#37-2 A leak <祥子視点>
文字数 7,146文字
目覚ましが鳴る前に目覚める。
「あれ? ベッド?」
昨夜マリーと飲んでて…。
昨日の服のままだ。起き上がってフワッとエリックの香りがした。昨日、エリックに触れたから? でも、腕からもしてる。
「しまった…」
一階で寝ちゃったのをシドが運んでくれたんだ。背負われて、だったと思う。それでエリックと同じ香りがするんだ。フルートと楽譜がサイドテーブルに置いてある。
「早速、醜態 を晒 すとは…」
直ぐにシャワーを浴びて着替え、一階に行く。
「リリア、おはようございます」
「おはよう。祥子、今日は休みなのに早いのね」
「朝は時間通りに目覚めちゃうんですよ。その分昼寝しちゃいますけど」
「昨夜はマリーと飲んでたみたいね」
「分かります?」
「こんなに壜が空いてたら、あの子しかいないわよ」
「私とじゃなくてシドと飲んだって思いません?」
「マリーとシドなら夕食で飲んでも1本空かないわ。こんなに空くとすれば、マリーが気持ちよく飲んでたって事よ。あなたと話しながらね」
「バレちゃいますね」
「そりゃ、あの子達とは長いですから」
「おみそれしました」
朝食の手伝いをしながら、スクランブルエッグのコツを教えて貰う。
「固まりかけたら直ぐに火から下ろすのよ」
「もうちょっとかな? うーん」
「躊躇しないで下ろす」
「は、はいっ」
「下ろしたら手早く混ぜる」
「あ、見て見て。私でも美味しそうに出来た」
「先生がいいからね」
テーブルに並べ終えるとシドが下りてきた。
「シド、おはようございます。昨夜、迷惑かけちゃいましたね。ごめんなさい」
「おはよう。気にしないでいいですよ。マリーのほうが調子に乗って飲ませたみたいですね。あの子は強いから大変だったでしょう」
「楽しめましたよ」
「そう?」
「はい」
「なら、リリアに酒を大量に追加して貰わないといけないかな」
「や、やだ。シドったら。そんなに飲みませんってば」
そう言って笑ってる私達をリリアが嬉しそうに眺めているのに気づく。
「祥子は今日の休み、何をするんですか?」
「今日はゆっくりします。あ、シド、私、向かいの部屋で練習してもいいですか? 昨夜勝手に使っちゃったのですが」
「いいですよ。自由に使って下さい」
「ありがとうございます。それと、シドにこれを渡しておきます」
シドに封筒を向ける。シドが受け取って中を見る。
「祥子。君はお客様だから気にしなくてもいいですよ」
「お客だと肩身が狭いです。だから生活費として受け取って下さい。アパートで使ってない分を出してるだけですから」
「そうですか。なら、受け取りましょうか」
「はい」
「酒代としてになるのかな」
「シドったら、もうっ!」
シドが笑いながら新聞を開きだしたから、コーヒーを出す。
「ありがとう」
「いえ」
ちょっと照れてしまった。
シドを送り出して暫くするとマリーが起きてきた。
「祥子は元気ね。私、ちょっと頭が痛い」
頭をさすりながら椅子に座ったマリーの前に、リリアがお皿を並べながら声を掛ける。
「いい歳した娘さんが飲みすぎよ」
「でもリリア、一人よりも二人で飲むと美味しいの」
「そうでしょうけど、マリーは限度が無いから」
「はいはい。気をつけますよ。あ、リリア。少なくして。あんまり入らない」
マリーが欠伸 をしながら言うのを見て、呆 れたようにリリアが私を見て笑った。
「祥子、昨日は楽しかった。姉さんが出来たみたいで嬉しかったから、随分空けちゃった」
「私も楽しかったわよ。うっかり寝ちゃってたのね」
「兄さんが帰って来る前にはスヤスヤよ。兄さんに怒られちゃった」
「ごめんね」
「いいの。そのお陰で兄さんと少し飲めたから」
「私をネタに?」
「そうよ。飲みながら怒られてたの。祥子はそこで寝てたけど」
「あらやだ。それでも私ったら起きなかったのね」
「ぐっすりよ。兄さんが祥子を背負ったら「エリック、私酔ってないから」って」
