#58 無意識 <エリック視点>

文字数 5,300文字

(順番が違ってる)

祥子にシェリルとの事を話すのは、祥子が俺との事を思い出してからだった。それで祥子が許してくれたら、俺達は元通りに戻れる…筈だった。
予想外だった。祥子が妊婦と赤ちゃんに異常な反応を示すなんて。
それで、祥子と別れた経緯を俺から話す事になってしまった。
記憶が戻って無いのに、絵空事(えそらごと)の様な事実を突きつけられて、祥子は戸惑っている。本当なのか自分で分からないのに、受け止めなきゃならないから戸惑っている。

「祥子、俺、帰ったほうがいいかな」

そう声を掛けたら、祥子はゆっくり顔を横に振った。

「あなたが私を離したくないと思うなら…ここに居て。私、どこに向かったらいいか分からないから」
「分かった」

祥子がサイドテーブルからリモコンを取り上げてテレビを点けた。チャンネルを次々と替えていった。一通り回ってチャンネルが止まる。

「この娘。私、ケリーの為に音を創ったのよ」

画面にはスケート選手が映っていた。
選手の紹介が流れる。前の大会ではSPで転倒があったものの、FSで完璧な演技を見せ、逆転優勝を取っての出場。今回のSPはミスも無く僅差で2位につけている。

「私、ケリーに楽しく滑りやすい音を創れたの」

FSの演技が始まった。祥子が画面に視線を止める。音楽が流れる。

「え? この音…バイオリンじゃない」
「祥子、フルートの音だよ」
「フルート?」

祥子が俺を見る。

「そう。フルート」
「私、フルートは吹けないのよ。…でも、この音は…私、私が」

祥子の右手が額に当てられるが、視線はテレビに向けられ止まる。
画面では、ケリーのスケーティングが音にぴったりと合って…。いや、これは、祥子の創った音がスケーティングに合っているんだ。

病室の中が、テレビから流れる祥子のフルートの音で一杯になっている。
祥子の声が聞こえてくる。

「親の保護、挑戦、落胆、繰り返し、空、翔、未知の世界、可能性、偶然、出会い、すれ違い、恋、愛、一緒、安らぎ、営み、新しい命、…命の連鎖」

額に当ててた手が自然と下ろされて、祥子の指が動いてる。フルートを吹く指使いだ。

「命の…連鎖」

ケリーが満足のいく演技が出来たと、満面の笑顔で結果をコーチと待っている画面になった。
祥子がテレビを消した。

「ケースを取って」

フルートケースを取り上げて祥子に渡した。
祥子は鍵を外し、一瞬躊躇(ちゅうちょ)したが蓋を開けた。硝子のフルートを取り出す。慣れた手つきで組み立てる。

「覚えがないのに、こうしなきゃいけないって分かる。当たり前になってる」

フルートのリッププレートを拭いて、ゆっくりと構えた。唇から息を吹きこんだ。

 ♪~

A(ラ)の音だ。出てきた音に驚いて、祥子は唇を離した。ジッとフルートを見つめる。

「音が懐かしい。私、皆の言ってる通りなのね。フルートも吹ける…のね?」

俺に視線を向けたから、俺は慌てて頷く。

「祥子は楽団の中で、フルートトップの位置に居るんだよ」
「フルートトップ」
「そうだよ」
「なら、私がこんなじゃ、いけないのね」

フルートに視線を戻し、大きく深呼吸してから、祥子はフルートを構えた。

 ♪♪♪~♪♪ ♪~

テレビで流れてた曲だ。そのイメージが流れ出してくる。

親の保護、挑戦、落胆、繰り返し、空、翔、未知の世界、可能性、偶然、出会い、すれ違い、恋、愛、一緒、安らぎ、営み、新しい命、命の連鎖…

さっき祥子が呟いてたイメージが俺の耳に届く。
祥子は曲を次々と吹いていく。忘れてた事を思い出す様に休む間もなく吹いていった。
俺は祥子の音を懐かしく、嬉しく聴いていた。この音に早く合わせたい。そう思っていた。
音が()んでいたのにも気づけなかった。

「エリック」

呼ばれて我に返る。

「あ、ごめん。祥子の音が心地よくて」
「ありがとう。私は、フルートを吹いているのね。首を痛めたからバイオリンから移ったのよ。確か、征司に言われたの。征司は覚えているのかしら」
「征司も覚えていたよ。首を痛めたからって」
「そう。覚えていたのね」

嬉しそうに笑う祥子を見て、ホッとしている俺が居た。フルートをケースにしまいながら、祥子が言う。

「このケースは…あなたから頂いたのかしら?」
「思い出した?」
漠然(ばくぜん)とそんな気がしたの。二本入れられる仕掛けがあるなんて驚くもの。あなたは良く私を驚かせてた…そんな気がした…から。あら、変ね。そう思えたの」
「当たりだよ。俺はよく祥子を驚かしてた」

