#62 チョコ <祥子視点>

文字数 3,974文字

「痛い、痛いって! 痛い! 痛い! もうやめて! このままでいいから!」

とんでもない激痛の時は、日本語で叫んでました。
ギプスが大工道具のノコギリみたいな物で切られ、私の脚を覆っていた塊が無くなった。そのギプスが外された時に重力を感じたというか、脚が動かされて激痛が走ったんだ。
無事に外されてその状態のままは良かった。綺麗に清拭(せいしき)してくれて、白くやせ細った脚を見て、左脚と比べて見てゾッとしていた。「これが脚?」そんな感想だ。
それを動かす第一歩。足首を動かされて激痛だ。
ずっと固定されていた筋肉や関節を動かすから痛いのは分かる。

「折れちゃうよ! もうやだ!」

堪えきれずに叫んでた。折れたからこうなったのに、変な事叫んでました。
看護師さんが押さえつけてるのは、私が逃げないように。
でも、激痛だ。「動くためには必要なんです」と言われて、頭で分かっていても、初めて受ける激痛が想像以上で叫んでいた。
こんな姿をエリックに見られなくて良かった。

容赦なくリハビリが始まる。
松葉杖でもギプスがないからラクに移動出来るけど。座るのも簡単になってきてるけど。治ってるのも分かるけど。

それでも、痛いものは痛い。

歩行訓練が始まった。歩くのがこんなに難しいものだとは思わなかった。体重で脚が折れそうな変な感じがする。



二月に入り、歩けるようになったから、シドの家を出た。
階段や坂道で杖が必要になる。
自分のアパートの部屋で、シドの家の賑やかさを思い出していたりする。

「自分で食事作らなきゃ」

リリアに習ってきたからレパートリーは増えた。でもここでは一人分だ。エリックが来た時にしか腕はふるえない。そのエリックは13日迄ロンドンでアーチャーさんと仕事だ。
私にはウィーンでの仕事しかない。シドが私の脚を優先にしてくれたからだ。
14日には「バレンタインコンサート」がカノン(ミューラー財閥)主催で行われる。そこで、征司とデュオの仕事が入っている。
カノンから直接電話を貰った。

「エリックとじゃなくてごめんなさいね。私も聞きたいのよ。祥子とエリックのデュオがロンドンだけで聞けたなんて悔しいから、実現させたいんだけどね」

エリックについているスポンサーとの関係だ。エリックとは定期演奏会と楽団の仕事だけで一緒に演奏してきている。
ロンドンでの記事が噂を呼んで、私とエリックのデュオを打診してくるようになったとエドナが教えてくれた。だけど、余程大きなスポンサーか国の行事じゃなきゃ国内では無理みたいだ。

シドの家に厄介になっている間、シドのお父さんからその辺の裏話を教えて貰った。他にも演出家の仕事や、演劇、バレエ、オペラ、演奏会の演出の仕方や、面白い奏者や役者さんの話も聞けた。

「演出家でも、スポンサーには泣かされるんだ。役者にだってスポンサーがついてるからね」

シドのお父さんが、そうぼやいていた。

「おっと。手早く混ぜなきゃ」

バレンタインにエリックに食べてもらうチョコ。その予習をしてたんだった。
仕事から帰ってきてからの日課になっている。



今日の仕事を終えて、エリックを空港に迎えに行く前に、チョコを仕込む。何度も予習のかいあって、レシピを見なくても作れる。この甘い香りには飽き飽きしてるけど、一緒に食べると思えば何度味見してても新鮮だ。オーブンが焼き上がりを教えてくれる。できあがりを乾燥しないように容器に移す。

バレンタインに手作りチョコをあげるなんて学生の時以来だ。社会人になって「質」を選ぶようになり、高級チョコに走った。一粒で1000円なんてチョコ。それと一緒に何か一品添えた。

明日のバレンタイン。エリックには手作りのチョコにする。それに一品つけようと思ったけど考え付かなかった。「プレゼントは気持ち」と言われたのを思い出して、無理に考えなかった。

ロンドンからの飛行機は遅れもなく到着。エリックと再会してる。どこかでフラッシュが光ったから、普通に挨拶して空港を後にした。
エリックの荷物を降ろしてから、私のアパートに行く。