「え? ホント? 私、言ってたの?」
「はっきり聞かせて貰ったわ」
そう言ってマリーが悪戯っぽく笑った。
シドのコロンの香りがエリックと同じだから。エリックと勘違いして、つい、出ちゃったんだ。
(気をつけなくちゃ)
「祥子、また飲もうね。今度は兄さんも一緒で」
「ええ。でも、ほどほどにしてね」
「楽しい時は無制限よ」
「勘弁してぇ」
☆
マリーが学校に行って暫く庭に出ていた。リリアの夫のアンデルが花壇の手入れをしているのを手伝い、それが終われば家の中でリリアが掃除してるのを手伝う。
何もする事がないから動いていた。
それでも空いた時間が生まれてくる。
リリアに午後の買い物に付き合うからと約束して、それまでの時間だ。
自分の家じゃないからぐうたらしちゃ恥ずかしかった。昨夜醜態を晒してるし。
自分の荷物を片付けるといっても片付ける荷物がないし、洗濯は洗濯機だし。
「何しよっかな」
ベッドに横になってたら昼寝していた。
リリアが呼びに来て跳ね起きて買い物に出かけた。アンデルの運転する車で大きなマーケットに来た。
「ここは何でも揃うわよ」
リリアが大きなカートを引っ張ってきてアンデルに渡す。だだっぴろい店内の端から通路を縫って歩いていく。
「うわぁ。スケールが違う」
肉の塊に驚き、大量のジャガイモの袋に驚き。
リリアとアンデルが歓声を挙げてる私を見て笑う。
カートにどんどん積まれていった。
「あ、これ。食べたい」
隅に輸入物のコーナーがあって、懐かしい箱が目に入ったから取り上げた。リリアが横から見て言う。
「これ何? どうやって使うの?」
「これを溶かすだけでカレーが出来るの」
「カレーってスパイスをいくつも使うんじゃないの?」
「これヒトツで済んじゃうんですよ。簡易版カレーなんですよ」
「へぇ。今晩作ってみる? 祥子に手伝って貰うわよ」
「勿論手伝うわ」
私だって本場の作り方は見た事ある。だけど、カレーのルウがあったら手間かけずに作ったほうがいい。なんたって誰が作っても同じ味になる。
忘れずにお米を買って車に積み込んだ。
久々のカレーでワクワクしている。カレーの匂いを思い出して涎 が出そうだ。
帰って速攻でお米を研 いだ。炊飯器は無いから鍋を使う。
水の分量を調べ、分量通りにセットする。火にかけて気をつけながら炊 いていく。
自分が食べたいから真剣だ。
その間にリリアが野菜を切って、肉を切って炒めて鍋に投入。グツグツと煮込む。
サラダを作る。ピクルスも登場。
「あら。しまった。辛口だった」
箱を見て気づく。うっかりしてた。嬉しかったから辛さを確認してなかった。
「どうしたの?」
「リリア、このカレー辛い」
「どのくらい?」
「好みだから食べてみないと」
「じゃぁ、出来上がりが楽しみね」
「そっか。それでいいか」
野菜が柔らかくなってからルウを投入。カレーの香りが立ち始める。
「いい香りね。食欲がそそられるわね」
「そうでしょ。私、この香り嗅ぐと嬉しくなったもの」
「日本食じゃないのに?」
「カレーは日本の食生活になくてはならない一品ですよ。なんて私だけかもですけどね」
「あらあら」
ご飯は蒸らして保温器で温めてある。煮込まれたカレーが出来上がる。
「リリア、皆で食べましょうよ。シドもマリーも遅そうだし。カレーは一人で食べちゃ美味しくないの。ね」
「そう? なら、祥子と一緒しましょうか。アンデルを呼んでくるわ」
そう言ってリリアが出て行った。その間にお皿を出してよそっておく。
玄関が開いてリリアかと思ったらマリーだった。
「マリー、お帰りなさい」
「祥子、ただいま。ねぇ、何か凄くいい匂いがしてる! 何?」
「カレーよ」
「カレー? わぁ! 家でなんて初めてだわ」
「マリーは食べた事あるの?」
「お店でね。でも、薬臭かったような記憶しか残ってないのよ。この匂いとは違ってた。本当にカレー?」
「本当よ。今、リリアとアンデルも来るわ。皆で食べましょう。賑やかなほうが美味しいのよ」
「すぐ荷物置いてくる!」
