#41 我儘 <祥子視点>
文字数 8,001文字
カノンの夜会でも硝子のフルートの音は絶賛された。
「祥子、またこの音が聴けるなんて嬉しいわ。最高の音よ」
「ありがとうございます」
定期的に呼ばれるカノンの夜会にも慣れてきた。各界の有名人や財界トップの方々が集まるから、着ていく服は勿論、装飾品だって手を抜けない。だからレンタルショップは心強い味方 。たまにご子息を紹介される場合もある。上手くいけば玉の輿 なんだけど。
(エリックと結婚しても玉の輿よ。何たって世界に通用している)
早く帰ってこないかな…と、目の前にあるキャビアを摘 んでみる。フォアグラもある。ステーキだって美味しいです。舌も肥えていく気がする。豪華 な御褒美 だ。
☆
定期演奏会の通達があり、練習の日程と楽譜が渡される。
「シェリル・ランバードってピアノ部門で優勝とった子よね」
リサが日程表に書かれてる、シェリルの名前を指で弾 いて言った。
「そうよ」
「祥子は、このシェリルって子と演奏したのよね。どうだった?」
「どうって」
「その顔だと良くなかったみたいね。そうでしょ?」
「私とは合わなかっただけだから」
「ふ~ん。祥子でそうだとすると、私達は心してかからなきゃ」
「皆は大丈夫よ。私が臨機応変 に出来ないから上手くいかないのよ」
「祥子が手こずったってのは大きいのよ」
手元の楽譜を見ていく。
ホルスト 組曲『惑星』7曲
コリン・マシューズ 「冥王星」
モーツアルト ピアノ協奏曲第24番ハ短調
「ねぇ、リサ。惑星が揃ったわね」
「本当ね。冥王星は取り除かれちゃったのに」
「ガド爺の事だから「ついで」なのかしら」
「元・太陽系にも光を!って感じかしらね」
二人で笑っていた。
シェリル用にオルガンがピアノに変わっているのに気づく。
壮大な宇宙を奏でながら、私の音はピアノの音に合わせられなくて、冥王星みたいに消し去られるかもしれない。
(まさかね)
「祥子、どうしたの?」
無意識に頭を振ってたら、リサが不思議そうに声を掛けた。
「何でもないわ」
笑って誤魔化して楽譜に視線を戻した。
楽団自体も、依頼があれば公演に出かける。テレビ中継の公演だってある。曲が変わるけれども一度吹いていればなんとかなる。ただ、初めての曲になると大変だ。まず、曲を知るところから始めなくちゃならない。資料室に走る。ここには定期演奏会の録音されたものや、市販されている楽曲のCD等が保管されている。
「冥王星」のCDを持ち出して練習部屋に戻る。
「冥王星ってどんな曲か、皆、知ってる?」
そう聞いたら、リサが知ってただけ。CDを流して皆で通しで聞いた。
ホルスト「惑星」の最後、「海王星」は消え入るように音が終るが、この「冥王星」はさらにその先の宇宙空間へ続いていくかのように終わる。
「ホルストからどうやって繋げていくんだろう」
アガシが言った。
「全ては「ガド爺のみぞ知る」ね。こうきたらそのまま休憩よ」
リサがガド爺の真似をして両拳を作ったら、笑いが起こった。
★
ガド爺がやってくる日だ。
「祥子! 早速、聞かせてくれないか」
「ガド爺、挨拶 も無しですか?」
「そんなの後回しじゃ。ほらほら」
「しょうがないなぁ」
フルートパートの練習部屋に忍び込んできた、このお爺さんは本当にワガママだ。
…なんて。
♪♪♪ ♪♪♪~♪♪♪~♪ ♪♪♪
硝子のフルートから出てくる音をニコニコと聞いているガド爺を眼にして、私の御祖父 さんのようで嬉しくなった。
「またこの音に出会えるとは嬉しい限りじゃ。前のよりもいい音じゃの」
「技術は進歩するんですよ。フルート自体、良くなってます」
「祥子も進歩しとるしな」
「そう聴こえますか?」
「ここに連れて来て正解じゃった」
そう言ってくれると、嫌な事があっても、日本に逃げ帰らなくて良かったって思える。
☆
全体練習が始まる。
ガド爺が全員を見回してから口を開く。
「今回はシェリル・ランバードを迎えての演奏じゃ。皆も知っての通り、シェリルはコンクールで優勝する程の腕前じゃ。だが、オーケストラは、
ガド爺が「初めて」を強調して言った。
私達の調律 が終わる頃、シェリルが来た。
「シェリル・ランバードです。宜しくお願いします」
と朗 らかに挨拶をした。
(私の時と違うじゃない)
そして、シェリルは全体に視線を流していく。私をそのまま通り過ぎていく。
(おいこら。前に会ってるだろが。軽く頭下げるとかしないのか?)
