#7 ソロ <祥子視点>

文字数 9,890文字

エリックにドキドキさせられっぱなしだ。
開演10分前のベルが鳴っているのが聞こえてきて慌てて席に戻る。
まだ舞台上にエリックも征司も居ない。
客席は満席だ。このチケットが発売同時に完売になるのを聞いた。
VIP席だって、私の分一席をどうやって確保したのかは、ガド爺の顔の広さとワガママの成せる技なのだろう。直前だから元々確保されてたのか予備なのか。

自分の席に向かう。「こんな開演間際に来るなんて」冷ややかな視線が刺さる。通路は広いけど、真ん中の席だから恐縮しながら移動する。
私の両脇はどこぞのお嬢様だった。もちろん男性のエスコート付。アクセサリも特注品のゴージャスな一品だというのが一目で分かる。チラリと私を見て値踏みされた。「外国人の小娘だ」そんな感じで見られた。
他にも女優さんだと思う綺麗な女性もいる。後ろの席は年配の品の良いご夫婦だ。こちらは、私を見て何やら話している。
私は視線を合わせない様にして、椅子に深く座った。
両脇のお嬢様達から(かぐわ)しい香水の香りが漂ってくる。ここで流行りの香りなのだろう。スパイシーな香りがする。
エリックが私を抱き締めた時に囁いてた言葉を思い出した。

「何だろ…日本の香りなのかな。…いい香りだ」

私がつけてる香水の香りと、この両脇のお嬢様達との香りは全く異なる香りになる。私がつけているのは[SAKURA]。ほんのり甘めの香りがする。エリックには初めての香りだったに違いない。

(外人はオープンなんだから)

ガド爺に慣れてなかったら、エリックにメロメロにされてたよ。
それでも、ドキドキしている。嬉しかったりもしている。

客席がざわめいたから視線を前に向ける。
エリックが入って来た。ミリファも席につく。そして、征司が入ってくる。最後にガド爺だ。
割れんばかりの拍手が沸きあがっている。

 モーツアルト、交響曲39番

ガド爺の棒が上がる。会場内に静寂が訪れる。ガド爺が全身で動く。音が弾き出される。

ウィーンだからモーツアルト。さすがウィーン。いや、さすがこの楽団。エリックが本番で最高の音を出す、と言ってたのは本当だ。私がバレエの曲を奏でた楽団とは雲泥の差だ。力の差が歴然としている。
そして、この席。音が集まってくる最高の位置だ。音が天井や壁、床、全ての反響からも雑音を乗せてこない。

征司のバイオリンの音が分かる。この音、懐かしくもあり、初めての感じも受ける。高校の時とは違う音になっている。だけど、その(もと)は私の聴いた事のある音だ。
ミリファのクラリネットの音も聴き取れた。さっき話した時に攻撃的な印象を受けたから、音もそうかと思ったら、柔らかい音を奏でている。トップ奏者と自分で言ってた。その自信に値する音を奏でる事が出来る人だ。
エリックのチェロの音が耳に入ってくる。ドキドキしている。エリックは何でチェロなんだろう。バイオリンだったら、この技術でコンマスだって務めていただろう。チェロの音が出しゃばらずに全体のベースになって漂っている。
夢心地の中でフルートの音が耳に入る。私の音と違う。録音して自分の音を聴いているから比べることが出来る。その音と全く違う。洗練されている。そんな音だ。その音を聴きながら頭に浮かぶ。この音とは質が違うけれど、私だって奏でられる。この曲の解釈なら簡単に出来る。

(私ったら自信過剰になってる)

新聞で絶賛されたから調子に乗ってる。エリックやガド爺に誉められていい気になってる。
自分の中で反省しつつ、全ての楽器に注目する事にする。トランペット、ホルン、バスーン、コントラバス、ヴィオラ…。
音の洪水の中で私も奏でたくなってくる。

割れんばかりの拍手の中で次に入る。

 ピアノ協奏曲 変ロ長調

こういう曲だと、構えずに観客として音を楽しめる。



ガド爺が退場する。休憩になる。両脇のお嬢様達は体を伸ばしに行ったんだろう。
私は椅子に深く座ったまま、頭の中を小休止。

そんな中、私の席に近づいてくる人が居た。

「ミス 苅谷、時間もらえますか?」

英語で声を掛けられて、それも見も知らないオジサンだったから、警戒するように凝視してしまった。そんな私を見て、そのオジサン、少し慌てて付け加える。

「ミスター ガドリエルの所迄、一緒に来て欲しい」
「は、はい」

ガド爺の名前が出たから、怪しい話じゃなさそうだ。劇場の外に連れ出されそうになったら叫べばいい。これだけ人が居るから大丈夫だろう。オジサンに促されて席を立つ。おっと、大事なバッグは肌身離さずにしないと。

