#57 嫌悪感 <祥子視点>

文字数 5,660文字

エリックの乗ったタクシーが見えなくなる迄見送った。
さっき、エリックが私を支えてくれた時、フワリと香った香り。シドの香りかと思った。でも、違う。少し違う。一瞬、暖かい何かが頭の中に浮かんだ。そして切なくなった。

皆が言う。エリックは私の恋人だと。それならどうして、私はエリックを忘れているのだろう。皆でグルになって私を騙しているのだろうか。

「私って皆に遊ばれてたっけ。エリックが私の彼なんてありえない」

そう自分に言い聞かせながらも、私の手は首筋に触れている。エリックが自然に私を気遣って触れた場所。

「ありえない…の」

エレベーターに乗って閉めようとしたら、後から来る人達が居て開けたまま待つ。

「ありがとう。3階をお願いします」
「はい」

3階のボタンを押して、戸を閉める。後から入って来た女性の息継ぎが重々しく、時折、低く(うめ)くのに気づき、顔を向ける。その女性を見て、私はギクリと固まった。
付き添ってるのはご主人だろう。その隣にお腹の大きい妊婦さんだ。私は妊婦さんを見て固まってる。その大きいお腹を眼にして、恐怖に似た不安に襲われた。

3階にエレベーターが止まる。

「ありがとう」
「いえ」

妊婦さんがエレベーターを降りて、その階が産婦人科病棟だと気づく。どこか遠くで赤ちゃんの泣き声が響いている。
私は大急ぎで戸を閉めた。頭が痛い。…それよりも気持ちが悪い。赤ちゃんに対して嫌悪感を持つ自分に驚いている。

自分の病室に戻って来てもさっきの赤ちゃんの泣き声が耳に残っている。

「やだ。凄くやだ。どうしてなんだろう。おめでたい事なのに」

身震いをしてたら、サイドテーブルに置いたバイオリンが眼に入り、横のフルートケースが眼に入った。
ベッドに入って、フルートケースをベッドの上に置いた。

「あら。私の名前だ」

ケースに私の名前が刻印されてるのに気づく。

「見覚えないのにこれは…私のなんだ」

仕掛けだと思える箇所を開けてたのも、これは私のケースだからだ。でも、フルートは吹いた事が無い。吹けない。
ケースを開けようとして止める。赤ちゃんの泣き声が聞こえてきそうで、開けられなかった。



翌朝、回診があって、首が痛むと言ったら検査に回された。検査の時は車椅子に乗って移動出来る。看護師が付いてくれるから、脚が突っ張ってても上手く移動させてくれる。
診察室で担当の先生に診て貰う。

「以前、痛めた事あるんじゃないですか?」
「無いです」
「このままバイオリンを弾いてると、いずれ腕が上がらなくなる」

レントゲン写真を並べられ、左肩の骨を指された。

「ここの骨。右と比べて薄いんですよ。ここに付いてる筋肉も薄い。顎の骨も薄いんです。バイオリンを支えると、ここら一帯にかなりの負担を掛けてるんですよ。だから、あなたはフルートを吹いているんだと思うのですが」
「いえ。フルートを吹いた事はないです」
「確かにあなたのバイオリンの音も見事です。ですが、皆、あなたのフルートの音を待っているんですよ」
「何故か皆、そう言うんですね。私はフルートを吹いた覚えがないのに」
「もう一度、あちらで診て貰いましょう」

「あちら」とは心療内科。色々と話しても思い出せないものは仕方無い。

(フルートケースが私の物だったとしても、私が覚えてないんだもん。しょうがないのに)



車椅子に乗って病室に戻る時、押してくれてる看護師に「見舞いが来てますよ」と声を掛けられた。エリックが来てくれたんだ。ドキドキしてきてる。

病室に戻ったら、エリックじゃなかった。でも、見覚えがある。

「えっと」
「相変わらず、俺は忘れられちゃうのかな。苅谷さん、お久しぶり」
「ごめんなさい。見舞いって聞いて、こっちの人だとばかり思ってたから。柴崎さん、どうしてここに?」

看護師に手伝って貰ってベッドに移動しながら驚いている。それと久々の日本語で嬉しくなっている。

「仕事の関係でこっちに来てたんだ。帰国の前に時間あったから、寄ってみたら会えた」
「ありがとうございます。私がここで入院してるってよく分かりましたね」
「そりゃ、フルート奏者、苅谷祥子は有名。聞いたら教えてくれた」
「あら」

暫く、柴崎さんと日本の事を話していた。クリスマスイルミネーションの話になって、病棟にもツリーが飾られてたのを思い出す。もう12月だったのを実感する。12月はモーツアルトの月だった。私は楽団の仕事を休んでしまってる。
音楽の話になって、柴崎さんが置いてあったフルートケースとバイオリンに視線を移す。

「記憶、戻ってない部分があるんだってね」
「…はい」

柴崎さんの視線がゆっくりと私に戻って来た。

「俺と一緒に日本に帰ろうか」

ドキリとした。柴崎さんは私に好意を示した人だった。タイミングが合わなかったんだ。今、今はタイミングが合ってるのだろうか。今、私は付き合ってる人は居ない。そうだ。居ないんだ。なら、日本人の私は日本に帰って、音楽を辞めて柴崎さんと…柴崎さんとなら私は幸せになれるだろう。

その途端、首筋に痛みが走った。ふと昨日のエリックの手の(あたた)かさが浮かんできて混乱する。

(えっ? 何? どうして?)

