#20-2 娼婦 <祥子視点>
文字数 8,649文字
「あっ、そうだ。私、この後モーツアルトがあったんだ」
カルシーニの名前が浮かび上がって思い出した。
あのおじさんに鼻で笑われるのは悔 しいけど、今日はこうするしかない。
楽譜を持って。筆記用具持って。飲み物持って。
堂々と練習に参加してやる。
昨日使った練習室の前で深呼吸。
(よし。レッツゴー!)
戸を開けたら部屋の中にカルシーニは居ない。気合がそがれた。
中では征司とエリックが座って調律中。私が入って行くと同時に顔を上げた。エリックが最初に声をかけてくれる。
「祥子、お帰り」
「エリック、ただいま。私の居ない間、エリックに迷惑かけてたね。ごめんなさい」
「いいんだ」
「征司にも迷惑かかってたね。ごめんなさい」
「俺のほうは大丈夫。祥子のほうこそ滅入 ってないかって心配してたんだ」
「私は大丈夫。征司からミリファを横取りしちゃってるから」
「いつでもどうぞ。ミリファも喜んでたから」
「そう?」
「あぁ。一緒に買い物行けるって喜んでた」
「それは嬉しいわ」
ひとつ離れてる椅子に座って楽譜を広げる。
「祥子、フルートは?」
エリックが私のフルートを眼で探している。
「フルート?」
「そうだよ。肝心な楽器がなきゃ駄目じゃないか」
忘れてきてると思っているのだろう。
「今日はいいの。今日は弦楽器の音を聴きにきたの」
「えっ?」
驚いてるエリックを他所に、征司が厳しい顔で私を見る。
「祥子。カルシーニの来る練習なのに、そんな事でいいのか?」
「いいのよ」
「祥子!」
征司が怒っているけど、今日はそう決めたんだ。
「昨日、イメージは貰ってるもの。大丈夫よ」
大丈夫じゃないけど、今は吹けない。吹きようがないんだ。だから持ってこなかった。
部屋の戸が開いた。
「良かった。まだカルシーニのオヤジさん来てなかったか」
ヴィオラを持ったヘンリーだ。ヘンリーの顔を見て俳優さんを前にした様に緊張しちゃってる。そんな私に視線を止めたヘンリーが口笛を吹いた。
「おや。最近、雑誌でお見かけする方がいらっしゃる」
「ヘンリー」
征司の声が向けられた。ちらりと征司を見たヘンリーだったが、私の傍に来て顔を寄せた。
その端整な顔立ちを凝視してる私だった。
「夜がお忙しいようで。男なら見境無 しなんだって?」
「えっ?!」
ヘンリーが笑いながら椅子に座る。
突然で文句が言えなかったが、頭に来た。そんなくだらない噂 をネタにするなんて。
ヘンリーの椅子に近づいてる私がいる。
ヴィオラの調律しようと構えたヘンリーが私に気づき動作を止めた。
ヘンリーがしたように顔を寄せる。ヘンリーがたじろいだのが分かる。
「私にだって選ぶ権利はあるのよ。私が選ぶ男は本当の私を…あぁ、そっか!」
私は両手を打ち鳴らしてた。
「そういう事か。そっか。うんうん。ヘンリー、どうもありがとね。何と、そう言う事かぁ」
「はぁ?」
「いいのいいの。でも、ヘンリー、私をなめない事よ」
あ、駄目だ。睨 もうとして笑っちゃう。ヘンリーは勿論だが、征司とエリックも驚いて私を見てる。
そしてカルシーニが入って来た。
「遅れてすみません。用意して」
私だけ動かないからカルシーニが私を見据 えた。
「祥子、用意して」
英語で言われた。
「すみません。ミスター バッソ。今日はフルート吹きたくないんで、持ってこなかった」
「吹きたくないから持ってこなかった?」
「はい」
カルシーニの顔が少し赤くなった。荒立てちゃいけないな。
「昨日のイメージが出来上がらなかったので、今日は弦楽器の音を聴こうと思ったんです。ミスター バッソの指揮も勉強したかったので」
「あ…そう。なら、そのままで」
「すみません」
落ち着いたようにカルシーニが指揮棒を取り出した。その瞬間、鼻で笑ったのが分かった。こいつには無理だな。そんな事を思ったのだろう。
棒が上がり音が響き渡る。同時に私はレコーダーで録音を始める。弦楽器の音とカルシーニの指示を漏らさず残す為だ。
どうやら三人共、娼婦 に群がる男ってイメージだ。手を差し伸べればついてくる。そんな情景になっていた。
カルシーニの指揮にも注意をはらう。この人、早くする時に天を指すクセがある。こんな微妙なクセを覚えなきゃならない。
ヘンリーのヴィオラの音に集中する。上手い。意外にも優しい音で囁 いてくる。この音にあの顔でこられたらヤバイかもしれない。おっと。私情でした。時折ビブラートが生まれてくる。これが甘い囁きになって俺を選べよ。と。
音に性格が出てる。娼婦に群がる男それぞれの個性だ。
征司の音。慎重にそれでも誘いをかけてくる。ゆっくりゆっくり。様子を見てるかと思えば、手を差し伸べてくる。少し戸惑いながらも見ている。それなのにバイオリンの音が主張している。このオンナを手に入れるのは俺だ。と。
エリックの音。どうしてなんだろう。エリックの音は客観的に聴くことが出来ない気がする。好きだ…。こう聴こえてくる。好きだ。俺じゃ駄目か? 俺は君を守ってあげるよ。と。
「では、二日後の同じ時間で」
カルシーニがそう言って部屋を出て行った。
☆
三人の弦楽器の音を耳に残し、私は三人に声を掛けるのも惜しんでさっさと自分の部屋に戻った。部屋の中ではシャンドリーがまだ残って吹いていた。
