#14 重圧 <祥子視点>
文字数 7,319文字
今迄の視線の意味が分かった。
朝食しに行ったら呼び止められた。
学生っぽい男性だった。たどたどしい英語で声を掛けてきた。
「ミス 苅谷?」
「そうです」
知らない人には警戒心丸出しになってしまう。名前を呼ばれているのに。
そんな人間相手に、声を掛けてくるほうが戸惑うのは当たり前だろう。
「あ…。えっと…」
「何か?」
頑張って笑顔を出してみた。男性が逃げ腰になりつつも、一生懸命声を出そうとしてるのが分かった。声が出せなかったのか、握られてた紙を、私に見せるようにして開いた。
そこに英語が書かれていた。この紙に書いてきた言葉を口で言おうと思って来たけど、私の態度が硬くて言えなくなったんだろう。英語を習って初めて外人さんと話した時を思い出した。
通じなかったらどうしよう。言ってる事が聞き取れなかったらどうしよう。
今は、ここに来る前にガド爺と知り合ったから、英語のスクールに通って、ある程度大丈夫になっている。
紙に書かれている言葉を読んでいく。
昨日、あなたの音を聞きました。とても素晴らしかったです。
「ありがとう」
ドイツ語で男性に声を掛けたら嬉しそうに笑った。私だって嬉しい。それを伝えるのに言葉の壁が邪魔になるのは、人間に与えられた罰なのだろうか。
「学生?」
学校で習う簡単な構文に単語を埋めて、男性に話しかけた。
「はい。大学生です」
「何か楽器弾いてるの?」
「はい。トランペットを吹いてます」
「頑張ってね」
「ありがとうございます。※◆▽・・・」
男性がドイツ語で言いかけて、大慌てで口を閉ざして考えてから声を出す。
「苅谷さんのフルートと一緒に奏でてみたいです」
「ありがとう」
男性が離れて行って、周りを見ると、新聞から顔を覗かせて私を見ている。
「祥子はこの一週間で有名人になったんだ」
エリックの言葉を思い出して恥ずかしくなった。
私の知らないうちに評価が一人歩きしている気がする。
気恥ずかしくてパンが喉に詰まる。
☆
練習に行く準備が出来て、早々にホテルのロビーに行く。
目立たない隅のソファーに座って、今か今かとエリックからの電話を待っている。電話待ちなんて久々だ。
♪
少し鳴って止まった。
「あれっ?」
「祥子」
声が掛かる。エリックの声だ。顔を上げるとエリックが笑って私を見ていた。
「祥子、おはよう。待たせちゃったみたいだな」
「エリック、おはよう。早く支度が出来たから」
「そうか。じゃ、行こうか。地下鉄で行くよ」
「うん」
二人でホテルを出て地下鉄の駅に向かう。歩きながらカノンからのメッセージカードを見せる。エリックが内容を教えてくれた。そしてカノンについても教えてくれる。それを聞いて、お昼にお礼のカードを出す事にする。
電車に揺られながらエリックが新聞を広げた。
「昨日の事が載ってるんだ。祥子は新聞読んでないだろ?」
「うん。ドイツ語は読めないから」
「読むよ」
定期演奏会のカーテンコールに祥子・苅谷が登場するとは誰にも想像つかなかった事だろう。彼女の音がここで聞けた事を感謝したい位だ。この楽団のコンサートマスターであり、世界的バイオリニストに成長した征司・北見とのデュオは、偉大なる作曲家モーツアルトですら拍手を贈るのではなかろうか。
尚、祥子はこの楽団に所属する事になったとの発表があった。今後も彼女の音が国内一の楽団の中で聞けるのは嬉しい限りである。
「祥子は認められたんだ」
私はエリックの読んでる傍 らで、新聞の見出しに眼が止まっていた。この単語はなんとなく分かる。
「エリック。ここ、何て書いてあるの?」
見出しを指さすと、エリックが私を見てから真顔になった。
「シンデレラはガラスのフルートを持っている」
「そ、そう」
記事は嬉しい話なのに、練習場に着くまで私とエリックは喋らなかった。
建物に入って直ぐに監視員に足止めされる。エリックが通訳してくれる。
「祥子はID貰って無いよな」
「うん」
エリックが監視員と話したら、監視員がどこかに電話をした。直ぐにシドがやって来た。
「祥子、エリック、早かったですね。えっと、祥子は暫く仮IDを使って下さい。これです」