階段を駆け上がっていったマリーがすぐ戻ってきた。リリアとアンデルがやって来た。
テーブルに四人。シドはまだだけど賑やかな食卓だ。
「辛かったら卵をかけるの。混ぜて食べれば辛くなくなるのよ」
「私は卵欲しいわ。祥子、ヒトツとってちょうだい」
リリアに卵を渡した。マリーとアンデルは大丈夫みたいだ。
皆が一口食べて感想を言い合う。
「お店で食べるのよりもこっちがいいわ。食べやすいもの」
「お店のは本場の味なのよ。スパイスの味なのよ」
「確かに店で出すのも美味しいんだろうけどな。俺の口にもこっちだな」
マリーとリリアが言い、アンデルがボソッと言って、皆で頷いてた。味覚が違うからドキドキしてたんだけど、ホッと胸をなでおろした。
「お店で出すのはスパイスの配合が違うのよ。だから食べ歩いて自分の好きな味を見つけるの。カレーって決まった味が無いから」
「祥子は詳しそうね」
「日本人って大人も子供もカレーって好きなのよ。身近な食べ物なの。私もよく食べてたのよ。これだけで野菜も肉も入ってるから栄養もとれるし」
「そうね。ここでも作るようにしましょうか。大きい子供もいることですしね」
「あら、リリアったら、それ私の事?」
「マリーの他に誰がいましたっけ?」
「あら、酷い」
皆で笑っていたら玄関が開いた。シドが帰ってきて、食卓に皆がいるのを見て一瞬固まった気がした。リリアとアンデルがちょっと困ってる気がしたから、私が声を掛ける。
「シド、お帰りなさい。早かったんですね。早く一緒に食べましょう」
「…早く仕事が終わったから。皆で揃ってどうしたんですか?」
「今日は、私がワガママを言ってカレーを作ったんですよ。カレーは皆で食べるのが一番美味しいんです。だから、リリアとアンデルにも来て貰ったの。シドも一緒に食べましょう」
「なら、急いで下りてきますね」
シドが部屋に向かって行ったのを見て、リリアが呟 く。
「何か久々ですね。皆で食事なんて。ねぇ、あなた」
「そうだな」
「兄さんの事故以来ね」
マリーが呟いて食卓が静まった。それに気づいてマリーが慌ててるから私が動く。
「私、飲み物出してくるわ。皆揃ったんだからいいでしょ? リリアもアンデルも今日はゆっくりして。ね」
「祥子、私も手伝うわよ」
マリーがキッチンについて来て、リリアがグラスを並べだす。
シドのお皿も並べて、グラスにワインを注ぎこんだら、シドが下りてきてお皿を見て口を開く。
「いい匂いですね」
「シドは食べた事あるんですか?」
「えぇ。練習所の傍に店があってね」
「練習所の傍? ありましたっけ?」
「もう潰れちゃいました」
「あらら」
「兄さん、祥子ったらカレーにウルサイみたいよ。日本ではよく作って食べるんだって」
「なら、美味しさはお墨付きですね」
そう言って一口目を食べるシドに皆で注目しちゃってる。
「あ、ちょっと辛いかな」
「卵混ぜると甘くなったわよ」
リリアが言うとシドはワインを飲んでから言う。
「いや。大丈夫。この位なら大丈夫。お店のカレーと違いますね。美味しいですよ」
「良かった」
ワインが空けられていくのは辛いからかもしれないけど、何本か栓が開けられていった。私は今日の出来事をリリアとアンデルに確認しながらシドとマリーに話してる。
「そうなのよ。祥子ったらマーケットで迷子になっちゃってね」
「恥ずかしいわ。でも、大きなカートがあちこちで立ち塞がるんだもの」
「マリーもよく迷子になってましたから、恥ずかしくないですよ」
「やだ。兄さんったら。あれは私がジュニアスクールの頃じゃない」
「何度かあったわよね」
「リリアまで~」
実家でもこんなだった。食事中、今日あった事を話したり聞いたりしてた。
日本の我が家が懐かしくなった。
☆
マリーと二人でリリアの手伝いをしながら片付ける。
「夕飯が楽しかったわ。祥子のお陰ね」
マリーが言った。
「そうね。久々にここが昔に戻ったみたい」
リリアがリビングに視線を投げた。リビングではシドとアンデルがチェスをしている。
