#50 頼み <祥子視点>
文字数 5,655文字
ガド爺と一緒にドイツからスイスに飛んでウィーンに戻ってきた。
「二カ国のハシゴなんて初めてじゃろ」
「初めての国だから緊張しちゃいましたよ。でも、ガド爺と一緒だから心強かったです」
「こんな爺さんでも役立ったか」
「とぉ~ってもありがたいですよ」
「そうかそうか」
空いてる時間、旅慣れてるガド爺が私を観光に連れていってくれた。仕事なのに、観光写真が沢山あるのも変な感じがする。
ガド爺が練習所に行くと言ったから、一緒に練習所に戻った。私はその足でシドに報告しに行く。ガド爺は「挨拶でもしてくる」と、どこかに行った。
「もうオペラは大丈夫ですね」
「はい。よっぽど癖のある人だと困りますけどね」
「祥子はこれから国外に出て行く様になりますよ。ドイツ公演の評価も良く書かれてました。直ぐに依頼が入ってきましたよ。スイスのほうも上出来です」
「それは嬉しいです」
「次は明日から1ヶ月、イギリスで頑張ってきて下さい」
次の仕事のスケジュールを貰う。
「あら、随分移動が入るんですね」
「イギリス国内を堪能 してきて下さい」
「はい」
「祥子、少し待ってて貰えますか。一緒に帰りましょう」
「はい。分かりました」
シドの部屋を出たらエドナが居た。
「祥子、お疲れ様」
「エドナ、お久しぶり。無事帰ってきたわ。お土産よ」
ありきたりだけど、チョコをいくつか買ってきていたから、エドナに渡した。
「チョコね。疲れた時に助かるわ。ありがと。明日からイギリスね」
「1ヶ月行ってくるわ」
「向こうの男に騙されちゃ駄目よ。帰って来たら楽しみが待ってるんだから。じゃね。お先に」
「何?」
私が聞き返しても、エドナは笑ってカバンを持って部屋をさっさと出ていった。
よく分からないまま、フルートパートの部屋に行った。
今日私が帰るのを伝えていたから、アガシが残っていた。
「祥子、お帰りなさい」
「ただいま。アガシには責任を押し付けちゃってごめんなさい」
「その為のセカンドですよ。使って下さい」
「ありがとう。明日から1ヶ月またお願いします」
「はい」
1曲合わせて、アガシの調子をみる。
「アガシ、あなたが急ぐとシャンドリーが慌てるわ。気をつけてやってね」
「はい」
「皆の調子は?」
「リサは今風邪をひいて休んでいます。彼女は音を保てるようになりましたよ。シャンドリーは…」
アガシが笑う。
「シャンドリーがどうかしたの?」
「シャンドリーは、祥子、あなたの真似を始めてますよ」
「私の真似?」
「そう。自分の情景を音に載せだしました」
「あら」
「まだ初めのうちだけですがね」
「音に負けないように引っ張ってあげてね」
「はい」
ずっと不在にしてた自分の小部屋に入る。
自分の小部屋と言っても、自分の物が置いてある訳じゃない。
掃除を始める。机を拭いて、鏡も拭いた。
今、エリックはどこに居るんだろう。
エリックと別れてから、私は意識してエリックのスケジュールを見ない様にしていた。
だけど、ドイツに居ても、スイスに居ても、ここに居ても、エリックに似た後姿を追いかけている。
情けないけど。
鏡に映る自分が眼に入る。
「次の出会い…あるのかな。きっとあるよね」
小部屋を出てミリファを探す。クラリネットの部屋は電気が消えていた。ふらふらとバイオリンの部屋に行った。そっと戸を開けたら征司の音が耳に入った。
私は戸を開けたまま、征司の音を聴いていた。征司の音も優しく柔らかだ。だけど、違う。
静かに戸を閉めた。シドの部屋に向かう事にする。
「祥子、今、迎えに行こうと思ってました」
「丁度良かったですね」
「帰りましょう」
「はい」
シドと二人で電車の中。この状態なら恋人に見られてもおかしくない。
(シドは私を愛してくれますか?)