「はい」
カードが手渡された。私の身分証明だ。シドが私達を促して行く。
事務所に通され機械の前で立ち止まる。
「IDで出退勤ってのは日本も同じですよね?」
「はい」
「ここにかざして打刻です」
エリックがIDをかざすとピッと音が鳴った。私も真似してIDをかざした。
「帰りも忘れずにお願いします」
「はい」
「午前中にIDの写真を撮りましょう。迎えに行きますから。じゃ、後はエリックに案内して貰って下さい」
「はい。ありがとうございました」
シドが自分の部屋らしき戸を開けて部屋に消えて行った。
エリックが建物の隅々迄教えてくれる。
「各パート毎の練習部屋があるんだ。中にトップ用の小部屋があって集中して練習出来る様になってる」
フルートの練習部屋に入る。
「広いんだね」
「プロだからね」
エリックがトップ用の小部屋に向かう。戸に「祥子・苅谷」のプレートが付いていた。
「さすがシドの仕事は早いや。ここは祥子専用だから好きに使えるよ」
「うん」
戸を開けて中に入る。小さくてもここなら誰にも邪魔されずに打ち込める。録音する為の機材も揃ってる。
「凄くいい待遇なんだね」
「トップは定期演奏会以外の練習もあるからね。じゃ、俺はここまでだな」
「エリック、ありがとう」
エリックがポンと私の肩を叩いて出て行った。
小さい机にフルートケースを置いた。…昨夜は開けられなかった。
椅子に座ってゆっくりケースを開けた。あるはずの硝子のフルートは無い。
以前使っていた金属のフルートを前に緊張している。
以前はずっとこれを使っていたのに。これで賞を取っていたのに。
なのに、霞 んで見える。
シンデレラはガラスのフルートを持っている
重く圧 し掛かってきた。
☆
金属ってこんなに冷たく感じる物だっけ。
昨夜するはずだった手入れをしながらフルートを組み立てていく。組みあがったフルートを前に深呼吸した。
いつもの様にリッププレートを拭いて唇に当てる。ゆっくり息を吹き込む。Aを吹く。
♪
慌てて唇を離す。
(こんな音じゃない)
音階をなぞっていく。何度もなぞっていく。
音が…違う。違うんだ。音質が違うのは分かっている。だけど…だけど、違うんだ。
…物足りない。
昨日の楽曲を吹いていく。
情景が刷り込めない。感情が載せられない。
私は硝子じゃなきゃ吹けない? 私はフルート奏者なのに吹けない? 正統なフルートを吹けなくなった?
ここで練習する事にして良かったと思い始めている。
こんな姿、バレエの練習で見せられない。硝子のフルートだから成功したなんて思われたくない。
「最高の音が出せなくなったら、それはお終いを意味するのですよ」
シドの言葉が響いた気がする。
この音をなんとかしなくては。硝子の音に近づけなきゃ。
☆
戸が叩かれているのに気づく。小窓でシドが来ているのが分かった。戸を開ける。
「集中しているところすみません。IDの写真を撮りに来て下さい」
「はい」
小部屋を出たら、フルートパートの人達が来ていたのに気づいた。部屋にフルートの音が響き渡っていた。昨日はパートの人達とは何も話していない。中央に座ってる人はアガシと言う人だ。
パートトップの仕事は追加公演を終えてからとなっていて、今は自分の事にかかりきりになれるのがありがたい。
シドに連れられて軽く頭を下げてから部屋を出た。
「今日こちらで練習されるとは思いませんでしたよ。今日は少し顔出すだけかと」
シドが声を掛けてきた。
「皆、硝子のフルートでの私を絶賛しているから」
不安なんです…とは続けられなかった。
「材質が違うといっても同じフルートなんですよ。それぞれの最高の音を奏でて下さい」
「最高の音…」
それが難しいんです。
写真を撮って部屋に戻るとアガシに声を掛けられる。
「祥子、こっちに来て。皆を紹介するから」
「はい」
椅子に座ると、アガシが皆に向かって口を開く。
「祥子も我々も学校で習った英語を思い出して会話をしていこう。オーストリアも日本も英語圏じゃないから、恥ずかしい事じゃない。辞書と友達すればいい。今は翻訳アプリもあるし」
トンとアガシが携帯を叩いた。皆が笑う。
(そうだ。翻訳アプリってのがあったじゃないっ!)