「大学生なのに貫禄 あるのね」
隣に座ってたリサが私に囁 いたから、大きく頷いちゃってる。
「そうなのよ。大学生なのにね」
妬 んでるのか、ひがんでるのか、皮肉混じりになってしまった。
ガド爺が注意を促すから口を閉じる。イメージ合わせが始るからICレコーダーのスイッチを入れる。ガド爺の指示を譜面に書き込んでいく。
合わせてみて驚いた。今日は征司がいないからか、皆バラバラ。ガド爺ですら驚いて何度か止めた。
「シェリル。耳で他の音を聴くんじゃ。自分の音を他の音とヒトツにするんじゃ」
「はい」
何度か中断され、各パートのトップに注意が飛ぶ。コンマスの征司がいないから、ガド爺は音を纏める主導権を各トップに移していく。そのうち私に向けてくる。
「祥子、君の音が控えめじゃだめじゃ」
ガド爺は、今度は私に全体を引っ張れと言いだしたんだ。
ミリファもヘンリーも他のトップも、一斉に私を見た。
(やだ。やだやだ)
それでもガド爺が容赦なく棒を振り上げる。
シェリルの音を捉えていく。イメージは合ってるのに、シェリルは私の音に惹き寄せられない。近づこうともしてこない。私の音が壊される。ガド爺が私を見て「祥子の好きな様に」と指示を出してきた。シェリルの音を無視してやってみろと言う事だ。
なら、大手を振って吹いてやる。
シェリルの音を無視していく。いけない事だけど、それが凄く気持ちいい。ピアノ以外の音に合わせていくのが面白い。ミリファの音が私の音とヒトツになった。ヘンリーの音もつられてきた。ピアノ以外がヒトツに纏まった。
シェリルが気づいたのかもしれない。音が乱れてきた。ガド爺が声を掛ける。
「シェリル、フルートの音に合わせるんじゃ。耳で聴いて合わせるんじゃ」
ピアノの音が弱くなった。どうしたらいいのか分からないんだ。
ホルストが終わり、一旦綺麗に音を切ってから、静かに「冥王星」へと移行する。
ピアノの音がどこか遠くで聞こえてる。
ガド爺の棒が止る。
「シェリル、この機会にオーケストラと合わせる事を覚えれば、世界に通用するピアニストになれるんじゃ。ソロだけの公演しか出来ないようなピアニストは所詮 そこで終わりじゃ」
「はい」
「先日、うちの祥子とデュオしたそうじゃが、その時に教わらなかったのか?」
「はい」
さらりとシェリルが言ったから、私は皆の視線にさらされてしまう。
「…(私がとりつく隙が無かったじゃない!)」
ガド爺がチラリと視線を飛ばして来た。
「それはすまなかった」
私が新人イジメをしてたようにされている。ガド爺にもそう思われたみたいだ。
「なら、ここで覚えていくんじゃ。いい経験になるじゃろう」
「はい。宜しくお願いします」
「20分休憩じゃ」
休憩の間、シェリルは私に近づこうともしてこなかった。ミリファが近づいてきた。
「祥子、気にする事ないわ。あの音に合わせるほうが大変だもの」
「そうよ。私達は祥子に合わせてるからラクなんだけどね」
リサが言ってくれた。ヘンリーもやってくる。
「こないだの時ってどうやって合わせたのかい? あれは成功したって話じゃないか」
「そうね。あれは成功したのよ」
「さっきみたいにピアノの音を無視したのかい?」
「そんな事しないわよ。オペラみたいに合わせたわよ」
「オペラ?」
「譜面に忠実に丁寧に吹いたってだけよ。ピアノの音を載っけてね」
「へぇ。さすがだね」
「征司が帰ってきたら上手くいくわよ」
「そうだといいけど」
ミリファが言って、ため息をついた。
「ミリファ、どうして? 征司だったら上手く合わせる事位出来るでしょ? エリックだって帰ってくるし」
「二人共、私達と同じなのよ」
「同じって何が?」
「シェリルに合わせる音を出しても、シェリルは応 えてこないのよ」
「だからこそ征司とエリックが居れば」
「応えてこない音を纏めるのは大変なのよ。祥子は無視したじゃない」
「そうだけど」
「無視するなんて祥子だけよ。私だって出来なかった」
「…いじめてた?」
「そうね。なんて、嘘嘘。荒療治 だけど、シェリルの音が弱くなったから、応えてくれるかもしれないわ。あら、シェリルは?」
「さっき、そそくさと出ていったわよ」
リサが出口を指さしたら、丁度、シェリルが戻ってきたところだった。ハンカチを口にあててる。
(相変わらず気持ち悪いのかしら。男性でもコロンつけてるから)
「具合悪いのかしら」
ミリファがシェリルの姿を見ながら言った。
「それにしては、ここに来ないのね。コツを教わらなくても大丈夫なのかしら」
シェリルがピアノの前に座ったのを見て、リサが言った。私のつけてる香水の香りが嫌いなのよ、とは言えなかった。ヘンリーが私を見て笑って言う。
「祥子が怖いんだよ」
「ヘンリー、それは酷 いわ。シェリルと話したのは数える位しかなかったわよ。ずっと、気持ち悪そうにしてて、控え室に居る時間が少なかったもの」
「へぇ。そりゃ、教えるなんて出来ないな」
「私はイジワルな女になってるわ」
「まぁまぁ。次はマシになりそうだし」