シドと喋っていて思っていた。私がシドの記憶の中の女性を越えられるのだろうか。
家に着いて、リリアが作り置きしてくれた夕飯をシドと一緒に食べる。
マリーが途中で下りてきた。
「祥子、お帰り。でも明日からまた居なくなっちゃうんだよね」
「イギリスなのよ」
「早く帰ってきてね。楽しみが待ってるんだよ」
「楽しみ?」
マリーは私に笑って目配せした。シドが軽く咳払いをしてマリーに言う。
「マリー、クリスマスはまだ先ですよ」
「あ、そうそう。でも、祥子はウィーンで初めてのクリスマスだよ」
クリスマスか。
「そっか。12月はクリスマスね」
だからエドナもマリーと同じように言ったんだ。
マリーが私とシドが食べてる間、横で飲みながら私の土産話 を聞いていた。
食べ終えてから私は洗濯機を動かして、明日からの曲を確認していく。
「なるほど。確かにクリスマスがやってきてる」
クリスマスソングが多い。アーチャーさんのソロ。ルナのソロ。
「ハレルヤが入ってる。二人で歌うんだ。どうなっちゃうんだろ」
ディズニーの曲も何曲か入っている。
「星に願いを、美女と野獣、ララルー、定番ね」
この曲なら練習出来る。大部屋に入りフルートを吹いていく。
エリックの事ばかり想い出されてくる。
願いが叶うなら、エリックとまたデートしたい。抱き締めて貰いたい。キスしたい。…願いを叶えて。エリックと一緒に居たい。ずっと一緒に…居たい。
「だめ、ダメ、駄目。私情が出ちゃう。仕事なんだ。切り替えなきゃ」
でも、今は練習だ。
エリック、私はまだ忘れられない。…愛してる。
言葉に出来ないから音に載せる。音に載せて吐き出したから、気が軽くなった。一休みしようと大部屋を出たら、リビングから音が漏れてきている。
「ルナの声だ。相変わらずシドのお気に入りなんだ」
何か飲もうとキッチンに向かうと、私に気づいたシドが私を呼んで手招いた。
「シド、お邪魔していいんですか?」
「どうぞ。座って。祥子に話がありますから。今、休憩ですか?」
「はい」
言われるまま座る。用意されてたグラスにブランデーが注がれた。
「ブランデーなんて珍しいですね」
「祥子は飲めますか?」
「初めてです」
「なら、ゆっくり少しずつ舐めるつもりで飲んでいって下さい。無理そうだったら止めて下さいよ」
「はい」
ゆっくり一口。舌が熱くなった気がする。喉元が熱くなって胃に落ちていった。
「どうですか?」
「なんとか。味わうのは出来ないですけど」
「アーチャーさんと飲む時はブランデーが出ますから。予習ですよ」
「頑張ります」
シドがふき出して笑う。
「出されたからって全部飲まなくてもいいんですよ。一口すればいいんですよ」
「あ、一口ですね。でも、飲めそうだったら?」
「その時は全部飲んでも構わないですよ。でも、程々にですよ」
「はい」
今までの事を知られているだけに、何も言えません。
シドがそんな私を見て笑いながら立ち上がり、暖炉の上からフル-トケースを持ってきた。
「祥子にお願いがあるんです」
「何でしょうか?」
「イギリスでこのフルートを使って欲しいんです」
そう言ってシドはフルートケースを開けて、中のフルートを私に見せた。
「これを…ですか?」
このフルートはシドの愛してた女性の物。そんな大切な物を何故私に?
