#29 贈り物 <エリック視点>

文字数 5,097文字

 当機は悪天候の為離陸を見合わせております

ローマのフィミチーノ空港を昼前に飛び立つ筈の飛行機が飛べないでいた。
ウィーン迄1時間半なのに、飛んでしまえば直ぐ着くウィーンが遠い。

「飛ばないなんて事はないだろうね」

客室乗務員に詰め寄ってる人が居る。
俺だってそう言いたい。だけど、こればかりはどうしようもない。

「チケットをエリックの小部屋の戸に付けておくからね」
「1時半にはウィ-ンに着くから大丈夫。聴きに行くよ」

もう1時は過ぎている。

祥子の音を聴きたい。この状況が良くなるのなら何度でも願おう。

 当機はまもなく離陸体勢に入ります

2時を過ぎてからの離陸になった。なんとかギリギリかもしれない。
飛んでしまえば焦ってもしょうがない。運がいいか悪いかだけだ。



座席に座って思い起こしていた。

祥子と離れて3週間位。その間、通話でやりとりをしていた。でも、毎日じゃなかったのが不思議だった。
祥子は気にならないのだろうか。離れていて。
日本人はそういう付き合いかたなのか?
遠慮してるのか? 最初の祥子はそうだったが。

通話の内容も甘くない。
祥子は俺に演奏上の不安を伝えてくる。壁に突き当たってるのは分かる。何とかしようと必死になってるのは分かる。俺を頼ってくれるのは嬉しい。祥子にとって俺は対等であるのが分かる。そのほうがいい。

だけど、女性って甘い言葉が欲しいんじゃないのか?
祥子相手じゃないが、毎回言ってた時を思い出した。そんな事もあったって話だ。

「でも…こんな時だからエリックに傍に居て欲しいのよ…。あっ、今のは無し。…ごめんなさい。仕事だから分かってる。私だって同じなのに」

何度目かで、こんな言葉が祥子の口から出てきて、俺は初めて気づく。
お互いに負担にならないように、祥子は我慢しているんだ。
祥子も俺も忙しくて、それどころじゃない時だってある。「電話しなくちゃいけない」にならないように。そうしないように我慢しているんだ。

「遠慮しなくていいんだよ」
「うん。ありがとう」

祥子だって同じ人間だ。恋愛感情だって同じなんだ。まだお互い手探り状態なのかもしれない。
「好き」も「愛してる」も出てこない。だけど、祥子と俺は近づいている。そう思う。



ウィーンに戻って来て、家に戻る時間が無くて、そのまま練習所に向かう。急いでるのに道は混雑している。このぶんだと開演時間には間に合わないだろう。

俺の小部屋の戸にチケットが貼ってあった。

荷物を自分の小部屋に置いて、着替えなきゃならない。オペラを見に行くのにラフな格好では行けない。最近はラフな格好の人もいるが、音楽に(たずさ)わっている以上、伝統は守る。

大急ぎで練習所を出た。開演時間はとうに過ぎている。地下鉄に乗り、公演してる劇場迄が遠い。

「もうカーテンコールですよ」
「いいんだ」

係の人が「今頃来てる」なんて(あき)れているのはほっといて、チケットを見せ劇場に飛び込んだ。
聴けなかったのは仕方がない。だけど、まだ祥子が居るのなら、俺が来た事を知らせたい。
大喝采が外に漏れている。拍手が続いている。

(終わりか)

ホールの扉を開けたら、拍手が一瞬大きくなった気がした。誰かが舞台中央に歩いてくる。二人だ。

「祥子」

アーチャーさんの後ろに祥子が歩いている。中央に譜面台が置いてあるのが眼に入った。

「席にご案内しましょうか?」

会場案内人が声を掛けてきた。

「いい。ここでいい」

移動してたら祥子の音に集中出来ない。

 ♪♪♪♪♪♪♪~

祥子の音とアーチャーさんの声が響いてくる。俺は祥子の音を聴き漏らす事がないように集中する。

声の為の音。声を惹き立てる音。…完璧だ。
後半、祥子の音はアーチャーさんの声の情景に合わせて奏で始めた。
ふたつの異なったモノが、同じ情景で届いてくる。…切ない。切なさが伝わってくる。

観客が帰っていく雑踏の中、俺は立ち尽くしていた。気がついたら片付けが始まってる。
俺は、祥子が贈ってくれた俺の居るべき席に向かっている。腰を下ろした。

祥子の音が耳から離れない。

(祥子…君って人は…どこまで伸びるのだろう)