「そうであって欲しいわよ。それよりもピアノ協奏曲のほうが不安よ」
「木管とピアノのやり取りが多いからな」
「前途多難 よ」
ガド爺が戻ってきて、皆が席に着いた。
☆
シェリルの音とヒトツにならないまま、ピアノ協奏曲に移る。この曲は協奏曲にしては奏でる楽器の数が多い曲だ。それでも残ってる人数は20人も居ない。
ガド爺が棒で叩いて注意を集める。
「この曲のイメージはフルコース」
ざわめきが起こる。ヘンリーの声が響く。
「食事ですか?」
「そうじゃ」
ざわざわとするのも分かる。この曲だと愛の変移とか、自然界の猛威とか、暗いけど情熱的なイメージを要求する指揮者が多い。なのに、ガド爺はそのへんの身近な題材を持ち込んできた。
トントンと指揮棒の音が響き、皆がガド爺に注目する。
「メインのピアノはシェフじゃ。最高の料理を作ってくれ。弦、ティンパニは給仕。木管は食材じゃ」
ガド爺のイメージが続いていく。
「食材じゃが、フルートはウズラ、オーボエは七面鳥、クラリネットはロブスター、ファゴットはサーモン、ホルンは牛、トランペットは羊、が美味しそうじゃの」
本当に美味しそうだ。
「第1楽章 アレグロ ハ短調 3/4拍子 ソナタ形式 。突然の依頼が舞い込んだ。明日、宮廷での晩餐会。シェフは大慌てで献立を考える。美味しい料理を作らなくては。献立が決り食材が必要だ。皆で狩りに出るぞ。さぁ、食材は捕まったら大変な事になる。罠を見破り、身を潜め、時に人間を驚かし。なかなか食材は集まらない。だけど、晩餐会に美味しい料理を並べなくては。シェフも給仕も大慌て」
「第2楽章 ラルゲット 変ホ長調 2/2拍子 ロンド形式。なかなか集まらない食材に、ならばとシェフが食材に話しかける。ウズラには砕いた米をあげるよ。七面鳥にはとうもろこしを用意しよう。ロブスターには気持ちいい水を掛けてあげる。サーモンには冷たい水の流れを提供しよう。牛には美味しい餌をタップリあげよう。羊は、そうじゃな、羊は毛皮を綺麗にしてあげよう。皆、一晩うちで過ごさないかい。食材達はそれを聞いて大喜びでシェフ達についていく」
「第3楽章 アレグレット ハ短調 2/2拍子 変奏曲。食材達は皆、厨房に押し込まれ唖然とする。人間達にはめられた。騙されたと気づいても、シェフ達の包丁が向かってくる。第4変奏で、食材達は抵抗し、第6変奏では、食材達はシェフ達に丸めこまれる。「美味しい料理になる事は君達にとって大変名誉なことなんだよ」とね。「ならば、最高の味付けを」食材達が料理になって皿に盛られていく。第8変奏で、宮廷から使いが来て言う。「今夜の晩餐会は主人の急病で中止になった」シェフも給仕も食材も「なんてこった」で、終演じゃ」
ドッと笑いが起こる。
「木管はそれぞれの食材になりきるんじゃ。弦とティンパニ、君達はピアノの音を載せてくれ。ピアノがシェフだから指示を受けて動くんじゃ」
ミリファが私に体を寄せて囁く。
「もともと、チグハグな曲だから良かったわ」
「そうね。最後だけ合わせればいいもんね」
頷き合って笑った。
ガド爺の棒が上がる。ガド爺がシェリルにイメージを言いながら進めていく。私達はそれに合った音を返せばいい。
最後はピアノの音を載せて「なんてこった」で終わる。
本当はピアノの音に合わせるべきなんだけど、シェリルの音に合わせられる人は居なかった。
☆
征司とエリックが帰ってくれば何とかなる。そう思っていたのにアテが外れる。
征司もピアノの音を無視した。エリックも諦めたように征司にならった。
夜にエリックと音を合わせる約束をしていたから練習室に行くと、エリックが先に来ていて横にシェリルがいた。笑ってたシェリルが私を見て声を掛けてくる。
「苅谷さん、待ってたんですよ」
「私を?」
「はい。音を合わせるのがどうしても上手く出来ないから、教えて貰おうと思って」
「私があなたに教えるの?」
「そう思ってここに来たら、エリックが居て教えて貰えました」
「良かったわね」
「また分からない事が出来たら教えて貰いに来ます」
「そう」
それはどっちに?とは聞けなかった。シェリルがエリックを見て言ったから歴然としてる。
少し苛立 ってしまった。妬いているのかもしれない。
「じゃ、私はこれで。エリック、ありがとうございました」
「次はそれでバッチリ合うさ」
「頑張ります。苅谷さんお邪魔しました。失礼します」
そう言ってシェリルは私の前を通りすぎて行く。その時、フワリと香水の香りがたった。
(あの子、香水つけてるじゃない。なら、あの気持ち悪いのって単なる緊張からだったんだ)
とすると、私の香水の名前は気に入ってくれたから聞いたんだ。
(なんだ。いい子だったじゃない)
さっきの苛立ちが綺麗に解けた。
「彼女、あなたと同じ大学なんだってね」
「そうだってね。俺も言われて驚いた」
「で、可愛い後輩にどう教えたの?」
「調律と同じだよって」
「いい答えね。私もそう言ってたと思うわ」
「耳で聴いて音を合わせる。その音がヒトツになる瞬間って」
エリックが私を見る。
「気持ちいいよな」