「シャンドリー、A(ラ)の音が高い。直して」
「はい。練習、終わった?」
「カルシーニが怒った」
「なんで?」
「フルート持ってない」
「あ…」
私の手元にフルートが無いのを見て、呆 れた様に笑うシャンドリーだった。
「出来ない時は出来ないの」
「度胸ある」
「シャンドリーも頑張ってるね」
「もう帰ります。祥子は?」
「ちょっと練習。じゃ」
自分の小部屋を開けて、レコーダーを再生する。弦楽器の音が響き出す。我慢出来る最大音量にする。今度はひとつずつ。彼等の音をじっくりと聞く。
「成る程ね。カルシーニはこの情景で満足してる訳か。じゃ、私はどうしたらいいか」
最初から聞きなおしてイメージを言葉で書いていく。もう一度、今度は音を小さくして手直しを入れながら聞いていく。
「この感じかなぁ。もう一捻 り欲しいか。でも、時間だ」
今日はミリファと一緒に帰れないから、9時には出る事にしていた。
フルートをしまい、ケースをカバンにしまう。「どこで見られてるか分からないよ」ってミリファに言われたから、少しでも私を誤魔化せるようにだ。カバンを肩にかけて、部屋の電気を消した。
部屋を出て廊下を歩いていたら後ろから声が掛かる。
「これから誰のベッドに帰るのかな?」
「自分のベッドよ」
「誰か待っているのかな?」
「誰もいないわよ」
こんな事言ってくるのはヘンリーだろう。さっき聞いた声と同じだ。私は後ろも見ずに歩いて行く。
「ふ~ん。じゃ、俺とどう?」
「結構です」
「俺、祥子を満足させられるよ。ベッドの中でもね」
「なっ…うっ」
私が文句を言う前に、私の横に並んだヘンリーが私の顔を覗きこんだ。
その顔で…反則だと思う。
「真っ赤になっちゃって」
「からかわないで。私を」
「私をなめないで。だろ? そうだな、舐めたら美味しいのかな。おっと」
ひっぱたこうとした私の手をヘンリーが掴んだ。そのまま手を引っ張って私を引き寄せる。
ヘンリーの空いてる手が私の顎 を持ち上げた。
「な、何する気よ!」
「何って? キスに決まってるじゃないか」
「彼女がいるんじゃなかった?!」
一瞬動揺したかに見えた。だけだった。
「それが? キスは挨拶でもするだろ」
そう言って、顔を近づけてきた。顎が掴まれてるから…でも、そんなの言い訳にもなりゃしない。
ヘンリーの唇が当たる。ヘンリーが笑った。
「よくかわせたもんだ。娼婦なんてとんでもないってレディだな」
「あ、挨拶だったらそれで充分よ」
「掌 じゃなくて頬が良かったんだけど」
「一緒よ」
「で、その俺との間に挟まってる掌をどかしてくれないのかな?」
「両手を離していただけたらね」
「はいはい」
ヘンリーの手が私の手と顎から離された。
「よく出来ました。それから顔も離して下さるかしら」
「仕方無いか」
ヘンリーの顔が離れてから間に入れてた掌を下ろす。
「いつもそんな事してるの?」
「まさか。大切なヒトがいますから」
「なら、冗談にもホドがあるわよ」
「一緒に演奏する女性の本性を見たいって思っちゃいけないかい?」
「いけない」
「娼婦って書かれた女性ってどんなかなと思ってね」
「そんなの鵜呑 みにしないで欲しい」
「そうだね。娼婦にしとくにゃ勿体無い」
「光栄ですわ」
ヘンリーが私を見て笑った。一緒に監視室の前を通る。
「建物の外で私と一緒だと何書かれるかわからないわよ」
「別に構わないさ」
「彼女を悲しませたくないでしょ」
「まぁ。そうだね。でも行き先駅だからどうしようも無いさ」
「あ、そう。じゃ、お先に」
なら、ヘンリーをおいて早足で行くのみだ。
背後から笑い声があがった。
☆
一人で無事に帰れた。家の鍵を掛けて電気点けて気が抜けた。
「お腹すいた。何か食べる物」
冷蔵庫を開いてチーズとクラッカー。外国のスナックだ。日本だったら煎餅か。
椅子に腰掛けて疲れが押し寄せてきた。
ビー
来客だ。インターフォンを取る。
「はい」
「あ、祥子…あの、シャンドリーです」
たどたどしい英語が聞えてきた。
「あら。どうしたの?」
「お話が…」
「分かったわ。今、下に行くから」
家を出たら、丁度エドナが隣の鍵を開けて自分の家に入るところだった。
「エドナ、お帰りなさい。遅かったのね」
「定期演奏会の準備よ。祥子はお出かけ?」
「違うの。下にシャンドリーが来てて話があるって」
「そう。お休み」
「お休みなさい」
エドナが家に引っ込み、私が階段を下りていく。
玄関の扉を開けようとした時、上から慌てた声が聞えてくる。
「祥子、祥子、待って。開けないで」
「えっ?」
エドナが走って階段を下りてくる。
「シャンドリーって言ったわよね」
「うん」
「どうして来たのか聞いた?」
「話があるって」
「そう。…なら私が出るわ。祥子はここに居て」
「? でも」
「いいから。ここに居るの」
「あ、はい」
エドナが扉を開けた。外にはシャンドリーだけだ。エドナが扉を閉めたから見えなくなった。
暫くしてエドナが戻ってくる。
私を引っ張るように階段を駆け上がった。私の家の戸を開ける。
「お邪魔するわよ」
すぐにエドナが窓辺に寄って外をカーテンの隙間からそっと覗いた。
「あ、あの、エドナ」
「今日の練習で聞きたい事があったんだって」
「帰る前に聞けば良かったのに」
「って言うのは口実よ」