「柴崎さん、ありがとう。でも、私、何か…とても大切な事を忘れてる気がしてる。それが嫌な事かもしれないけど、ここに居なきゃならない。まだ帰れない」

それを聞いて柴崎さんがクスリと笑った。

「冗談だよ。苅谷さんは、音楽から離れられないさ。さて、苅谷さんの顔も見れたし日本に帰らなきゃ」
「ごめんなさい。でも、柴崎さんに会えて嬉しかった」
「そう?」
「はい」

病院の入り口迄、見送りに行く。

「今日はありがとうございました。柴崎さんの幸せと成功を祈ってます。少し早いけど、メリークリスマス」
「ありがとう。早く良くなれよ。苅谷さんにも幸せと成功を。メリークリスマス」

柴崎さんの顔が近づいて、私の頬に触れた。

「じゃ、元気で」
「柴崎さんも」

私から離れて行く柴崎さんに、「私も一緒に連れて帰って」と言いたくなっていた。実際、私は口を開きかけていたが、柴崎さんの行く先に居た人を見て声が出なかった。

(エリックが来てくれた)

その姿を見て嬉しくなっている。そんな自分が不思議だったけど、私はエリックを見て嬉しくなっている。

エリックが、すれ違った柴崎さんを追いかけるように振り返る。そして、私を見る。私がエリックを見てるのに気づいたのか、エリックが小走りで私の傍に来た。

「祥子のお客さん?」
「日本のお友達」
「友達」
「そうよ」

丁度、柴崎さんがタクシーに乗り込んで、私に手を上げたから、手を振って返す。
エリックが動き出したタクシーを眼で追いかけてるから声を掛ける。

「待ってたのよ。病室に行きましょ」
「あ、そうだね。え? 俺の事、待ってた?」

エリックが驚いた顔を私に向ける。

「えぇ。待ってたわ。昨日、約束したじゃない」
「あ、そうだ。約束した。したんだ」
「エリックったら、ちょっと変ね」
「あ、うん。変だ。え?」
「やだ。もうっ。エリックったら」

私が大笑いしちゃってるから、エリックは照れながら笑う。

「約束のジェラート買って来た」
「ありがと。それも楽しみだったのよ」
「…それも?」
「えぇ。行きましょ」
「祥子、慌てると危ないから」
「大丈夫よ」



エレベーターの前に妊婦さんが居た。

「祥子、どうしたんだ?」
「え? あ…うん」

エリックに声を掛けられて我に返る。エレベーターが開いてて皆乗り込んでる。あとは私が乗ればいい状態だった。

乗り合わせてる人が皆妊婦さんに見えてきて、気分が悪くなった。鳥肌が立ってる。3階迄が息の詰まる箱の中だった。3階で戸が開いてほとんどの人が降りて行った。
自分が降りる階に着いても分からなかった。エリックに寄りかかっていた。

「祥子、降りなきゃ」
「…うん」

エリックに支えられて病室迄戻って来た。やっと戻ってこれた。そんな気分だった。

「祥子、どうしたんだ? エレベーターに酔ったのか?」
「そんなんじゃない。何か分からないけど、気分が悪くなって」
「冷たいの食べよう」
「うん」

持って来てくれたジェラートを口に入れたら、気分が落ち着いた。

「妊婦さんを見るとゾッとするの。赤ちゃんの泣き声も」

そう言ったら、エリックは顔を伏せた。少し間があく。エリックの両手が握られて顔が私を向く。

「俺のせいなんだ」
「エリックの? どうして?」
「祥子、君と俺は付き合ってたんだ」
「皆、そう言ってるわ。私にそう思い込ませようとしてるの?」
「いや。俺と祥子は付き合ってた。俺は祥子を愛してたし、祥子、君だって俺の事を」

付き合ってきた時間を思い出せないから、エリックに真面目な顔でそう言われて、私のほうが恥ずかしくなっている。さっき私がエリックを見て嬉しく思ったのは、本当にエリックと付き合ってきたからかもしれない。

「思い出せなくてごめんなさい。でも、なら、何で妊婦さんが関係するの?」
「それは、祥子がここに来る前に、俺達が別れた事を話さなきゃならないんだ」
「別れた…んだ」

私の頭が混乱する。別れていたのに私はエリックに会えて嬉しいの? 別れていたのにエリックはどうして今、私に会いに来てるの? 皆は、私とエリックが別れたのを知ってて言ってたの?

