#37-1 A leak <祥子視点>

文字数 6,619文字

翌朝、緊張のあまり早くから眼が覚めた。
この緊張はシドの家に居るから起こったものだ。職場の上司と同じ家の中で寝起きして生活する。下手な行動は見せたくない。笑って誤魔化(ごまか)すなんて出来そうもないと思う。私は居候(いそうろう)だから。

着替えて一階に降りて行くと、既に一階は火の入った暖かさがあった。

「あの…おはようございます」

キッチンで動いてる女性に向かって声を掛けた。背の低い小太りのおばさんだ。
昨夜シドに教えられた、リリア・シルヴァだ。夫婦でこの家の管理を任されてる。シドの家の敷地内に家がある。夫のアンデルは庭の手入れを任され、リリアは家事全般を任されている。各自の部屋の掃除や洗濯、休日の食事には手をださない。

私の声が掛かって驚いて振り向いたリリアが、私を確認してホッとしたように笑った。

「おはようございます。ミス苅谷。シドから聞いてますよ」
「祥子で構いません。暫くの間、宜しくお願いします」
「こちらこそ宜しく。食べたい物があったら気軽に言ってね。腕を振るいますよ」
「はい」
「日本食でも、頑張るわよ。おっと」

焼いてたソーセージがフライパンから跳ねた。

「ありがとうございます。朝食の仕度(したく)、見てていいですか? 私、料理下手だから勉強させて下さい」
「いいですとも」

時間があって、その間何もする事がないから、リリアの作る料理を勉強しようと思いついた。いつかそれをエリックに食べて貰うんだ。

リリアが私が聞く基本的な質問にも答えて教えてくれた。野菜だって、いろんな物がある。ズッキーニなんて実家じゃ登場しなかった。パプリカだって食べた事はあるけど名前を知らなかった。赤ピーマン、黄ピーマンと思っていた。

「祥子、テーブルに並べてくれるかしら」
「どういう風に?」

アパートの時は正式に並べる必要が無かったから、素直に聞いた。リリアがワゴンを押して、私について来るように手招く。

「知らなくて当然よ。それに日本だと箸一本で済むんですってね」
「まぁ、そんなもんです」

リリアが並べるのを見て覚える。スプーンやフォークの並べ方にも決まりがある。

「食事の時間がシドとマリーで違うから大変なのよ。祥子はシドと一緒でいいのよね?」
「はい。演奏会で朝早くなる時は連絡します」
「お願いね。それと夕食はこの保温器に入れておきますから」
「はい。外食の時には連絡すればいいんですね」
「6時迄にね」
「はい」

二人分(シドと私)のお皿が並べられ、テーブルの上がご馳走で一杯になる。朝から賑やかだ。
リリアがキッチンに引っ込んだら、シドが入ってきた。

「祥子、おはよう。早いですね」
「シド、おはようございます。早く目覚めちゃって」
「ゆっくり眠れなかったのかな?」
「枕が変わったからですよ」
「エドナに届けて貰いましょうか?」
「いえ。そこまでしなくても」
「冗談ですよ」

笑いながら椅子に座ったシドを見てて、昨夜の表情が夢の様に思えた。
問題のフルートケースは同じ場所に残されている。

「祥子、食べないのですか?」
「あ、食べます」

急いで椅子に座って食べ始める。時折、喋りながら食べているが、なんか会食しているみたいだ。

コーヒーを飲みながら新聞を読み始めたシドを残し、私は部屋に戻る。
化粧をして出かける荷物を持って一階に行くと、シドが待っていた。

「お待たせしてすみません」
「私はせっかちじゃないですよ」

二人で練習所に向かいながら気づく。シドのつけている香りがエリックと同じだ。
少し嬉しくなった。エリックの香りだから嬉しかった。



お昼をエリックと一緒に食べながら、フルートケースの事を話してる。

「凄く怖かったのよ。シドが取り乱した感じがしたの。シドが遭遇(そうぐう)した事故ってどんなだったんだろ。聞いてみようかな」
「祥子。他人(ひと)のプライベートには踏み込まないほうがいい。君だって覚えがあるだろ」

エリックに言われて、ゴシップ記事を書かれた時の事が頭を()ぎった。

「…うん」
「話せる事だったらそのうち話してくれるさ」

エリックに言われて恥ずかしくなった。他人の事を知りたがるのは誰でも同じだろうけど、度を過ぎちゃいけない。聞き出そうなんてしちゃ駄目だ。
話題を変えよう。

「私、シドの家を管理してるリリアに料理教わる事にしたの。エリックに笑われない料理を作れる様になれるといいんだけど」
「俺は笑わないさ」
「じゃ、(あき)れられない様にね」
「楽しみだ」