「口実?」
「ほら。あそこに人が居る。カメラ構えてる人がいるわよ。それに、シャンドリーが誰かと話してる」
エドナの指さす方向を見ると確かに人が居た。
「祥子の住所を教えてくれってシャンドリーから電話があったのよ。私が応対してたら教えなかったんだけど、バイトの子だったから」
「…」
「祥子が出てたら、次の雑誌に出てたわね。「早速の情事」ってね」
「…怖いね」
「シャンドリーはランスに使われてたから、もしかすると」
「…」
「祥子、迂闊 に出ちゃ駄目よ。今は特にね」
「分かった。気をつけるわ」
シャンドリーはランスに使われていた。私はシャンドリーにも迷惑をかけているんだ。
☆
翌日、シャンドリーは休みだった。
練習を終えて家に戻ったら、玄関に雑誌が立てかけてあった。
読んでおくといいわ エドナ
雑誌を持って家に入る。エドナが頁を折り込んでくれてたから、読むべき頁が分かった。
「だけど、ドイツ語」
シャワーを浴びてから辞書片手に調べながら読んでいく。
戻ってきたシンデレラ
日を早めて戻ってきたシンデレラは密かに自分の家に籠 る。
これまでの行動を恥 ているのかもしれない。尋ねてきた男性にも見向きもしない。
あとはエリックの事や楽団の内情を面白可笑しく書き連ねている。
「ここまででっちあげてると逆に尊敬だな」
大きなため息が出ていった。
さて、こんな噂より、フルートの練習だ。
モーツアルトのイメージが固まったから、あとはバッハのイメージを作るだけだ。
「マーラーとモーツアルトの前よね。聞いて頂戴って感じ」
♪~♪♪♪~♪♪~♪
「もうちょっと説得する感じかしら」
♪♪♪~♪~~♪
☆
「こんなもんでしょう。では、明後日のリハで」
カルシーニが私を見て鼻で笑う。カチンとくる笑い方なんだけど我慢する。
娼婦のイメージで三人の男を引き寄せていきながら、それを否定していく。
カルシーニの要求には応 えている。
(カルシーニのおじさんには後で一泡吹かしてやる)
カルシーニが私の中で悪者になっていた。悪者というよりいじめっ子なんだろうけど。働いてた時の嫌な上司に対する気持ちと同じだ。
確かに今日まで練習所の中でいろんな人に会った。あからさまに嫌な態度をとる人もいた。人の好き嫌いはしょうがない。私にだって苦手な人はいるんだ。
あ、目が合っちゃった。
「祥子、一人でランチなんて寂しいね」
ヘンリーがトレイを持って私の食べているテーブルに近づいてくる。
(ここに来るな~!)
心で叫んだけど、そういう願いって叶わないものだ。私の向かいにトレイを置いて椅子に座る。そして私を見て笑う。
ヘンリーは確かに顔がいい。だけど、苦手だ。顔がいいから何やっても、何言っても許される。そんな感じを受けていたからだ。それに軽い。こういう顔のいい男は気まぐれで、皆に同じように優しさをくれる。困るんだ。その気にさせられて泣くのは嫌だ。
お近づきになるのは演奏してる時だけで充分だ。
(彼女がいるくせに)
自分の前のトレイにはまだパスタが残っている。まだ食べ始めたばかりだから、ここでお昼を終わりに出来ない。
黙々と食べる事にする。
ヘンリーはお構いなしに食べ始める。持って来たパンの切れ目にサラダやハムを突っ込んでる。
「祥子はカルシーニのオヤジさんが嫌いなのかい?」
「えっ?」
的中されて驚いてヘンリーの顔を見てしまった。
「当たりだね」
「…」
「あのオヤジさんはこの楽団が好きだから、名前を汚した事に対して償 えと言っているだけなんだよ」
「私に償えって?!」
「祥子に償えと言ってる訳じゃない。あのオヤジさんは祥子を毛嫌いしてる訳じゃない。楽団の名前も、その楽団員の祥子も汚されたから、それを仕向けたヤツラに償えと伝えろって事さ」
「償えと伝えろ?」
「そうさ。祥子自身が伝える事になってるけどね」
「そんな事考えてもみなかった。私は娼婦じゃないって噂を取っ払う事だけ…」
「それに償えって付け加えればいい」
「…そう」
フォークでパスタをクルクル巻き取らせながら考える。
償えって付け加える。誰が噂を流したの。私は戦うわよ。何も悪い事なんかしていない。覚悟しときなさいよ。
「祥子、その位で止めとかないと、その可愛い口に入らないよ」
「えっ? あら」
ヘンリーに声を掛けられて気づいて見たら、パスタがグルグル巻きになっていた。
「それ、口に入る?」
「ヘンリー、ちょっとそのパン開けて」
「こうかい?」
「そう。はい」
ヘンリーがパンを開けたところにフォークに巻きついてたパスタを落とした。
「何?」
ヘンリーが驚いてる。このへんじゃパスタをパンに挟むなんて考え付かないのだろうか。
「俺、祥子に悪い事言った?」
「とてもいいアドバイスをくれたからお礼」
「お礼?」
「大丈夫よ。食べれるから」
「そりゃ、そうだけど」
恐る恐るヘンリーがかぶりついた。
「ん。葉っぱがなけりゃいい味だ。トマトはいいけど」
「そうでしょ」
テーブルに近づいてくる人が居た。
「祥子、ちょっと話があるんだけど一緒にいい?」
「あ、エドナ。どうぞ」
私はエドナが来てくれて嬉しかったりする。ヘンリーがピクリと反応したのを見逃していたけど。
エドナがトレイを置いて、ヘンリーを見て何か思い出したようだ。
