#45 別れの曲 <祥子視点>

文字数 7,567文字

三回目のウィーン国際空港に降り立って「帰って来た」そんな気がした。

「変なの。ここの住人になりきってる」

外見は日本人なのに。

「祥子!」

女性の声が響いて見ると、リリアが手を振っていた。

「リリア、ただいま」
「お帰りなさい」
「車、回してあるわ」
「ありがとう」

荷物を転がしてアンデルの運転する車に向かう。
途中、フラッシュがたかれた。顔を向けたら、もう一度。

「リリア、また、私の居ない間に記事が出たの?」

そう聞いたら、リリアがカメラを向けてる人を見てから私を見て口を開く。

「何も出てないわよ」
「ホント?」
「ほんとよ。シドから何も聞いてないし。どうしてかしらね」

首をかしげながらリリアが言った。
フラッシュが追いかけて来る様に光った。



シドの家に帰り着いて、リリア達にお土産を渡す。このまま私は寝ちゃうから、マリーとシドへのお土産はリビングのテーブルに置いておく。

私宛の手紙が積まれてたから部屋に持っていって開けていく。変な手紙は届いてない。

「そうだ。アーチャーさんからの手紙、出しておかなきゃ」

カバンから出して、机の上に置いた。これはシドに手渡さなきゃ。



夜中に眼が覚めた。夜食をリリアに頼んでたから、静かに一階に下りて行く。一階から音が漏れてきていた。

「あ、この声」

ルナ・アーチャーの声だ。ここで聞いていたから、聞いた事のある音としてルナの声を受け取ったんだ。

リビングでシドが本を読んでいた。私に気づいて本を置く。

「祥子、お帰り。休暇はどうでしたか?」
「ゆっくりしてきました。まぁ、無事に戻ってこれました」
「こっちに帰ってきたくないなんて言われたらどうしようかと、心配してました」
「大丈夫ですよ。空港に着いて「帰って来ちゃった」って思えましたから」
「それは良かった。あ、これ頂いてます」

お土産に置いておいたお煎餅を指した。既に皿の上に一枚が割られている。

「堅いでしょ」
「何で出来てるんですか?」
「お米なんですよ」
「リリアが食べ方を書いてくれててね。助かりました」
「あ、そうですね」

お煎餅の国じゃないから。

「シド、お茶いれますね。日本から持ってきたんですよ。グリーンティです」

紅茶ポットで緑茶を入れて、シドに渡す。

「ありがとう。香りがいいですね」
「少し癖がありますけど、飲み物ですよ。私、夜食食べに来たんです。食べてていいですか?」
「どうぞ」

食卓のテーブルに移動して用意してくれてた夜食を食べる。
その間もルナの声が流れていた。シドが本の続きを読み始める。

「シドはこの声が好きなんですね」
「そうですね。いい声です」
「私、日本でこの声の人に会いました」
「え?」

シドが驚いて私を見る。

「この声の人に…ですか?」
「はい。偶然、日本でカルメンが公演されてたんですよ。ルナ・アーチャーでしょ?」
「…そうです」
「親子で競演してました。私、観に行ったら捕まっちゃって。そうだ。アーチャーさんから手紙を預かってきてます。急いで食べちゃいますね」
「急がなくていいですよ」

そう言うシドが動揺したように見えた。視線を本に戻さずに、窓の外に移した。
夜食を食べ終えて、急いでアーチャーさんからの手紙をシドに手渡す。
私は手紙の内容を知っているから、食器の片付けをする。

「祥子、ちょっと」
「はい」

緑茶を入れ替えて、シドの前に座る。

「この話は日本でしてきたんですか?」
「はい」
「祥子は受けたいですか?」
「はい。スケジュール次第ですけどね。それはシドに任せてますから」
「明日、祥子のスケジュールを確認しますから。上手くいけば承諾しましょう」
「はい」