自己紹介が始まる。私がトップになったからには皆を纏めないとならない。フリーでゲストじゃない分、こんな責任もあるのか。
それよりも、私を認めてもらわなくては。
英語だからか、皆遠慮がちな笑顔になっている。一通り終って私に視線が集まる。
「祥子・苅谷です。突然で驚いたと思います」
「ランスの理由は皆知ってます。気にしないで」
アガシの声が割って入る。皆が頷いている。
「ありがとう。ドイツ語は皆に教えて貰う事になります。宜しくお願いします。あと…」
声を詰まらせていたら、アガシが言う。
「フルートの事も知ってます。ランスに壊された」
「知ってる?」
「はい。皆」
「なら、聴いて貰ったほうが早いのね」
小部屋からフルートを持ってくる。皆の視線が金属のフルートに集まる。
譜面台に置いてあった譜面に眼を止める。バッハ パルティータだ。この曲はこのフルートで吹いた時がある。なら、大丈夫。あの時の様に丁寧に…。
♪~♪~♪
(あ…)
情景が浮かぶ。音に盛り込める。大丈夫。大丈夫だ。
最後の音を止める。拍手が向けられた。
「この音になっちゃったけどいいですか?」
「充分ですよ」
「ありがとう。追加公演が終わるまではアガシに任せっきりになりますが、宜しくお願いします」
「分かりました」
「調律とか、音の感想でしたら手伝えますので、部屋から引っ張り出してください」
「やっぱり征司と同じだ」
「えっ? そうですか?」
「真面目ですね」
くすっと笑われて、「真面目な日本人」って言葉が頭をよぎった。
ほっとして小部屋に入る。今、大丈夫だったんだ。なら。
バレエの楽譜を広げる。ボレロ。これを。
♪~♪~♪
(な、何で? こんなんじゃない!)
譜面を睨むようになぞっていく。
「これじゃ、この音じゃ駄目だ! どうして?!」
どうしたらいいのか分からない。
お昼にエリックとカードを買いに行き、メッセージの文面をドイツ語で写し、郵便局に出しに行った。
ひとつやる事が終わって、残されてる事…これが問題だ。
☆
どこに向けていいんだか分からない焦りと、追加公演のリハの日程が迫ってくる。
「だめ、ダメ、駄目! これじゃいい笑いものよ!」
必要以外はこの小部屋から出ていない。パートの皆は私がずっと出てこないから心配する様に、戸が叩かれる。お昼食べに行きましょうとか。私が慣れる様、外に連れ出してくれる。
気分転換でありがたいのに、戻ってくると目の前のフルートを見てため息ついてる。
「長い付き合いなのに…どうしてよ」
思う音が出せない。
トントン
戸がノックされた。シドが来ていた。
「まだ居たんですね。もう遅いですよ。皆帰りましたよ」
「あ、うっかりしてました。…帰ります」
時計を見るともう10時を回っていた。
「私の仕事が終る迄残って練習してたのは祥子で三人目ですよ」
「三人目?」
「そう。征司とエリックでしたね」
「…」
「私も帰りますが、ちょっと御一緒しますか?」
クイッとコップを開ける仕草をしたから、ちょっと一杯のお誘いだ。日本と変わらない仕草に笑ってしまった。そういえば晩御飯も食べてない。お腹がすいてきた。
「飲むのより食べるほうなら」
「オッケーです。じゃ、行きましょうか」
シドに連れられてレストランに入った。
「私が選びましょうか?」
「お願いします」
「ワインは大丈夫ですか?」
「はい」
シドが注文をしている間、私はシドを眺めていて気づく。
シドの左耳の下から縦に傷痕が走っている。先日聞いた事故の痕なんだろうか。
「気づきましたか」
シドの声が耳に入り慌てて視線をシドの顔に移した。ウェイターが居なくなってた。注文を終えたシドが私を見ていた。
「すみません」
「いいんですよ。これは消えようが無いのでね。私が生きてたのが奇跡だと言われてましたから。ここにも残っているんですよ」
「ぁっ」
すっと左手で前髪を掻き揚げた。左目の上にも傷跡が額を通って残っていた。
「スクールバスを待ってたら車が突っ込んで来たんですよ」
ワインが注がれて私に差し出された。シドが自分のグラスに注ぎながら話す。
「ハイスクールの時でした。だから傷跡まで一緒に成長しましてね」
「…」
「昔の話ですから。そんな話、ワインには合いませんよ。乾杯しましょうか」
「あ、はい」
食事が運ばれてきて、私はシドの昔に触れない様に食べ物の話に集中していた。気を遣っていたから、ワインがどんどん空けられていたのかもしれない。
「シド」
「何ですか?」
「私の吹くフルートの音。好きですか?」
「はい。好きです」
「硝子のフルートじゃなくても?」
シドの顔から笑顔が飛んだ気がした。
「音を聞かせて下さい。もう食べ終えてますよね」
「はい。でも、何処で?」
「出ましょう」
「はい」
シドに急かされるように外に出た。そのまま公園に連れ込まれた。こんな時間だから誰もいない、訳じゃない。良く見るとカップルが居たりする。
あ…シドとデートしてる。
