#20-2 娼婦 <祥子視点>

文字数 8,649文字

「あっ、そうだ。私、この後モーツアルトがあったんだ」

カルシーニの名前が浮かび上がって思い出した。
あのおじさんに鼻で笑われるのは(くや)しいけど、今日はこうするしかない。
楽譜を持って。筆記用具持って。飲み物持って。
堂々と練習に参加してやる。

昨日使った練習室の前で深呼吸。

(よし。レッツゴー!)

戸を開けたら部屋の中にカルシーニは居ない。気合がそがれた。
中では征司とエリックが座って調律中。私が入って行くと同時に顔を上げた。エリックが最初に声をかけてくれる。

「祥子、お帰り」
「エリック、ただいま。私の居ない間、エリックに迷惑かけてたね。ごめんなさい」
「いいんだ」
「征司にも迷惑かかってたね。ごめんなさい」
「俺のほうは大丈夫。祥子のほうこそ滅入(めい)ってないかって心配してたんだ」
「私は大丈夫。征司からミリファを横取りしちゃってるから」
「いつでもどうぞ。ミリファも喜んでたから」
「そう?」
「あぁ。一緒に買い物行けるって喜んでた」
「それは嬉しいわ」

ひとつ離れてる椅子に座って楽譜を広げる。

「祥子、フルートは?」

エリックが私のフルートを眼で探している。

「フルート?」
「そうだよ。肝心な楽器がなきゃ駄目じゃないか」

忘れてきてると思っているのだろう。

「今日はいいの。今日は弦楽器の音を聴きにきたの」
「えっ?」

驚いてるエリックを他所に、征司が厳しい顔で私を見る。

「祥子。カルシーニの来る練習なのに、そんな事でいいのか?」
「いいのよ」
「祥子!」

征司が怒っているけど、今日はそう決めたんだ。

「昨日、イメージは貰ってるもの。大丈夫よ」

大丈夫じゃないけど、今は吹けない。吹きようがないんだ。だから持ってこなかった。

部屋の戸が開いた。

「良かった。まだカルシーニのオヤジさん来てなかったか」

ヴィオラを持ったヘンリーだ。ヘンリーの顔を見て俳優さんを前にした様に緊張しちゃってる。そんな私に視線を止めたヘンリーが口笛を吹いた。

「おや。最近、雑誌でお見かけする方がいらっしゃる」
「ヘンリー」

征司の声が向けられた。ちらりと征司を見たヘンリーだったが、私の傍に来て顔を寄せた。
その端整な顔立ちを凝視してる私だった。

「夜がお忙しいようで。男なら見境無(みさかいな)しなんだって?」
「えっ?!」

ヘンリーが笑いながら椅子に座る。
突然で文句が言えなかったが、頭に来た。そんなくだらない(うわさ)をネタにするなんて。
ヘンリーの椅子に近づいてる私がいる。
ヴィオラの調律しようと構えたヘンリーが私に気づき動作を止めた。
ヘンリーがしたように顔を寄せる。ヘンリーがたじろいだのが分かる。

「私にだって選ぶ権利はあるのよ。私が選ぶ男は本当の私を…あぁ、そっか!」

私は両手を打ち鳴らしてた。

「そういう事か。そっか。うんうん。ヘンリー、どうもありがとね。何と、そう言う事かぁ」
「はぁ?」
「いいのいいの。でも、ヘンリー、私をなめない事よ」

あ、駄目だ。(にら)もうとして笑っちゃう。ヘンリーは勿論だが、征司とエリックも驚いて私を見てる。

そしてカルシーニが入って来た。

「遅れてすみません。用意して」

私だけ動かないからカルシーニが私を見据(みす)えた。

「祥子、用意して」

英語で言われた。

「すみません。ミスター バッソ。今日はフルート吹きたくないんで、持ってこなかった」
「吹きたくないから持ってこなかった?」
「はい」

カルシーニの顔が少し赤くなった。荒立てちゃいけないな。

「昨日のイメージが出来上がらなかったので、今日は弦楽器の音を聴こうと思ったんです。ミスター バッソの指揮も勉強したかったので」
「あ…そう。なら、そのままで」
「すみません」