「ヘンリー、あなた今日遅刻したでしょ。最近目立つわよ。誰かにモーニングコール頼んだら?」
「じゃ、誰に頼もうかな。エドナ、どう?」
「ご指名は嬉しいけど、ノーサンキューよ」
「そっか。毎朝戦いだからなぁ」
「お忙しそうでなによりね」
「いや、俺、そんなんじゃなくて…」
不思議とヘンリーがたじろいでいる。エドナには弱いのかもしれない。そんなエドナは気にも留めずに話題を変える。
「あら。ヘンリーったら面白い食べ方してるのね。それ、美味しいの?」
パンに挟まれたパスタを指さしてエドナが面白そうに聞いた。
「あ、これかい? これ、祥子にやられた。美味しいよ。だけど、葉っぱと一緒はオススメできないな。チーズとトマトなら大丈夫だけど」
「そう」
エドナの視線が私のパスタに飛んだ。
「エドナも試してみる?」
「え、いいの? ありがとう。チーズとトマトね」
「はい。この位で勘弁して。私の分が無くなるから」
「そうね。ありがと」
パスタをパンの間に落としてあげた。エドナが一口かじる。
「うん。いけるわね。こんな食べ方も美味しいのね」
「でも、カロリーいっちゃうわよ」
「そうね。誰かがパスタ選んでる時に貰わなきゃ。フタツ同時には辛いわね」
「うん。いつでも言って」
私とエドナが喋っている間、ヘンリーは口を挟むことなく食べていた。
「そうだ。祥子に話があったのよ」
「私に話?」
「そう」
頷いてエドナはヘンリーに視線をとばす。
「俺、邪魔かな?」
「あ、いいのよ。ヘンリーも知ってる子だから。シャンドリーの事よ」
「シャンドリーってランスの金魚のフンだったヤツか」
「ヘンリーったらそんな言い方良くないわ。彼、ここ辞めるって」
「辞める? どうして? エドナ、理由聞いてる?」
「理由は言わないのよ。「辞めなきゃならないから」ってそればっかりなの」
「今日も休みだけど、来てたの?」
「電話だったわ」
「そうすると、どうなっちゃうの?」
「本人の希望だから受け付ける事になるんだけど。直接手続きしに来るわよ」
「いつ来るって?」
「明日」
「定期演奏会が近づいてるってのに。エドナ、明日シャンドリーが来たら私の所に連絡頂戴。手続きの前に。絶対よ」
「分かった。連絡するわ」
エドナが私を見て頷いた。
「それと、ここの楽団って、楽団員の権利を主張出来るのよね。労働者の権利って言うやつ」
「もちろんよ」
「個人単位でも大丈夫よね?」
「ええ。そりゃ。いざとなれば顧問弁護士だってつけれるわよ」
「ありがたいわ。でも、それなら、私が主張してもいいのよね。あんなガセネタばら撒かれていい迷惑してるんだもの」
「表現の自由ってのもあるのよ。祥子の場合、名誉毀損で裁判できるけど、長引くわよ。出版社相手だと特にね。だけど、祥子にはあんな出版社なんか蹴散らす大物がつきそうよ」
「大物って? あっ」
カノン・ミューラーだ。
「そうだ! エドナ。一番良い席って取れるの? 私」
「大丈夫。あの方達はガド爺経由でいつもの席を贈ってるのよ。でも、驚いたわよ。あの人の口から直接、祥子が指名されたんですから。ん? 祥子?」
「いつも私の知らないところで話が進むのよ」
「次の演奏会で決断するって」
「ええ。分かってる。言われたのよ」
次の次は無いわよ
カノンの言葉が思い出されてきた。
次で、私は自分の汚名を拭 い去り、カノンの力を得なくてはならない。
次しかチャンスはない。
「そんな大物って誰?」
ヘンリーの事忘れてた。私とエドナの話に口を挟むこともせずに聞いてたんだ。
「祥子の老後迄見てくれそうな女性よ」
エドナが笑って名前を隠して言った。
「へぇ。そりゃいいなぁ」
「ヘンリーだって映画界のスポンサーがついてるじゃない。あの綺麗な方が」
「あの人はスポンサー。スポンサーなんだ」
ヘンリーったらやっぱりエドナには弱いみたいだ。
エドナはヘンリーを見て何にも感じないのかな。ちょっと皮肉ってる気がするけど。
☆
カノンを満足させる音の前にフルートパートの音を纏めなくては。
まずはアガシの音を直さなくては。
今日までアガシの音を聴きながら情景の動かし方を考えていた。イメージは載っているんだ。昔の演奏を思い出して貰えれば。
きらきら星 (Twinkle Twinkle Little Star) の譜面をアガシに渡す。
「これ、合わせましょう」
「え? これですか?」
「そう。これ。初心に戻りましょう」
「…はい」
「アガシのイメージはずっと寝ててください」
「寝る?」
「そう。寝れなくなったら起きてください。満点の星空を見上げてください」
「?」
「私が止める迄繰り返しです」
「はい」
♪♪♪♪♪♪♪~♪♪
二つの音が流れ出す。日本語訳と英語直訳は違うから、夜だから寝るイメージにする。
譜面通りに曲が流れ始める。アガシのイメージが私の音と合う。静かに眠りについている。
おやすみ。ゆっくり眠ろう。
…
繰り返し毎に、私のイメージを変えていく。
ねえ、外見て。星が出てるよ。
…
ねえねえ、起きて。星が綺麗だよ。
…
起きて起きて、キラキラしてて綺麗だよ。あ、流れ星が流れたよ。
…………ぅ
頑 なに寝ていたアガシの音がだんだん揺れてきた。
ほら、早く起きてよ。星があんなに綺麗なのに。
…う
何で起きないの? ほら、起きろ~! 起きろ起きろ起きろ~!