いやいや。これはデートじゃない。上司と部下。その関係だ。
「ここで聞かせて下さい。私の前で立ってね」
「えっ? あっ、は、はいっ!」
ベンチにシドが座る。
その横にフルートケースを置いてフルートを組み立てる。
「ボレロの基本のメロディーを繰り返してください」
「はい」
深呼吸をしてから唇を当てた。
♪~♪~♪
これじゃ駄目だ。やっぱり駄目…。吹いてて情けなくなってきた。
「祥子、君の満足で吹いてちゃ駄目だ」
シドの声が耳に入った。
「今は、私だけの為に吹いてくれ」
シドの為に? 吹きながらシドに視線を止めた。今、私の音はシドの耳に届いている。シドは私を見ている。音を聞いている。
(音質に拘 って忘れてた。聞いてくれる観客を忘れちゃ駄目だ)
「君の音は観客とダンサーに聞かせているんだ」
シドの声が鮮明に耳に届いてくると言う事は、音を奏でながらも他の音を聴き取れている。私の音は他の音と合わせて観客とダンサーに届けなきゃ。…そして、ダンサーには音の情景も。
♪~♪~♪
「祥子のお気に入りの曲を吹いてくれないか」
シドの声で音を止めた。お気に入りの曲に移る。
ピノキオ 「When You Wish Upon A Star(星に願いを)」
これは高校の時から吹いてきた曲だ。この曲を今、私の観客であるシドの為に。
♪~♪~♪
「祥子、ゆっくり周りを見てごらん」
シドの囁く声が聞き取れた。その指示の通りゆっくりと体を廻して視線を動かす。
驚いた。
いつの間にか人が集まってきていた。カップルはもちろん、仕事帰りの人まで。
視線がぐるっとシドに戻ってきて、シドが笑っているのが分かり、恥ずかしくなった。
止めちゃ駄目だ。私の音を聞いて集まってきてくれたのなら、最後まで。
この曲は誰でも耳にした事のある曲だ。この音で伝える事が出来るかもしれない。
♪~♪~♪
音を聴いて貰えて気持ちいい。シドが笑った。
「★◎※☆・・・(この曲って悲しい曲だっけ?)」
「※・・・(いや)」
どこからかすすり上げる音が聞こえてきた。
最後の音を止めて、ぐるりと集まって来てた人を見た。目にハンカチを当ててる女性が目に入った。同じ様な人が何人も居た。
軽く頭を下げて逃げる事にする。
「シド、行きましょう。こんなになっていたなんて…恥ずかしいですっ!」
シドが声を上げて笑い出す。そういえばシドって笑い上戸だった。
「あははは。ピノキオで悲しさですか。祥子、さすがです」
「シ、シドっ! 笑ってないで、早く!」
「はいはい」
フルートケースを脇に挟んで、シドの腕を引っ張って急かす。
私とシドの背中から拍手が襲ってきた。
二人で公園の中を走り、噴水の前に来た。
「あは…はは」
シドったら走って息切れしながらも笑っている。
フルートケースを噴水の淵に置いてフルートもそのまま置いて、とにかく座って息を整える。
「恥ずかしかった」
「少しヒントになりましたか?」
「えっ?」
「フルートはフルートなんですよ。ひとつずつ音質が違うのは当たり前なんですよ。違うのにその音と同じ音を出そうなんて神を冒涜 するものですよ。祥子はこのフルートが出せる音を最大限出し切ってやればいいんです。聞いてくれる人に心をこめてね」
「このフルートが出せる音…。あっ。は、はいっ! シド、ありがとうございました」
「見事でしたよ。ピノキオが嘘ついて鼻が伸びて伸びて後悔して泣いてる。もうしません。もうしません。ってね。思わず、自分は嘘ついてないか? なんて思っちゃいましたよ。あはははは」
「シド…笑いすぎです」
「星に願えばいつか叶うって曲なのに、見事にすり替えましたね」
シドが笑って私に手を差し出す。
「 ? 」
「フルート貸して下さい」
「はい。えっ? シド?」
フルートがシドの手に渡る。すっとシドの唇が当てられた。
わんわん物語 「LA LA LU -Lady and the Tramp- (ララルー)」
私のフルートなのに、私とは違う音が広がっている。シドの情景が紡ぎ出されてくる。暖かくて優しい。
硝子でも金属でもフルートなんだ。その楽器の持つ最高の音を奏でるんだ。私という味をつけて。
曲が終るまでシドの奏でる音に聴き惚れていた。この音に合う音を奏でてみたい。
「久々にフルート吹きました。忘れてないものですね」
そう言って私にフルートを返してから、シドは左指を曲げ伸ばしする。
「シドがトップに選ばれたのが分かった気がします」
「そう?」
「はい。奏でる人によって同じ楽器から違う音が生まれるのを思い出しました。分かっていた事なのに、私は思いあがっていたんですね。私、このフルートでも大丈夫です」
「良かったね」
「ありがとうございました」
「祥子」
「はい?」
「何か悩む事があったら、楽団の人間に頼ってもいいんだよ。皆、仲間だからね」
「はいっ」
- #14 F I N -
しまった! エリックがその役だったのにっ!!