落ち着いたようにカルシーニが指揮棒を取り出した。その瞬間、鼻で笑ったのが分かった。こいつには無理だな。そんな事を思ったのだろう。

棒が上がり音が響き渡る。同時に私はレコーダーで録音を始める。弦楽器の音とカルシーニの指示を漏らさず残す為だ。
どうやら三人共、娼婦(しょうふ)に群がる男ってイメージだ。手を差し伸べればついてくる。そんな情景になっていた。
カルシーニの指揮にも注意をはらう。この人、早くする時に天を指すクセがある。こんな微妙なクセを覚えなきゃならない。

ヘンリーのヴィオラの音に集中する。上手い。意外にも優しい音で(ささや)いてくる。この音にあの顔でこられたらヤバイかもしれない。おっと。私情でした。時折ビブラートが生まれてくる。これが甘い囁きになって俺を選べよ。と。

音に性格が出てる。娼婦に群がる男それぞれの個性だ。

征司の音。慎重にそれでも誘いをかけてくる。ゆっくりゆっくり。様子を見てるかと思えば、手を差し伸べてくる。少し戸惑いながらも見ている。それなのにバイオリンの音が主張している。このオンナを手に入れるのは俺だ。と。

エリックの音。どうしてなんだろう。エリックの音は客観的に聴くことが出来ない気がする。好きだ…。こう聴こえてくる。好きだ。俺じゃ駄目か? 俺は君を守ってあげるよ。と。

「では、二日後の同じ時間で」

カルシーニがそう言って部屋を出て行った。



三人の弦楽器の音を耳に残し、私は三人に声を掛けるのも惜しんでさっさと自分の部屋に戻った。部屋の中ではシャンドリーがまだ残って吹いていた。

「シャンドリー、A(ラ)の音が高い。直して」
「はい。練習、終わった?」
「カルシーニが怒った」
「なんで?」
「フルート持ってない」
「あ…」

私の手元にフルートが無いのを見て、(あき)れた様に笑うシャンドリーだった。

「出来ない時は出来ないの」
「度胸ある」
「シャンドリーも頑張ってるね」
「もう帰ります。祥子は?」
「ちょっと練習。じゃ」

自分の小部屋を開けて、レコーダーを再生する。弦楽器の音が響き出す。我慢出来る最大音量にする。今度はひとつずつ。彼等の音をじっくりと聞く。

「成る程ね。カルシーニはこの情景で満足してる訳か。じゃ、私はどうしたらいいか」

最初から聞きなおしてイメージを言葉で書いていく。もう一度、今度は音を小さくして手直しを入れながら聞いていく。

「この感じかなぁ。もう一捻(ひとひね)り欲しいか。でも、時間だ」

今日はミリファと一緒に帰れないから、9時には出る事にしていた。
フルートをしまい、ケースをカバンにしまう。「どこで見られてるか分からないよ」ってミリファに言われたから、少しでも私を誤魔化せるようにだ。カバンを肩にかけて、部屋の電気を消した。
部屋を出て廊下を歩いていたら後ろから声が掛かる。