このオジサン、私が付いて来てるのを度々チェックして、それでも会話もなくズンズン歩いて行く。楽屋に向かい、ガド爺の部屋に来る。
ノックして部屋に通される。

部屋の中にはガド爺と私と一緒に来たオジサンとは別にオジサンがもう一人いた。
そして、テーブルの上に私のフルートケースが置いてあった。

血の()が引いた気がした。演奏を聞きに来ているのに楽器持参で来たから、眼をつけられたのだろうか。「道場破り」状態なのだろうか。
でも、ガド爺に言われて持ってきたんだった。ガド爺を見ると、ガド爺が笑って口を開く。

「祥子、驚いてるんじゃな。大丈夫じゃ。とって食いやしない。彼はステージマネージャーのクラウス」
「クラウス・バティスです。よろしく」
「祥子・苅谷です。初めまして」

私を連れて来たオジサンが私に向き直って、初めて笑って手を差し出した。

「そして、こちらはインスペクターのシドじゃ。まだ若いぞ。30じゃったかの?」
「いや。もう33ですよ。シド・ガーディナーです。よろしく」

シドが愛想のいい顔で手を差し出す。

「祥子・苅谷です。初めまして (オジサンなんて思ってごめんなさい)」

椅子に座るように言われて静かに座った。私の向かいにガド爺。その両脇にクラウスとシドが座る。

(…面接みたい)

ニコニコしているガド爺とは対称的にクラウスとシドは真面目な表情で私を見ているんだ。
怖い。
ドイツ語が少し交差したんだが、私が居るから英語に切り替えるようにガド爺が言った。

「さて、祥子本人もここに来たんじゃ。クラウス、どうじゃな。ワシの願いを聞き入れてはくれんかの?」
「ですが…」

クラウスが言葉を切って私を見る。私には話が見えない。あえて聞いちゃいけないと思う。ややこしくなったら言葉がネックになるから静かに聞いてる事にする。

「宜しいんじゃないですか。ここに来られてるお客様達にとっても、特別な公演になりますしね。クラウスさんの言いたい事は分かりますよ。時間ですよね。まぁ、今回は大目に見て貰えばいいって事にしましょうよ。いつもだって時間越えてるんですし」

シドがクラウスを見てガド爺に視線を移してから、私を見た。
何か大事(おおごと)が起こっている。そんな気がしている。クラウスが腕組みをしてため息をついた。

「分かりました。では、その時間は短くお願いしたいものですな」
「良し良し。なるべく短くするつもりじゃ」

ガド爺がクシャッと笑ったから、シドが勘付いて笑う。「短くなんてする筈ないだろう」そんなシドの表情だった。
クラウスが椅子から立ち上がる。

「次の調整があるのでこれで失礼します」
「あぁ。クラウス、すまなかったな。頼んだぞ」
「ガド爺のワガママには慣れっこですよ」

諦めた顔をしてクラウスが部屋から出て行った。

「クラウスさんも大変だ。これから裏方に頭下げまくりですよ」
「いつもの事じゃ」

シドとガド爺が笑っている。ガド爺がテーブルの上のフルートケースを私に押しやる。

「と、言う訳で、祥子、最後に一曲頼むぞ」
「えっ? 一曲?」
「そうじゃ」
「ホントに? この公演の最後…最後に、私がですか?」
「そうじゃ」
「や、やられた!」