少しずつ、祥子の記憶が繋がってきてるのかもしれない。祥子が記憶に向き合ったからかもしれない。

祥子がまたテレビを点けた。丁度、ケリーがインタビューに答えてる画面だった。

「この音に出会えたから、私は優勝出来たんです。私、約束、約束したんです」

そう言いながらケリーはメダルを振って見せてる。

「祥子に見せてるんだね」

俺がそう言ったら、祥子は嬉しそうに笑った。



夕食を買いに出たついでに、少し看護師と話した。了解を取り、手続きをする。祥子の病室に戻って一緒に食べる。

「病院食って味気ないわ。私は何でも食べられるのにな」
「交換するかい?」
「いいの?」
「いいよ」
「なら、半分にしましょ」

そう言って祥子は器用に半分にする。確かに病院食は味気ない。そんなのをずっと食べてる祥子は飽きてきているんだろう。
食べ終えてから俺は祥子を促す。

「祥子、これから少しだけ外に行こう」
「え? そんな事しちゃっていいの?」
「ちゃんと手続きしてきてる。祥子は脚の骨折だけだから大丈夫さ。車椅子になるけど」
「嬉しいわ。外なんて何日ぶりかしら。着替えなきゃ」
「あっ、祥子っ…」
「何? あっ、やだ。ご、ごめんなさい。まず、着ていく服出さなきゃいけなかったわ」

大慌てで祥子は、はだけた前を手で押さえて閉じる。

「俺、外、出てるから」
「う、うん。…ごめんなさい」

祥子は嬉しかったのか、パッパと着ていた服をはだけていくから俺は真っ赤になっていた。
眼に入った祥子の肩が白く映っていた。祥子は日本人。黄色人種なのに、その肌の色は白く映った。確かに俺達と比べると違う。だけど、そんな事気にならない位白かった。

(その肌に触れた時があったな)

思い出されてきて、ますます照れてしまった。
暫くして戸が開いた。祥子は暖かい格好をして車椅子を押して出てきた。その顔を見てドキリとしている。病室だから素顔を見ていたんだ。化粧をした祥子の顔にドキドキしていた。
俺が車椅子を押して行く。

「車椅子だと脚が突っ張っちゃって大変よ。松葉杖の方がいいんじゃない?」
「大丈夫だよ。ここはそういう人達にも親切な街だからね」
「そうなの?」
「そうさ。日本もそうじゃないのかい?」
「日本はここ最近なのよ。私、今この状態になって初めて分かったわ。日本でも整備はされてるけど、それを利用しちゃう健常者が多いのよ。いざ、こんな人が居ても使えないの。駐車場なんか特にそうよ。実際、車椅子の人を外で見かける機会が増えてきてるから良くなっているんだろうけど。それでも健常者にとって邪魔者扱いになっているわ」

国政の違いなのかもしれない。日本は経済や産業では先端を行くかもしれない。だけど、福祉の面では遅れているんだ。

病院を出る。病院のある場所が街中から離れているが、傍に学校があるから大きな広場がある。その通りがクリスマスマーケットで賑わっている。両脇の小さいお店もクリスマス飾りで賑わっている。

「綺麗ね」
「そうだね。祥子、寒くないか?」
「大丈夫よ。もう少しお店に寄って」
「分かった」

祥子は店先のディスプレイを見て嬉しそうに歓声を上げる。俺達の周りを子供達が走り抜けて行く。陽気な曲が流れている。

「クリスマスってヨーロッパが本場よね」
「日本だって祝うんだろ?」
「そうよ。でも、やっぱりどこか違うのよ。何でかしら。暖炉が無いからかなぁ」
「ここだって暖炉が無い家が多いさ」
「そう?」
「そりゃ。今は薪よりも電気だからね」
「そっか。サンタクロースも大変ね。エアコンダクトから入ってくるのね」
「エアコンダクト?」
「窓からだと泥棒になっちゃうわよ。あら、エリックったら、そんなに笑わないで」
「エアコンダクトなんていうから」
「もうっ。冗談よ」

祥子が自分で車椅子を動かして行くから、追いついて押して行く。
道が交差してる真ん中に大きなクリスマスツリーがあった。電飾で眩く光る。
その周りでカップルが座って話してたり、親子が笑ってたり、大道芸人が芸を披露している。祥子と芸を見て楽しんだ。芸が終わり、戻ろうとしたら音が響き渡った。

 ♪ ~

「あら、バイオリンの音ね」
「どこからだろう」

ツリーを回って行くと、反対側でバイオリンを弾いてる女の子がいた。

「上手ね」
「そうだね。上手だ」

女の子が弾き終わって、集まってきた人達に頭を下げた。拍手が贈られた。顔を上げた女の子が俺達を見て驚いた表情を出した。祥子と俺に女の子の視線が行ったり来たりしたのを感じていた。祥子も気づいたようだったが何も言わなかった。
女の子がバイオリンを構えた。