私が傍に行って見ると、アンデルが考え込んでる。
「ここよ」
アンデルのナイトを動かす。シドのキングが動いて逃げる。
「で、クイーンでチェックメイト」
「あ…」
「やった。勝っちゃった」
アンデルと手を合わせて喜んでたら、シドが悔しそうに片付け始める。
「祥子はチェスを知ってたんですか?」
「東洋のチェスをね」
「東洋のチェス?」
「将棋ですよ。駒がチェスと同じ様に動けるんですよ」
「祥子に負けました」
「やったやった」
小躍りしてたらリリアが近づいてきて言う。
「さて、私達は帰るわね。今日は一日楽しかったわ。おやすみなさい」
「もうそんな時間?」
マリーが残念そうに言って時計を見た。
「あ~あ。課題しなくちゃ。じゃ、おやすみなさい」
リリアとアンデルを見送って、マリーも部屋に戻る。
「あ、私もすっかり忘れてました。一日のんびりしすぎちゃった」
「まさか、明日の練習」
「してません」
堂々と宣言したら、シドが呆れた顔で私を見た。
「遊びすぎですよ」
「大丈夫です。2時間集中します。向かいの部屋、使っていいですか? 戸を閉めれば音は漏れませんよね」
「どうぞ。使って下さい」
「ありがとうございます」
部屋に戻って楽譜を引っ張り出し、フルートを組み立てる。明日から三日間の曲はディズニーの曲だけ。小さな会場でフルートとピアノだけの演奏だ。ピアノは初めて会う人だ。どんな音を出すのか楽しみだ。
ディズニーの曲は慣れ親しんでるから大丈夫。音を外さないように気をつければいい。
今度は戸を閉めて部屋に入る。
一曲ずつ吹いていく。このお話はこうだったな。と思い出してから吹き始める。
明日の曲は完璧だ。イメージもバッチリだ。
「その集中力だから練習時間も少なくて済むのですね」
「あ、シド。聴いてたんですか」
シドが椅子を出して部屋の窓際に座っていた。
「いい音ですね。最近、特に良くなってきているように聴こえます」
「ありがとうございます」
「私も吹けてたら祥子に合わせていたんでしょうね。残念な気がします」
「ここでなら一緒に吹けますよ」
「私は…そうですね。次の機会に」
以前、私のフルートで吹いてくれたのに。
その時、携帯に着信が入った。
「あ、エリックからだ。ちょっとすみません」
シドから離れて通話ボタンを押す。
「はい。ん?」
「ハッ ハッ ハッ ハッ」
エリックからなのに変な音がする。
「もしもし?」
「クゥ~ ハッ ハッ」
聞こえてきて笑ってしまった。これ、コーダの息だ。エリックとコーダが来てる。
「待ってて。今行くわ」
エリックに聞こえてる筈だから、そう言って通話を切った。
「シド、庭に犬入れて大丈夫ですか? エリックがコーダの散歩でここに寄ってくれたみたいなの」
「構いませんよ。ごゆっくり」
シドが椅子から立ち上がり、私と一緒に部屋を出た。私は玄関を開け、シドはリビングに移動する。
私は庭を突っ切って門の前に座ってるコーダを見つける。尻尾がパタパタと振られている。
門を開けたらコーダが嬉しそうに入ってきて、咥えてた袋を私の前に突き出した。
「あら、私に? ありがとう」
コーダから袋を受け取ると、コーダが体を摺り寄せてきた。
でも、エリックは? コーダの傍に居ない。コーダのリードを頼りに門を出て横を向いて見つける。
柵にくっつくようにして隠れてた。
「エリック」
「やぁ。今、大丈夫?」
「えぇ。丁度、明日の練習終えたとこ。コーダの散歩?」
「俺の家から近いから」
「庭に入って。コーダも大丈夫よ。シドに了解貰ってるから」
「じゃ、少しだけ。おいで、コーダ」
エリックを促して花壇のブロックに座る。コーダは庭を嗅ぎ回っている。
「コーダに電話は無理よ」
「そうかな? それ開けて」
笑ってエリックに言ったら、エリックは私が持ってる袋を指差す。言われるまま袋を開ける。中にチョコが沢山入ってる。
「美味しそう。早速、頂いちゃぉ」
ヒトツ摘む。エリックにもヒトツ。
「甘くて美味しい」