シドが丁寧に封筒に入れ直してテーブルに置いた。
ルナの声がまだ続いてる。

「この声の人…どんな人でしたか?」
「え? シドは知ってるんじゃないですか?」
「…何故?」
「前にアーチャーさんとシドは話してたじゃないですか。だから、ルナとも面識があるのかと思って」
「私と彼女は昔会ったっきりだから、そのイメージしかなくて」
「そうでしたか。ルナは見た感じ、私と同じ位に見えましたよ。でも、静かな感じを受けました。驚いたんですが、彼女、右手が義手でした」
「義手…でしたか」
「昔からじゃなかったんですか?」
「手を悪くしたのは知ってたのですが」
「でも、左手で何でも出来るって。今は親子で歌うのを楽しみにしてました」
「そうですか」
「私も楽しみです。アーチャーさんの声は勿論ですが、ルナのソプラノに合わせる私の音を創りたいです」
「…そう」

シドが静かに息をついた様な気がした。
お腹が一杯になって眠気が襲ってきたから、私はシドを残して部屋に戻る。

エリックに「帰ってきたの。明日も休みよ」と連絡する。長電話になると指輪の事を言っちゃいそうで、用件だけの連絡だ。フルートケースに隠されてる指輪を思い出すと嬉しくなる。



そんな幸せな気分が壊されるとは思いもしなかった。
それも、エリックに。

「エリックが来たのかな?」

階段を駆け下りてた私にシドが声を掛けた。

「あ、シド、お帰りなさい。きっと、コーダの散歩のついでですよ」

玄関を飛び出して門を開ける。コーダの姿は無かったけど、私に会いに来てくれたエリックを笑顔で迎える。

「コーダの散歩じゃないのね」
「今日は祥子に大事な話があって」
「大事な話? 私の土産話とどっちが大事?」
「悪い。俺の話を聞いて欲しい」

ドキリとした。もしかしたら、指輪の事?

「分かったわ。どうぞ」
「…」

心の準備をしている私。だけど、エリックは話し出そうとしない。緊張してるのかな。

「エリック、どうしたの?」
「祥子、ごめん」

あれ? 謝る事なの? 指輪の事じゃないのかな?

「なあに? 最近、エリックったら謝ってばかりね。悪い事してたの?」
「…そうなる」
「え?」

そうなるって何? 悪い事?
エリックの顔を見ると、エリックは眼を閉じ、大きく深呼吸をしてから私を見る。

「シェリルに赤ちゃんが出来た」

なんだ。シェリルに赤ちゃんか。

「あら。それはおめでたいわ。まだ学生だったよね」

そう答えたら、エリックは真面目な顔のまま続ける。

「祥子、聞いてくれ。その子供は、俺の子なんだ」
「俺の子?」

俺の子かぁ……え? 俺、俺って?

「俺の? …あなた?」

エリックは私を見たままだ。私だって驚いてるからエリックを直視している。

「エリック? …嘘でしょ?」
「本当だ」
「…嘘」
「シェリルのお腹には俺との子供が居る」

それって…私とシェリル、同時に付き合ってたって…事?
私…また二股かけられて…振られるの?
私がエリックを満足させられなかった?
私、私は、私の…。

「私、私のどこがいけなかったの?!」

エリックの腕を引っ掴んで口走っていた。エリックが驚いて、それでも私から眼を逸らさずに口を開く。私は唾を飲み込んだ。

「祥子はどこも悪くないんだ。祥子は俺にとって最高の女性だ。離したくない女性だ。なのに、俺が…俺が悪いんだ」

こう答えが帰ってきて、私は混乱する。それを隠す為にエリックに背中を向けた。
エリックは私を大切に思ってくれてる。なのに、シェリルを抱いた。その上、赤ちゃんが出来た…。
シェリルとエリックは元々知り合いだったのか。定期演奏会で初めて会ったんじゃなかったのか。

(ひとつずつ聞こう)

「いつそんな事を」
「祥子の誕生日だったのを知る前」

つまり、私の誕生日だ。

「シェリルとは知り合いだったの?」
「シェリルとは練習で初めて会った」
「隠れて付き合ってたの?」
「俺が付き合ってるのは祥子だけだ」
「なら…どうして?」
「飲みすぎて。祥子の香りがして間違って」