「これから誰のベッドに帰るのかな?」
「自分のベッドよ」
「誰か待っているのかな?」
「誰もいないわよ」

こんな事言ってくるのはヘンリーだろう。さっき聞いた声と同じだ。私は後ろも見ずに歩いて行く。

「ふ~ん。じゃ、俺とどう?」
「結構です」
「俺、祥子を満足させられるよ。ベッドの中でもね」
「なっ…うっ」

私が文句を言う前に、私の横に並んだヘンリーが私の顔を覗きこんだ。
その顔で…反則だと思う。

「真っ赤になっちゃって」
「からかわないで。私を」
「私をなめないで。だろ? そうだな、舐めたら美味しいのかな。おっと」

ひっぱたこうとした私の手をヘンリーが掴んだ。そのまま手を引っ張って私を引き寄せる。
ヘンリーの空いてる手が私の(あご)を持ち上げた。

「な、何する気よ!」
「何って? キスに決まってるじゃないか」
「彼女がいるんじゃなかった?!」

一瞬動揺したかに見えた。だけだった。

「それが? キスは挨拶でもするだろ」

そう言って、顔を近づけてきた。顎が掴まれてるから…でも、そんなの言い訳にもなりゃしない。
ヘンリーの唇が当たる。ヘンリーが笑った。

「よくかわせたもんだ。娼婦なんてとんでもないってレディだな」
「あ、挨拶だったらそれで充分よ」
(てのひら)じゃなくて頬が良かったんだけど」
「一緒よ」
「で、その俺との間に挟まってる掌をどかしてくれないのかな?」
「両手を離していただけたらね」
「はいはい」

ヘンリーの手が私の手と顎から離された。

「よく出来ました。それから顔も離して下さるかしら」
「仕方無いか」

ヘンリーの顔が離れてから間に入れてた掌を下ろす。

「いつもそんな事してるの?」
「まさか。大切なヒトがいますから」
「なら、冗談にもホドがあるわよ」
「一緒に演奏する女性の本性を見たいって思っちゃいけないかい?」
「いけない」
「娼婦って書かれた女性ってどんなかなと思ってね」
「そんなの鵜呑(うの)みにしないで欲しい」
「そうだね。娼婦にしとくにゃ勿体無い」
「光栄ですわ」

ヘンリーが私を見て笑った。一緒に監視室の前を通る。

「建物の外で私と一緒だと何書かれるかわからないわよ」
「別に構わないさ」
「彼女を悲しませたくないでしょ」
「まぁ。そうだね。でも行き先駅だからどうしようも無いさ」
「あ、そう。じゃ、お先に」

なら、ヘンリーをおいて早足で行くのみだ。
背後から笑い声があがった。



一人で無事に帰れた。家の鍵を掛けて電気点けて気が抜けた。

「お腹すいた。何か食べる物」

冷蔵庫を開いてチーズとクラッカー。外国のスナックだ。日本だったら煎餅か。
椅子に腰掛けて疲れが押し寄せてきた。

 ビー

来客だ。インターフォンを取る。

「はい」
「あ、祥子…あの、シャンドリーです」

たどたどしい英語が聞えてきた。

「あら。どうしたの?」
「お話が…」
「分かったわ。今、下に行くから」

家を出たら、丁度エドナが隣の鍵を開けて自分の家に入るところだった。

「エドナ、お帰りなさい。遅かったのね」
「定期演奏会の準備よ。祥子はお出かけ?」
「違うの。下にシャンドリーが来てて話があるって」
「そう。お休み」
「お休みなさい」

エドナが家に引っ込み、私が階段を下りていく。
玄関の扉を開けようとした時、上から慌てた声が聞えてくる。

「祥子、祥子、待って。開けないで」
「えっ?」

エドナが走って階段を下りてくる。

「シャンドリーって言ったわよね」
「うん」
「どうして来たのか聞いた?」
「話があるって」
「そう。…なら私が出るわ。祥子はここに居て」
「? でも」
「いいから。ここに居るの」
「あ、はい」

エドナが扉を開けた。外にはシャンドリーだけだ。エドナが扉を閉めたから見えなくなった。

暫くしてエドナが戻ってくる。
私を引っ張るように階段を駆け上がった。私の家の戸を開ける。

「お邪魔するわよ」

すぐにエドナが窓辺に寄って外をカーテンの隙間からそっと覗いた。

「あ、あの、エドナ」
「今日の練習で聞きたい事があったんだって」
「帰る前に聞けば良かったのに」
「って言うのは口実よ」
「口実?」
「ほら。あそこに人が居る。カメラ構えてる人がいるわよ。それに、シャンドリーが誰かと話してる」