シドは何事も無い様に頷いた。
「これを使って下さい。本番は硝子で構いません。アーチャーさん達との練習に、一度使って下さい」
「 ? これを使えばいいんですね」
「そうです。いいですか?」
「はい。ですが、あの…理由を聞いていいですか?」
シドが視線をフルートに向ける。
「理由は…アーチャーさんが教えてくれますよ」
「アーチャーさんが?」
「はい。答えになって無いですが、それでいいですか?」
本当は聞きたいけど、シドがそのまま口を閉じるから聞けなかった。
「あ…はい」
「まだ練習しますか?」
「はい。ディズニーの曲だけですが」
「このフルートで合わせていいですか?」
「嬉しいです」
シドと大部屋に移動して、一緒に吹いていった。今日のシドは曲の節回しを変えてきている。
3曲を2回ずつ。シドの音が強調されてくる。「私の音に合わせて下さい」そう主張しているからシドに合わせていった。
「祥子、ありがとう。ちょっと強引になっちゃいましたけど」
「いえ。こういう吹き方も楽しいです」
「祥子、あなたに託 すのはズルイのですが」
「 ? 」
リビングに移動して、シドがフルートを分解して手入れを始める。私も硝子のフルートの手入れを始める。
「祥子の金属のフルートはこちらのケースで預かっておきますね」
「そうですね。じゃ、お願いします」
ケースの仕掛けを外し、金属のフルートを出してシドに渡す。シドのフルートを私のケースにしまった。
「いいケースですね。祥子が2本持ち歩けるように考えて作られてる。特注品ですね」
「はい」
胸が締め付けられた。このケースはエリックから貰った物。もうひとつの仕掛けの中には…。
「ケースを大事にして下さいね。それだけでも良い事がありますよ」
「え? クリスマスが近いから…ですか?」
「まぁ、そうですね。クリスマスですし」
「 ? 」
ウィーンのクリスマスって秘密めいたものなのだろうか。
「明日は私が空港迄送りますよ」
「シド、折角のお休みなんだから、ゆっくりして下さい。タクシー使いますから」
「そうはいかないんですよ」
「何故?」
「ハミルトン警部から連絡があったんですよ。昨日、取引最中に警察が踏み込んだのですが、ランスが逃げおおせたそうです」
私がハミルトン警部に深夜捕まった時、アジトは押さえてるって言ってたのを思い出した。あれから随分経っている。
「それで今日、ガド爺が練習所迄、一緒に来たんですね。着いて直ぐに居なくなったから不思議に思ってました」
「そうですよ。ガド爺に頼みました」
「だから明日はシドが見送りなんですね。ありがとうございます」
「何も無いといいんですが。勿論、ハミルトン警部達もどこかで見張ってます」
「厳重ですね」
「ランスの状態が…薬物依存がどれだけ進んでるか、分からないんですよ」
ゾクッとした。ランスの依存が進んでて、私の事なんか忘れていればいいのに。
☆
翌朝、シドの運転する車で空港に行く。車中のシドはどこか緊張している様に見えた。会話も直ぐに途絶えてしまう。
ランスの件があるからかもしれない。
「さて、荷物、降ろしましょう」
「はい」
シドが車からスーツケースを降ろしてくれて、私がカートに積んでいく。
1ヶ月分の持ち物は結構ある。普段着は着まわしするけど、演奏会が続く時は同じ服は避けなきゃならない。
「シド、ありがとうございます」
最後の荷物を受け取ってカートに積んだ。その瞬間、シドが私を見て顔を強張らせ、私の腕を引っ掴んで引き寄せた。
「わっ! えっ?」
私の後ろで何かが倒れた。私が振り向こうとする前にシドが動く。何かが人間だったのに気づく。傍にその人が被ってたんだろう帽子が転がってる。普通の、ごく普通の格好で髪の毛だって綺麗に纏 まってる。
シドがその人に向かっていき、腕を掴んだ。そのはずみで顔が見えた。
「「 ランス! 」」
顔だけが異様だった。ギョロリと落ち窪 んで見開いた眼が物語っている。ランスは何も言わずに空いてた腕を動かした。キラリと何かが光った。シドがその腕も押さえつけようと動く。
「っ!」
「シドっ!」