エリックが嬉しそうに私を見た。
そこに、エドナとヘンリーがやって来た。私達のテーブルに飲み物を置いて座った。
ヘンリーがエリックと話し出す。エドナが私のほうに顔を寄せる。

「祥子、シドの家の居心地はどう?」
「快適なんだけど、居候だから静かにしてるわよ」
「妹さんとは上手くいきそう?」
「凄く活発な子よ。エリックのファンみたい。何度も握手されてたわ」
「あらあら。あっ、そうだ。後でシドの所に来るようにって」
「次の仕事の話かしら」
「さぁ。でも、祥子の仕事はビッチリよ。エリックに負けない位。そうね、ヘンリーにも負けてないわよ」

エドナがヘンリーの事を言う時に嬉しそうに顔を赤らめた。エドナはプライベートの時だけコンタクトにしてる。今なんかは眼鏡をキリッと鼻に乗っけてる。

「エドナ」
「何?」
「眼鏡じゃないほうがいいのに。こないだエリックが見惚(みと)れてたわ」
「あら。そう? でも、仕事はこっちなの」
「どうして?」
「集中出来るからよ」
「へぇ」

お昼の時間が終わり、その足でシドの部屋に向かった。戸を叩いて部屋に入る。

「シド、何か?」
「掛けて」
「 ? はい」

シドが椅子を指したから座る。

「言いにくいのですが…」
「何でしょうか?」
「今回の映画挿入曲ですが、祥子には外れて貰います」
「えっ? シド、今何て?」
「残念ですが、明日のレコーディングは無しです」
「ど、どうしてですか?」
「昨日の一件がどこからか漏れました。映画関係者から祥子を外してくれと」
「無実なのに…」
「ドラッグのイメージなんですよ。こちらが無実を訴えても、イメージが着いて回る。特に今回の映画はファンタジー物ですから」
「…」
「他の仕事は大丈夫ですよ」
「…」
「明日は急な公演が入った事にしてお休みにしましょう。フルートパートの皆にはそう伝えて下さい」
「はい」

パートの練習部屋で皆に伝え、暫く皆の練習を見ていた。明日、吹けないのに皆の調整をしなきゃならない。楽しみにしてたのに。

夜は全体の練習になる。皆が部屋から出て行ったから、私は帰る事にした。

「祥子、全体練習忘れてるのかい?」

エリックの声だ。エリックが私に向かって歩いてくる。何事も無かった様にしなきゃ。
笑顔を貼り付けて視線を合わせる。

「私、明日、急に公演会が入っちゃったのよ。だから、今日は帰るの」
「なら、そっちの練習は?」
「大丈夫。何度も吹いてる曲だから」

エリックが私の前で立ち止まるから、私もそこで止まる。

「本当の理由は?」
「…どうして?」
「顔が笑ってない」
「笑ってる」
「笑ってない」
「笑ってる」
「笑うってこんな感じになるんだよ」

エリックが私の両頬を軽く引っ張った。

「…」
「他の公演が入ってたら、今回は残念だったけどって笑う筈だろ。今の祥子は落ち込んでる」

エリックに嘘はつけなかった。

「…昨日の件で下ろされたの」
「下ろされた? 誰に?」
「映画関係者だって」
「なら、俺やヘンリーだって」
「所持してたのは私だからよ」
「何て事だ」
「これは内緒よ」
「分かった」

エリックの手が私の頭を引き寄せる。

「残念だな」
「とても残念よ。楽しみにしてたのに」

どこかで戸の開いた音がしたからエリックの肩から顔を離した。

「エリック、最高の音を」
「あぁ。じゃ、祥子、明日」
「明日は休みになったの。明後日…エリックはスイスだっけ」
「あ、そうだな。また暫く会えなくなるな」
「電話するから」
「俺も」
「おやすみなさい」
「気をつけて帰るんだよ」
「ありがとう」



自分の身は自分で守る。これは日本でだって同じ事だ。
シドの家に帰りながら、周りに気をつけていた。出来るだけ女性の傍に居る様に移動する。

見慣れた駅があった。
私がウィーンに初めて来た時に滞在してたホテルのある所だ。
ビクビクしながらホテルに帰ってたら、エリックとコーダに会ったんだ。
まだ半年も経ってないのに懐かしく思える。

