#38 シドの回想 <シド視点>

文字数 1,288文字

何となく早目に仕事を終えて急いで家に帰った。
玄関を開けると暖かな空気が襲い掛かった。食卓が賑やかだった。カレーの香りが漂っていて、そこに居る皆が楽しそうだった。
私はそれを見てたじろいでいたと思う。私の居場所が無い…様な気がした。

「シド、お帰りなさい。早かったんですね。早く一緒に食べましょう」

祥子が声を掛けてくれてホッとしていた。
皆と一緒に食べていて思い出す。ここに祥子ではなく、あの人が居て、両親が居た時。
あの時も、こんな風に食べていた。



夕飯を終えて、いつもの様に皆が居なくなる。
祥子がフルートの練習をしに大部屋へ入っていった。

暫くしてから大部屋の戸を開けて入る。
祥子がディズニーの曲を吹いている姿が眼に入る。一瞬、あの人の面影と重なった。
眼の錯覚だ。
あの人もディズニーの曲をこの場所でよく吹いていた。だから思い出しているんだ。
祥子は私が入ってきた事に気づかずに、次々と違う曲を吹いていく。
祥子の音が私の昔を呼び起こす。痛い思い出だ。でも…懐かしい。

(懐かしい?)

懐かしく思えるなんて初めてだ。あれから10年以上、痛く思い出せていたのに。
額に残された傷が痛んだ気がした。

祥子がフルートを下ろし、私が声を掛けて初めて私に気づく。
祥子と話していてこう声を掛けられる。

「ここでなら一緒に吹けますよ」

ドキリとした。今更ここでフルートを吹くなんて考えてもみなかった。

「私は…そうですね。次の機会に」

不思議と心が騒いでいる。ここでフルートを吹く。仕事じゃなく吹く? あのフルートを吹いてもいい…のか?
ほんの数ヶ月前、祥子のフルートを借りて吹いた。あの時のゾクゾクが蘇る。祥子の音を聴いて私は吹きたくなった。今も…そうなのかもしれない。

祥子に着信したのがエリックからだと聞いて、どこかが痛んだ。何故だか分からない。庭でエリックと祥子が話しているのを眼にして、昔の私達と重なっていた。

「あの人を祥子に重ねているのか」

CDをセットした。ソプラノの澄み切った声が流れてくる。
暖炉の上からフルートケースを持って来てテーブルの上に置いた。
フルートを辞めてから、開けられなかったケースをゆっくり開けた。中にはあの人が使ってたフルートがケースの損傷が嘘のように綺麗なまま収まっている。

「君に使って貰えれば、あの子も喜ぶから」

あの人のお父さんが私に言った言葉だ。

「彼女の分迄認められる奏者になります」

私が返した言葉だ。あの人との最後の約束になった。その約束はあと少しのところで打ち砕かれる。コンクールで賞を貰い、国内一の楽団でフルートトップの宣告も受けた。だが、指が言う事を聞かなくなるとは思わなかった。

「長時間の演奏には絶えられないでしょう」

精密検査の後で言われた言葉。
フルートが吹けなくなって、それでも楽団に居残ったのは、あの人との約束があったからかもしれない。少しでも音楽に係わっている事が償いになる。

あの日、あの人が早く行くのを止めていれば。
バスを待っている位置が逆だったら。

ゆっくりとケースを閉じた。

あの人は今の私を許してくれるのだろうか。

ソプラノの声が心に沁みる。



- #38 F I N -
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