ホワイトクリスマス

どこからともなく歌声がしてくる。祥子も口ずさんでいる。俺だって。
祥子の手が動いてる。バイオリンの弓を掴む形だ。
拍手が起こり、女の子が片付け始める。集まってた人達も帰り始める。

「祥子も弾いてみるかい?」

そう声を掛けたら、祥子は首に手を当てた。

「…少しだけ。バイオリンも楽しいし」

俺が女の子に話しかけてバイオリンを貸して貰い、祥子に渡す。
ゆっくり祥子がバイオリンを構えた。少し痛そうに顔をしかめた。

星に願いを

ゆっくりと弾いていく。

 信じて…願いは叶う。信じて…信じて

帰り始めた人達の脚が止まる。祥子の音が響き渡って、この場所一帯に響き渡って、人の脚をここに向かわせる。いつの間にか人集(ひとだか)りが出来ている。
女の子が横で驚いて聴いている。

「ひとつのバイオリンから、奏者毎に色んな音が創れるんだよ」

女の子に声を掛けたら、大きく頷いて俺を見る。

「分かります。この音を聴いたら…。でも、彼女はフルートじゃなかったですか?」
「知ってるの?」
「この前の演奏会を聴きましたから」
「君はどっちの音が好きかな?」
「どちらも好きです。いい音です。祥子・苅谷の音は大好きです」

祥子が弾き終わったら、大きな拍手が沸きあがった。祥子が車椅子に座っているから、後ろで聴いてた人達は伸び上がって、誰が弾いているのか見ようとしている。

「祥子・苅谷だ」

誰かが口にした。その名前が波紋の様に広がっていった。自然とアンコールの手拍子になってくる。困った顔で俺を見た祥子に、俺は笑って頷いて返す。
祥子がバイオリンを構えたら、一瞬で静まった。

 ♪~

きよしこの夜

祥子の音は通りすぎる車の音も、どこかで鳴ってる鐘の音も、店先で流れてる音も消していく。祥子の音だけが耳に届いてくる。動いてた人も動作を止める。そんな聴かれる音を創りだしてくる。

静かに祥子が音を止めた。拍手が響き渡る。この音をもっと聴きたくなってるのか手拍子が響き出す。祥子は困った顔を俺に向ける。首に手を当てて「もう痛くて駄目なの」と言っている。それでも、手拍子が祥子に向けられてるのが分かるから、バイオリンを構えようとする。

「祥子、俺が弾く」
「え? 弾けるの?」
「そりゃね。征司よりも上手いさ。祥子よりもね」
「あら。なら、弾いてみせて」

バイオリンが俺の手に渡る。観客が残念そうな声を上げた。それも一音で消える。
この時期だからクリスマスソングを。祥子と聴いてくれる皆に、一時(ひととき)の幸せを。

 ♪♪♪♪ ♪

祥子が俺を見ている。驚いてた表情が嬉しそうに変わった。チェロの音を聞かせたかった。そう思った。だけど、バイオリンでも伝える事は出来る。

 「祥子、好きだ」

直ぐに祥子に伝わったのが分かった。俺を見て戸惑っている。
アンコールが響き、もう一曲。その時には祥子の手が俺の服を握り締めていた。

人の頭の波の上からフラッシュが光った。それで俺と祥子は集まってきた人達に頭を下げて、そこから立ち去る事にした。

「シドに怒られちゃうかしら。写真撮られちゃったわ」

車椅子を押している俺に、祥子が顔を向けて言った。

「ギャラ貰ってないから大丈夫さ」
「そうよね」

そう言って、俺の後ろに視線を飛ばした。俺の後ろにはクリスマスツリーだ。

「綺麗なツリーね」

そう言って前を向く。

「エリックの音、最高だったわ。私、好きよ」

俺の耳に入って来た。

「あ…ありがとう」



- #58 F I N -


恋人とバイオリンを響かせる夜。熱愛再び?
ウィーンの楽団在籍のフルート奏者、祥子・苅谷とチェロ奏者、エリック・ランガー。
ロンドン、クリスマスマーケット広場にてバイオリンを奏でている二人を当記者が目撃。
本職以外の楽器を奏でている事に驚いたのは当記者だけではないだろう。
二人が奏でたバイオリンの音はキリストが祝福しているかの様な響きを()せた。初めて(おおやけ)の場で奏でた、祥子・苅谷のバイオリンの音は賞賛(しょうさん)するに(あたい)すると思われる。
広場に居た誰もが二人の音に幸せな一時を過ごしていただろう。
列車脱線事故によりロンドンで療養中の祥子・苅谷の元へ、エリック・ランガーが見舞いに来ていた時の一コマである。

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