#55 バイオリン <征司視点>

文字数 3,239文字

俺がその知らせを聞いたのはフランスで演奏会を終えた時だった。
テレビのニュースでその光景が中継されていた。列車が横倒しになっている。

「イギリスか。祥子が行ってるんだったな」

そう呟き終えた後だった。ミリファから電話が入る。

「征司、ニュース見た?! イギリスの列車事故!」
「今、テレビでやってる」
「それ、それに祥子が乗ってるのよ!」
「え?! 本当か?」
「本当よ。今、事務のほうで大騒ぎになってるのよ。祥子と連絡が取れないって」
「連絡が取れない? あ」

テレビで負傷した人の名前が表示され始め、行方不明で祥子の名前と何人かの名前が表示された。

「征司、どうしたの?」
「今、祥子の名前が出た。まだ行方不明だ」
「祥子、大丈夫なのかしら。私、動けないのが悔しいわ」

電話の向こうのミリファが苛立ってる。仕事さえ入ってなければ、今直ぐにでもイギリスに駆けつけてるだろう。

「ミリファ、何か分かったら連絡くれ」
「分かったわ」

深夜のニュースで祥子の名前が負傷者の中に表示された。翌朝、ミリファから祥子がロンドンの病院に運ばれた事を聞いた。
フランスからユーロトンネルでイギリスに渡れる。仕事を片付けたら見舞いに寄ろう。



演奏会を全て終えて列車の乗車券を買った。列車に乗って海の下を移動する。トンネルが海の底を通ってるなんて今じゃ当たり前かもしれないけど、窮屈感(きゅうくつかん)が襲いかかる。

ロンドンに着いて病院に向かう。病室の戸を開ける時に中から笑い声が漏れてきた。

ミリファは昨日のうちにロンドンに入り、祥子に会っている。「祥子にちょっと問題があるのよ。会った時に話すわ」と言っていたのを思い出す。

だが、病室から笑い声だ。祥子は元気なんだな。ホッとしながら戸を開けた。ミリファが俺に気づいて立ち上がる。

「祥子、征司が来たわ」
「征司、わざわざありがとう。パリに行ってたんだって?」

祥子の頬や額に赤く傷痕が残っている。それでもいつもの笑顔で俺を見た。髪の毛がばっさりと短くなっていた。

「そう。パリで弾いてきた。祥子、大丈夫なのか?」
「心配掛けてごめんなさい。もう脚だけなのよ。固定しとけば大丈夫だって」
「事故にあって大変だったけど、無事で良かったな」
「ありがとう。心配掛けちゃったわね」
「そうだぞ。皆、心配してる。エリックだってアメリカに行ってなければ、すっ飛んで来るぞ」

俺がそう言ったら、祥子は不思議そうな顔をした。

「皆、その人の名前を口にするのね」
「え? だって、エリックだぞ。あ、祥子はまだ聞いてないのか?」

ミリファが俺の腕を引っ張ったから、シェリルとエリックは何も無かった事を言い損ねた。
ミリファが割り込むように口を開く。

「祥子、ちょっと待ってね。飲み物買ってくるわ。祥子もコーヒーでいい?」
「うん。お願いね」
「征司、持ってくるの手伝って」
「あ、あぁ」

病室から連れ出された。俺の腕を掴んで先を歩いて行くミリファの声が聞えてくる。

「祥子はエリックの事を忘れちゃったのよ」
「何だって?」
「祥子の記憶にエリックは居ないのよ」
「本当か?」

ミリファが立ち止まって俺を見る。

「本当なのよ。エリックの事を話しても「その人を知らないのよ」って。シドは祥子の記憶がこんがらがってる、って言ってるわ。医者も脳の損傷は見当たらないから、一時的な記憶喪失で、精神的な…あぁ、そうね」

ミリファが何かに気づく。

「まだエリックからシェリルとの事を聞かされてないからよ。別れたままだから忘れようとして、出来なくて、その葛藤(かっとう)からなのよ」
「全く覚えてないのか?」
「名前も顔も付き合ってた事すら」
「エリックにこの事は伝えたのか?」
「まだよ。でも、言わなくちゃ」
「そうだな」
「それと、もうひとつあるのよ」
「なんだ?」
「祥子はフルートの事も忘れてるのよ」
「フルートも?」
「祥子はバイオリンを弾いてるって言ってるのよ」
「バイオリン?」
「そう。祥子がバイオリンなんて…どうしちゃったのかしら」
「…祥子は弾ける」

