ミリファの声で、その場の騒動が一瞬固まった。それを崩したのはランスの声。

「お、俺はドラッグなんかやってねぇ。そんなの見た事もねぇ。俺、俺は…こ、こんな」
「やめて!」

ランスが机の上にあるフルートを手に取った。私は咄嗟に叫んでいた。

 ガンッ

エリックの背中に居た私の目にも入った。私のフルートが机に振り下ろされたんだ。
なのにフルートは折れなかった。ランスが折れなかったのに驚いてフルートを持ったままだ。それを見て、強化硝子で良かったと、ホッとしたのはつかの間だった。

 パリンッ

一瞬でフルートの全面に細かなヒビが走ったと思ったら粉々に砕けた。驚いたランスが手の中に残ってた金属部を咄嗟に落とす。

「へっ。(もろ)いもんだな。硝子なんかじゃダメだな。もの珍しさで名前を売ろうなんざ、見え透いた手を考えつくもんだ。実力もねぇくせによ」
「ランス! 貴様ー!」

エリックがランスの胸倉を掴んでいた。
私はさっきまでそこにあったフルートの残像を…見ていた。

「そこまでにしましょうか」

新しい声が響き渡って、私は視線をフルートの残骸から声のするほうに向けた。
目の前ではエリックの拳がランスに当たる寸前でシドの手が抑えている。征司はミリファを抑えている。ランスはエリックに掴まれたまま、何かブツブツ呟いてる。
私は壁を背中に動けないでいた。

「エリック、落ち着いて。手を離して」

エリックの肩を叩いてシドが促すと、エリックがシドを見て手を離した。エリックがランスから離れ、今度はシドがランスに向かい合う。

「今度はシドがお説教かよ」
「ランス、まだ君は」
「それがどうしたよ」
「残念だが…今、呼んだから」

シドの言葉を聞いてランスが崩れ落ちた。

「シド。てめぇ俺を笑ってんだろ」
「…」
「俺がてめぇからトップを奪い取ったんだからな」
「そんな事」
「悔しかったんだろが」
「昔の話だ」
「俺に負けてフルートは諦めたんだったな」
「そんな事で諦めた訳じゃない」
「この女をけしかけて俺を引きずり下ろすとは思わなかったぜ」

ランスが私を指さした。
この場に居る皆が、ランスとシドの話に耳を傾けている。そして、驚いていた。シドが私をチラッと見て視線をランスに戻した。

「君がドラッグに頼ってなくても実力は祥子の方が上だ」
「な、何だと」
「祥子の音のほうが上だ」
「チッ。てめぇも黄色いサルの虜かよ」
「侮辱するもんじゃない。祥子は実力でここに来たんです」

私には話の内容は分からなかったが、シドの手が拳になってるのに気づいた。
シドの携帯が鳴って皆の注目がシドに集まった瞬間、ランスが立ち上がって部屋から飛び出して行った。シドと外に居た人達がランスを追い駆けて行く。バタバタと足音が小さくなっていく。
エリックが私の前に来る。

「祥子、大丈夫か?」
「な、何が…何が起こったの?」

ミリファが動き、私の横に椅子を動かしてきてくれる。

「エリック、祥子に椅子。可哀想に震えてるじゃないの」

エリックが私を動かして椅子に座らせてくれた。

「ミリファ、君も少し落ち着かなきゃ」
「征司、私は大丈夫。頭にきてただけだから」
「なら、尚更」

征司が椅子を引っ張ってきてミリファを座らせた。征司が小部屋の戸を静かに閉めた。
部屋の中が四人だけになった。さっきの騒動とは逆に静かになる。

「どうして、ランスって人がここに来たの?」

私が質問を投げかけたら、ミリファに征司とエリックが顔を見合わせて戸惑った。征司が重く口を開く。

「フルートトップを取られた逆恨みってとこだ」
「私、逆恨みされちゃったんだ。黄色いサルなんて言われて」

征司が黙り、代わりにエリックが慌てて打ち消すように言う。

「祥子の音はランスより上だ。それは皆認めている」
「そうよ。私だって祥子の音好きよ。ランスの音なんか足元にも及ばない」

ミリファも言ってくれた。

「シドの言い方だと、シドはランスのドラッグの事気づいてたのよ。それで、急だったけど祥子がウィーンに来たのを知ってランスを下ろしたのよ」
「そうだな。シドとランスの間の事は知らなかったけど」

征司が付け足した。

「あら、私ったらドラッグ持ったままだったわ。私迄捕まっちゃうわね」
「かして」

ミリファが小さい包みを征司に渡した。征司がその包みを確認して頷く。

「ランスのあの誤魔化し様からだとドラッグだろうな」
「こんなのどこで手に入れたのかしら」
「いろんなルートがあるからな」

征司が包みを机の上に置いた。私だってドラッグの事は知っている。密輸入で押収したとか耳にする。

ランスはこの包みで私に何をしようとしてたんだろう。この包みの中身を飲ませようとしたんだろうか。こんなの飲まされたら、下手したらショック死だろう。
背筋が寒くなった。ミリファが戸を開けてくれなかったら、私は…。

「ミリファ、ありがとう。あなたが来てくれたから私、助かったんだと思う」

ミリファに声を掛けたら、ミリファが私を見て笑った。

「いいのよ。覗いてみて良かったわ。まさか、ランスが居るなんて思わなかったけど。でも、大変な事になっちゃったわね」

ミリファの視線が床に散らばっているフルートの残骸に止まる。見たくないけど、改めて私はフルートの残骸に眼を向ける。

「大丈夫。替えのフルートはあるから」

エリックが小部屋を出て直ぐに箒を持って戻ってきた。フルートの残骸が集められていく。

「祥子、金具はどうする?」
「処分して」
「分かった」

金具は打ち付けられた衝撃で曲がっていた。エリックが纏めて部屋から出て行った。
私だけの硝子のフルートが跡形も無くなった。



エリックがシドと一緒に戻ってきた。

「祥子、大丈夫ですか?」
「はい」
「シド、ランスは?」

ミリファの声だ。

「ランスは逃げた」
「そう。あ、シド、机の上にランスが持ってたドラッグがあるの」
「これだね」

シドが机の上の小さい包みに視線を飛ばしてから、部屋の中に居る私達を見回す。

「すまないが、今の騒動を最初から教えて欲しいんだ。皆で食事としよう」
「あ、そうよ。私達、祥子を誘ってゴハンするとこだったのよ」
「なら、丁度いい。私も一緒でいいかな?」
「いいわよ。ねっ」

ミリファが皆に同意を求め、シドが包みを持って部屋を出て行った。

「さて、私達も準備して。祥子、もう行ける?」
「少し時間下さい」
「じゃ、そこで待ってるわね」

ミリファと征司が出て行き、エリックが心配そうに声を掛ける。

「祥子」
「エリック、大丈夫。ありがとう。少しだけ一人にして」
「あぁ」

パタンと戸が閉まり、部屋に本当に一人になった。
机の上のタオルを畳みながらランスの言った言葉が思い出されてきた。

  黄色いサル

そう言われて再認識した。ここでは私が外国人なんだ。だから目立つんだ。

フルートケースにタオルをしまう。古い金属のフルートだけがきちんと納まっている。
一昨日の拍手、そして今日の拍手が蘇る。

「このフルートで追加公演するんだ」

現状に今、初めて気づいた。

「無理だ。あの音にはならない」

硝子のフルートと同じ音は出せない。あの特有の音は出せない。
私は硝子のフルートだから、硝子だったから、ここに居るのかもしれない。

戸がノックされて、慌ててカチッとケースを閉じた。


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