「気持ちいいのよ」
「俺は祥子の音に合わせるのが好きだ。始めよう」
「うん」
☆
次の合同練習の休憩中、ミリファが驚いていた。
「祥子、シェリルに何か教えたの? 私達に合わせてきたじゃない」
「私じゃなくて教えたのはエリックよ」
「エリックが?」
「技術は持ってるから、コツさえ掴んじゃえば出来る子だったのよ」
「やり易くなったわよね」
確かに、突っ走る時もあるけど、征司の音に合わせてきていた。征司に合うと言う事は、私達の音にも合ってきているんだ。
☆
エリックと二人でいつもの様に合わせていたら、エリックの携帯が鳴った。エリックが通話を始めて直ぐに私に声を掛ける。
「シェリルが協奏曲で分からないとこがあるから教えてくれって」
「いいわよ。キリのいいトコだったし」
シェリルと時間を合わせて、エリックは通話を切った。
「祥子、遅いのに送っていけなくなってごめん」
「大丈夫よ。まだシドが居ると思うから」
「じゃ、明日」
「えぇ」
エリックが私にキスをして部屋を出て行った。私は帰る仕度をしてシドの部屋に顔を出す。
「シド」
「どうしました?」
「練習してたら遅くなっちゃって。シドはもう帰れます?」
「もう少し。いいですか?」
「コーヒー飲んで待ってます」
「終わったら行きますから」
「はい」
定期演奏会が近いからシェリルは焦ってるみたいだ。連続してエリックを呼び出してる。その度、シェリルの音が良くなってくるのに気づく。「エリックと付き合うと音が良くなる」それを目の当たりにしている。
「付き合ってるんじゃないの。エリックは後輩の面倒を見てるのよ」
征司が私にしてくれた事と、エリックの今を重ねて納得しようとしている。
私はこんなに嫉妬深いんだったっけ。
「祥子、お待たせしてすみません」
「いえ。大丈夫ですよ」
シドと二人で歩いてたら、エリックとシェリルの後姿がバーに入るのを見かけた。
(後輩の面倒を見てるのよ。私だってシドと歩いてるもの)
☆
「エリック、明日の日曜日、オフよね。デートしましょ」
お決まりの様になったシェリルからの電話の後で、私がエリックを誘う。エリックが私を見てすまなそうな顔になる。
「悪い。明日もシェリルの練習相手をしなきゃならないんだ」
「一日中じゃないんでしょ?」
「大学のほうに行くから、帰りが何時になるか分からない。教授達に挨拶したいし」
「夜中でもいいの。明日、少しだけでも会いたいの」
「何かあるのか? 会わなきゃだめか?」
「…いいわ。また今度でも」
「ごめん。今度埋め合わせするから」
「楽しみにしてる」
私がエリックに軽くキスをして、先に部屋を出ようとしたら、エリックの声が掛かる。
「祥子は」
「え?」
「…何でもない。おやすみ」
「おやすみなさい」
そのままシドの部屋に顔を出したら、シドはもう帰る支度が出来ていた。
「祥子、軽く飲んでいきましょう」
「え?」
「たまには外で飲むのもいいと思いますよ」
「あ。はい。それなら、家の傍のお店にしませんか?」
「そんなに飲むつもりですか?」
「いえ。そのほうがいいかなと思って」
「そうしましょうか」
エリック達が入るであろうバーを避け、駅に向かった。
「バーよりもカフェのほうがいいんですけど、この時間ですからね」
そう言ってシドがさっさと注文を済ませた。
「どうして?」
「そう慌てなくていいですよ」
直ぐにウェイターがワインと小さいケーキとフルーツの載った皿を置いた。
「あら、可愛い。美味しそう」
「誕生日のお祝いです」
「誰の?」
「祥子、君のですよ」
「私の」
「明日ですよね」
「はい。でも、どうして?」
「エドナが言ってたんですよ。「隣に居たらパーティだったのに」って」
「エドナが?」
「エドナは楽団の契約書に眼を通してますよ。それに、祥子が住んでるアパートの契約書にもね。エドナは隣人の祥子の事が気に入ったんでしょう。覚えてましたよ」
シドがワインを注いでくれる。
「覚えてくれた人が居たんですね。嬉しいです」
「祥子。一日早いですが、誕生日おめでとう」
「ありがとうございます」
グラスを軽く合わせて一口入れる。
「28でしたっけ」
「シド、女性に歳を宣告しないで下さい。それにまだ今日は27です」
「おっと。それは失礼しました。忘れましょう」
「そうして下さい」
ゆっくりとケーキを食べていく。明日、エリックに祝って貰いたい。電話でもいいけど。
「明日はエリックに祝って貰えますね」
シドに心の中を読まれたかと思った。
「残念ながら、エリックは朝からシェリルの練習に付き合うからって」
「余計な事聞いちゃいましたね。すみません」
「いいんです。今、シドに祝って貰ってますから」
「祥子、エリックに明日が誕生日って言って無いんですね」
「はい。シェリルが頑張ってるのを邪魔しちゃいけない気がして」
「誕生日位、ワガママ言っても許されますよ」
「いいんですよ。別に気にしてませんから」
強がってる。
私の音が不安定だったら、エリックはシェリルよりも私の練習に付き合ってくれただろうか?