俺の記憶にある。祥子は高校の部活でバイオリンを弾いていた。
ミリファが驚いて俺を見る。

「どうして?」
「祥子は高校の時、バイオリンを弾いていたんだ」
「征司…どうして知ってるの?」

ミリファに話していなかった。ガド爺以外知らない筈だ。

「祥子は高校の時、俺の後輩だったんだ」
「え? あら、隠してたの?」
「いや。思い出したのは、祥子が楽団に入ってからだった」
「そう。それで、祥子とバイオリンって?」
「最初、祥子はバイオリンを弾いてた。だけど祥子は首を痛めて、俺がバイオリンを諦めさせたんだ」
「そう…だったの」
「だから、バイオリンの基本的な技術は知っているんだ。まだ、弾けるはずだ」
「征司、もしかして、後悔してるの?」

ドキリとした。ミリファには誤魔化せない気がした。

「あぁ。祥子がバイオリンを続けていたら、俺以上になっていたかもしれない。今の祥子を見ててそう思う。俺は、何てことをしたんだろうと思っている」
「征司、それは違うわ。今の祥子でいいのよ。バイオリンの可能性があったかもしれない。だけど、祥子はフルートでここに来たのよ」
「…そうだな」

ミリファがコーヒーのカップを俺に渡す。

「奏者が体を痛めたら、奏者としての命は短いのよ。それを乗り越えられる人は、ほんの一握りなのよ」
「あぁ。分かってる」
「まだ、征司が後悔するのなら、それは今の祥子を認めてない事と同じよ」

思わず唾を飲み込んだ。祥子を認めたくない俺が居たのか? …いや、祥子とデュオした時、祥子のフルートの音を認めた。祥子を認めたんだ。卒業の時に祥子に謝っている。それで終わらなきゃならなかったんだ。

「俺は後悔しなくていいんだな。ミリファ、ありがとう」

今まで引っかかっていた事が嘘の様に消えた。

「さ、病室に戻りましょ。エリックの事は…今はそっとしておくべきだわ」

ミリファと一緒に病室に戻ると、祥子はジッと何かを見つめていた。戸が開いたから視線を俺達に移す。

「どうもありがとう」

ミリファからコーヒーを受け取った祥子が言って、また視線を動かして止めた。視線の先には俺のバイオリンケースがあった。

「祥子、弾いてみるか?」

祥子がビクッと驚いて俺を見た。ゆっくりと頷く。

「…うん」
「征司」

ミリファも驚いて俺を見た。

「ミリファ。今は祥子の思う通りでいいんだ」
「…そうね」

俺はケースを開けてバイオリンを祥子の手に渡した。
祥子はバイオリンを受け取って、自然に構え、右手を差し出す。その動作に俺とミリファは驚いて注目している。

「征司、弓も貸して下さい」
「あ、そうだ。弓」

慌てて弓を祥子の右手に渡す。スッと右手が弓を持つ形になった。ゆっくりと弓が弦に触れる。

 ♪♪♪♪♪♪♪~・・・

「星に願いを」だ。耳に入る祥子の音に驚いている。
祥子はバイオリンのレッスンを受けて無いのに、この音は何だ?
どこかで耳にした音が流れてくる。

「征司…」

ミリファが俺の腕を掴んだ。

「エリックの弾き方よ」

そう言われて思い出す。この弾き方はエリックと同じだ。楽器の違いはあるが、同じ音を創りだしている。

「な、何て深みのある音を出すの。このわずかなビブラート…エリックの音よ」

俺の腕を掴んでるミリファの手に力が入る。祥子の音が情景を伝えてくる。

 信じて…人間になれる。信じて…信じて。

最後の一音が消えた時、祥子は嬉しそうな顔を俺達に向けた。

「久々に気持ちよく弾けたわ。あ、あら…どうして?」

祥子の眼から涙が落ちた。慌てた祥子はバイオリンを俺に返し、両手で顔を押さえた。

「あ、やだ。泣くところじゃ無いのに。変ね。どうしてかしら。おかしいわ」

ミリファが祥子に近づいて肩を抱いた。

「祥子。祥子の音、とても良かったわ」
「…ありがとう」



「祥子はエリックの音を覚えているのね」

病院を出て、ミリファが祥子の病室の窓を見上げて言った。


- #55 F I N -


祥子  :この音ひっさげて第一バイオリンに殴り込みに行こうかしら
征司  :第二のほうにしてくれ
ミリファ:それ面白そうね
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