ナイフがランスの手から落ちた。バタバタと足音が集まってきた。警官だ。ハミルトン警部が突っ込んできてランスを羽交 い絞 めにして動けなくした。
「早く!」
ハミルトン警部の声が響いた。ランスは暫くもがいていたが、自分の両手に掛かった手錠を見て静まった。
ゆっくりランスの顔が私を向いた。私だと気づいたのか、一瞬で顔つきが変わった。さっきまでの凶暴さが無くなった。ごく普通の眼で私を見た。
「祥子…あんたの…音…は…素晴らしい。悪い……思う」
ボソボソと聞えてきた言葉に驚く。シドだってランスを見て驚いてる。
ところが、警官が落ちてたナイフを取り上げた時、ランスの顔つきが変わる。もがいて私に向かってこようとする。眼がドコを見てるのか定まっていない。はっきりとしたランスの声が響く。
「お前は二度と戻ってくるな!」
ランスが腕を振り上げようとするのを警官が取り押さえる。ランスは吠え続ける。
「日本に帰れ! このイエローめ!」
「車に連れて行け」
ハミルトン警部の声が冷ややかに響き、ランスは警官に連れていかれた。盛んに振り返るのを警官に邪魔されてわめき散らしている。
ハミルトン警部が私達の傍に来る。
「祥子、シド、大丈夫かな?」
「はい。あ、シド、怪我」
シドの左手から血が滲 んでいた。シドがハンカチを引っ張り出して傷に当てる。
「この位、大丈夫ですよ」
「見せて下さい」
シドが怪我に当ててるハンカチを外す。
「ほら、かすり傷です」
「でも、怪我ですよ」
私もハンカチを出して、シドの手を包むように巻いた。
「祥子、ありがとう」
「シド、私のせいでごめんなさい」
「祥子のせいじゃない」
「シド、咄嗟に動いてくれて助かった。礼を言う」
ハミルトン警部がシドの肩を叩いた。
「顔が見える迄ランスとは思いませんでした。祥子に向かってきたから慌てました」
「あぁ。普通に歩いて来たからな。帽子を深く被っていたから遅れをとった。怪我させてすまなかった」
「いいですよ。ランスが捕まった事ですし」
シドとハミルトン警部が見送ってくれる。荷物を預けた後で、私はハミルトン警部に質問をぶつける。
「ランスは、気が確かなんでしょうか? 突然、しおらしくなったり、わめいたりしましたよね」
「薬物中毒の症状なんだよ。人生バラ色みたいにハイになったり、その逆に現実に直面すると自分の正直で真面目な部分が顔を出す。ランスはもうごっちゃになっているのだろう。だが、ランスはどこかで君の音を聴いているんだ。自分の正直な気持ちは君に悪いって思っているんだな」
「そうであって欲しいです」
搭乗案内が響く。
「ハミルトン警部、お世話になりました」
「これからは、大手を振って生活できますよ」
「はい。ありがとうございました」
ハミルトン警部と握手をした。
「シド、仕事行って来ます」
「成功を祈ってます」
「はい」
「祥子、頼みましたよ」
「はい」
ロンドンに向かって飛行機が飛び立った。
- #50 F I N -
「二カ国のハシゴなんて初めてじゃろ」
「初めての国だから緊張しちゃいましたよ。でも、ガド爺と一緒だから心強かったです」
「こんな爺さんでも役立ったか」
「とぉ~ってもありがたいですよ」
「そうかそうか」
空いてる時間、旅慣れてるガド爺が私を観光に連れていってくれた。仕事なのに、観光写真が沢山あるのも変な感じがする。
ガド爺が練習所に行くと言ったから、一緒に練習所に戻った。私はその足でシドに報告しに行く。ガド爺は「挨拶でもしてくる」と、どこかに行った。
「もうオペラは大丈夫ですね」
「はい。よっぽど癖のある人だと困りますけどね」
「祥子はこれから国外に出て行く様になりますよ。ドイツ公演の評価も良く書かれてました。直ぐに依頼が入ってきましたよ。スイスのほうも上出来です」
「それは嬉しいです」
「次は明日から1ヶ月、イギリスで頑張ってきて下さい」
次の仕事のスケジュールを貰う。
「あら、随分移動が入るんですね」
「イギリス国内を
「はい」
「祥子、少し待ってて貰えますか。一緒に帰りましょう」
「はい。分かりました」
シドの部屋を出たらエドナが居た。
「祥子、お疲れ様」
「エドナ、お久しぶり。無事帰ってきたわ。お土産よ」