私の香り? シェリルに香水の銘柄教えてる。…私が気づく前からシェリルはつけてたのか。

 「でね、リサったら、エリックが香りで私とシェリルを間違えないように言っておくのよ。だって」

こうエリックに言った時は、もう…遅かったんだ。
だけど…酔っ払ってても、気づいて欲しかった。シェリルを抱くなんて。

涙が出てきた。

「祥子、ごめん。俺は」
「もう聞きたくないわ」
「シェリルは学生だから、堕ろすかと」

その言葉が、私の痛みを思い出させた。

私の最初の彼だった。予定日が過ぎても来なかったから相談したらあっさりと言われた。「直ぐ堕ろしてくれ。子供はまだ早い」大学生だったからしょうがないけど、そんなにあっさりと言わないで欲しかった。その時初めて検査薬を買って調べた。判定が出るまでドキドキしてた。簡単に赤ちゃんって出来ちゃうんだとも思った。堕ろす瞬間をテレビ番組で見た事があって、私もあんな事するんだって怖くなった。自分の体の中で殺人を犯す。そんな恐怖があった。その時は陰性で、ホッとしたんだ。その彼とは直ぐ別れた。男の人が簡単に「堕ろせ」と言えるのは、自分の体じゃないからだ。

エリックの口からその言葉を聞くとは思わなかった。

「赤ちゃんに罪は無いのよ!」

振り向いてエリックにそう言った途端、涙が溢れてきたから下を向いた。

「命を刈り取るのはいけない事よ。…切実な理由が無い限り」
「あぁ。…だから俺はシェリルと居なきゃならない」

エリックが堕ろす事を勧めたんじゃないのに気づく。シェリルがそうすると思ったんだろう。だけど、シェリルが産む事にしたから、エリックは自分の責任を取ろうとしている。
私が追いすがっては…いけない。

「もう、いいわ。エリック、今迄ありがとう。幸せだったわ」
「祥子…さよなら」
「さよなら…エリック」

ゆっくりとエリックの背中を見ながら門を閉めた。

庭を突っ切りながら泣いていた。

(私って何でこうなのよ!)

玄関を入り、リビングからルナの声が響いてるのに気づく。気づいたけど私は部屋に駆け込んで戸を閉めた状態のまま泣いていた。
泣いてしまえばエリックの事を忘れられる。
そんな私の眼にフルートケースが飛び込んできた。隠されてた指輪…。
ズルズルと戸を背中にしゃがみこんで、泣きじゃくっていた。



どの位、泣いてたんだろう。涙が枯れるってこの状態なんだ。まぶたが重い感じがする。

「顔、洗ってこよう」

部屋を出て洗面所に向かう。

「マリーは寝ちゃったんだ」

軽く戸を叩いたけど返事がなかった。起きてたら飲み明かせたのに。
洗面所の戸を開けて入る。

「祥子?」

声が聞こえた?

「 ? 」

モアッと煙が眼に入って、驚いて眼を擦る。少しずつ視界が開けてきた。

「あ、え? わっ! ご、ごめんなさい! 札、見てなかった」

シドがバスタオルを掛けて、髪の毛を乾かそうとしていた。持ってたドライヤーを置いて私を見た。
私ったら、戸に掛かってる札を確認してなかった。使用中になってたんだ。
大慌てで、私が出ようと戸に手を掛けたら、シドに腕を掴まれた。

「祥子、どうしました?」

ギクリとした。

「何でもないです」
「泣いてたんですか?」

グイッと腕を引かれたから、顔がシドを向いた。シドを見たらまた涙が出てきてしまった。
枯れたと思ったのに。

「泣いてないです。…湯気がついたんです」
「祥子」

私を呼ぶシドの声が、私の体を自然と動かした。

「シド…ごめんなさい。湯気が消えるまで」
「…」

シドの胸に顔を埋めてる。不思議と涙を堪えてる私がいた。
シドからエリックの香りが…違う。エリックの香りじゃない。似てるけど違う。

だけど、似てるんだ。

「シド…ズルイです」

新しく涙が出てくる。もう、止められない。
シドの腕が私を引き寄せた。

「泣き尽くしてしまいなさい」
「…ご、ごめんなさい」

私はシドの胸で泣きじゃくっていた。体中の水分が涙になって出てるのかと思えた。
ポタリと私の上から落ちてきた冷たい雫で、我に返る。
顔を上げたら、冷たい雫がシドの髪から落ちてたのに気づく。そして、シドの視線とかち合って恥ずかしくなった。
慌てて体を動かしたら、シドの腕が簡単に外れ、シドから離れる事が出来た。