う、うるさい! 起きるからっ!
アガシの音が怒ってる。あともう一息だ。
やっと起きたね。ほら、あんなに星が綺麗だよ。
…あ。星…星だね。……綺麗だ。
空一杯に瞬 いてるよ。
こんなに綺麗な星空…ずっと見ていたいね。
そこで音を止めた。
「強引だったけど、どうだったかしら?」
「え? あ。スッキリした」
「その感じ忘れないで。もう遠慮せずに情景載せていいから。変になったら私が引っ張るから」
「祥子…ありがとう」
- #20 F I N -
カルシーニの名前が浮かび上がって思い出した。
あのおじさんに鼻で笑われるのは
楽譜を持って。筆記用具持って。飲み物持って。
堂々と練習に参加してやる。
昨日使った練習室の前で深呼吸。
(よし。レッツゴー!)
戸を開けたら部屋の中にカルシーニは居ない。気合がそがれた。
中では征司とエリックが座って調律中。私が入って行くと同時に顔を上げた。エリックが最初に声をかけてくれる。
「祥子、お帰り」
「エリック、ただいま。私の居ない間、エリックに迷惑かけてたね。ごめんなさい」
「いいんだ」
「征司にも迷惑かかってたね。ごめんなさい」
「俺のほうは大丈夫。祥子のほうこそ
「私は大丈夫。征司からミリファを横取りしちゃってるから」
「いつでもどうぞ。ミリファも喜んでたから」
「そう?」
「あぁ。一緒に買い物行けるって喜んでた」
「それは嬉しいわ」
ひとつ離れてる椅子に座って楽譜を広げる。
「祥子、フルートは?」
エリックが私のフルートを眼で探している。
「フルート?」
「そうだよ。肝心な楽器がなきゃ駄目じゃないか」
忘れてきてると思っているのだろう。
「今日はいいの。今日は弦楽器の音を聴きにきたの」
「えっ?」
驚いてるエリックを他所に、征司が厳しい顔で私を見る。
「祥子。カルシーニの来る練習なのに、そんな事でいいのか?」
「いいのよ」
「祥子!」
征司が怒っているけど、今日はそう決めたんだ。
「昨日、イメージは貰ってるもの。大丈夫よ」
大丈夫じゃないけど、今は吹けない。吹きようがないんだ。だから持ってこなかった。
部屋の戸が開いた。
「良かった。まだカルシーニのオヤジさん来てなかったか」
ヴィオラを持ったヘンリーだ。ヘンリーの顔を見て俳優さんを前にした様に緊張しちゃってる。そんな私に視線を止めたヘンリーが口笛を吹いた。
「おや。最近、雑誌でお見かけする方がいらっしゃる」
「ヘンリー」
征司の声が向けられた。ちらりと征司を見たヘンリーだったが、私の傍に来て顔を寄せた。
その端整な顔立ちを凝視してる私だった。
「夜がお忙しいようで。男なら
「えっ?!」
ヘンリーが笑いながら椅子に座る。
突然で文句が言えなかったが、頭に来た。そんなくだらない
ヘンリーの椅子に近づいてる私がいる。
ヴィオラの調律しようと構えたヘンリーが私に気づき動作を止めた。
ヘンリーがしたように顔を寄せる。ヘンリーがたじろいだのが分かる。
「私にだって選ぶ権利はあるのよ。私が選ぶ男は本当の私を…あぁ、そっか!」
私は両手を打ち鳴らしてた。
「そういう事か。そっか。うんうん。ヘンリー、どうもありがとね。何と、そう言う事かぁ」
「はぁ?」
「いいのいいの。でも、ヘンリー、私をなめない事よ」
あ、駄目だ。
そしてカルシーニが入って来た。
「遅れてすみません。用意して」
私だけ動かないからカルシーニが私を
「祥子、用意して」
英語で言われた。
「すみません。ミスター バッソ。今日はフルート吹きたくないんで、持ってこなかった」
「吹きたくないから持ってこなかった?」
「はい」
カルシーニの顔が少し赤くなった。荒立てちゃいけないな。
「昨日のイメージが出来上がらなかったので、今日は弦楽器の音を聴こうと思ったんです。ミスター バッソの指揮も勉強したかったので」
「あ…そう。なら、そのままで」
「すみません」
落ち着いたようにカルシーニが指揮棒を取り出した。その瞬間、鼻で笑ったのが分かった。こいつには無理だな。そんな事を思ったのだろう。
棒が上がり音が響き渡る。同時に私はレコーダーで録音を始める。弦楽器の音とカルシーニの指示を漏らさず残す為だ。
どうやら三人共、
カルシーニの指揮にも注意をはらう。この人、早くする時に天を指すクセがある。こんな微妙なクセを覚えなきゃならない。
ヘンリーのヴィオラの音に集中する。上手い。意外にも優しい音で
音に性格が出てる。娼婦に群がる男それぞれの個性だ。
征司の音。慎重にそれでも誘いをかけてくる。ゆっくりゆっくり。様子を見てるかと思えば、手を差し伸べてくる。少し戸惑いながらも見ている。それなのにバイオリンの音が主張している。このオンナを手に入れるのは俺だ。と。
エリックの音。どうしてなんだろう。エリックの音は客観的に聴くことが出来ない気がする。好きだ…。こう聴こえてくる。好きだ。俺じゃ駄目か? 俺は君を守ってあげるよ。と。
「では、二日後の同じ時間で」
カルシーニがそう言って部屋を出て行った。
☆
三人の弦楽器の音を耳に残し、私は三人に声を掛けるのも惜しんでさっさと自分の部屋に戻った。部屋の中ではシャンドリーがまだ残って吹いていた。
「シャンドリー、A(ラ)の音が高い。直して」
「はい。練習、終わった?」
「カルシーニが怒った」
「なんで?」
