#8 定期演奏会 <征司視点>

文字数 6,519文字

ガド爺のスケジュールはびっしりで、俺達の楽団の首席指揮者と言っても、ずっとここで棒を振っている訳じゃない。ゲストで呼ばれたり、気ままに自分で演奏会を企画したりと不在の場合が多い。
ガド爺が指揮をする演奏会は、数日のリハが地獄の様になる。
短い時間に全ての要求を伝えてくる。それが本番に完璧に出来て当たり前にされる。

俺だって楽団以外の演奏会に出かけている。それが、今月はガド爺から「ここに居てくれ」と念を押されていた。エリックも同様だ。

その訳が分かった。
最終リハの後、残る様に指示がでていた楽団員数名に、ガド爺が楽譜を配る。

 メンデルスゾーン、ヴァイオリン協奏曲ホ短調

「直前で申し訳ないが、カーテンコール用に、この第一楽章を完璧にして貰いたいんじゃ」

皆、楽譜を受け取って本来の楽譜と違う事に気づく。バイオリンではなくフルートソロ用だ。ざわめきが起こる。

この場所にフルート奏者は一人も呼ばれていない。

「祥子を呼ぶんだな」

エリックが譜面を前に立てながら、俺に囁いた。

「そうだろな。あのガド爺だ」
「祥子の風邪次第だろな。今朝迄…っと」

エリックが口を滑らせた。今朝迄って聞えた。

「おい、エリック。お前、祥子に何かしたのか?」

エリックが譜面をめくり始める。

「おい」
「…看病だけだ」
「何?」
「昨夜、祥子に会ったら熱が出てて、それで心配だったから、朝迄看病してた」

エリックと祥子が朝迄一緒だった。それを聞いてドキリとしていた。
どうしてだろう。

(同じ日本人だからか)

俺のほうがここに長いから、ここに初めての祥子を守ってやりたい気がしていたのだろう。
特に男からは。エリックが危ないヤツって事ではないが。
俺が答えないからエリックが慌てて付け加える。

「祥子、ホームシックになってた」
「ホームシック?」
「強制的に追加公演が入って、その後、各地で公演が決まっただろ。一気に寂しくなったみたいだ」
「すぐ帰れると思ってたんだろうな」

俺は留学で来てたから覚悟は出来ていた。筈なのに、俺だってホームシックになった。今だから懐かしく思い出せる話だ。

「征司もそうだったよな」
「あぁ。エリックと遊んでたら、そんなの吹っ飛んでったけどな」
「誰でもなっちゃうんだな」
「で、祥子の具合は?」
「昨夜より熱は下がってた。今日一日休んでれば」
「だけど、明日来たらこれだぞ。これ」

楽譜を叩く。

「そうだよなぁ。祥子にとっちゃ、試練の日になっちゃうな」
「俺達だって相当辛いぞ」

 トントントン

ガド爺が譜面台を叩く音が耳に入る。俺は急いで楽譜を譜面台に並べていく。
これから、イメージ合わせが始まる。
音を合わせる時になって、初めてガド爺が事を明らかにした。

「フルートは皆の知っている、聞いてると思うのじゃが、最近噂になってる、ミス 祥子・苅谷に頼むつもりじゃ。そこで、各トップ、又はセカンドの位置に居る皆にお願いがあるのじゃが」

ガド爺のお願いを聞いて皆がざわめいた。

「分かっとる。皆の言いたい事は分かる。「何故? どうして?」じゃろ? その訳はランス個人の問題じゃ。そして、その問題はこの楽団全体の問題にもなってくるのじゃ」

ランス・ダッカードはフルートトップだ。確かシドと同期。

「今やらねばならん事は、ランスの問題を追及する事じゃない。祥子の音に合わせる。それをしなくてはならない。皆の技術なら出来ると踏んでおる。征司、大変じゃが頼むぞ」
「はい」

夜遅くまで練習が続いた。



「疲れたわねぇ。征司、早く帰りましょ」

ミリファが俺の腕を取る。演奏会前の緊張感を振り払う彼女の習慣だ。前夜は一緒に夜を過ごす。

「飯はどうする?」
「何か食べて帰ろ。あ、エリックも一緒にご飯どう?」

ガド爺の部屋から出てきたエリックにミリファが声を掛けると、どこか嬉しそうな表情のエリックが俺達に気づいて取り繕った。

「えっ? あ、ミリファと征司か。あ~、俺、俺は用あるから遠慮しとく。お二人の時間を邪魔したくないしね」
「あらっ。そう? 珍しいわね。じゃ、明日ね」
「あぁ。お二人さん、お休み」
「エリック、明日な。お休み」