「ごめんなさい。風邪ひいちゃいます。ごめんなさい」
「大丈夫?」
「はい。ごめんなさい」

洗面所から静かに出て一階に行った。コーヒーを入れる。二人分。
二階から戸が閉まった音が聞こえてきた。
ゆっくり階段を上がっていき、シドの部屋を叩いた。目の前の戸が開く。

「さっきのお詫びです」

笑う事が出来なくて、コーヒーの載っているトレイを見せる。

「入りますか?」
「はい」

シドに促されて、シドの部屋に入った。シドが机の椅子を出して私に勧め、シドはベッドに腰をかけた。
私はサイドテーブルにトレイを置いて、コーヒーをシドに渡す。

「ありがとう。音をかけましょうか?」
「いえ。大丈夫です」

椅子に座ってゆっくりとコーヒーを飲んだ。シドも飲んだ。
カタッとコーヒーカップがサイドテーブルに置かれた。
私も置いた。さっき我に返った時に気づいた事を言わなくては。エリックとは職場恋愛だったから。

「シド。明日から私に外の仕事をどんどん入れて下さい」
「分かりました」
「どんな小さいのでもいいです。とにかく、私、吹いていたい」
「理由、聞いていいですか?」
「…エリックと別れました」
「え? 君達は」

シドが驚いた。

「別れなきゃならなくなったんです」
「…そうですか」
「だから、暫く、私の中で整理出来るまで逃げていたいんです。公私混同してしまってすみません。でも、今、一緒に吹けない。音が創れない。シド、ごめんなさい」
「大丈夫ですよ。祥子には沢山の依頼が来ています。こちらに慣れるまではと思って削ってきてました。ですが、無茶はしないように」
「はい」
「辞める気持ちはあるんですか?」

こう聞かれてフルートを思い出す。私にはもうフルートしかない。この楽団を飛び出したら、ガド爺に泥を塗る事になる。そんな事は出来ない。

「辞めません」
「それを聞いて安心しました」
「ごめんなさい。シドと一緒に住んでいるからって甘えてしまって」
「いいんですよ。祥子も楽団の財産なんです」

優しくシドに言われて、気を張ってた心が溶けたように、また涙がこぼれた。

「…ありがとうございます。こんなのは慣れていた筈なのに。ごめんなさい。私ったら…恥ずかしい。私はこんな恋愛しか出来ないみたいです。何も意味が無い恋愛…ですね」
「祥子、意味の無い恋愛なんかないですよ」
「どうして? 最後は悲しいだけなのに」
「泣ける分、何かを貰ってるんですよ」
「悲しみを貰ってるんですか?」
「後でわかりますよ」
「…後で?」
「そう。今は、ただ泣いて落ち着けばいいんですよ」
「…なら…手伝って下さい」
「え? 私が手伝う?」
「ごめんなさい」
「…祥子」

さっきのように私はシドの胸に顔を埋めている。私はこんなに泣き虫だったのだろうか。私を気遣ってくれるシドを利用してる。一人になりたくなくて利用してる。
シドの腕が私を抱え込んだ。ゆっくりとベッドに寝かされた。シドの指が私の眼の淵を拭った。シドが私を覗き込む。

「祥子。私だって男なんだ」
「…えぇ」

結局はシドもエリックと同じ。男なんて抱ければ誰でも…いいのよ。もう…どうなってもいい。
シドの顔が近づいてくる。受け止める覚悟をして眼を閉じた。涙が出る。

( ? )