「ウィーンに慣れてきてるのかな。色々あるのに」

シドの家の前で小さく深呼吸。鍵を貰ってるから、玄関を開けた。
キッチンからリリアが出てくる。

「リリア、ただいま」
「祥子、お帰りなさい。早かったのね」
「予定が無くなったから。キッチンにお邪魔していい?」
「いいわよ。夕食はポトフよ」
「直ぐ行くわ」

荷物を部屋に置いて、キッチンに走った。
何かしてたほうが気が紛れるから、リリアの手伝いをする。

「痛っ!」
「大丈夫?」

ざく切りしてて指切るのも情けない。

「私、料理上手くなれるのかなぁ」
「料理は愛情よ。愛があれば誰だって上手くなっていくのよ」
「ホント?」
「私も祥子と同じだったもの」
「リリアが?」
「そうよ。あの人に会わなかったら料理なんて実験みたいになってたわね」
「ご主人?」
「それは内緒。美味しいのを食べさせてあげたい。それが愛情よ」

そう言ってリリアは笑って目配せした。

「愛情ね」
「そうよ。結婚して主人に、そして子供達に、今はあなた達に美味しいのを食べて貰いたいの。だから私はもっと上手くなれるのよ」
「私には先が長そうね」
「焦らなくていいのよ。ところで指は大丈夫? フルートって指使うでしょ」
「この位なら大丈夫。料理で指切って吹けないなんて言ったら、シドに怒られちゃいますね」
「そうね。シドが怒るわね」

リリアが鍋に野菜を入れ、肉を豪快に切って入れ、火にかける。

「さて、煮込んでる間にサラダを作るのよ。デザートはシャーベットでいいかしら?」
「今日は暑かったから嬉しいです」

リリアが無駄の無い動きでテキパキと作っていく。私が手伝ったら邪魔をしてるのと同じなんだけど、私に出来そうな作業をくれる。

「ウィーンはいろんな国の料理が入ってきてるのよ。ドイツの物やイタリアの物。最近じゃ日本の物や中国の物も増えたわ」
「こっちで豆腐を見つけて嬉しくなったの」
「ヘルシーなんですってね。今度、買ってみるわ」

朝と同じ様に並べられて行く。シドは遅いし、マリーも今日は遅いようだ。
一人分の食卓だ。

「じゃ、私はこれで帰るわ。でも、何かあったら連絡頂戴ね。飛んでくるわ」
「はい。ありがとうございました。おやすみなさい」
「おやすみなさい」

リリアを見送ってから、一人で食べ始めた。
アパートと違い広い部屋で食べているから寂しく感じる。奥のリビングにはテレビがある。そのテレビをつけてもここからじゃ見辛い。

料理は美味しいけど、何か物足りない。

シドとマリーはこんな毎日なんだ。この部屋が賑わう時ってあるのだろうか。
二人共、もう大人だから気にならないのかな。

「別に変じゃないんだ。私だってそうだった」

実家でも夕飯を揃ってなんて休日位だった。
ただ、実家はここよりも狭い。だから賑やかに感じてたんだ。
食べ終えて、片付けて、リビングのテレビをつけた。

「つまらない」

暖炉の上のフルートケースに視線が止る。気になっているから前に行く。
ケースを見る。開けちゃいけないのは分かってる。泥棒みたいな事しちゃいけない。
だけど、このひしゃげたケースの中は、フルートはどうなっているのか…見たい。

 「他人のプライベートには踏み込まないほうがいい」

エリックの言葉が頭に浮かんできて、触れようとしていた手を止めた。
人としての信用を無くすところだった。
テレビを消して部屋に戻る。

自分のフルートケースをゆっくり開く。フルートを組み立てる。明日の曲…私も吹くはずだった曲の楽譜を出す。

「そうだ。あそこだったら綺麗に響くかも」

ロビーにくっついた大きな部屋。キッチンやリビングとは反対にあった部屋。今なら誰も帰って来てないから迷惑にはならない。
楽譜とフルートを持って一階に移動する。さっき居たリビングとは反対の部屋。そっと踏み込んだ。

「広い」

大きなテーブルが部屋の隅に移動されている。シドのお父さんは演出家だったって話だから、ここで、有名なオペラ歌手や演奏家が集まっていたのかもしれない。ちょっとした演奏会だって出来る広さだ。
音階を吹いてみる。

(うわぁ)