ちょっと待て! シドも絡んでくるのか?!
朝食しに行ったら呼び止められた。
学生っぽい男性だった。たどたどしい英語で声を掛けてきた。
「ミス 苅谷?」
「そうです」
知らない人には警戒心丸出しになってしまう。名前を呼ばれているのに。
そんな人間相手に、声を掛けてくるほうが戸惑うのは当たり前だろう。
「あ…。えっと…」
「何か?」
頑張って笑顔を出してみた。男性が逃げ腰になりつつも、一生懸命声を出そうとしてるのが分かった。声が出せなかったのか、握られてた紙を、私に見せるようにして開いた。
そこに英語が書かれていた。この紙に書いてきた言葉を口で言おうと思って来たけど、私の態度が硬くて言えなくなったんだろう。英語を習って初めて外人さんと話した時を思い出した。
通じなかったらどうしよう。言ってる事が聞き取れなかったらどうしよう。
今は、ここに来る前にガド爺と知り合ったから、英語のスクールに通って、ある程度大丈夫になっている。
紙に書かれている言葉を読んでいく。
昨日、あなたの音を聞きました。とても素晴らしかったです。
「ありがとう」
ドイツ語で男性に声を掛けたら嬉しそうに笑った。私だって嬉しい。それを伝えるのに言葉の壁が邪魔になるのは、人間に与えられた罰なのだろうか。
「学生?」
学校で習う簡単な構文に単語を埋めて、男性に話しかけた。
「はい。大学生です」
「何か楽器弾いてるの?」
「はい。トランペットを吹いてます」
「頑張ってね」
「ありがとうございます。※◆▽・・・」
男性がドイツ語で言いかけて、大慌てで口を閉ざして考えてから声を出す。
「苅谷さんのフルートと一緒に奏でてみたいです」
「ありがとう」
男性が離れて行って、周りを見ると、新聞から顔を覗かせて私を見ている。
「祥子はこの一週間で有名人になったんだ」
エリックの言葉を思い出して恥ずかしくなった。
私の知らないうちに評価が一人歩きしている気がする。
気恥ずかしくてパンが喉に詰まる。
☆
練習に行く準備が出来て、早々にホテルのロビーに行く。
目立たない隅のソファーに座って、今か今かとエリックからの電話を待っている。電話待ちなんて久々だ。
♪
少し鳴って止まった。
「あれっ?」
「祥子」
声が掛かる。エリックの声だ。顔を上げるとエリックが笑って私を見ていた。
「祥子、おはよう。待たせちゃったみたいだな」
「エリック、おはよう。早く支度が出来たから」
「そうか。じゃ、行こうか。地下鉄で行くよ」
「うん」
二人でホテルを出て地下鉄の駅に向かう。歩きながらカノンからのメッセージカードを見せる。エリックが内容を教えてくれた。そしてカノンについても教えてくれる。それを聞いて、お昼にお礼のカードを出す事にする。
電車に揺られながらエリックが新聞を広げた。
「昨日の事が載ってるんだ。祥子は新聞読んでないだろ?」
「うん。ドイツ語は読めないから」
「読むよ」
定期演奏会のカーテンコールに祥子・苅谷が登場するとは誰にも想像つかなかった事だろう。彼女の音がここで聞けた事を感謝したい位だ。この楽団のコンサートマスターであり、世界的バイオリニストに成長した征司・北見とのデュオは、偉大なる作曲家モーツアルトですら拍手を贈るのではなかろうか。
尚、祥子はこの楽団に所属する事になったとの発表があった。今後も彼女の音が国内一の楽団の中で聞けるのは嬉しい限りである。
「祥子は認められたんだ」
私はエリックの読んでる
「エリック。ここ、何て書いてあるの?」
見出しを指さすと、エリックが私を見てから真顔になった。
「シンデレラはガラスのフルートを持っている」
「そ、そう」
記事は嬉しい話なのに、練習場に着くまで私とエリックは喋らなかった。
建物に入って直ぐに監視員に足止めされる。エリックが通訳してくれる。
「祥子はID貰って無いよな」
「うん」
エリックが監視員と話したら、監視員がどこかに電話をした。直ぐにシドがやって来た。
「祥子、エリック、早かったですね。えっと、祥子は暫く仮IDを使って下さい。これです」
「はい」