足音が耳に入って来た。顔を上げたら、祥子が眼に飛び込んできた。驚いた顔で俺に向かってくる。

俺は遅れた事を謝った。そして最後の音を聴いて感動した事を伝えた。
祥子の嬉しそうな顔が俺に近づいてきた。そのまま軽く唇が重なった。

ひとけのある場所で祥子からキスを受けて、俺は嬉しくなっている。
祥子の噂はもう消えているが、祥子から公の場でキスをしてくる事は無かった。
唇が離れて祥子が行ってしまうのが惜しくて、俺は祥子の頭に手を添える。
ゆっくり祥子の頭を引き寄せた。祥子の頬が俺の首に当たる。

「お帰りなさい」

祥子の声が耳元でする。

「ただいま」

「荷物取ってくるわ。嬉しくて、驚いて、下の席に置いてきちゃった」

ゆっくり離れた祥子は、クルリと背中を向けて今来た通路を駆け下りて行く。
ちらりと見えた横顔が笑っていた。



俺達は劇場を後にして皆が待ってる店に行く。
ヘンリーが俺達に気づき、皆に教え、口を開く。

「エリックと合えたのか。祥子、良かったな」
「うん。カーテンコールに間に合ったんだって」

祥子が嬉しそうに言ってくれた。

「なら、俺達と一緒に楽屋に来れば…あ、たたた…」

ヘンリーがエドナに耳を(つま)まれてる。ヘンリーはエドナに弱いみたいだ。

「ヘンリーったら、そんな野暮な事言わないの」
「そか。ほら、二人共座って。エリックもお疲れさん。どうしたんだ? 飛行機遅れたのか?」

祥子を先に座らせる。

「天気が悪くて機内で待たされた」
「そりゃ大変だったな。でも、祥子とアーチャーさんのが聴けたのは良かったな」
「あぁ。劇場に入るのに呆れられてたけどな」

「そりゃそうよ。オペラのチケットでオペラは終わってたんだものね」
「何をしにきたんだ~ってトコよね」

ミリファが言うと、エドナが付け足して、それを聞いた皆で笑った。

和やかにお皿が空けられ、グラスが空けられ、時間が過ぎていった。
祥子が隣で隠すように、静かに欠伸(あくび)をした。

「祥子、疲れたみたいだね。先に帰るかい?」
「大丈夫。ちょっと酔っ払っただけだから。今回、緊張が続いてたから」

そういい終えて直ぐに、下を向いて口元を隠した。

「先に帰ろう。送っていくから」
「…うん」

欠伸で涙が出たのか、祥子は目尻に指を滑らした。
征司達に言って、祥子と俺は先に店を出た。

「祥子、タクシーで送ってく。俺の荷物もあるから」
「うん」

タクシーを拾い、練習所に寄って貰う。そこで、俺の荷物を積み込んだ。
座席に着いて、祥子の家に行くのを告げようとしたら、祥子が言った。

「エリックの荷物を先に置いてきて」
「え?」
「まだ時間早いし、少し話したい」
「俺も話したい事が沢山ある」

タクシーは俺の家に向かった。
荷物を置いて、俺は…期待してるのかもしれない。急いで明日の準備もしている。

「これを忘れちゃいけないな。祥子に渡さなきゃ」

タクシーに戻った俺を見て祥子が言う。

「荷物?」
「祥子にお土産があるんだ。あとのお楽しみ」
「嬉しいわ」

そう言う祥子は花束に埋まっている。

祥子の家に上げて貰った。久々でそんな感じを受けた。部屋に光が灯り、祥子はラジオのスイッチを入れた。ボリュームを小さくした。

「気力がなかったから掃除出来なかったの。だから隅っこは見ないでね」
「見なかった事にするよ」
「ありがとう。花束は、今日はここね」

大きなバケツを持って来て入れた。

エドナの影響なのか祥子の家にもお酒が常備されてる。トン、とワインが置かれる。

「エリックはイタリアワイン三昧だったんでしょ」
「そうだな。食事にはワインだった」
「この家では日本産のワインよ」
「ここでしか飲めない味だ」

俺もその味に慣れてきてる。初めは薄い気がしたが、物によってはどこの物より美味く感じる一本に出会える事があった。祥子は味に詳しくないから、偶然買ったのが美味しい物だったって話なんだけど。

「お帰りなさい」
「ただいま」

グラスを合わせた。向かいの祥子が嬉しそうに俺を見た。

「そうだ。お土産だ。気に入るといいんだけど」

祥子の前に箱を置く。

「ありがとう。早速、あけちゃお」

ペリペリと包装紙を剥がしていく。
箱の蓋を開けて、祥子は小さく声を上げた。箱から出して、自分の前に置いた。
表面の模様を確かめるように、掌を滑らせる。それからゆっくり開けた。