「エリックったら何か嬉しい事でもあったのかしら」

エリックの背中を見送ったミリファが呟いた。



ミリファと食事を終えて家に帰りつく。電気を点ける。

「なかなかルームメイトが見つからないのね」
「あぁ。俺が練習するからな」
「同じ音楽家じゃないと難しいのかしら」
「そうだろうな」

鼻歌を歌いながらミリファが空き部屋の戸を開けた。
ここ半年その部屋は使われていない。前の住人は、音楽を諦めて帰っていったんだ。
リビング兼キッチン以外に部屋が両脇に二つある。俺が一部屋使っている。

俺がここに決めたのも、友人がルームメイトを探してたからだった。
その友人は国に帰って音楽活動に励んでいるのを耳にする。
それから、その部屋の持ち主が3回変わった。
俺は相変わらずここに住んでいるが、ここの窓から見る景色が気に入っているから動かない。街中から外れているから家賃も安い。それも理由だ。

「私が来ようかな」
「親父さんが離さないだろ」
「それに家賃払うのも大変だから無理ね。女の場合は、色々必要になるし」

そう言ってミリファは髪の毛をかき上げる。ふわりとカールされた髪の毛が舞った。

ミリファは楽団専属になっている。個人での演奏は滅多にない。トップ奏者と言えども、名前が売れなきゃ意味が無いんだ。
俺やエリックはコンクールで最高の賞をとりまくって、更にガド爺の後押しがあったから名前が売れた。お陰で、楽団以外からのギャラも入ってくるし、ギャラ自体もいい。
名前を売るにはスポンサーが必要って事だ。

「そのうち決まるだろ。気長に待つさ」
「女の子だったらいいって思ってるんでしょ」
「ま、まさか」
「ほらほら~」

ミリファが空き部屋の戸を閉めて、俺の首に腕を回してきた。

「征司を好きなのは私だけよ。忘れないで」
「あぁ」

ミリファの唇を受け止める。流行りの香りが漂っている。どこかスパイシーな誘い込む香りだ。
ミリファは、明日の演奏会の緊張を()がすために俺と肌を合わせる。ミリファのお陰で俺も前日の緊張から(のが)れられている。



ミリファと付き合う前の俺は、寝るに寝れない状態だった。コンマスになって全体を纏める重責に潰されかけていた。そんな時にミリファに声を掛けられた。

「コンマスは指揮者と同じね」

そう言われて気づく。ガド爺は棒で支持を出す。俺は自分の音で(まと)めている。
この音で支持を出していいのか? 俺の音はこんなものじゃないと思うのに。

「ミリファは自分の音に満足出来ているのか?」

そう問いかけた。

「今この瞬間の音は満足してるわよ。そんな音を創っているもの。もし、征司が満足できていないのなら、それは(おご)りよ。観客に満足していない音を聴いて貰う事になるもの」
「…」

ミリファに言われて何も答えられなかった。

「征司だって観客に自分の最高の音を聴いて欲しいって弾いてるでしょ?」
「あぁ」
「今出来る最高の音は満足出来ている音よ。観客だって馬鹿じゃないもの」
「そ…そうだな」
「征司は満足する事をゴールにしちゃってるから物足りないのよ」
「…物足りない?」
「私達の満足って上書きしていくものだと思うの。征司の音は認められているのだから、征司も自分の音を認めてあげなきゃ」

自分の音を認めていなかったのか。
今出来る最高の音は満足出来るから出せる音なのか。エリックがよく言う「最高の音」はこういう事なんだな。

その時からミリファに惹かれていたんだと思う。ミリファのアプローチが始まっていたとは思わなかったが。



唇が離れて、ミリファが俺を見て不思議そうに声を掛ける。

「ねぇ、何、笑ってるの?」
「ミリファと付き合えて良かった」

ミリファがくすっと笑う。俺の鼻の頭に指を軽く当てて言う。

「征司を口説き落とすの苦労したんだから」
「そうか?」
「そうよ。…ルームメイトずっと決まらないといいな」
「どうして?」
「こうして、おおっぴらに抱き合えないじゃない」
「それは別。部屋に行こう」
「うん」