誕生日を教えていたら私を優先にしてくれただろうか?
「祥子」
「あ、はい」
引き戻された。
「明日、マリーも一緒に皆で出かけましょう」
「嬉しいです」
「一緒に住んでいるんです。明日位は私達にワガママ言って下さい」
「は、はい。ありがとうございます」
シドの優しさが嬉しかった。
- #41 F I N -
「祥子、またこの音が聴けるなんて嬉しいわ。最高の音よ」
「ありがとうございます」
定期的に呼ばれるカノンの夜会にも慣れてきた。各界の有名人や財界トップの方々が集まるから、着ていく服は勿論、装飾品だって手を抜けない。だからレンタルショップは心強い
(エリックと結婚しても玉の輿よ。何たって世界に通用している)
早く帰ってこないかな…と、目の前にあるキャビアを
☆
定期演奏会の通達があり、練習の日程と楽譜が渡される。
「シェリル・ランバードってピアノ部門で優勝とった子よね」
リサが日程表に書かれてる、シェリルの名前を指で
「そうよ」
「祥子は、このシェリルって子と演奏したのよね。どうだった?」
「どうって」
「その顔だと良くなかったみたいね。そうでしょ?」
「私とは合わなかっただけだから」
「ふ~ん。祥子でそうだとすると、私達は心してかからなきゃ」
「皆は大丈夫よ。私が
「祥子が手こずったってのは大きいのよ」
手元の楽譜を見ていく。
ホルスト 組曲『惑星』7曲
コリン・マシューズ 「冥王星」
モーツアルト ピアノ協奏曲第24番ハ短調
「ねぇ、リサ。惑星が揃ったわね」
「本当ね。冥王星は取り除かれちゃったのに」
「ガド爺の事だから「ついで」なのかしら」
「元・太陽系にも光を!って感じかしらね」
二人で笑っていた。
シェリル用にオルガンがピアノに変わっているのに気づく。
壮大な宇宙を奏でながら、私の音はピアノの音に合わせられなくて、冥王星みたいに消し去られるかもしれない。
(まさかね)
「祥子、どうしたの?」
無意識に頭を振ってたら、リサが不思議そうに声を掛けた。
「何でもないわ」
笑って誤魔化して楽譜に視線を戻した。
楽団自体も、依頼があれば公演に出かける。テレビ中継の公演だってある。曲が変わるけれども一度吹いていればなんとかなる。ただ、初めての曲になると大変だ。まず、曲を知るところから始めなくちゃならない。資料室に走る。ここには定期演奏会の録音されたものや、市販されている楽曲のCD等が保管されている。
「冥王星」のCDを持ち出して練習部屋に戻る。
「冥王星ってどんな曲か、皆、知ってる?」
そう聞いたら、リサが知ってただけ。CDを流して皆で通しで聞いた。
ホルスト「惑星」の最後、「海王星」は消え入るように音が終るが、この「冥王星」はさらにその先の宇宙空間へ続いていくかのように終わる。
「ホルストからどうやって繋げていくんだろう」
アガシが言った。
「全ては「ガド爺のみぞ知る」ね。こうきたらそのまま休憩よ」
リサがガド爺の真似をして両拳を作ったら、笑いが起こった。
★
ガド爺がやってくる日だ。
「祥子! 早速、聞かせてくれないか」
「ガド爺、
「そんなの後回しじゃ。ほらほら」
「しょうがないなぁ」
フルートパートの練習部屋に忍び込んできた、このお爺さんは本当にワガママだ。
…なんて。
♪♪♪ ♪♪♪~♪♪♪~♪ ♪♪♪
硝子のフルートから出てくる音をニコニコと聞いているガド爺を眼にして、私の
「またこの音に出会えるとは嬉しい限りじゃ。前のよりもいい音じゃの」
「技術は進歩するんですよ。フルート自体、良くなってます」
「祥子も進歩しとるしな」
「そう聴こえますか?」
「ここに連れて来て正解じゃった」
そう言ってくれると、嫌な事があっても、日本に逃げ帰らなくて良かったって思える。
☆
全体練習が始まる。
ガド爺が全員を見回してから口を開く。
「今回はシェリル・ランバードを迎えての演奏じゃ。皆も知っての通り、シェリルはコンクールで優勝する程の腕前じゃ。だが、オーケストラは、
初 め て
じゃからな」ガド爺が「初めて」を強調して言った。
私達の
「シェリル・ランバードです。宜しくお願いします」
と
(私の時と違うじゃない)
そして、シェリルは全体に視線を流していく。私をそのまま通り過ぎていく。
(おいこら。前に会ってるだろが。軽く頭下げるとかしないのか?)