「エリック、ありがとう。こんなに素敵な物、使えないよ。飾っておきたい位」
「飾ってちゃ折角の物が台無しさ」
「持ち手にも模様が入ってるのね。私の名前迄刻印してある」
「祥子がこのケースの持ち主になるからね」
「こんな素敵な贈り物、初めてよ」
「気に入ってくれて嬉しいよ」
「使うのが勿体無い気がする」
「使って欲しい。さあ」

祥子がフルートケースを持ってくる。並べて置いて、ケースを開けた。何時間か前に吹いていたフルートが入っている。それを俺が贈ったフルートケースに移し変えた。

「それは?」
「内緒」

ニコリと笑って、祥子は封筒も一緒に移し変えた。

「ベルベットなのかしら。凄く品があるわ」

ケースの内側に指を滑らせて言ってから、何かを思い出したように表情が曇った。

「このフルート安物なのよ。ケースにつり合わないわ」
「このフルートで祥子、君はここに居るんだよ」
「これ、高校の時に買った一番安い物なのよ」
「じゃぁ、このフルートは年代物なんだね。祥子の中の骨董品だ」

祥子がふきだして笑う。

「そうね。私の骨董品よ」
「値段なんかつけられないだろ?」
「そう。うん。そうよ。値段なんかどうでもいいのね」
「このフルートが安い物だったとしても、祥子が最高の音を出せる物、祥子の大事な物なら入れて欲しい」
「うん」
「値段が一流の物を入れる為にこれを選んだんじゃないんだ」
「どうもありがとう」

祥子がゆっくりケースの蓋を閉じた。

「鍵もかけれるのね」

そう言ってダイヤルロックを設定した。
新しいケースをいつもの場所に置き、古いほうを箱に入れて寝室に持っていった。

「エリックにお礼ね」

そう言って眼の前に差し出されたのは、アーチャーさんのサイン入りの写真。
俺は飛び上がってしまった。アーチャーさんの満面の笑顔の写真なんて、雑誌ですら見た事が無い。

「祥子、凄いよ。この写真は?」
「私が撮ったの。ミリファと征司も同じ様に驚いたわよ」

祥子がそう言って笑った。

「だって、こんな笑ってるのなんか」
「お陰で今日の最後を吹く事になったのよ」
「え?」
「写真が前払いだったのよ。更に、もうあげたのなら、舞台の上で吹いてって言われたのよ。ミリファにあげた後だったから何も言えなかったのよ」

祥子の騙されちゃった、という表情に可笑しくなってしまった。

「私ってはめられちゃう人間なのかしら」
「祥子は認められているからだよ」
「人生ビックリ箱、なんて嫌よ」
「それもまた一興さ」

祥子がもう一枚俺に見せる。アーチャーさんとのツーショットだ。これもアーチャーさんは嬉しそうに笑ってる。

「祥子。もしかすると、アーチャーさんは他にまだ企んでるかもしれないよ」
「どうして?」
「そんな気がする。こんなに嬉しそうなアーチャーさんだ」
「アーチャーさんてそんな堅物だったんだ。品のいいジェントルマンに映ったんだけど」
「写真に関してはね」
「ん?」
「写真はばら撒かれるから嫌いだ、って雑誌に書かれてたんだよ。有名な写真嫌い」
「征司もそんな事言ってたけど、気軽に「いいですよ」って言われて撮ったのよ」
「だから他にも何か企んでる気がしたんだ」
「それ聞いちゃ、そうね。あ。今度イギリスに招待するって言ってた」
「その時、アーチャーさんが仕掛けてくるね」
「やだなぁ」

ツーショットの写真を置き、祥子はため息をついた。

「祥子、君はどんどん有名になっていくね」
「エリック程じゃないわ。私は卵から出たばかりのヒヨコよ。いつも緊張してる。それに、私はエリックのほうが羨ましい」
「どうして?」
「弦楽器のほうが他と合わせやすいし、そういう機会が沢山あるでしょ」
「フルートだって増えてきてるさ」
「でも、たまに思うのよ。弦楽器でここに来てたら良かったなって」
「そう?」
「うん。エリックの音を聴いてると特にそう思うの」
「ありがとう。あ…そろそろ」

時間を気にしない様にしていたけど、ラジオから時報が届く。
祥子が俺を見て、意味が分かった様に視線をテーブルに落とした。少し間が空いた。
ゆっくり祥子の手がワインに伸ばされた。俺のグラスに注いでいく。
自分のグラスにも。

「…泊まっていって」
「あぁ」

ゆっくり夜は過ぎていく。

「祥子…それズルイよ」

今日の最後に俺が呟いた言葉だ。



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