楽屋でクラウスとシドから本番の連絡事項を言い渡され、準備をしてから小部屋に(こも)る。
ミリファは小部屋の中では本に集中している。俺でも部屋に入ると怒られる。
エリックは小部屋には籠らずにあちこち動き回っている。直前に小部屋に入って集中している。
俺はリハの音を聴きながら、最後の調整に入る。全ての音を引っ張る為の確認だ。

突然イヤホンが外される。振り向くとミリファだ。

「時間だよ」
「分かった」

楽屋の中は、団員が舞台に向かって移動始めている。
俺達は最後のほうでいいから、暫くはここで待機していられる。

「頑張ろうね」
「そうだな」

ミリファとキスを交わしていたら、声が掛かる。

「おやおや。いつもお熱い事で」

エリックの声だ。顔を上げると、エリックの横に祥子が驚いた顔で居た。

「ほっとけ。あ、祥子、聴きに来たのか」

祥子に見られて恥ずかしい気がしている。ここだからオープンだけど、そんな雰囲気に慣れてしまっている自分が恥ずかしくなる。

ミリファの声が聞えてきて我に返る。

「誰?」
「彼女は祥子。フルート奏者」
「新聞に載ってた子ね。征司、あなたと同じ日本人」
「そうだ」

ミリファが俺から離れて祥子の傍に行き、英語で挨拶して戻ってくる。

「日本人って真面目そうね。彼女は私より年上なのかしら?」
「俺のひとつ下ってガド爺が言ってたからそうだな」
「そう。フルートの腕前は相当なんでしょうね」

皮肉めいた口調だった。

「ガド爺が認めたんだ。俺もエリックも認めた音だった」
「そう」



 ♪ ピーッ

短い音が響き渡った。

「ミリファ、行こう」
「うん」

最後に楽屋を出た。いや、まだエリックが残ってたな。走ってくる足音が近づいてきて、俺達を追い抜きざまに声がする。

「お二人さん、おっ先~」

エリックの顔が少し赤くなっていた。

「あら。やっぱりエリックったら嬉しい事があったのかしら」

ミリファは背を向けてたから気づかなかったのだろう。俺はミリファとキスしながら、祥子がエリックの小部屋に引きずり込まれたのを目にしていた。

(エリックのヤツ、祥子に何かしたのか?)



舞台袖でエリックとミリファの背中を見送った。楽団員が全員座ってから俺が舞台に向かう。これはコンマスの慣習だ。
最高の音を奏でる。そんな気持ちと一緒に指が揺れた。

(俺も緊張してたか)

可笑しくなった。そうだな。誰でも緊張するんだ。今度は掌がブルッと震えた。エリックが最後に席に着いたのを見て、大きく息を吸い込んでから足を踏み出した。

今日はひとつだけ問題がある。
フルートトップのランスが来ていない。突然の欠席だ。その理由は容易く想像出来た。ガド爺の話が大まかな概要を伝えていたからだ。
そうなるとセカンド奏者がトップを引き継がなきゃならない。セカンド奏者としては緊張しているはずだ。フルートを纏めるのは無理だろう。ミリファ(木管楽器)と俺で纏めないといけなくなる。

俺が席に着いてからガド爺が入ってくる。

ガド爺の棒が俺に向けられた。「頼んだぞ」そう言っている。そして勢いよくガド爺の棒がしなる。

 モーツアルト、交響曲39番

大丈夫だ。フルートのわずかな乱れをミリファが修正して引っ張っている。全体の音を聴きながらガド爺の棒の指示を全体に反映させていく。

ふっと頭に祥子の事が浮かんできた。祥子の音。あの音を聴かせてくれたお礼に、俺の最高の音を祥子に贈ろう。

 ピアノ協奏曲 変ロ長調

ガド爺が満足そうに棒を止めて休憩が入る。

祥子の座っている場所はVIP席だからあの辺だ。視線を飛ばすと祥子が拍手しているのが眼に入った。
ガド爺が俺の前を通りながら声を掛けてくる。

「征司、最後に祥子とソロ対決じゃ」
「あ、はい」

ガド爺から楽譜が渡された。眼を通すと メンデルスゾーン、ヴァイオリン協奏曲ホ短調 の第一楽章だ。これはオリジナルだ。今月ここに居るように言われた際に、念入りに練習しとくように言われていた。