驚いてる私の前に楽譜が渡される。

メンデルスゾーン、ヴァイオリン協奏曲ホ短調 の編曲だ。フルートソロ用に編曲(メンデルスゾーンが編曲したものではない)されている曲だ。その第一楽章。

「これを、私がソロで?」
「そうじゃ」
「でも…」
「練習してきていると思ったのじゃが、記憶違いかの?」

私を見て笑う。確かにこの編曲は習っている。それも必要以上に。
読めた。読めたぞ。私はガド爺の長い時間の策略の中、動かされていたんだ。

「練習してます。大丈夫です」
「そうじゃろ。ちゃんと伴奏も加えてあげるから」
「って、ガド爺!」
「な~んじゃ?」

大笑いのガド爺を見て気づく。
しっかり私以外の場所で話は出来上がっていたんだな。いやいや、私とクラウス以外って事か。

「あ~! ガド爺、ダメだよ。私、こんな服」

慌てて椅子から立ち上がって自分の格好を見る。パーティドレスだけど、演奏会用にしては地味すぎる。

「大丈夫じゃ。格好で音が変わる訳じゃない」
「そうだけど、大勢の観客の前なのに」
「大丈夫じゃ。それに、これを成功させたら祥子にプレゼントをあげられる」
「プレゼント?」
「内緒じゃ。シドも祥子には内緒じゃぞ」

ガド爺が指を立ててシドに念を押した。シドが私を見て笑う。

「はいはい。ガド爺にも困ったもんだ」
「さて、ワシは最後の仕事…じゃないな、もうひとつこなしてこなきゃの。祥子はシドに部屋へ連れていってもらいなさい。そこで調律しておくのじゃ。呼びにいかせるからの」
「…はい」

ガド爺と一緒に部屋を出る。私はシドに連れられて楽屋に向かう。歩きながら気になる事があって聞いてみる。

「あの…シドさん」
「シドでいいよ」
「はい。あの、貴重品はどうしたらいいんでしょうか?」
「セーフティボックスに行こう」
「はい」

ロッカーが立ち並んでる部屋に入る。開いてる場所をシドが見つけてくれた。

「ここにどうぞ」
「ありがとう」

使い方を教わって、バッグを入れた。ロックされた音を聞いて「もう逃げられない」感じに襲われた。
楽屋に戻る。小部屋のひとつに通された。

「ここで練習するといい」
「ありがとうございます」
「時間になったら呼びますから」
「はい」

小部屋の戸が閉められた。
舞台では、ショスタコービッチ 交響曲10番 が始まっている。
建物全体が演奏で一杯になっているのに、ここだけは静かすぎる気がする。

机にフルートケースを置いて椅子に座る。ため息と一緒にだ。

「病み上がりだってのに」

フルートを組み立てる。淡い紫色の硝子のフルート。傷がつきづらくするコーティングがされている。内側の傷は致命傷になるから、手入れは慎重に行ってきている。

 カチャ…カチャ……カタカタカタ

指が震えだす。

「ヤバイ。突然だから…あっ!」

危うく落とすトコだった。タオルの上にフルートを置き、私は椅子の背にもたれ掛かる。指の震えが止らない。
ガド爺から受け取った楽譜を眺める事にする。楽器編成に注目する。

「ガド爺ったら、最少数で指示してる」

各パートの名前が記されてる。征司はもちろん、エリックもミリファも名前が載っている。それでも各パートは一人か二人。否応(いやおう)無しにソロがメインと言っている。
細かい指示が書かれている。情景にいたっては私が持ってるままでいいようだ。所々、表現の強弱でチェックがされていた。

「だめだ。震えが止らない」

それでも音を出しておかなきゃ。昨日は一度も触っていない。

 ♪・・・

大慌て。音が保てない。…どうしよう。

さっき聴いてた音が私を萎縮させているんだ。聴いてる時は気楽に一緒に奏でたいなんて思っていたのに。いざ、その思いが叶えられると、自分の軽率な思いを恥じている。この楽団の足元にも及ばない。
それでも逃げられない。これはガド爺が仕組んだ大きなチャンスなんだ。
だけど不安が襲う。

初めての気持ちだ。いつもは公演が決って練習して、顔合わせしてリハして、緊張と言っても自分の中を落ち着かせるためのものだった。曲も頭に入っていて、全て受け止めた上での緊張だった。
今はいきなり投げられたボールを打ち返す状態なんだ。心構えも何も出来ていない。
曲は大丈夫だけど、リハはしていない。どうやって私の音に合わせてくるのだろう。それが分からないから怖い。

「とにかく音階」

 ♪~♪~♪~♪~

何度も吹いていくうちに音が保てるようになってきた。
譜面をなぞっていく。情景を織り込んで………いける。

(うっ!)