ありきたりだけど、チョコをいくつか買ってきていたから、エドナに渡した。
「チョコね。疲れた時に助かるわ。ありがと。明日からイギリスね」
「1ヶ月行ってくるわ」
「向こうの男に騙されちゃ駄目よ。帰って来たら楽しみが待ってるんだから。じゃね。お先に」
「何?」
私が聞き返しても、エドナは笑ってカバンを持って部屋をさっさと出ていった。
よく分からないまま、フルートパートの部屋に行った。
今日私が帰るのを伝えていたから、アガシが残っていた。
「祥子、お帰りなさい」
「ただいま。アガシには責任を押し付けちゃってごめんなさい」
「その為のセカンドですよ。使って下さい」
「ありがとう。明日から1ヶ月またお願いします」
「はい」
1曲合わせて、アガシの調子をみる。
「アガシ、あなたが急ぐとシャンドリーが慌てるわ。気をつけてやってね」
「はい」
「皆の調子は?」
「リサは今風邪をひいて休んでいます。彼女は音を保てるようになりましたよ。シャンドリーは…」
アガシが笑う。
「シャンドリーがどうかしたの?」
「シャンドリーは、祥子、あなたの真似を始めてますよ」
「私の真似?」
「そう。自分の情景を音に載せだしました」
「あら」
「まだ初めのうちだけですがね」
「音に負けないように引っ張ってあげてね」
「はい」
ずっと不在にしてた自分の小部屋に入る。
自分の小部屋と言っても、自分の物が置いてある訳じゃない。
掃除を始める。机を拭いて、鏡も拭いた。
今、エリックはどこに居るんだろう。
エリックと別れてから、私は意識してエリックのスケジュールを見ない様にしていた。
だけど、ドイツに居ても、スイスに居ても、ここに居ても、エリックに似た後姿を追いかけている。
情けないけど。
鏡に映る自分が眼に入る。
「次の出会い…あるのかな。きっとあるよね」
小部屋を出てミリファを探す。クラリネットの部屋は電気が消えていた。ふらふらとバイオリンの部屋に行った。そっと戸を開けたら征司の音が耳に入った。
私は戸を開けたまま、征司の音を聴いていた。征司の音も優しく柔らかだ。だけど、違う。
静かに戸を閉めた。シドの部屋に向かう事にする。
「祥子、今、迎えに行こうと思ってました」
「丁度良かったですね」
「帰りましょう」
「はい」
シドと二人で電車の中。この状態なら恋人に見られてもおかしくない。
(シドは私を愛してくれますか?)
シドと喋っていて思っていた。私がシドの記憶の中の女性を越えられるのだろうか。
家に着いて、リリアが作り置きしてくれた夕飯をシドと一緒に食べる。
マリーが途中で下りてきた。
「祥子、お帰り。でも明日からまた居なくなっちゃうんだよね」
「イギリスなのよ」
「早く帰ってきてね。楽しみが待ってるんだよ」
「楽しみ?」
マリーは私に笑って目配せした。シドが軽く咳払いをしてマリーに言う。
「マリー、クリスマスはまだ先ですよ」
「あ、そうそう。でも、祥子はウィーンで初めてのクリスマスだよ」
クリスマスか。
「そっか。12月はクリスマスね」
だからエドナもマリーと同じように言ったんだ。
マリーが私とシドが食べてる間、横で飲みながら私の
食べ終えてから私は洗濯機を動かして、明日からの曲を確認していく。
「なるほど。確かにクリスマスがやってきてる」
クリスマスソングが多い。アーチャーさんのソロ。ルナのソロ。
「ハレルヤが入ってる。二人で歌うんだ。どうなっちゃうんだろ」
ディズニーの曲も何曲か入っている。
「星に願いを、美女と野獣、ララルー、定番ね」
この曲なら練習出来る。大部屋に入りフルートを吹いていく。
エリックの事ばかり想い出されてくる。
願いが叶うなら、エリックとまたデートしたい。抱き締めて貰いたい。キスしたい。…願いを叶えて。エリックと一緒に居たい。ずっと一緒に…居たい。
「だめ、ダメ、駄目。私情が出ちゃう。仕事なんだ。切り替えなきゃ」
でも、今は練習だ。
エリック、私はまだ忘れられない。…愛してる。
言葉に出来ないから音に載せる。音に載せて吐き出したから、気が軽くなった。一休みしようと大部屋を出たら、リビングから音が漏れてきている。
「ルナの声だ。相変わらずシドのお気に入りなんだ」