俺のソロと祥子のソロを重ねるって事なんだろう。
祥子は試されているんだ。この楽団員全員に認めさせる為、ガド爺は祥子に試練を与えようとしている。

 ショスタコービッチ 交響曲10番

ガド爺が嬉しそうな顔をして指揮台に上ったから、楽屋裏では問題無く話が進んだのだろう。観客席に祥子の姿は無い。祥子は既に囚われの身って事になる。
この演奏が祥子に届いていないのが残念だが、次の曲が楽しみになっていた。

ガド爺が花束を受け取り一旦舞台から引っ込んで戻ってくる。

ガド爺が観客に一言言った。楽団員が息を呑んだ気がした。それもそのはずだ。俺等の楽団が利用されているんだ。それも、一人のフルート奏者の為だけに。
俺やエリック、トップ、セカンド奏者は昨日聞いてるから驚きはしなかった。それでもこれから始まる演奏がどんな意味を持つのかを知っているから、苦々しく思っているはずだ。ミリファだって祥子の事を聞いていたのに、そ知らぬ振りから始まって、皮肉交じりになっていた位だ。

楽団員は活動していくうちにひとつの連帯感を持つようになってくる。それを外部に壊されて不満の無いほうがおかしい。
俺は、そうだな。祥子の音を聴いているから納得は出来る。ただ、その理由が分からないから手離しで喜べないんだ。

祥子が出てくる。観客の視線とは全く異なった視線が楽団員から向けられている。
準備が出来ているのに、祥子は戸惑っている。初対面の楽団だから戸惑っている。

 ♪

俺はA(ラ)の音を短く弾く。調律(チューニング)だ。思い出したようにオーボエがAの音を吹いた。再度Aを弾くと他の楽器が続いた。
俺等だってプロだ。どんな内情があろうとも、観客がいる限り最高の音を奏でたい。その想いは皆同じだ。

祥子のAの音が響き渡った。静まってる劇場の中が更に静まり返った気がした。楽団員全員の耳が祥子の音に聴き入ったんだ。

ガド爺の棒が鋭くしなった。

 メンデルスゾーン、ヴァイオリン協奏曲ホ短調 フルート編曲

祥子の音に合わせていく。全ての音が纏まっている。初めて合わせる祥子の音に合っている。いや、祥子の音が合わせてきている。さっきの調律で俺等の音を知ったからだ。

俺等の音をベースに祥子の音はソロだというのに出しゃばらずに流れていく。それなのにフルートの音が耳に残る。ソロの役割を充分に果たしていた。
途中で祥子の楽譜が譜面台から飛び散った。楽団員の視線が祥子に集まる。「慌てるぞ」そう思ったんだろう。ところが、祥子はガド爺に集中して演奏を続けていく。

(たいした度胸だな)

終わりに近づいてガド爺が祥子に最初に戻ると指示を出した。祥子は不思議そうにだが了解を返した。すぐにガド爺が俺にオリジナル最初に移ると指示を出してくる。

もしかすると、祥子には何も知らせていないのかもしれない。

(とんでもない試練だな)

第一楽章が終わりになり、ガド爺は皆にそのままの指示を出す。綺麗に音を切ってから、ゆっくりと棒が動いた。祥子と俺に向けられている。

祥子が驚いている。ガド爺の指示が止ったからか、俺に視線を移した。
フルートの音が控えめになった。俺はオリジナルのソロを弾いていく。このメロディーは祥子だって知っている筈だ。楽譜が無いのは痛いかもしれないが。

祥子の選択肢は三つ。本来のフルートパートに移行するか、ソロのままか、俺のメロディーに合わせていくか。

直ぐに決断された。祥子はソロのまま奏で続ける。
フルートの音とバイオリンの音だけが響き渡っている。

控えめに聴こえていたフルートの音が、俺に合わせているのに気づく。俺のメロディーとの調和がおかしくなる箇所は上手く俺のメロディーに摩り替えて吹いてくる。

祥子の音が優しく響いてくる。異なる音質なのに惹かれあっている。この感じ、覚えがある。
俺の音が惹きたてられている。なら、俺も祥子の音を。

 ♪~♪~♪~♪

ガド爺が嬉しそうに、棒をゆっくり止めた。
静寂が訪れて直ぐに拍手が沸き起こった。

楽屋だったらガド爺さながら抱き締めていたかもしれない。ソロが二つ。それが見事なデュオ(二重奏:DUO)になったんだ。
俺は祥子の手をとり、軽く挙げる。
大喝采に変わった。



- #8 FIN -
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