「大学生なのに
隣に座ってたリサが私に
「そうなのよ。大学生なのにね」
ガド爺が注意を促すから口を閉じる。イメージ合わせが始るからICレコーダーのスイッチを入れる。ガド爺の指示を譜面に書き込んでいく。
合わせてみて驚いた。今日は征司がいないからか、皆バラバラ。ガド爺ですら驚いて何度か止めた。
「シェリル。耳で他の音を聴くんじゃ。自分の音を他の音とヒトツにするんじゃ」
「はい」
何度か中断され、各パートのトップに注意が飛ぶ。コンマスの征司がいないから、ガド爺は音を纏める主導権を各トップに移していく。そのうち私に向けてくる。
「祥子、君の音が控えめじゃだめじゃ」
ガド爺は、今度は私に全体を引っ張れと言いだしたんだ。
ミリファもヘンリーも他のトップも、一斉に私を見た。
(やだ。やだやだ)
それでもガド爺が容赦なく棒を振り上げる。
シェリルの音を捉えていく。イメージは合ってるのに、シェリルは私の音に惹き寄せられない。近づこうともしてこない。私の音が壊される。ガド爺が私を見て「祥子の好きな様に」と指示を出してきた。シェリルの音を無視してやってみろと言う事だ。
なら、大手を振って吹いてやる。
シェリルの音を無視していく。いけない事だけど、それが凄く気持ちいい。ピアノ以外の音に合わせていくのが面白い。ミリファの音が私の音とヒトツになった。ヘンリーの音もつられてきた。ピアノ以外がヒトツに纏まった。
シェリルが気づいたのかもしれない。音が乱れてきた。ガド爺が声を掛ける。
「シェリル、フルートの音に合わせるんじゃ。耳で聴いて合わせるんじゃ」
ピアノの音が弱くなった。どうしたらいいのか分からないんだ。
ホルストが終わり、一旦綺麗に音を切ってから、静かに「冥王星」へと移行する。
ピアノの音がどこか遠くで聞こえてる。
ガド爺の棒が止る。
「シェリル、この機会にオーケストラと合わせる事を覚えれば、世界に通用するピアニストになれるんじゃ。ソロだけの公演しか出来ないようなピアニストは
「はい」
「先日、うちの祥子とデュオしたそうじゃが、その時に教わらなかったのか?」
「はい」
さらりとシェリルが言ったから、私は皆の視線にさらされてしまう。
「…(私がとりつく隙が無かったじゃない!)」
ガド爺がチラリと視線を飛ばして来た。
「それはすまなかった」
私が新人イジメをしてたようにされている。ガド爺にもそう思われたみたいだ。
「なら、ここで覚えていくんじゃ。いい経験になるじゃろう」
「はい。宜しくお願いします」
「20分休憩じゃ」
休憩の間、シェリルは私に近づこうともしてこなかった。ミリファが近づいてきた。
「祥子、気にする事ないわ。あの音に合わせるほうが大変だもの」
「そうよ。私達は祥子に合わせてるからラクなんだけどね」
リサが言ってくれた。ヘンリーもやってくる。
「こないだの時ってどうやって合わせたのかい? あれは成功したって話じゃないか」
「そうね。あれは成功したのよ」
「さっきみたいにピアノの音を無視したのかい?」
「そんな事しないわよ。オペラみたいに合わせたわよ」
「オペラ?」
「譜面に忠実に丁寧に吹いたってだけよ。ピアノの音を載っけてね」
「へぇ。さすがだね」
「征司が帰ってきたら上手くいくわよ」
「そうだといいけど」
ミリファが言って、ため息をついた。
「ミリファ、どうして? 征司だったら上手く合わせる事位出来るでしょ? エリックだって帰ってくるし」
「二人共、私達と同じなのよ」
「同じって何が?」
「シェリルに合わせる音を出しても、シェリルは
「だからこそ征司とエリックが居れば」
「応えてこない音を纏めるのは大変なのよ。祥子は無視したじゃない」
「そうだけど」
「無視するなんて祥子だけよ。私だって出来なかった」
「…いじめてた?」
「そうね。なんて、嘘嘘。
「さっき、そそくさと出ていったわよ」
リサが出口を指さしたら、丁度、シェリルが戻ってきたところだった。ハンカチを口にあててる。
(相変わらず気持ち悪いのかしら。男性でもコロンつけてるから)
「具合悪いのかしら」
ミリファがシェリルの姿を見ながら言った。
「それにしては、ここに来ないのね。コツを教わらなくても大丈夫なのかしら」
シェリルがピアノの前に座ったのを見て、リサが言った。私のつけてる香水の香りが嫌いなのよ、とは言えなかった。ヘンリーが私を見て笑って言う。
「祥子が怖いんだよ」
「ヘンリー、それは
「へぇ。そりゃ、教えるなんて出来ないな」
「私はイジワルな女になってるわ」
「まぁまぁ。次はマシになりそうだし」
「そうであって欲しいわよ。それよりもピアノ協奏曲のほうが不安よ」
「木管とピアノのやり取りが多いからな」
「
ガド爺が戻ってきて、皆が席に着いた。
☆
シェリルの音とヒトツにならないまま、ピアノ協奏曲に移る。この曲は協奏曲にしては奏でる楽器の数が多い曲だ。それでも残ってる人数は20人も居ない。
ガド爺が棒で叩いて注意を集める。
「この曲のイメージはフルコース」
ざわめきが起こる。ヘンリーの声が響く。