カードが手渡された。私の身分証明だ。シドが私達を促して行く。
事務所に通され機械の前で立ち止まる。
「IDで出退勤ってのは日本も同じですよね?」
「はい」
「ここにかざして打刻です」
エリックがIDをかざすとピッと音が鳴った。私も真似してIDをかざした。
「帰りも忘れずにお願いします」
「はい」
「午前中にIDの写真を撮りましょう。迎えに行きますから。じゃ、後はエリックに案内して貰って下さい」
「はい。ありがとうございました」
シドが自分の部屋らしき戸を開けて部屋に消えて行った。
エリックが建物の隅々迄教えてくれる。
「各パート毎の練習部屋があるんだ。中にトップ用の小部屋があって集中して練習出来る様になってる」
フルートの練習部屋に入る。
「広いんだね」
「プロだからね」
エリックがトップ用の小部屋に向かう。戸に「祥子・苅谷」のプレートが付いていた。
「さすがシドの仕事は早いや。ここは祥子専用だから好きに使えるよ」
「うん」
戸を開けて中に入る。小さくてもここなら誰にも邪魔されずに打ち込める。録音する為の機材も揃ってる。
「凄くいい待遇なんだね」
「トップは定期演奏会以外の練習もあるからね。じゃ、俺はここまでだな」
「エリック、ありがとう」
エリックがポンと私の肩を叩いて出て行った。
小さい机にフルートケースを置いた。…昨夜は開けられなかった。
椅子に座ってゆっくりケースを開けた。あるはずの硝子のフルートは無い。
以前使っていた金属のフルートを前に緊張している。
以前はずっとこれを使っていたのに。これで賞を取っていたのに。
なのに、
シンデレラはガラスのフルートを持っている
重く
☆
金属ってこんなに冷たく感じる物だっけ。
昨夜するはずだった手入れをしながらフルートを組み立てていく。組みあがったフルートを前に深呼吸した。
いつもの様にリッププレートを拭いて唇に当てる。ゆっくり息を吹き込む。Aを吹く。
♪
慌てて唇を離す。
(こんな音じゃない)
音階をなぞっていく。何度もなぞっていく。
音が…違う。違うんだ。音質が違うのは分かっている。だけど…だけど、違うんだ。
…物足りない。
昨日の楽曲を吹いていく。
情景が刷り込めない。感情が載せられない。
私は硝子じゃなきゃ吹けない? 私はフルート奏者なのに吹けない? 正統なフルートを吹けなくなった?
ここで練習する事にして良かったと思い始めている。
こんな姿、バレエの練習で見せられない。硝子のフルートだから成功したなんて思われたくない。
「最高の音が出せなくなったら、それはお終いを意味するのですよ」
シドの言葉が響いた気がする。
この音をなんとかしなくては。硝子の音に近づけなきゃ。
☆
戸が叩かれているのに気づく。小窓でシドが来ているのが分かった。戸を開ける。
「集中しているところすみません。IDの写真を撮りに来て下さい」
「はい」
小部屋を出たら、フルートパートの人達が来ていたのに気づいた。部屋にフルートの音が響き渡っていた。昨日はパートの人達とは何も話していない。中央に座ってる人はアガシと言う人だ。
パートトップの仕事は追加公演を終えてからとなっていて、今は自分の事にかかりきりになれるのがありがたい。
シドに連れられて軽く頭を下げてから部屋を出た。
「今日こちらで練習されるとは思いませんでしたよ。今日は少し顔出すだけかと」
シドが声を掛けてきた。
「皆、硝子のフルートでの私を絶賛しているから」
不安なんです…とは続けられなかった。
「材質が違うといっても同じフルートなんですよ。それぞれの最高の音を奏でて下さい」
「最高の音…」
それが難しいんです。
写真を撮って部屋に戻るとアガシに声を掛けられる。
「祥子、こっちに来て。皆を紹介するから」
「はい」
椅子に座ると、アガシが皆に向かって口を開く。
「祥子も我々も学校で習った英語を思い出して会話をしていこう。オーストリアも日本も英語圏じゃないから、恥ずかしい事じゃない。辞書と友達すればいい。今は翻訳アプリもあるし」
トンとアガシが携帯を叩いた。皆が笑う。
(そうだ。翻訳アプリってのがあったじゃないっ!)