何か飲もうとキッチンに向かうと、私に気づいたシドが私を呼んで手招いた。
「シド、お邪魔していいんですか?」
「どうぞ。座って。祥子に話がありますから。今、休憩ですか?」
「はい」
言われるまま座る。用意されてたグラスにブランデーが注がれた。
「ブランデーなんて珍しいですね」
「祥子は飲めますか?」
「初めてです」
「なら、ゆっくり少しずつ舐めるつもりで飲んでいって下さい。無理そうだったら止めて下さいよ」
「はい」
ゆっくり一口。舌が熱くなった気がする。喉元が熱くなって胃に落ちていった。
「どうですか?」
「なんとか。味わうのは出来ないですけど」
「アーチャーさんと飲む時はブランデーが出ますから。予習ですよ」
「頑張ります」
シドがふき出して笑う。
「出されたからって全部飲まなくてもいいんですよ。一口すればいいんですよ」
「あ、一口ですね。でも、飲めそうだったら?」
「その時は全部飲んでも構わないですよ。でも、程々にですよ」
「はい」
今までの事を知られているだけに、何も言えません。
シドがそんな私を見て笑いながら立ち上がり、暖炉の上からフル-トケースを持ってきた。
「祥子にお願いがあるんです」
「何でしょうか?」
「イギリスでこのフルートを使って欲しいんです」
そう言ってシドはフルートケースを開けて、中のフルートを私に見せた。
「これを…ですか?」
このフルートはシドの愛してた女性の物。そんな大切な物を何故私に?
シドは何事も無い様に頷いた。
「これを使って下さい。本番は硝子で構いません。アーチャーさん達との練習に、一度使って下さい」
「 ? これを使えばいいんですね」
「そうです。いいですか?」
「はい。ですが、あの…理由を聞いていいですか?」
シドが視線をフルートに向ける。
「理由は…アーチャーさんが教えてくれますよ」
「アーチャーさんが?」
「はい。答えになって無いですが、それでいいですか?」
本当は聞きたいけど、シドがそのまま口を閉じるから聞けなかった。
「あ…はい」
「まだ練習しますか?」
「はい。ディズニーの曲だけですが」
「このフルートで合わせていいですか?」
「嬉しいです」
シドと大部屋に移動して、一緒に吹いていった。今日のシドは曲の節回しを変えてきている。
3曲を2回ずつ。シドの音が強調されてくる。「私の音に合わせて下さい」そう主張しているからシドに合わせていった。
「祥子、ありがとう。ちょっと強引になっちゃいましたけど」
「いえ。こういう吹き方も楽しいです」
「祥子、あなたに
「 ? 」
リビングに移動して、シドがフルートを分解して手入れを始める。私も硝子のフルートの手入れを始める。
「祥子の金属のフルートはこちらのケースで預かっておきますね」
「そうですね。じゃ、お願いします」
ケースの仕掛けを外し、金属のフルートを出してシドに渡す。シドのフルートを私のケースにしまった。
「いいケースですね。祥子が2本持ち歩けるように考えて作られてる。特注品ですね」
「はい」
胸が締め付けられた。このケースはエリックから貰った物。もうひとつの仕掛けの中には…。
「ケースを大事にして下さいね。それだけでも良い事がありますよ」
「え? クリスマスが近いから…ですか?」
「まぁ、そうですね。クリスマスですし」
「 ? 」
ウィーンのクリスマスって秘密めいたものなのだろうか。
「明日は私が空港迄送りますよ」
「シド、折角のお休みなんだから、ゆっくりして下さい。タクシー使いますから」
「そうはいかないんですよ」
「何故?」
「ハミルトン警部から連絡があったんですよ。昨日、取引最中に警察が踏み込んだのですが、ランスが逃げおおせたそうです」
私がハミルトン警部に深夜捕まった時、アジトは押さえてるって言ってたのを思い出した。あれから随分経っている。
「それで今日、ガド爺が練習所迄、一緒に来たんですね。着いて直ぐに居なくなったから不思議に思ってました」
「そうですよ。ガド爺に頼みました」
「だから明日はシドが見送りなんですね。ありがとうございます」
「何も無いといいんですが。勿論、ハミルトン警部達もどこかで見張ってます」