ギョッとした。視線にブレスレットが入ってきたからだ。そして、マニキュアの色。ピンクなのに毒々しく眼に映る。
ブレスレットを外す。そして、マニキュア…爪で擦ってみる。()がれるけど、これじゃ時間がいくらあっても間に合わない。
除光液なんて持って来てない。そんなの持参してるほうが変だ。
でも、除光液だ。必要なのは除光液。

小部屋の戸を勢いよく開けたら、シドが傍の椅子に座っていた。シドが飛び出してきた私を見る。シドが居る事に驚いてる私と視線が合う。

何でここに? 見張ってたんだろうか? あ。

「もう、時間ですか?(マズイよ)」

慌てている私の口早な質問にシドが時計を見て答える。

「まだ」

それを聞いてホッとしたけど、それよりも除光液だ。
部屋を飛び出したのは除光液がどこかにないか…どうしようとしてたんだ?
他の人の荷物を漁るなんて出来ないじゃない。

あ。クロークに居た女性なら! もしかしたら、買いに行けるかもしれない!

「どうしました?」
「えっ?」

びっくりした。シドが居たんだった。大急ぎでシドに説明しなきゃ。シドに言っても意味なさそうだけど、突然出て行ったなんて、逃げ出したみたく思われちゃう。

「シド。私、除光液欲しくて」
「除光液?」

男性だから何するものか通じてない。私は手を見せて爪を指さす。

「マニキュアを落としたいの」
「あぁ。マニキュアを落とすのに必要なのか」

シドが笑って立ち上がった。

「シド?」
「ついて来て」
「えっ? は、はいっ!」

楽屋を出て小さい部屋に入って行く。シドが電気を付けた。部屋の中は箱や物がゴチャゴチャと置かれている。

「座ってて」
「はい」

近くにあった椅子に座って待っていると、シドが箱を持って来た。

「この中に入っているから使うといい」
「 ? 」

箱を開けると、中から化粧品の香りが立ち昇った。ファンデーションやマスカラ等が一杯入っている。

「シド、これは?」
「忘れ物ですよ。ここは歌劇も公演するからよく忘れていく子がいるんだ。お目当ての物もある筈です」

除光液を見つけ出す。

「勝手に使っちゃっていいんですか?」
「化粧品は滅多に探しにこないからね。ほとんどは処分されちゃうんですよ。だから、いいんじゃないかな。人助けだしね」
「じゃぁ、遠慮なく(良かった)」
「どうぞ」

マニキュアを落としていたら、シドが聞いてくる。

「マニキュアしてたほうがいいんじゃないですか?」
「私、色が視界に入ると気が散っちゃうんですよ。それに、演奏してるのを見られてて、マニキュアの色が浮いてたら興ざめでしょ」

そう答えたらシドが笑った。

「演奏家にしては珍しいね。服は気にするのにね」
「それは別の話です」
「そう」

変な(こだわ)りなのかもしれない。シドの笑いが収まらない。もしかして笑い上戸?

「そんなに笑わないでくださいよ」
「おっと。失礼」

笑い声は止ったけど、顔は笑っている。シドが箱の中に手を突っ込んで何かを取り出した。

「これならつけれませんか?」

透明なマニキュアの瓶を私に手渡す。

「ありがとうございます」

ゆっくりとマニキュアを塗っていく。シドは私の横で笑いながら見ている。
マニキュアが乾いたのを確認する。

「シド。助かりました」
「それは良かった。じゃ、戻りましょうか」

楽屋に戻りながら、シドが横で言う。

「祥子は私に助けたお礼をしてくれますよね?」
「えっ? お、お礼?」
「そう」

シドが私を見る。これって、ギブ アンド テイク? 助けたらお礼って? でも、何したらいいんだ? こんな些細な事のお礼って何? 「ありがとう」だけじゃいけない? じゃ、それ相当のお金?