自己紹介が始まる。私がトップになったからには皆を纏めないとならない。フリーでゲストじゃない分、こんな責任もあるのか。
それよりも、私を認めてもらわなくては。
英語だからか、皆遠慮がちな笑顔になっている。一通り終って私に視線が集まる。
「祥子・苅谷です。突然で驚いたと思います」
「ランスの理由は皆知ってます。気にしないで」
アガシの声が割って入る。皆が頷いている。
「ありがとう。ドイツ語は皆に教えて貰う事になります。宜しくお願いします。あと…」
声を詰まらせていたら、アガシが言う。
「フルートの事も知ってます。ランスに壊された」
「知ってる?」
「はい。皆」
「なら、聴いて貰ったほうが早いのね」
小部屋からフルートを持ってくる。皆の視線が金属のフルートに集まる。
譜面台に置いてあった譜面に眼を止める。バッハ パルティータだ。この曲はこのフルートで吹いた時がある。なら、大丈夫。あの時の様に丁寧に…。
♪~♪~♪
(あ…)
情景が浮かぶ。音に盛り込める。大丈夫。大丈夫だ。
最後の音を止める。拍手が向けられた。
「この音になっちゃったけどいいですか?」
「充分ですよ」
「ありがとう。追加公演が終わるまではアガシに任せっきりになりますが、宜しくお願いします」
「分かりました」
「調律とか、音の感想でしたら手伝えますので、部屋から引っ張り出してください」
「やっぱり征司と同じだ」
「えっ? そうですか?」
「真面目ですね」
くすっと笑われて、「真面目な日本人」って言葉が頭をよぎった。
ほっとして小部屋に入る。今、大丈夫だったんだ。なら。
バレエの楽譜を広げる。ボレロ。これを。
♪~♪~♪
(な、何で? こんなんじゃない!)
譜面を睨むようになぞっていく。
「これじゃ、この音じゃ駄目だ! どうして?!」
どうしたらいいのか分からない。
お昼にエリックとカードを買いに行き、メッセージの文面をドイツ語で写し、郵便局に出しに行った。
ひとつやる事が終わって、残されてる事…これが問題だ。
☆
どこに向けていいんだか分からない焦りと、追加公演のリハの日程が迫ってくる。
「だめ、ダメ、駄目! これじゃいい笑いものよ!」
必要以外はこの小部屋から出ていない。パートの皆は私がずっと出てこないから心配する様に、戸が叩かれる。お昼食べに行きましょうとか。私が慣れる様、外に連れ出してくれる。
気分転換でありがたいのに、戻ってくると目の前のフルートを見てため息ついてる。
「長い付き合いなのに…どうしてよ」
思う音が出せない。
トントン
戸がノックされた。シドが来ていた。
「まだ居たんですね。もう遅いですよ。皆帰りましたよ」
「あ、うっかりしてました。…帰ります」
時計を見るともう10時を回っていた。
「私の仕事が終る迄残って練習してたのは祥子で三人目ですよ」
「三人目?」
「そう。征司とエリックでしたね」
「…」
「私も帰りますが、ちょっと御一緒しますか?」
クイッとコップを開ける仕草をしたから、ちょっと一杯のお誘いだ。日本と変わらない仕草に笑ってしまった。そういえば晩御飯も食べてない。お腹がすいてきた。
「飲むのより食べるほうなら」
「オッケーです。じゃ、行きましょうか」
シドに連れられてレストランに入った。
「私が選びましょうか?」
「お願いします」
「ワインは大丈夫ですか?」
「はい」
シドが注文をしている間、私はシドを眺めていて気づく。
シドの左耳の下から縦に傷痕が走っている。先日聞いた事故の痕なんだろうか。
「気づきましたか」
シドの声が耳に入り慌てて視線をシドの顔に移した。ウェイターが居なくなってた。注文を終えたシドが私を見ていた。
「すみません」
「いいんですよ。これは消えようが無いのでね。私が生きてたのが奇跡だと言われてましたから。ここにも残っているんですよ」
「ぁっ」
すっと左手で前髪を掻き揚げた。左目の上にも傷跡が額を通って残っていた。
「スクールバスを待ってたら車が突っ込んで来たんですよ」
ワインが注がれて私に差し出された。シドが自分のグラスに注ぎながら話す。
「ハイスクールの時でした。だから傷跡まで一緒に成長しましてね」
「…」
「昔の話ですから。そんな話、ワインには合いませんよ。乾杯しましょうか」
「あ、はい」
食事が運ばれてきて、私はシドの昔に触れない様に食べ物の話に集中していた。気を遣っていたから、ワインがどんどん空けられていたのかもしれない。
「シド」
「何ですか?」
「私の吹くフルートの音。好きですか?」
「はい。好きです」
「硝子のフルートじゃなくても?」
シドの顔から笑顔が飛んだ気がした。
「音を聞かせて下さい。もう食べ終えてますよね」
「はい。でも、何処で?」
「出ましょう」
「はい」
シドに急かされるように外に出た。そのまま公園に連れ込まれた。こんな時間だから誰もいない、訳じゃない。良く見るとカップルが居たりする。