「お土産」
「ウィスキーね」
「アーチャーさんのお(すす)めだよ」
「分かるわ。ホントに高級よ。ねぇ、エリック、私なんかにお金使わないで」

私が薄々感じていた事を伝えた。

「ん?」
「だって、私、エリックにお金使わせてばかりいるわ。フルートケースにしたって、この指輪だって」

胸元にある指輪を揺らす。

「私にだってどのくらいの物か分かるわ。ケースの価値はミリファに教えて貰って知ったんだけど」

そう言ったらエリックは笑う。

「祥子は気にしないでいいよ。俺は無理してないよ」
「分かるけど」

エリックの収入は私よりも多い。それは知ってる。

「祥子にだから贈りたいんだ。無駄には使ってないよ」
「でも」
「今迄「いいもの」は「ブランド」って思ってたけど、祥子と付き合ったら、「いいもの」は「長く使える物」「その人に合う物」だって気づいた。その為の投資だからね」
「なら、このウィスキーは?」
「これは俺も飲んでみたかったからさ。祥子と一緒にね。無駄じゃないだろ?」
「…そうね」
「あぁ。そうか。病院代の請求が来たんだね」
「そうよ。保険に入ってなかったらと思うと驚く金額よ。まぁ、むこうの保障や見舞金も出たから良かったんだけど」
「それで俺の無駄遣いが気になったと」
「無駄遣いじゃないんでしょ?」
「そうだよ。お金の事はちゃんと締めてるさ」
「そう?」
「忙しくて遊べないってのがあるからね。あ~ぁ。長いバカンスが欲しいなぁ。祥子と二人で旅行する位の。仕事ばっかりで祥子と離れてるのに飽きたよ」
「あら。チェロ弾いてると楽しそうなのにね」
「祥子もそうだろ。それよりも、今は、軽くキスして食事に行きたいなと思ってるんだけど」
「そうね。キスしてから?」
「勿論さ。空港じゃ出来なかっただろ」

そう言って、私が逃げる前に唇が重なった。

「祥子の脚も治ったね」
「まだ逃げ足は治ってないのよ」
「そのほうがいい。さて、行こうか」
「食事用意出来なくてごめんなさい」
「いいさ。祥子は何か作るのに大変だったみたいだしね」

家中の甘い香りに気づかれたようだ。

「それは、後のお楽しみよ」
「楽しみだ」



二人で食事をしてて時折フラッシュが光る。

「今って携帯で写真が撮れちゃうから困るな」

エリックが困った顔で言った。

「そうね。エリックが撮られてるわね」
「そうとは限らないさ。ほら」

エリックが視線を向けた先を見ると、若者のグループが私達を見ていた。私が顔を向けたら手が振られた。

「エリック。あれは?」
「手を振ってあげればいい」
「手を振るの?」
「そうさ。彼等はそれを待ってるみたいだよ。ほら」

もう一度顔を向けたら、今度は大きく手を振ってきた。戸惑いながら軽く手を上げたら、小さな歓声があがった。

「恥ずかしいわ」
「慣れなきゃ」
「無理よ」
「なら、今度はレストランの個室にしようか?」
「それは嫌。個室なんてそのほうが緊張しちゃうわ」
「何で? 二人きりになれるのに」
「だから緊張しちゃいそうで」

個室だと料理を持ってこられる度に話が途切れてしまう。慣れてないからなんだけど、私にはまだ苦手な場所だ。エリックが笑う。

「俺達にはこういう気楽なとこが落ち着いて食事出来る。少し周りがうるさいけどね」
「うん」

そう話している間にもフラッシュが光る。



アパートに戻り、二人きり。

「ここだって個室だけどなぁ」

エリックが茶化す。

「ここは私の城だからよ。言うなればここの王様は私。あ、王様は変ね。女王様…王女様がいいかしら」
「シンデレラのお城だ」
「シンデレラは卒業よ」
「どうして?」
「もう王子様が居るもの」
「王子様…」
「そして硝子の靴と金属の靴も履けるのよ。木靴だろうが革靴だってへっちゃらよ」

二人して大笑いだ。
私が金属のフルートを併用しているから、誌面上でシンデレラと称される機会が減っていた。
そして、お揃いの指輪の写真が載り、エリックと私の付き合いは確実なものとして誌面を賑わした。

相変わらずエリックとの付き合いに文句をつける手紙が来るけど、祝福してくれる手紙もあったのが嬉しかった。

「祥子の音は、俺の音を超えるのかな」
「いつか、超えたいわ。でも、あなたはどんどん先に行っちゃうのよ」
「待ってようか?」
「ううん。追い駆けるのが楽しいのよ。まだ、私の知らない音がある。それを見つけると嬉しいもの」
「祥子がどこまで伸びるのか楽しみだ」

ラジオから時報が流れた。14日に変わる。

「こんな夜中に食べるのも変だけど、私が作ったの食べて。バレンタインのチョコなの」
「俺の為に?」
「そうよ。あなたの為」

ラップを掛けてレンジで少し温める。お皿に載せて果物を飾る。アイスを添える。
エリックの前に出したら歓声が上がる。

「わぉっ。美味しそうだ。お店で出てきそうだ」
「フォンダンショコラよ。ウィスキーに合うかしら」
「大丈夫。ボンボンと同じさ」
「そうね。でも、氷入れましょ」

グラスに氷を入れてウィスキーを注ぐ。

「お帰りなさい」
「ただいま」

グラスを合わせて一口。

「あら。この前のと違うわ。飲みやすい」
「ホントだね。さすが、アーチャーさんのお勧めだけある」
「美味しいわね。こちらも温かいうちにどうぞ。食べて」

エリックがナイフを滑らす。トロッと中からチョコが溢れてきた。

「凄いね。本格的だ。…うん。美味しいよ」
「ありがとう」
「祥子、「ありがとう」は俺のセリフだよ」
「あ、そうね。なら、チョコと一緒に言うセリフは」

改まって言うのは…。でも、エリックは嬉しそうに笑ってそのセリフを待っている。

「…Ich liebe Sie (愛してるわ)」
「Ich liebe Sie auch (俺も愛してる)」


- #62 FIN -


エリック: で、そのままスヤスヤ寝てしまったのはどうして?
祥子  : ウィスキーが余りにも美味しくて。つい…
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