シドが大笑いになる。

「冗談ですよ。冗談。考え込まないで下さい」
「じょ、冗談?」
「はい。冗談です」

頭の中が変なフル回転させられて一気に力が抜けていった。

「シド…冗談きついですよ」
「そこまで本気で考え込むとは思いませんでした。外国の方は楽しい反応をして下さる」
「もしかして私、遊ばれた?」

大笑いしているシドが両手を頭の後ろに持って行き、指を組んで頭を抱える。

「祥子には演奏後にコーヒーでも付き合って貰いましょうか」
「コーヒーですか?」
「食事のほうがいいですか?」
「い、いや。食事じゃなくてコーヒーでいいです」

演奏終ったら、速攻で帰ろうと思ってたのが見透かされたんだろう。シドが付け足す。

「まぁ、嫌でも私とコーヒーを飲む事になりますから」
「 ? 」
「では、またすぐ後で」

そう言って、シドは開けっ放しだった小部屋の戸を閉めた。私は何が起ころうとも、もう驚かない気がしてる。
なるようになれだ。

机の上の譜面を拾い上げる。

 ♪~♪~♪~♪~

自然と鼻歌になっている。
第一楽章。その中でソロの部分は、ってソロ用の編曲だった。
情景の擦りこみに入る。ガド爺の棒のイメージを合わせていく。ガド爺の細かな指示のイメージを思い出す。時折「激しさ」が「情熱的に」なんて伝えてくるんだ。それを見落としちゃいけない。
私の出番はもうそろそろだ。
緊張の波が襲ってくる。寄せては返す緊張の波だ。



戸がノックされシドが顔を出す。

「祥子、そろそろ出番です」
「はい」

ここに笑って戻って来たい。そんな事を思って戸を閉めた。
フルートを持っている手が震えているのに気づいたシドが声を掛けてくる。

「皆、同じですよ。各パートトップ奏者もそうですが、皆、祥子と同じように緊張して舞台に上がります」
「そ、そうですか」
「征司ですら最初はガチガチに固まってたからね。今でも緊張しているみたいだけど」
「そう」

征司と比べられても困る。キャリアの差を考慮して欲しい。
舞台袖(ぶたいそで)に来る。
演奏が続いている。この演奏を心置きなく観客として聴いていたかった。

「祥子」
「は、はいっ!」

やっぱり緊張してる。シドに声を掛けられて飛び上がってしまった。

「私、硝子のフルート初めて見ました。そこからあの音が出てくるなんて思いませんでした。祥子の奏でる音はここの楽団員ですら舌を巻くと思いますよ。だから自信持って」
「ありがとうございます。あ、シド」
「何ですか?」
「私の格好、可笑しくないですか?」
「大丈夫ですよ」
「ありがとう」

拍手喝采が耳に入って来た。舞台に視線を飛ばす。ガド爺が大きな花束を受け取っている。拍手を受けながら、ガド爺が私の居る場所に来る。私が待機しているのを見て、花束をシドに渡してから私の前に来る。

「祥子、ワシが紹介してから出ておいで。シド、祥子を頼むぞ」
「はい」

観客からは手拍子が鳴り響いている。ガド爺が舞台に向かおうとして、一瞬立ち止まって鋭くブルッと頭を振った。

「さて、行くぞ」

ガド爺が踏み出した瞬間、拍手に変わる。

照明が少し落とされて、ガド爺にスポットライトが当たる。指揮台に上らないでガド爺はマイクを持った。会場が静まる。ガド爺が喋り出す。
私には分からない。ドイツ語で紹介されても困る。横に居るシドを見たら

「大丈夫。私が教えますよ」

そう言って笑った。



「本日お越しくださった皆様に、ひとつお願いがあるのじゃ。ワシのワガママをきいて欲しいんじゃ」

会場がざわついた。

「ここ最近、新聞を賑わしているフルート奏者をご存知だと思う。皆様程の耳の持ち主であられれば、あのフルートの音を聴いてみたいと思わんか?」

どこからか拍手が沸き起こる。

「ワシが見つけて育て上げたら、あんなに成長してくれた。皆様の中で既に聴かれた方もいらっしゃる事と思う」

拍手が大きくなってくる。

「今日、ワシの(まと)める音を聴きに来てくれたのを捕まえてあるのじゃ。どうじゃろ。皆様でワシの保護下から巣立ちさせてやってくれんかの?」

拍手が手拍子になる。承諾された。

「では、カーテンコールとして、皆様のお時間を少し拝借いたしますぞ。ミス 祥子・苅谷の音を皆様に」

ガド爺がマイクを置いたのを見て、シドが私の肩を叩いた。

「祥子。出番だ。行って」
「は、はい」

スポットライトが私に当たる。眩しい。慣れているのに眩しい。ガド爺の横に譜面台が用意されている。そこに向かって歩く。
拍手が向けられている。拍手が誰に向けられているなんて関係ない。
私は、ここで失敗は出来ないって実感させられている。楽団員の視線が刺すように襲ってきている。観客の視線よりも怖い。
それでも、観客に頭を下げて、ガド爺に頭を下げて、楽団員に向かって頭を下げなくちゃ。それが礼儀。