「だけど、それはお互いが嫌いになったからじゃないんだ」
「…」

エリックが私の手を握った。ドキリともビクリとも合わない感じで、私は恐る恐るエリックを見た。エリックの掌は温かい。だけど…。

「祥子。これから話す事は本当の事なんだ。そして、俺は祥子の事を愛してる。それは本当なんだ」
「…うん」

エリックがシェリルとの事を話しだす。
私もシェリルの名前は覚えてる。ピアノ奏者で演奏会で一緒だった人だ。

エリックが定期演奏会の事を話していく。
私の誕生日だと知らないでシェリルと大学に行った事。教授達と飲んで、酔いを醒まそうと入った店で、シェリルに次々とカクテルを飲まされた事。そしてそのままシェリルと一夜を明かした事。その後で、シェリルに赤ちゃんが出来たと分かった事。エリックが責任を取る為に、私との間を終わりにした事。

私は聞きながら、自分の記憶が作られていく気がした。でも、こんな記憶なんか欲しくない。

「つまり、私は、今、またあなたに辛い事を聞かされたのね。もういいわ。聞きたくない」

私が妊婦さんや赤ちゃんに嫌悪感を抱くのはこのせいだ。
エリックの掌を振りほどこうとして腕を動かしたけど、エリックが痛い位に私の手を握って放してくれない。

「痛いわ。手を離して!」
「祥子。お願いだ。その先を聞いてくれ」
「聞きたくない! もう嫌よ! また、また、私を泣かせるつもりなの!」

そうだ。私は泣いた。泣いたんだ。シドの胸の中で。泣いた記憶がある。
こんな記憶が分かるくらいなら、さっき、日本に帰るって、柴崎さんと帰るって、言ってしまえば良かった! エリックを見て嬉しく思うなんて、私は何を期待していたんだろう。

「祥子、聞いてくれ」
「嫌よ。嫌。もう()めましょう。もう沢山よ!」

エリックとは反対のほうに顔を向ける。私の手はエリックに握られたままだ。

「だめだ。聞いてくれ。俺は、もう、祥子と離れたくないんだ。だから、聞いて欲しいんだ。シェリルの赤ちゃんは、俺との子供じゃなかったんだ」
「嘘!」
「本当だ」
「だって、一夜を過ごしたんでしょ! セックスしたんでしょ!」
「してない! シェリルとはしてない! 俺は酔って寝てたんだ。ただ、シェリルに刺激を与えられて…出さされただけなんだ」
「え? …どういう事?」

出さされた? って? 意味が分からず、エリックに顔を向けていた。
エリックは私の視線と合って、戸惑ったように赤くなった。

「男がイくのは、女性の中だけじゃないんだよ」
「それは…分かるけど。でも…」
「シェリルのお腹には、既に赤ちゃんが居たんだ。だから、俺はシェリルの中に挿れてない。お腹の子を気遣ったからとシェリル本人に確認してる」
「なら、誰の子だったの?」
「付き合ってた彼が居たんだ。その彼との子だ。シェリルは子供が出来たと学生の彼に告げたら、堕ろさせられると思ったから、自分から別れを切り出した。そして、俺を仮の父親にしようとしたんだ」
「仮の父親?」
「シェリルは彼の子供を産みたかったんだ。父親が居ないのは可哀想だから俺を父親にした。俺が無理矢理シェリルを襲ったと思わせて、その子供だと言ってしまえば、俺が責任をとると思ったんだ」
「何故、エリックだったの?」
「祥子がシェリルと演奏会で会ったから。祥子が俺と付き合ってるのを知って、シェリルは俺に近づいてきたんだ。俺は、仕事で名前が出てるから、下手な事は出来ない」
「つまり…私のせい」
「祥子のせいじゃないんだ。演奏会で偶然だった。それだけだ」
「…」
「ミリファ達が力を貸してくれた。シェリルと付き合ってた彼を交えて話をする事が出来た。それで、今、祥子に話した全てが分かった。シェリルは彼の元に戻った。俺との関係は無くなったんだ」
「…でも」
「祥子。思い出せるかは分からないけど、祥子がシェリルと初めて演奏した時、シェリルは気持ち悪そうにしてたんだろ? 祥子がそう言ってたって聞いた。それは「つわり」だったんだ。俺との関係を作り出す前に「つわり」が始まっていたんだ。赤ちゃんが居たんだよ」

偶然でも私とシェリルが出会ったから、今の私になっているんだ。私がエリックの事を忘れてるのは、別れてたから。

その別れた理由はもう無くなった。

だけど…。

「分からないのよ。思い出せないのよ。あなたの事は何もかも記憶に無いのよ。それなのに別れた理由が無くなったから、「はい。また付き合いましょう」なんて…出来ないのよ」

頭が混乱する。

「いいんだ。祥子と俺は、昨日の「初めまして」から、また始まるんだ。俺は今も祥子が好きだ。だけど、祥子が別の人を好きになったら、それは仕方が無い。ただ、俺達の間にあったわだかまりは無くなったんだ。それだけは忘れないで欲しい」
「…うん」

握られてた手が放された。


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