「食事ですか?」
「そうじゃ」
ざわざわとするのも分かる。この曲だと愛の変移とか、自然界の猛威とか、暗いけど情熱的なイメージを要求する指揮者が多い。なのに、ガド爺はそのへんの身近な題材を持ち込んできた。
トントンと指揮棒の音が響き、皆がガド爺に注目する。
「メインのピアノはシェフじゃ。最高の料理を作ってくれ。弦、ティンパニは給仕。木管は食材じゃ」
ガド爺のイメージが続いていく。
「食材じゃが、フルートはウズラ、オーボエは七面鳥、クラリネットはロブスター、ファゴットはサーモン、ホルンは牛、トランペットは羊、が美味しそうじゃの」
本当に美味しそうだ。
「第1楽章 アレグロ ハ短調 3/4拍子 ソナタ形式 。突然の依頼が舞い込んだ。明日、宮廷での晩餐会。シェフは大慌てで献立を考える。美味しい料理を作らなくては。献立が決り食材が必要だ。皆で狩りに出るぞ。さぁ、食材は捕まったら大変な事になる。罠を見破り、身を潜め、時に人間を驚かし。なかなか食材は集まらない。だけど、晩餐会に美味しい料理を並べなくては。シェフも給仕も大慌て」
「第2楽章 ラルゲット 変ホ長調 2/2拍子 ロンド形式。なかなか集まらない食材に、ならばとシェフが食材に話しかける。ウズラには砕いた米をあげるよ。七面鳥にはとうもろこしを用意しよう。ロブスターには気持ちいい水を掛けてあげる。サーモンには冷たい水の流れを提供しよう。牛には美味しい餌をタップリあげよう。羊は、そうじゃな、羊は毛皮を綺麗にしてあげよう。皆、一晩うちで過ごさないかい。食材達はそれを聞いて大喜びでシェフ達についていく」
「第3楽章 アレグレット ハ短調 2/2拍子 変奏曲。食材達は皆、厨房に押し込まれ唖然とする。人間達にはめられた。騙されたと気づいても、シェフ達の包丁が向かってくる。第4変奏で、食材達は抵抗し、第6変奏では、食材達はシェフ達に丸めこまれる。「美味しい料理になる事は君達にとって大変名誉なことなんだよ」とね。「ならば、最高の味付けを」食材達が料理になって皿に盛られていく。第8変奏で、宮廷から使いが来て言う。「今夜の晩餐会は主人の急病で中止になった」シェフも給仕も食材も「なんてこった」で、終演じゃ」
ドッと笑いが起こる。
「木管はそれぞれの食材になりきるんじゃ。弦とティンパニ、君達はピアノの音を載せてくれ。ピアノがシェフだから指示を受けて動くんじゃ」
ミリファが私に体を寄せて囁く。
「もともと、チグハグな曲だから良かったわ」
「そうね。最後だけ合わせればいいもんね」
頷き合って笑った。
ガド爺の棒が上がる。ガド爺がシェリルにイメージを言いながら進めていく。私達はそれに合った音を返せばいい。
最後はピアノの音を載せて「なんてこった」で終わる。
本当はピアノの音に合わせるべきなんだけど、シェリルの音に合わせられる人は居なかった。
☆
征司とエリックが帰ってくれば何とかなる。そう思っていたのにアテが外れる。
征司もピアノの音を無視した。エリックも諦めたように征司にならった。
夜にエリックと音を合わせる約束をしていたから練習室に行くと、エリックが先に来ていて横にシェリルがいた。笑ってたシェリルが私を見て声を掛けてくる。
「苅谷さん、待ってたんですよ」
「私を?」
「はい。音を合わせるのがどうしても上手く出来ないから、教えて貰おうと思って」
「私があなたに教えるの?」
「そう思ってここに来たら、エリックが居て教えて貰えました」
「良かったわね」
「また分からない事が出来たら教えて貰いに来ます」
「そう」
それはどっちに?とは聞けなかった。シェリルがエリックを見て言ったから歴然としてる。
少し
「じゃ、私はこれで。エリック、ありがとうございました」
「次はそれでバッチリ合うさ」
「頑張ります。苅谷さんお邪魔しました。失礼します」
そう言ってシェリルは私の前を通りすぎて行く。その時、フワリと香水の香りがたった。
(あの子、香水つけてるじゃない。なら、あの気持ち悪いのって単なる緊張からだったんだ)
とすると、私の香水の名前は気に入ってくれたから聞いたんだ。
(なんだ。いい子だったじゃない)
さっきの苛立ちが綺麗に解けた。
「彼女、あなたと同じ大学なんだってね」
「そうだってね。俺も言われて驚いた」
「で、可愛い後輩にどう教えたの?」
「調律と同じだよって」
「いい答えね。私もそう言ってたと思うわ」
「耳で聴いて音を合わせる。その音がヒトツになる瞬間って」
エリックが私を見る。
「気持ちいいよな」
「気持ちいいのよ」
「俺は祥子の音に合わせるのが好きだ。始めよう」
「うん」
☆
次の合同練習の休憩中、ミリファが驚いていた。
「祥子、シェリルに何か教えたの? 私達に合わせてきたじゃない」
「私じゃなくて教えたのはエリックよ」
「エリックが?」
「技術は持ってるから、コツさえ掴んじゃえば出来る子だったのよ」
「やり易くなったわよね」
確かに、突っ走る時もあるけど、征司の音に合わせてきていた。征司に合うと言う事は、私達の音にも合ってきているんだ。