温かい感触がおでこに当たった。眼を開けたら、シドは私の額にキスしてる。その顔が私の耳元に落ちてくる。

「他の男を想ってる女に手を出す程、馬鹿じゃない。何も生まれないセックスなんかは、お金で出来る」

ドキリとした。私はシドを単なる男としてバカにした。だけど。

「ごめんなさい。シド、ごめんなさい。でも、でも」

私から離れようとするシドの両腕を掴んでる。

「私は抱く価値すらないの?」

シドが私を刺すように見た。

「わかった。祥子の望み通りにしてやろう」

シドが私の掴んでる手を振りほどきサイドテーブルの引き出しを開けた。取り出した物を私の目の前に確認させるようにかざす。見覚えのある小さい四角形。

「使うから」

シドの声が耳に入って私の体が強張った。シドはその四角の一片を、私の視線をその物に釘付けにしたまま、サイドテーブルの上に置いた。
シドがベッドに上がり、私の両脚の間に割って入る。シドの手が私の肩を出した。ゆっくりシドのキスを首筋に受けた。
私は視線をサイドテーブルの物に留めたまま固まっていた。四角を見てるのに滲んで円く見える。

その行為は愛してる人と…。

「シド…ごめんなさい…やめて…ごめんなさい」
「祥子が望んだんだ」
「シド…ごめんなさい。ごめんなさい」

私がシドから逃れようと体を動かすと、シドがそれを押さえつけた。シドの手が動く。

「シド…やめて。やめて…やめて」

シドの手が私の肩に服を戻した。押さえつけてたシドの力が抜け、私から離れ、私の横にずれた。私の頬に手が触れる。

「自分を壊すような事はしちゃ駄目だ。どうなってもいい、は逃げるいい訳で、後悔になる」
「ごめんなさい」
「今の祥子にはセックスよりもこっちのほうが効くんじゃないかな」

シドが私の体を引き寄せた。

「ゆっくりでいいんですよ。落ち着いて」
「はい」
「ちょっと寒いですね」

そう言って布団を掛けてくれた。布団の中でシドに体を預けてる。シドが私の頭を撫ぜる。
子供に戻ったみたいにまた涙が出てきた。

「私は、祥子の事が好きですよ」
「ありがとうございます」

シドの指が私の涙を拭う。

「私は今だに逃げているんですよ」
「シド…よく分からないけど、同じですね」
「そうだね」



私が寝た振りをしたら、シドが安心した様に眠りに落ちていった。
シドの寝顔を見て思う。

(エリックじゃなくてシドを好きになれば良かった)

可笑しくなった。結局、私の男を見る眼はどこも成長しちゃいない。
柴崎さんを思い出した。最後に贈った「別れの曲」、あれは、私にも必要な曲だった。曲が頭の中で響いてくる。思い出から希望にイメージを載せる。

エリックの事を忘れられないけど、なるようになる。

私は潤に三股かけられたんだ。免疫はある。フルートもある。シドだって、征司だってミリファだって居るんだ。エリックは同じ楽団の同僚。そう意識していかなきゃ。
私の居る場所はあの楽団しかないのだから。

シドの寝息が耳に入る。シドは私を愛してくれるだろうか。シドだったら私を悲しませる事はしない。そう思える。

シドの額に残された事故の跡が眼に入った。左耳から肩に向かって傷跡が走っている。
この事故はシドが愛した女性と一緒に遭遇したんだ。この傷跡は愛した彼女が残した物になる。

私はゆっくりとベッドを抜け出て、サイドテーブルのコーヒーカップの載ったトレイをそっと持った。横の使われなかった四角い一片が眼に入り、ドキリとした。
これがあると言う事は、シドは今迄一人って訳じゃなかったんだ。彼女を忘れさせてくれる女性に出会って無かったんだ。

(私だけが辛い思いしてきてる訳じゃない)

 「私は今だに逃げているんですよ」

シドの言葉の意味が分かった気がした。シドはまだ彼女を想っているのかもしれない。

静かにシドの部屋を後にした。


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