あ…シドとデートしてる。
いやいや。これはデートじゃない。上司と部下。その関係だ。
「ここで聞かせて下さい。私の前で立ってね」
「えっ? あっ、は、はいっ!」
ベンチにシドが座る。
その横にフルートケースを置いてフルートを組み立てる。
「ボレロの基本のメロディーを繰り返してください」
「はい」
深呼吸をしてから唇を当てた。
♪~♪~♪
これじゃ駄目だ。やっぱり駄目…。吹いてて情けなくなってきた。
「祥子、君の満足で吹いてちゃ駄目だ」
シドの声が耳に入った。
「今は、私だけの為に吹いてくれ」
シドの為に? 吹きながらシドに視線を止めた。今、私の音はシドの耳に届いている。シドは私を見ている。音を聞いている。
(音質に
「君の音は観客とダンサーに聞かせているんだ」
シドの声が鮮明に耳に届いてくると言う事は、音を奏でながらも他の音を聴き取れている。私の音は他の音と合わせて観客とダンサーに届けなきゃ。…そして、ダンサーには音の情景も。
♪~♪~♪
「祥子のお気に入りの曲を吹いてくれないか」
シドの声で音を止めた。お気に入りの曲に移る。
ピノキオ 「When You Wish Upon A Star(星に願いを)」
これは高校の時から吹いてきた曲だ。この曲を今、私の観客であるシドの為に。
♪~♪~♪
「祥子、ゆっくり周りを見てごらん」
シドの囁く声が聞き取れた。その指示の通りゆっくりと体を廻して視線を動かす。
驚いた。
いつの間にか人が集まってきていた。カップルはもちろん、仕事帰りの人まで。
視線がぐるっとシドに戻ってきて、シドが笑っているのが分かり、恥ずかしくなった。
止めちゃ駄目だ。私の音を聞いて集まってきてくれたのなら、最後まで。
この曲は誰でも耳にした事のある曲だ。この音で伝える事が出来るかもしれない。
♪~♪~♪
音を聴いて貰えて気持ちいい。シドが笑った。
「★◎※☆・・・(この曲って悲しい曲だっけ?)」
「※・・・(いや)」
どこからかすすり上げる音が聞こえてきた。
最後の音を止めて、ぐるりと集まって来てた人を見た。目にハンカチを当ててる女性が目に入った。同じ様な人が何人も居た。
軽く頭を下げて逃げる事にする。
「シド、行きましょう。こんなになっていたなんて…恥ずかしいですっ!」
シドが声を上げて笑い出す。そういえばシドって笑い上戸だった。
「あははは。ピノキオで悲しさですか。祥子、さすがです」
「シ、シドっ! 笑ってないで、早く!」
「はいはい」
フルートケースを脇に挟んで、シドの腕を引っ張って急かす。
私とシドの背中から拍手が襲ってきた。
二人で公園の中を走り、噴水の前に来た。
「あは…はは」
シドったら走って息切れしながらも笑っている。
フルートケースを噴水の淵に置いてフルートもそのまま置いて、とにかく座って息を整える。
「恥ずかしかった」
「少しヒントになりましたか?」
「えっ?」
「フルートはフルートなんですよ。ひとつずつ音質が違うのは当たり前なんですよ。違うのにその音と同じ音を出そうなんて神を
「このフルートが出せる音…。あっ。は、はいっ! シド、ありがとうございました」
「見事でしたよ。ピノキオが嘘ついて鼻が伸びて伸びて後悔して泣いてる。もうしません。もうしません。ってね。思わず、自分は嘘ついてないか? なんて思っちゃいましたよ。あはははは」
「シド…笑いすぎです」
「星に願えばいつか叶うって曲なのに、見事にすり替えましたね」
シドが笑って私に手を差し出す。
「 ? 」
「フルート貸して下さい」
「はい。えっ? シド?」
フルートがシドの手に渡る。すっとシドの唇が当てられた。
わんわん物語 「LA LA LU -Lady and the Tramp- (ララルー)」
私のフルートなのに、私とは違う音が広がっている。シドの情景が紡ぎ出されてくる。暖かくて優しい。
硝子でも金属でもフルートなんだ。その楽器の持つ最高の音を奏でるんだ。私という味をつけて。
曲が終るまでシドの奏でる音に聴き惚れていた。この音に合う音を奏でてみたい。
「久々にフルート吹きました。忘れてないものですね」
そう言って私にフルートを返してから、シドは左指を曲げ伸ばしする。
「シドがトップに選ばれたのが分かった気がします」
「そう?」
「はい。奏でる人によって同じ楽器から違う音が生まれるのを思い出しました。分かっていた事なのに、私は思いあがっていたんですね。私、このフルートでも大丈夫です」
「良かったね」
「ありがとうございました」
「祥子」
「はい?」
「何か悩む事があったら、楽団の人間に頼ってもいいんだよ。皆、仲間だからね」
「はいっ」
- #14 F I N -
しまった! エリックがその役だったのにっ!!
ちょっと待て! シドも絡んでくるのか?!
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