「気分転換にもいいだろ」
「うん。ありがとう」
今日一日、とにかく動いていたのは、皆と一緒に居たかったのは、今日の仕事を忘れていたかったから。悔しいのを忘れていたかったから。
「俺も直前でキャンセルされた事あるから」
「…」
エリックにはお見通しなのかもしれない。
「明日から居ないけど、その間に落ち込んだらこれ食べて。でも、祥子は一気に食べちゃいそうだな」
「この量を一度に食べたら鼻血でちゃうわ」
「なら、大丈夫かな。2日位はもちそうだ」
「エリックったら、もうっ!」
「10日はもたせてくれよ」
「ゆっくり食べるわ」
コーダが私達の前に来て座ったのを見て、エリックがコーダの首を撫ぜて言う。
「さて、祥子の顔も見れたし、そろそろ帰るか」
「明日も最高の音を」
「勿論さ。祥子もだよ」
「えぇ」
エリックが立ち上がろうとするのを私の手が引き止める。エリックの腕を引き寄せて顔を寄せる。エリックの香りが近づく。
「祥子、ここじゃ」
「10日間、寂しくならない為のおまじないをして」
「そうだな」
ゆっくり唇が重なった。これが離れたら暫くの間一人になる。
一人でも大丈夫。大丈夫だけど、離したくない。
エリックも同じなのかもしれない。お互い離すきっかけがないままの様な気がする。
コーダが私達の間に顔を突っ込んで終わりになった。
「コーダったら、妬いてるのかしら」
「俺達に?」
「エリックの事好きなのよ」
私がコーダの首を撫ぜたら、コーダが気持ち良さそうに クゥ と鳴いた。
「いや、祥子の事が好きなんだ。俺と同じだな」
エリックがコーダの頭に掌をのせたら、コーダがエリックを見上げるように顔を上げて尻尾を振った。
☆
エリックとコーダを見送って家に入ると、リビングから声が聞こえてきた。
シドがオペラを聞きながらフルートケースを前に置いて考えているみたいだ。
ソプラノの澄んだ声が私の耳に届いてきた。
- #37 F I N -
「あれ? ベッド?」
昨夜マリーと飲んでて…。
昨日の服のままだ。起き上がってフワッとエリックの香りがした。昨日、エリックに触れたから? でも、腕からもしてる。
「しまった…」
一階で寝ちゃったのをシドが運んでくれたんだ。背負われて、だったと思う。それでエリックと同じ香りがするんだ。フルートと楽譜がサイドテーブルに置いてある。
「早速、
直ぐにシャワーを浴びて着替え、一階に行く。
「リリア、おはようございます」
「おはよう。祥子、今日は休みなのに早いのね」
「朝は時間通りに目覚めちゃうんですよ。その分昼寝しちゃいますけど」
「昨夜はマリーと飲んでたみたいね」
「分かります?」
「こんなに壜が空いてたら、あの子しかいないわよ」
「私とじゃなくてシドと飲んだって思いません?」
「マリーとシドなら夕食で飲んでも1本空かないわ。こんなに空くとすれば、マリーが気持ちよく飲んでたって事よ。あなたと話しながらね」
「バレちゃいますね」
「そりゃ、あの子達とは長いですから」
「おみそれしました」
朝食の手伝いをしながら、スクランブルエッグのコツを教えて貰う。
「固まりかけたら直ぐに火から下ろすのよ」
「もうちょっとかな? うーん」
「躊躇しないで下ろす」
「は、はいっ」
「下ろしたら手早く混ぜる」
「あ、見て見て。私でも美味しそうに出来た」
「先生がいいからね」
テーブルに並べ終えるとシドが下りてきた。
「シド、おはようございます。昨夜、迷惑かけちゃいましたね。ごめんなさい」
「おはよう。気にしないでいいですよ。マリーのほうが調子に乗って飲ませたみたいですね。あの子は強いから大変だったでしょう」
「楽しめましたよ」
「そう?」
「はい」
「なら、リリアに酒を大量に追加して貰わないといけないかな」
「や、やだ。シドったら。そんなに飲みませんってば」
そう言って笑ってる私達をリリアが嬉しそうに眺めているのに気づく。
「祥子は今日の休み、何をするんですか?」