笑えない。

それでも、拍手が贈られてくる。
フルートを椅子に置いて、楽譜を並べていく。
拍手が小さくなって、観客が私の動作を逃さずに見ている気がしてきた。指が上手く動かない。
横のガド爺が笑う。

「祥子、緊張じゃの」
「そうです」

小声で交わす。並べ終えて観客を見た。初めて直視した。

(こんなに広い)

この劇場の広さに驚いていた。この広さに詰め込まれている観客は何人居るんだろう。
VIP席が眼に入る。私が座っていた席だけが空いている。両脇のお嬢様達は、その空いた席を見てから正面の私を見て何か言っているのかもしれない。私の後ろに座っていた、品の良いご夫婦の奥様のほうが、両手を合わせているのに気がついた。

椅子に置いてあるフルートを持つ。この椅子が用意されてても座る為じゃないのを知っている。
いつもの様にリッププレートをハンカチで拭いてから、ハンカチを譜面台に置いた。
それでも、いつもの様に吹き出す事ができない。

 ♪
(えっ?!)

バイオリンの音が一音短く響いた。征司のA(ラ)の音だ。直ぐにオーボエがAを引き継ぐと、征司が再度Aを弾いた。他の楽器が加わっていく。
調律(チューニング)だ。ここの楽団の音はこんなだよ、と教えてくれている。
私もそれに合わせてAを吹く。
観客席が薄暗くなる。

ガド爺を見る。「行くぞ」そうガド爺が言っている。眼で答えると、ガド爺の腕がしなる。

 メンデルスゾーン、ヴァイオリン協奏曲ホ短調 フルート編曲

ガド爺の指揮が「祥子主体に」と指示を出した。私のソロに合わせて、それを潰さないように他の音が控えている。
ガド爺の一振りが私と楽団の音を纏め上げている。奏でているのが楽しくもあり、気持ちいい。

(あっ)

 バサッ

ガド爺の勢いで、私の楽譜が飛び散った。ヒラヒラと楽譜が舞っていく。
曲は覚えているが、細かい指示が分からなくなった。

ガド爺に注目していかなきゃ。

ガド爺がすまなそうな表情を一瞬出してから、私に細かく指示を出していく。私にだけじゃないから、その指示がどこに向かっているのかまで読みとらなきゃならない。

それでも奏でているのが楽しい。

征司の音が耳に入る。一緒に響いてる。ミリファの音とも反発せずに重複している様に響く。エリックのチェロの音が丁寧に重なり合っている。骨董品店で磨き上げられた木のテーブルに、グラスが乗っかっている。そんな情景が浮かび上がった。

(ん?)

ガド爺の指が私に指示をだしている。最初のソロに戻ると言っている。了解のサインを出したら、今度は征司に指示を出している。
第一楽章を終えて、全ての音が静まってから、ガド爺の棒が動いた。

(えっ?! えぇ~!)

ヴァイオリン協奏曲ホ短調 のオリジナルだ。征司が正統(せいとう)な楽譜でソロを弾いてくる。

(ソロが二つで不協和音になっちゃう!)

最悪な事に無伴奏にされてる。
ガド爺からの指示がピタッと止んだ。楽しそうに棒を振っている。

つまり、この状況を生かすも殺すも私次第って事だ。

征司は譜面通りに奏でてきている。私のは編曲という事もあって、多少、音程や調子が異なってくる。征司と同じメロディーを吹くか、編曲のまま吹いていくか、伴奏本来のフルートパートにするか、それを決断しなくてはならなくなった。
無伴奏だから、伴奏に回ったとしてもそれじゃ駄目だ。伴奏が物足りなくなってしまう。征司のソロを殺してしまう。
征司と同じメロディーもバイオリンだから出来る箇所がある。
練習していた時に原曲との違いを叩き込まれたのを思い出す。
編曲のまま、征司に合わせて所々変えていくしか道がない。

そう決めたら突き進んでいくしかない。征司の音を捉えるのに集中する。
征司の音が優しく響いてくる。異なる音質なのに惹かれあっている。この感じ、覚えがある。
私の音が惹きたてられている。なら、私も征司の音を。

 ♪~♪~♪~♪

ガド爺が嬉しそうに、棒をゆっくり止める。

静寂が訪れて直ぐに拍手が沸き起こった。
征司が立ち上がって私の手をとり軽く()げると、大喝采に変わった。


- #7 F I N -





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