エドナの指さす方向を見ると確かに人が居た。

「祥子の住所を教えてくれってシャンドリーから電話があったのよ。私が応対してたら教えなかったんだけど、バイトの子だったから」
「…」
「祥子が出てたら、次の雑誌に出てたわね。「早速の情事」ってね」
「…怖いね」
「シャンドリーはランスに使われてたから、もしかすると」
「…」
「祥子、迂闊(うかつ)に出ちゃ駄目よ。今は特にね」
「分かった。気をつけるわ」

シャンドリーはランスに使われていた。私はシャンドリーにも迷惑をかけているんだ。



翌日、シャンドリーは休みだった。
練習を終えて家に戻ったら、玄関に雑誌が立てかけてあった。

 読んでおくといいわ  エドナ

雑誌を持って家に入る。エドナが頁を折り込んでくれてたから、読むべき頁が分かった。

「だけど、ドイツ語」

シャワーを浴びてから辞書片手に調べながら読んでいく。

 戻ってきたシンデレラ
日を早めて戻ってきたシンデレラは密かに自分の家に(こも)る。
これまでの行動を(はじ)ているのかもしれない。尋ねてきた男性にも見向きもしない。

あとはエリックの事や楽団の内情を面白可笑しく書き連ねている。

「ここまででっちあげてると逆に尊敬だな」

大きなため息が出ていった。
さて、こんな噂より、フルートの練習だ。
モーツアルトのイメージが固まったから、あとはバッハのイメージを作るだけだ。

「マーラーとモーツアルトの前よね。聞いて頂戴って感じ」

 ♪~♪♪♪~♪♪~♪

「もうちょっと説得する感じかしら」

 ♪♪♪~♪~~♪



「こんなもんでしょう。では、明後日のリハで」

カルシーニが私を見て鼻で笑う。カチンとくる笑い方なんだけど我慢する。
娼婦のイメージで三人の男を引き寄せていきながら、それを否定していく。
カルシーニの要求には(こた)えている。

(カルシーニのおじさんには後で一泡吹かしてやる)

カルシーニが私の中で悪者になっていた。悪者というよりいじめっ子なんだろうけど。働いてた時の嫌な上司に対する気持ちと同じだ。
確かに今日まで練習所の中でいろんな人に会った。あからさまに嫌な態度をとる人もいた。人の好き嫌いはしょうがない。私にだって苦手な人はいるんだ。

あ、目が合っちゃった。

「祥子、一人でランチなんて寂しいね」

ヘンリーがトレイを持って私の食べているテーブルに近づいてくる。

(ここに来るな~!)

心で叫んだけど、そういう願いって叶わないものだ。私の向かいにトレイを置いて椅子に座る。そして私を見て笑う。
ヘンリーは確かに顔がいい。だけど、苦手だ。顔がいいから何やっても、何言っても許される。そんな感じを受けていたからだ。それに軽い。こういう顔のいい男は気まぐれで、皆に同じように優しさをくれる。困るんだ。その気にさせられて泣くのは嫌だ。
お近づきになるのは演奏してる時だけで充分だ。

(彼女がいるくせに)

自分の前のトレイにはまだパスタが残っている。まだ食べ始めたばかりだから、ここでお昼を終わりに出来ない。
黙々と食べる事にする。
ヘンリーはお構いなしに食べ始める。持って来たパンの切れ目にサラダやハムを突っ込んでる。

「祥子はカルシーニのオヤジさんが嫌いなのかい?」
「えっ?」

的中されて驚いてヘンリーの顔を見てしまった。

「当たりだね」
「…」
「あのオヤジさんはこの楽団が好きだから、名前を汚した事に対して(つぐな)えと言っているだけなんだよ」
「私に償えって?!」
「祥子に償えと言ってる訳じゃない。あのオヤジさんは祥子を毛嫌いしてる訳じゃない。楽団の名前も、その楽団員の祥子も汚されたから、それを仕向けたヤツラに償えと伝えろって事さ」
「償えと伝えろ?」
「そうさ。祥子自身が伝える事になってるけどね」
「そんな事考えてもみなかった。私は娼婦じゃないって噂を取っ払う事だけ…」
「それに償えって付け加えればいい」
「…そう」