「厳重ですね」
「ランスの状態が…薬物依存がどれだけ進んでるか、分からないんですよ」
ゾクッとした。ランスの依存が進んでて、私の事なんか忘れていればいいのに。
☆
翌朝、シドの運転する車で空港に行く。車中のシドはどこか緊張している様に見えた。会話も直ぐに途絶えてしまう。
ランスの件があるからかもしれない。
「さて、荷物、降ろしましょう」
「はい」
シドが車からスーツケースを降ろしてくれて、私がカートに積んでいく。
1ヶ月分の持ち物は結構ある。普段着は着まわしするけど、演奏会が続く時は同じ服は避けなきゃならない。
「シド、ありがとうございます」
最後の荷物を受け取ってカートに積んだ。その瞬間、シドが私を見て顔を強張らせ、私の腕を引っ掴んで引き寄せた。
「わっ! えっ?」
私の後ろで何かが倒れた。私が振り向こうとする前にシドが動く。何かが人間だったのに気づく。傍にその人が被ってたんだろう帽子が転がってる。普通の、ごく普通の格好で髪の毛だって綺麗に
シドがその人に向かっていき、腕を掴んだ。そのはずみで顔が見えた。
「「 ランス! 」」
顔だけが異様だった。ギョロリと落ち
「っ!」
「シドっ!」
ナイフがランスの手から落ちた。バタバタと足音が集まってきた。警官だ。ハミルトン警部が突っ込んできてランスを
「早く!」
ハミルトン警部の声が響いた。ランスは暫くもがいていたが、自分の両手に掛かった手錠を見て静まった。
ゆっくりランスの顔が私を向いた。私だと気づいたのか、一瞬で顔つきが変わった。さっきまでの凶暴さが無くなった。ごく普通の眼で私を見た。
「祥子…あんたの…音…は…素晴らしい。悪い……思う」
ボソボソと聞えてきた言葉に驚く。シドだってランスを見て驚いてる。
ところが、警官が落ちてたナイフを取り上げた時、ランスの顔つきが変わる。もがいて私に向かってこようとする。眼がドコを見てるのか定まっていない。はっきりとしたランスの声が響く。
「お前は二度と戻ってくるな!」
ランスが腕を振り上げようとするのを警官が取り押さえる。ランスは吠え続ける。
「日本に帰れ! このイエローめ!」
「車に連れて行け」
ハミルトン警部の声が冷ややかに響き、ランスは警官に連れていかれた。盛んに振り返るのを警官に邪魔されてわめき散らしている。
ハミルトン警部が私達の傍に来る。
「祥子、シド、大丈夫かな?」
「はい。あ、シド、怪我」
シドの左手から血が
「この位、大丈夫ですよ」
「見せて下さい」
シドが怪我に当ててるハンカチを外す。
「ほら、かすり傷です」
「でも、怪我ですよ」
私もハンカチを出して、シドの手を包むように巻いた。
「祥子、ありがとう」
「シド、私のせいでごめんなさい」
「祥子のせいじゃない」
「シド、咄嗟に動いてくれて助かった。礼を言う」
ハミルトン警部がシドの肩を叩いた。
「顔が見える迄ランスとは思いませんでした。祥子に向かってきたから慌てました」
「あぁ。普通に歩いて来たからな。帽子を深く被っていたから遅れをとった。怪我させてすまなかった」
「いいですよ。ランスが捕まった事ですし」
シドとハミルトン警部が見送ってくれる。荷物を預けた後で、私はハミルトン警部に質問をぶつける。
「ランスは、気が確かなんでしょうか? 突然、しおらしくなったり、わめいたりしましたよね」
「薬物中毒の症状なんだよ。人生バラ色みたいにハイになったり、その逆に現実に直面すると自分の正直で真面目な部分が顔を出す。ランスはもうごっちゃになっているのだろう。だが、ランスはどこかで君の音を聴いているんだ。自分の正直な気持ちは君に悪いって思っているんだな」
「そうであって欲しいです」
搭乗案内が響く。
「ハミルトン警部、お世話になりました」
「これからは、大手を振って生活できますよ」
「はい。ありがとうございました」
ハミルトン警部と握手をした。
「シド、仕事行って来ます」
「成功を祈ってます」
「はい」
「祥子、頼みましたよ」
「はい」
ロンドンに向かって飛行機が飛び立った。
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