☆
エリックと二人でいつもの様に合わせていたら、エリックの携帯が鳴った。エリックが通話を始めて直ぐに私に声を掛ける。
「シェリルが協奏曲で分からないとこがあるから教えてくれって」
「いいわよ。キリのいいトコだったし」
シェリルと時間を合わせて、エリックは通話を切った。
「祥子、遅いのに送っていけなくなってごめん」
「大丈夫よ。まだシドが居ると思うから」
「じゃ、明日」
「えぇ」
エリックが私にキスをして部屋を出て行った。私は帰る仕度をしてシドの部屋に顔を出す。
「シド」
「どうしました?」
「練習してたら遅くなっちゃって。シドはもう帰れます?」
「もう少し。いいですか?」
「コーヒー飲んで待ってます」
「終わったら行きますから」
「はい」
定期演奏会が近いからシェリルは焦ってるみたいだ。連続してエリックを呼び出してる。その度、シェリルの音が良くなってくるのに気づく。「エリックと付き合うと音が良くなる」それを目の当たりにしている。
「付き合ってるんじゃないの。エリックは後輩の面倒を見てるのよ」
征司が私にしてくれた事と、エリックの今を重ねて納得しようとしている。
私はこんなに嫉妬深いんだったっけ。
「祥子、お待たせしてすみません」
「いえ。大丈夫ですよ」
シドと二人で歩いてたら、エリックとシェリルの後姿がバーに入るのを見かけた。
(後輩の面倒を見てるのよ。私だってシドと歩いてるもの)
☆
「エリック、明日の日曜日、オフよね。デートしましょ」
お決まりの様になったシェリルからの電話の後で、私がエリックを誘う。エリックが私を見てすまなそうな顔になる。
「悪い。明日もシェリルの練習相手をしなきゃならないんだ」
「一日中じゃないんでしょ?」
「大学のほうに行くから、帰りが何時になるか分からない。教授達に挨拶したいし」
「夜中でもいいの。明日、少しだけでも会いたいの」
「何かあるのか? 会わなきゃだめか?」
「…いいわ。また今度でも」
「ごめん。今度埋め合わせするから」
「楽しみにしてる」
私がエリックに軽くキスをして、先に部屋を出ようとしたら、エリックの声が掛かる。
「祥子は」
「え?」
「…何でもない。おやすみ」
「おやすみなさい」
そのままシドの部屋に顔を出したら、シドはもう帰る支度が出来ていた。
「祥子、軽く飲んでいきましょう」
「え?」
「たまには外で飲むのもいいと思いますよ」
「あ。はい。それなら、家の傍のお店にしませんか?」
「そんなに飲むつもりですか?」
「いえ。そのほうがいいかなと思って」
「そうしましょうか」
エリック達が入るであろうバーを避け、駅に向かった。
「バーよりもカフェのほうがいいんですけど、この時間ですからね」
そう言ってシドがさっさと注文を済ませた。
「どうして?」
「そう慌てなくていいですよ」
直ぐにウェイターがワインと小さいケーキとフルーツの載った皿を置いた。
「あら、可愛い。美味しそう」
「誕生日のお祝いです」
「誰の?」
「祥子、君のですよ」
「私の」
「明日ですよね」
「はい。でも、どうして?」
「エドナが言ってたんですよ。「隣に居たらパーティだったのに」って」
「エドナが?」
「エドナは楽団の契約書に眼を通してますよ。それに、祥子が住んでるアパートの契約書にもね。エドナは隣人の祥子の事が気に入ったんでしょう。覚えてましたよ」
シドがワインを注いでくれる。
「覚えてくれた人が居たんですね。嬉しいです」
「祥子。一日早いですが、誕生日おめでとう」
「ありがとうございます」
グラスを軽く合わせて一口入れる。
「28でしたっけ」
「シド、女性に歳を宣告しないで下さい。それにまだ今日は27です」
「おっと。それは失礼しました。忘れましょう」
「そうして下さい」
ゆっくりとケーキを食べていく。明日、エリックに祝って貰いたい。電話でもいいけど。
「明日はエリックに祝って貰えますね」
シドに心の中を読まれたかと思った。
「残念ながら、エリックは朝からシェリルの練習に付き合うからって」
「余計な事聞いちゃいましたね。すみません」
「いいんです。今、シドに祝って貰ってますから」
「祥子、エリックに明日が誕生日って言って無いんですね」
「はい。シェリルが頑張ってるのを邪魔しちゃいけない気がして」
「誕生日位、ワガママ言っても許されますよ」
「いいんですよ。別に気にしてませんから」
強がってる。
私の音が不安定だったら、エリックはシェリルよりも私の練習に付き合ってくれただろうか?
誕生日を教えていたら私を優先にしてくれただろうか?
「祥子」
「あ、はい」
引き戻された。
「明日、マリーも一緒に皆で出かけましょう」
「嬉しいです」
「一緒に住んでいるんです。明日位は私達にワガママ言って下さい」
「は、はい。ありがとうございます」
シドの優しさが嬉しかった。
- #41 F I N -
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