「フルート持ってない」
「あ…」
私の手元にフルートが無いのを見て、
「出来ない時は出来ないの」
「度胸ある」
「シャンドリーも頑張ってるね」
「もう帰ります。祥子は?」
「ちょっと練習。じゃ」
自分の小部屋を開けて、レコーダーを再生する。弦楽器の音が響き出す。我慢出来る最大音量にする。今度はひとつずつ。彼等の音をじっくりと聞く。
「成る程ね。カルシーニはこの情景で満足してる訳か。じゃ、私はどうしたらいいか」
最初から聞きなおしてイメージを言葉で書いていく。もう一度、今度は音を小さくして手直しを入れながら聞いていく。
「この感じかなぁ。もう
今日はミリファと一緒に帰れないから、9時には出る事にしていた。
フルートをしまい、ケースをカバンにしまう。「どこで見られてるか分からないよ」ってミリファに言われたから、少しでも私を誤魔化せるようにだ。カバンを肩にかけて、部屋の電気を消した。
部屋を出て廊下を歩いていたら後ろから声が掛かる。
「これから誰のベッドに帰るのかな?」
「自分のベッドよ」
「誰か待っているのかな?」
「誰もいないわよ」
こんな事言ってくるのはヘンリーだろう。さっき聞いた声と同じだ。私は後ろも見ずに歩いて行く。
「ふ~ん。じゃ、俺とどう?」
「結構です」
「俺、祥子を満足させられるよ。ベッドの中でもね」
「なっ…うっ」
私が文句を言う前に、私の横に並んだヘンリーが私の顔を覗きこんだ。
その顔で…反則だと思う。
「真っ赤になっちゃって」
「からかわないで。私を」
「私をなめないで。だろ? そうだな、舐めたら美味しいのかな。おっと」
ひっぱたこうとした私の手をヘンリーが掴んだ。そのまま手を引っ張って私を引き寄せる。
ヘンリーの空いてる手が私の
「な、何する気よ!」
「何って? キスに決まってるじゃないか」
「彼女がいるんじゃなかった?!」
一瞬動揺したかに見えた。だけだった。
「それが? キスは挨拶でもするだろ」
そう言って、顔を近づけてきた。顎が掴まれてるから…でも、そんなの言い訳にもなりゃしない。
ヘンリーの唇が当たる。ヘンリーが笑った。
「よくかわせたもんだ。娼婦なんてとんでもないってレディだな」
「あ、挨拶だったらそれで充分よ」
「
「一緒よ」
「で、その俺との間に挟まってる掌をどかしてくれないのかな?」
「両手を離していただけたらね」
「はいはい」
ヘンリーの手が私の手と顎から離された。
「よく出来ました。それから顔も離して下さるかしら」
「仕方無いか」
ヘンリーの顔が離れてから間に入れてた掌を下ろす。
「いつもそんな事してるの?」
「まさか。大切なヒトがいますから」
「なら、冗談にもホドがあるわよ」
「一緒に演奏する女性の本性を見たいって思っちゃいけないかい?」
「いけない」
「娼婦って書かれた女性ってどんなかなと思ってね」
「そんなの
「そうだね。娼婦にしとくにゃ勿体無い」
「光栄ですわ」
ヘンリーが私を見て笑った。一緒に監視室の前を通る。
「建物の外で私と一緒だと何書かれるかわからないわよ」
「別に構わないさ」
「彼女を悲しませたくないでしょ」
「まぁ。そうだね。でも行き先駅だからどうしようも無いさ」
「あ、そう。じゃ、お先に」
なら、ヘンリーをおいて早足で行くのみだ。
背後から笑い声があがった。
☆
一人で無事に帰れた。家の鍵を掛けて電気点けて気が抜けた。
「お腹すいた。何か食べる物」
冷蔵庫を開いてチーズとクラッカー。外国のスナックだ。日本だったら煎餅か。
椅子に腰掛けて疲れが押し寄せてきた。
ビー
来客だ。インターフォンを取る。
「はい」
「あ、祥子…あの、シャンドリーです」
たどたどしい英語が聞えてきた。
「あら。どうしたの?」
「お話が…」
「分かったわ。今、下に行くから」
家を出たら、丁度エドナが隣の鍵を開けて自分の家に入るところだった。
「エドナ、お帰りなさい。遅かったのね」
「定期演奏会の準備よ。祥子はお出かけ?」
「違うの。下にシャンドリーが来てて話があるって」
「そう。お休み」
「お休みなさい」
エドナが家に引っ込み、私が階段を下りていく。
玄関の扉を開けようとした時、上から慌てた声が聞えてくる。
「祥子、祥子、待って。開けないで」
「えっ?」
エドナが走って階段を下りてくる。
「シャンドリーって言ったわよね」
「うん」
「どうして来たのか聞いた?」
「話があるって」
「そう。…なら私が出るわ。祥子はここに居て」
「? でも」
「いいから。ここに居るの」
「あ、はい」
エドナが扉を開けた。外にはシャンドリーだけだ。エドナが扉を閉めたから見えなくなった。
暫くしてエドナが戻ってくる。
私を引っ張るように階段を駆け上がった。私の家の戸を開ける。
「お邪魔するわよ」
すぐにエドナが窓辺に寄って外をカーテンの隙間からそっと覗いた。
「あ、あの、エドナ」
「今日の練習で聞きたい事があったんだって」
「帰る前に聞けば良かったのに」
「って言うのは口実よ」
「口実?」
「ほら。あそこに人が居る。カメラ構えてる人がいるわよ。それに、シャンドリーが誰かと話してる」
エドナの指さす方向を見ると確かに人が居た。
「祥子の住所を教えてくれってシャンドリーから電話があったのよ。私が応対してたら教えなかったんだけど、バイトの子だったから」