フォークでパスタをクルクル巻き取らせながら考える。
償えって付け加える。誰が噂を流したの。私は戦うわよ。何も悪い事なんかしていない。覚悟しときなさいよ。

「祥子、その位で止めとかないと、その可愛い口に入らないよ」
「えっ? あら」

ヘンリーに声を掛けられて気づいて見たら、パスタがグルグル巻きになっていた。

「それ、口に入る?」
「ヘンリー、ちょっとそのパン開けて」
「こうかい?」
「そう。はい」

ヘンリーがパンを開けたところにフォークに巻きついてたパスタを落とした。

「何?」

ヘンリーが驚いてる。このへんじゃパスタをパンに挟むなんて考え付かないのだろうか。

「俺、祥子に悪い事言った?」
「とてもいいアドバイスをくれたからお礼」
「お礼?」
「大丈夫よ。食べれるから」
「そりゃ、そうだけど」

恐る恐るヘンリーがかぶりついた。

「ん。葉っぱがなけりゃいい味だ。トマトはいいけど」
「そうでしょ」

テーブルに近づいてくる人が居た。

「祥子、ちょっと話があるんだけど一緒にいい?」
「あ、エドナ。どうぞ」

私はエドナが来てくれて嬉しかったりする。ヘンリーがピクリと反応したのを見逃していたけど。
エドナがトレイを置いて、ヘンリーを見て何か思い出したようだ。

「ヘンリー、あなた今日遅刻したでしょ。最近目立つわよ。誰かにモーニングコール頼んだら?」
「じゃ、誰に頼もうかな。エドナ、どう?」
「ご指名は嬉しいけど、ノーサンキューよ」
「そっか。毎朝戦いだからなぁ」
「お忙しそうでなによりね」
「いや、俺、そんなんじゃなくて…」

不思議とヘンリーがたじろいでいる。エドナには弱いのかもしれない。そんなエドナは気にも留めずに話題を変える。

「あら。ヘンリーったら面白い食べ方してるのね。それ、美味しいの?」

パンに挟まれたパスタを指さしてエドナが面白そうに聞いた。

「あ、これかい? これ、祥子にやられた。美味しいよ。だけど、葉っぱと一緒はオススメできないな。チーズとトマトなら大丈夫だけど」
「そう」

エドナの視線が私のパスタに飛んだ。

「エドナも試してみる?」
「え、いいの? ありがとう。チーズとトマトね」
「はい。この位で勘弁して。私の分が無くなるから」
「そうね。ありがと」

パスタをパンの間に落としてあげた。エドナが一口かじる。

「うん。いけるわね。こんな食べ方も美味しいのね」
「でも、カロリーいっちゃうわよ」
「そうね。誰かがパスタ選んでる時に貰わなきゃ。フタツ同時には辛いわね」
「うん。いつでも言って」

私とエドナが喋っている間、ヘンリーは口を挟むことなく食べていた。

「そうだ。祥子に話があったのよ」
「私に話?」
「そう」

頷いてエドナはヘンリーに視線をとばす。

「俺、邪魔かな?」
「あ、いいのよ。ヘンリーも知ってる子だから。シャンドリーの事よ」
「シャンドリーってランスの金魚のフンだったヤツか」
「ヘンリーったらそんな言い方良くないわ。彼、ここ辞めるって」
「辞める? どうして? エドナ、理由聞いてる?」
「理由は言わないのよ。「辞めなきゃならないから」ってそればっかりなの」
「今日も休みだけど、来てたの?」
「電話だったわ」
「そうすると、どうなっちゃうの?」
「本人の希望だから受け付ける事になるんだけど。直接手続きしに来るわよ」
「いつ来るって?」
「明日」
「定期演奏会が近づいてるってのに。エドナ、明日シャンドリーが来たら私の所に連絡頂戴。手続きの前に。絶対よ」
「分かった。連絡するわ」