「今日はゆっくりします。あ、シド、私、向かいの部屋で練習してもいいですか? 昨夜勝手に使っちゃったのですが」
「いいですよ。自由に使って下さい」
「ありがとうございます。それと、シドにこれを渡しておきます」
シドに封筒を向ける。シドが受け取って中を見る。
「祥子。君はお客様だから気にしなくてもいいですよ」
「お客だと肩身が狭いです。だから生活費として受け取って下さい。アパートで使ってない分を出してるだけですから」
「そうですか。なら、受け取りましょうか」
「はい」
「酒代としてになるのかな」
「シドったら、もうっ!」
シドが笑いながら新聞を開きだしたから、コーヒーを出す。
「ありがとう」
「いえ」
ちょっと照れてしまった。
シドを送り出して暫くするとマリーが起きてきた。
「祥子は元気ね。私、ちょっと頭が痛い」
頭をさすりながら椅子に座ったマリーの前に、リリアがお皿を並べながら声を掛ける。
「いい歳した娘さんが飲みすぎよ」
「でもリリア、一人よりも二人で飲むと美味しいの」
「そうでしょうけど、マリーは限度が無いから」
「はいはい。気をつけますよ。あ、リリア。少なくして。あんまり入らない」
マリーが
「祥子、昨日は楽しかった。姉さんが出来たみたいで嬉しかったから、随分空けちゃった」
「私も楽しかったわよ。うっかり寝ちゃってたのね」
「兄さんが帰って来る前にはスヤスヤよ。兄さんに怒られちゃった」
「ごめんね」
「いいの。そのお陰で兄さんと少し飲めたから」
「私をネタに?」
「そうよ。飲みながら怒られてたの。祥子はそこで寝てたけど」
「あらやだ。それでも私ったら起きなかったのね」
「ぐっすりよ。兄さんが祥子を背負ったら「エリック、私酔ってないから」って」
「え? ホント? 私、言ってたの?」
「はっきり聞かせて貰ったわ」
そう言ってマリーが悪戯っぽく笑った。
シドのコロンの香りがエリックと同じだから。エリックと勘違いして、つい、出ちゃったんだ。
(気をつけなくちゃ)
「祥子、また飲もうね。今度は兄さんも一緒で」
「ええ。でも、ほどほどにしてね」
「楽しい時は無制限よ」
「勘弁してぇ」
☆
マリーが学校に行って暫く庭に出ていた。リリアの夫のアンデルが花壇の手入れをしているのを手伝い、それが終われば家の中でリリアが掃除してるのを手伝う。
何もする事がないから動いていた。
それでも空いた時間が生まれてくる。
リリアに午後の買い物に付き合うからと約束して、それまでの時間だ。
自分の家じゃないからぐうたらしちゃ恥ずかしかった。昨夜醜態を晒してるし。
自分の荷物を片付けるといっても片付ける荷物がないし、洗濯は洗濯機だし。
「何しよっかな」
ベッドに横になってたら昼寝していた。
リリアが呼びに来て跳ね起きて買い物に出かけた。アンデルの運転する車で大きなマーケットに来た。
「ここは何でも揃うわよ」
リリアが大きなカートを引っ張ってきてアンデルに渡す。だだっぴろい店内の端から通路を縫って歩いていく。
「うわぁ。スケールが違う」
肉の塊に驚き、大量のジャガイモの袋に驚き。
リリアとアンデルが歓声を挙げてる私を見て笑う。
カートにどんどん積まれていった。
「あ、これ。食べたい」
隅に輸入物のコーナーがあって、懐かしい箱が目に入ったから取り上げた。リリアが横から見て言う。
「これ何? どうやって使うの?」
「これを溶かすだけでカレーが出来るの」
「カレーってスパイスをいくつも使うんじゃないの?」
「これヒトツで済んじゃうんですよ。簡易版カレーなんですよ」
「へぇ。今晩作ってみる? 祥子に手伝って貰うわよ」
「勿論手伝うわ」
私だって本場の作り方は見た事ある。だけど、カレーのルウがあったら手間かけずに作ったほうがいい。なんたって誰が作っても同じ味になる。
忘れずにお米を買って車に積み込んだ。
久々のカレーでワクワクしている。カレーの匂いを思い出して
帰って速攻でお米を
水の分量を調べ、分量通りにセットする。火にかけて気をつけながら