劇場並の響き方だった。計算しつくされて建てられた気がした。
明日の曲を吹いていく。私は参加出来ないけど、今日まで練習してきた曲だ。

 ♪ ♪♪♪ ♪ ♪ ♪♪♪

こんなにいい音なのに。こんなにいい曲なのに。
どうして私は吹いちゃいけないの?!
映画に顔なんて出ないのに。名前だって出せなんて言わないのに。
どうして?! どうして?!
悔しくて涙が出る。

最後の音を出し切って、フルートから唇を離したら、拍手が耳に入ってきた。
慌てて眼を擦って振り向いたら、マリーが部屋の入り口に寄りかかる様に立って居た。

「祥子の音をこんな間近で聞けて嬉しいわ」
「マリー、お帰りなさい」
「ただいま。凄くいい音ね。あら、祥子、泣いてたの?」
「何でもないのよ。ゴミが入っただけなの。あ」

涙腺が緩んでる。

「祥子、夕飯付き合って。飲めるんでしょ?」
「…うん」

マリーが食べてる間、私はワインを飲みながら愚痴をこぼしていた。

「へぇ。何かイヤラシイわね。祥子が捕まった訳じゃないのに下ろすなんて」
「そうなのよ。曲吹くだけなのに」
「誰が吹いたかなんて分からないわよねぇ」
「なのに一方的に下ろされたのよ。楽しみにしてたから悔しくて」

マリーが片付けをしてから、お酒の壜を持ち出してきた。

「そう言う時には飲むのよ。飲んで忘れちゃうのが一番よ」
「ツマミ出さなきゃ」
「ツマミなんかいらないわ。ほら、祥子も飲む」

目の前のグラスに注がれていく。これってエドナと飲むのよりもたちが悪い。
エドナとの時は少なくとも、ツマミは出ていたんだ。
静かに飲んでいかなきゃ。
マリーは強いのか、ガンガン飲んでいく。凄く活発なのが、飲むと更にパワーが上がってる。色々と喋る喋る。

「兄さんは私に遠慮してるのよ。もっとガンガン言っていいのにさ」
「歳が離れてて女の子だからよ」
「でもさぁ、せめて外泊した時位、誰と一緒だ、とか聞けばいいのに」
「信用してるのよ」
「お陰で気ままに彼と一緒出来るけどね」

ペロッと舌を出してマリーが笑った。

「あらあら。なら、今のままがいいんじゃない?」
「その場合はね。でも、兄妹なのによそよそしいって思っちゃうのよ。だから何ていうかなぁ」
「甘えたい?」
「あ、そう。それよ。甘えたいんだわ。今みたいに飲んでみたいんだわ」
「やってみたら?」
「どうやって誘ったらいいのか分からないのよ。最近の兄さんは余裕が出来たみたいに楽しそうなんだけど」
「楽しそう? シドが?」
「そうよ。それまでは仕事一筋みたいだったのよ。朝出てって、帰ってくる。それの繰り返し」
「それが変わったの?」
「同じなんだけど、楽しそうなのよ。部屋に(こも)りっきりってのが無くなったわ。よくそこに居る様になった」

そう言ってマリーはリビングを指さした。

「昔、あそこで遊んだのよ。三人で」
「三人?」
「そうよ。ホームステイでうちに来てた女の人よ。兄さんと同じ歳で、父さんの知り合いの娘って言ってたわ。二人でフルート吹いてくれたわ」
「フルート? あ…」

暖炉の上のケースの持ち主だ。女性のだったんだ。
私が暖炉に視線を投げたのに気づいてマリーが口を開く。

「あれはその彼女のフルートよ。兄さんのフルートが事故で壊れたから彼女のフルートを貰った感じになったのよ」
「シドは今も吹いてるの?」
「フルート辞めてから封印されちゃってるわ」
「そう。ねぇ、もしかして、シドってその女性と」
「お互い愛し合ってたと思うわ。小さかった私でさえそう思ったもの」
「そう」

だから怒鳴ったんだ。シドにとって大事な人の物だったんだ。
彼女の名前を聞こうとして聞けなくなった。シドが遺品って言ってた。事故で大切な人を失ったんだ。私が知るべき事じゃない。

「祥子が吹いてた部屋、音が綺麗に響くから、あそこで兄さん達も吹いてたわ。久々に聞いたわ。兄さんの音も良かったけど、祥子の音のほうが私は好きよ」
「ありがとう」

そのままマリーと飲みながら話していた。マリーの学校の事、彼の事、バイトの事。

・・・・

会話が遠くで聞こえてくる。…あ。……エリックの香りがしてる。



- TO BE CONTINUED -
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