エドナが私を見て頷いた。

「それと、ここの楽団って、楽団員の権利を主張出来るのよね。労働者の権利って言うやつ」
「もちろんよ」
「個人単位でも大丈夫よね?」
「ええ。そりゃ。いざとなれば顧問弁護士だってつけれるわよ」
「ありがたいわ。でも、それなら、私が主張してもいいのよね。あんなガセネタばら撒かれていい迷惑してるんだもの」
「表現の自由ってのもあるのよ。祥子の場合、名誉毀損で裁判できるけど、長引くわよ。出版社相手だと特にね。だけど、祥子にはあんな出版社なんか蹴散らす大物がつきそうよ」
「大物って? あっ」

カノン・ミューラーだ。

「そうだ! エドナ。一番良い席って取れるの? 私」
「大丈夫。あの方達はガド爺経由でいつもの席を贈ってるのよ。でも、驚いたわよ。あの人の口から直接、祥子が指名されたんですから。ん? 祥子?」
「いつも私の知らないところで話が進むのよ」
「次の演奏会で決断するって」
「ええ。分かってる。言われたのよ」

 次の次は無いわよ

カノンの言葉が思い出されてきた。
次で、私は自分の汚名を(ぬぐ)い去り、カノンの力を得なくてはならない。
次しかチャンスはない。

「そんな大物って誰?」

ヘンリーの事忘れてた。私とエドナの話に口を挟むこともせずに聞いてたんだ。

「祥子の老後迄見てくれそうな女性よ」

エドナが笑って名前を隠して言った。

「へぇ。そりゃいいなぁ」
「ヘンリーだって映画界のスポンサーがついてるじゃない。あの綺麗な方が」
「あの人はスポンサー。スポンサーなんだ」

ヘンリーったらやっぱりエドナには弱いみたいだ。
エドナはヘンリーを見て何にも感じないのかな。ちょっと皮肉ってる気がするけど。



カノンを満足させる音の前にフルートパートの音を纏めなくては。
まずはアガシの音を直さなくては。
今日までアガシの音を聴きながら情景の動かし方を考えていた。イメージは載っているんだ。昔の演奏を思い出して貰えれば。

きらきら星 (Twinkle Twinkle Little Star) の譜面をアガシに渡す。

「これ、合わせましょう」
「え? これですか?」
「そう。これ。初心に戻りましょう」
「…はい」
「アガシのイメージはずっと寝ててください」
「寝る?」
「そう。寝れなくなったら起きてください。満点の星空を見上げてください」
「?」
「私が止める迄繰り返しです」
「はい」

 ♪♪♪♪♪♪♪~♪♪

二つの音が流れ出す。日本語訳と英語直訳は違うから、夜だから寝るイメージにする。
譜面通りに曲が流れ始める。アガシのイメージが私の音と合う。静かに眠りについている。

 おやすみ。ゆっくり眠ろう。
 …

繰り返し毎に、私のイメージを変えていく。

 ねえ、外見て。星が出てるよ。
 …
 ねえねえ、起きて。星が綺麗だよ。
 …
 起きて起きて、キラキラしてて綺麗だよ。あ、流れ星が流れたよ。
 …………ぅ

(かたく)なに寝ていたアガシの音がだんだん揺れてきた。

 ほら、早く起きてよ。星があんなに綺麗なのに。
 …う

 何で起きないの? ほら、起きろ~! 起きろ起きろ起きろ~!
 う、うるさい! 起きるからっ!

アガシの音が怒ってる。あともう一息だ。

 やっと起きたね。ほら、あんなに星が綺麗だよ。
 …あ。星…星だね。……綺麗だ。

 空一杯に(またた)いてるよ。
 こんなに綺麗な星空…ずっと見ていたいね。

そこで音を止めた。

「強引だったけど、どうだったかしら?」
「え? あ。スッキリした」
「その感じ忘れないで。もう遠慮せずに情景載せていいから。変になったら私が引っ張るから」
「祥子…ありがとう」


- #20 F I N -





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