自分が食べたいから真剣だ。
その間にリリアが野菜を切って、肉を切って炒めて鍋に投入。グツグツと煮込む。
サラダを作る。ピクルスも登場。
「あら。しまった。辛口だった」
箱を見て気づく。うっかりしてた。嬉しかったから辛さを確認してなかった。
「どうしたの?」
「リリア、このカレー辛い」
「どのくらい?」
「好みだから食べてみないと」
「じゃぁ、出来上がりが楽しみね」
「そっか。それでいいか」
野菜が柔らかくなってからルウを投入。カレーの香りが立ち始める。
「いい香りね。食欲がそそられるわね」
「そうでしょ。私、この香り嗅ぐと嬉しくなったもの」
「日本食じゃないのに?」
「カレーは日本の食生活になくてはならない一品ですよ。なんて私だけかもですけどね」
「あらあら」
ご飯は蒸らして保温器で温めてある。煮込まれたカレーが出来上がる。
「リリア、皆で食べましょうよ。シドもマリーも遅そうだし。カレーは一人で食べちゃ美味しくないの。ね」
「そう? なら、祥子と一緒しましょうか。アンデルを呼んでくるわ」
そう言ってリリアが出て行った。その間にお皿を出してよそっておく。
玄関が開いてリリアかと思ったらマリーだった。
「マリー、お帰りなさい」
「祥子、ただいま。ねぇ、何か凄くいい匂いがしてる! 何?」
「カレーよ」
「カレー? わぁ! 家でなんて初めてだわ」
「マリーは食べた事あるの?」
「お店でね。でも、薬臭かったような記憶しか残ってないのよ。この匂いとは違ってた。本当にカレー?」
「本当よ。今、リリアとアンデルも来るわ。皆で食べましょう。賑やかなほうが美味しいのよ」
「すぐ荷物置いてくる!」
階段を駆け上がっていったマリーがすぐ戻ってきた。リリアとアンデルがやって来た。
テーブルに四人。シドはまだだけど賑やかな食卓だ。
「辛かったら卵をかけるの。混ぜて食べれば辛くなくなるのよ」
「私は卵欲しいわ。祥子、ヒトツとってちょうだい」
リリアに卵を渡した。マリーとアンデルは大丈夫みたいだ。
皆が一口食べて感想を言い合う。
「お店で食べるのよりもこっちがいいわ。食べやすいもの」
「お店のは本場の味なのよ。スパイスの味なのよ」
「確かに店で出すのも美味しいんだろうけどな。俺の口にもこっちだな」
マリーとリリアが言い、アンデルがボソッと言って、皆で頷いてた。味覚が違うからドキドキしてたんだけど、ホッと胸をなでおろした。
「お店で出すのはスパイスの配合が違うのよ。だから食べ歩いて自分の好きな味を見つけるの。カレーって決まった味が無いから」
「祥子は詳しそうね」
「日本人って大人も子供もカレーって好きなのよ。身近な食べ物なの。私もよく食べてたのよ。これだけで野菜も肉も入ってるから栄養もとれるし」
「そうね。ここでも作るようにしましょうか。大きい子供もいることですしね」
「あら、リリアったら、それ私の事?」
「マリーの他に誰がいましたっけ?」
「あら、酷い」
皆で笑っていたら玄関が開いた。シドが帰ってきて、食卓に皆がいるのを見て一瞬固まった気がした。リリアとアンデルがちょっと困ってる気がしたから、私が声を掛ける。
「シド、お帰りなさい。早かったんですね。早く一緒に食べましょう」
「…早く仕事が終わったから。皆で揃ってどうしたんですか?」
「今日は、私がワガママを言ってカレーを作ったんですよ。カレーは皆で食べるのが一番美味しいんです。だから、リリアとアンデルにも来て貰ったの。シドも一緒に食べましょう」
「なら、急いで下りてきますね」
シドが部屋に向かって行ったのを見て、リリアが
「何か久々ですね。皆で食事なんて。ねぇ、あなた」
「そうだな」
「兄さんの事故以来ね」
マリーが呟いて食卓が静まった。それに気づいてマリーが慌ててるから私が動く。
「私、飲み物出してくるわ。皆揃ったんだからいいでしょ? リリアもアンデルも今日はゆっくりして。ね」
「祥子、私も手伝うわよ」
マリーがキッチンについて来て、リリアがグラスを並べだす。