「…」
「祥子が出てたら、次の雑誌に出てたわね。「早速の情事」ってね」
「…怖いね」
「シャンドリーはランスに使われてたから、もしかすると」
「…」
「祥子、
「分かった。気をつけるわ」
シャンドリーはランスに使われていた。私はシャンドリーにも迷惑をかけているんだ。
☆
翌日、シャンドリーは休みだった。
練習を終えて家に戻ったら、玄関に雑誌が立てかけてあった。
読んでおくといいわ エドナ
雑誌を持って家に入る。エドナが頁を折り込んでくれてたから、読むべき頁が分かった。
「だけど、ドイツ語」
シャワーを浴びてから辞書片手に調べながら読んでいく。
戻ってきたシンデレラ
日を早めて戻ってきたシンデレラは密かに自分の家に
これまでの行動を
あとはエリックの事や楽団の内情を面白可笑しく書き連ねている。
「ここまででっちあげてると逆に尊敬だな」
大きなため息が出ていった。
さて、こんな噂より、フルートの練習だ。
モーツアルトのイメージが固まったから、あとはバッハのイメージを作るだけだ。
「マーラーとモーツアルトの前よね。聞いて頂戴って感じ」
♪~♪♪♪~♪♪~♪
「もうちょっと説得する感じかしら」
♪♪♪~♪~~♪
☆
「こんなもんでしょう。では、明後日のリハで」
カルシーニが私を見て鼻で笑う。カチンとくる笑い方なんだけど我慢する。
娼婦のイメージで三人の男を引き寄せていきながら、それを否定していく。
カルシーニの要求には
(カルシーニのおじさんには後で一泡吹かしてやる)
カルシーニが私の中で悪者になっていた。悪者というよりいじめっ子なんだろうけど。働いてた時の嫌な上司に対する気持ちと同じだ。
確かに今日まで練習所の中でいろんな人に会った。あからさまに嫌な態度をとる人もいた。人の好き嫌いはしょうがない。私にだって苦手な人はいるんだ。
あ、目が合っちゃった。
「祥子、一人でランチなんて寂しいね」
ヘンリーがトレイを持って私の食べているテーブルに近づいてくる。
(ここに来るな~!)
心で叫んだけど、そういう願いって叶わないものだ。私の向かいにトレイを置いて椅子に座る。そして私を見て笑う。
ヘンリーは確かに顔がいい。だけど、苦手だ。顔がいいから何やっても、何言っても許される。そんな感じを受けていたからだ。それに軽い。こういう顔のいい男は気まぐれで、皆に同じように優しさをくれる。困るんだ。その気にさせられて泣くのは嫌だ。
お近づきになるのは演奏してる時だけで充分だ。
(彼女がいるくせに)
自分の前のトレイにはまだパスタが残っている。まだ食べ始めたばかりだから、ここでお昼を終わりに出来ない。
黙々と食べる事にする。
ヘンリーはお構いなしに食べ始める。持って来たパンの切れ目にサラダやハムを突っ込んでる。
「祥子はカルシーニのオヤジさんが嫌いなのかい?」
「えっ?」
的中されて驚いてヘンリーの顔を見てしまった。
「当たりだね」
「…」
「あのオヤジさんはこの楽団が好きだから、名前を汚した事に対して
「私に償えって?!」
「祥子に償えと言ってる訳じゃない。あのオヤジさんは祥子を毛嫌いしてる訳じゃない。楽団の名前も、その楽団員の祥子も汚されたから、それを仕向けたヤツラに償えと伝えろって事さ」
「償えと伝えろ?」
「そうさ。祥子自身が伝える事になってるけどね」
「そんな事考えてもみなかった。私は娼婦じゃないって噂を取っ払う事だけ…」
「それに償えって付け加えればいい」
「…そう」
フォークでパスタをクルクル巻き取らせながら考える。
償えって付け加える。誰が噂を流したの。私は戦うわよ。何も悪い事なんかしていない。覚悟しときなさいよ。
「祥子、その位で止めとかないと、その可愛い口に入らないよ」
「えっ? あら」
ヘンリーに声を掛けられて気づいて見たら、パスタがグルグル巻きになっていた。
「それ、口に入る?」
「ヘンリー、ちょっとそのパン開けて」
「こうかい?」
「そう。はい」
ヘンリーがパンを開けたところにフォークに巻きついてたパスタを落とした。
「何?」
ヘンリーが驚いてる。このへんじゃパスタをパンに挟むなんて考え付かないのだろうか。
「俺、祥子に悪い事言った?」
「とてもいいアドバイスをくれたからお礼」
「お礼?」
「大丈夫よ。食べれるから」
「そりゃ、そうだけど」
恐る恐るヘンリーがかぶりついた。
「ん。葉っぱがなけりゃいい味だ。トマトはいいけど」
「そうでしょ」
テーブルに近づいてくる人が居た。
「祥子、ちょっと話があるんだけど一緒にいい?」
「あ、エドナ。どうぞ」
私はエドナが来てくれて嬉しかったりする。ヘンリーがピクリと反応したのを見逃していたけど。
エドナがトレイを置いて、ヘンリーを見て何か思い出したようだ。
「ヘンリー、あなた今日遅刻したでしょ。最近目立つわよ。誰かにモーニングコール頼んだら?」
「じゃ、誰に頼もうかな。エドナ、どう?」
「ご指名は嬉しいけど、ノーサンキューよ」
「そっか。毎朝戦いだからなぁ」
「お忙しそうでなによりね」
「いや、俺、そんなんじゃなくて…」
不思議とヘンリーがたじろいでいる。エドナには弱いのかもしれない。そんなエドナは気にも留めずに話題を変える。
「あら。ヘンリーったら面白い食べ方してるのね。それ、美味しいの?」
パンに挟まれたパスタを指さしてエドナが面白そうに聞いた。
「あ、これかい? これ、祥子にやられた。美味しいよ。だけど、葉っぱと一緒はオススメできないな。チーズとトマトなら大丈夫だけど」
「そう」
エドナの視線が私のパスタに飛んだ。
「エドナも試してみる?」
「え、いいの? ありがとう。チーズとトマトね」
「はい。この位で勘弁して。私の分が無くなるから」
「そうね。ありがと」
パスタをパンの間に落としてあげた。エドナが一口かじる。
「うん。いけるわね。こんな食べ方も美味しいのね」
「でも、カロリーいっちゃうわよ」
「そうね。誰かがパスタ選んでる時に貰わなきゃ。フタツ同時には辛いわね」
「うん。いつでも言って」
私とエドナが喋っている間、ヘンリーは口を挟むことなく食べていた。
「そうだ。祥子に話があったのよ」
「私に話?」
「そう」
頷いてエドナはヘンリーに視線をとばす。
「俺、邪魔かな?」
「あ、いいのよ。ヘンリーも知ってる子だから。シャンドリーの事よ」
「シャンドリーってランスの金魚のフンだったヤツか」
「ヘンリーったらそんな言い方良くないわ。彼、ここ辞めるって」
「辞める? どうして? エドナ、理由聞いてる?」
「理由は言わないのよ。「辞めなきゃならないから」ってそればっかりなの」
「今日も休みだけど、来てたの?」
「電話だったわ」
「そうすると、どうなっちゃうの?」
「本人の希望だから受け付ける事になるんだけど。直接手続きしに来るわよ」
「いつ来るって?」
「明日」
「定期演奏会が近づいてるってのに。エドナ、明日シャンドリーが来たら私の所に連絡頂戴。手続きの前に。絶対よ」
「分かった。連絡するわ」
エドナが私を見て頷いた。
「それと、ここの楽団って、楽団員の権利を主張出来るのよね。労働者の権利って言うやつ」
「もちろんよ」
「個人単位でも大丈夫よね?」
「ええ。そりゃ。いざとなれば顧問弁護士だってつけれるわよ」
「ありがたいわ。でも、それなら、私が主張してもいいのよね。あんなガセネタばら撒かれていい迷惑してるんだもの」
「表現の自由ってのもあるのよ。祥子の場合、名誉毀損で裁判できるけど、長引くわよ。出版社相手だと特にね。だけど、祥子にはあんな出版社なんか蹴散らす大物がつきそうよ」
「大物って? あっ」
カノン・ミューラーだ。
「そうだ! エドナ。一番良い席って取れるの? 私」
「大丈夫。あの方達はガド爺経由でいつもの席を贈ってるのよ。でも、驚いたわよ。あの人の口から直接、祥子が指名されたんですから。ん? 祥子?」
「いつも私の知らないところで話が進むのよ」
「次の演奏会で決断するって」
「ええ。分かってる。言われたのよ」
次の次は無いわよ
カノンの言葉が思い出されてきた。
次で、私は自分の汚名を
次しかチャンスはない。
「そんな大物って誰?」
ヘンリーの事忘れてた。私とエドナの話に口を挟むこともせずに聞いてたんだ。
「祥子の老後迄見てくれそうな女性よ」
エドナが笑って名前を隠して言った。
「へぇ。そりゃいいなぁ」
「ヘンリーだって映画界のスポンサーがついてるじゃない。あの綺麗な方が」
「あの人はスポンサー。スポンサーなんだ」
ヘンリーったらやっぱりエドナには弱いみたいだ。
エドナはヘンリーを見て何にも感じないのかな。ちょっと皮肉ってる気がするけど。
☆
カノンを満足させる音の前にフルートパートの音を纏めなくては。
まずはアガシの音を直さなくては。
今日までアガシの音を聴きながら情景の動かし方を考えていた。イメージは載っているんだ。昔の演奏を思い出して貰えれば。
きらきら星 (Twinkle Twinkle Little Star) の譜面をアガシに渡す。
「これ、合わせましょう」
「え? これですか?」
「そう。これ。初心に戻りましょう」
「…はい」
「アガシのイメージはずっと寝ててください」
「寝る?」
「そう。寝れなくなったら起きてください。満点の星空を見上げてください」
「?」
「私が止める迄繰り返しです」
「はい」
♪♪♪♪♪♪♪~♪♪
二つの音が流れ出す。日本語訳と英語直訳は違うから、夜だから寝るイメージにする。
譜面通りに曲が流れ始める。アガシのイメージが私の音と合う。静かに眠りについている。
おやすみ。ゆっくり眠ろう。
…
繰り返し毎に、私のイメージを変えていく。
ねえ、外見て。星が出てるよ。
…
ねえねえ、起きて。星が綺麗だよ。
…
起きて起きて、キラキラしてて綺麗だよ。あ、流れ星が流れたよ。
…………ぅ
ほら、早く起きてよ。星があんなに綺麗なのに。
…う
何で起きないの? ほら、起きろ~! 起きろ起きろ起きろ~!
う、うるさい! 起きるからっ!
アガシの音が怒ってる。あともう一息だ。
やっと起きたね。ほら、あんなに星が綺麗だよ。
…あ。星…星だね。……綺麗だ。
空一杯に
こんなに綺麗な星空…ずっと見ていたいね。
そこで音を止めた。
「強引だったけど、どうだったかしら?」
「え? あ。スッキリした」
「その感じ忘れないで。もう遠慮せずに情景載せていいから。変になったら私が引っ張るから」
「祥子…ありがとう」
- #20 F I N -
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