シドのお皿も並べて、グラスにワインを注ぎこんだら、シドが下りてきてお皿を見て口を開く。
「いい匂いですね」
「シドは食べた事あるんですか?」
「えぇ。練習所の傍に店があってね」
「練習所の傍? ありましたっけ?」
「もう潰れちゃいました」
「あらら」
「兄さん、祥子ったらカレーにウルサイみたいよ。日本ではよく作って食べるんだって」
「なら、美味しさはお墨付きですね」
そう言って一口目を食べるシドに皆で注目しちゃってる。
「あ、ちょっと辛いかな」
「卵混ぜると甘くなったわよ」
リリアが言うとシドはワインを飲んでから言う。
「いや。大丈夫。この位なら大丈夫。お店のカレーと違いますね。美味しいですよ」
「良かった」
ワインが空けられていくのは辛いからかもしれないけど、何本か栓が開けられていった。私は今日の出来事をリリアとアンデルに確認しながらシドとマリーに話してる。
「そうなのよ。祥子ったらマーケットで迷子になっちゃってね」
「恥ずかしいわ。でも、大きなカートがあちこちで立ち塞がるんだもの」
「マリーもよく迷子になってましたから、恥ずかしくないですよ」
「やだ。兄さんったら。あれは私がジュニアスクールの頃じゃない」
「何度かあったわよね」
「リリアまで~」
実家でもこんなだった。食事中、今日あった事を話したり聞いたりしてた。
日本の我が家が懐かしくなった。
☆
マリーと二人でリリアの手伝いをしながら片付ける。
「夕飯が楽しかったわ。祥子のお陰ね」
マリーが言った。
「そうね。久々にここが昔に戻ったみたい」
リリアがリビングに視線を投げた。リビングではシドとアンデルがチェスをしている。
私が傍に行って見ると、アンデルが考え込んでる。
「ここよ」
アンデルのナイトを動かす。シドのキングが動いて逃げる。
「で、クイーンでチェックメイト」
「あ…」
「やった。勝っちゃった」
アンデルと手を合わせて喜んでたら、シドが悔しそうに片付け始める。
「祥子はチェスを知ってたんですか?」
「東洋のチェスをね」
「東洋のチェス?」
「将棋ですよ。駒がチェスと同じ様に動けるんですよ」
「祥子に負けました」
「やったやった」
小躍りしてたらリリアが近づいてきて言う。
「さて、私達は帰るわね。今日は一日楽しかったわ。おやすみなさい」
「もうそんな時間?」
マリーが残念そうに言って時計を見た。
「あ~あ。課題しなくちゃ。じゃ、おやすみなさい」
リリアとアンデルを見送って、マリーも部屋に戻る。
「あ、私もすっかり忘れてました。一日のんびりしすぎちゃった」
「まさか、明日の練習」
「してません」
堂々と宣言したら、シドが呆れた顔で私を見た。
「遊びすぎですよ」
「大丈夫です。2時間集中します。向かいの部屋、使っていいですか? 戸を閉めれば音は漏れませんよね」
「どうぞ。使って下さい」
「ありがとうございます」
部屋に戻って楽譜を引っ張り出し、フルートを組み立てる。明日から三日間の曲はディズニーの曲だけ。小さな会場でフルートとピアノだけの演奏だ。ピアノは初めて会う人だ。どんな音を出すのか楽しみだ。
ディズニーの曲は慣れ親しんでるから大丈夫。音を外さないように気をつければいい。
今度は戸を閉めて部屋に入る。
一曲ずつ吹いていく。このお話はこうだったな。と思い出してから吹き始める。
明日の曲は完璧だ。イメージもバッチリだ。
「その集中力だから練習時間も少なくて済むのですね」
「あ、シド。聴いてたんですか」
シドが椅子を出して部屋の窓際に座っていた。
「いい音ですね。最近、特に良くなってきているように聴こえます」
「ありがとうございます」
「私も吹けてたら祥子に合わせていたんでしょうね。残念な気がします」
「ここでなら一緒に吹けますよ」
「私は…そうですね。次の機会に」
以前、私のフルートで吹いてくれたのに。
その時、携帯に着信が入った。
「あ、エリックからだ。ちょっとすみません」
シドから離れて通話ボタンを押す。
「はい。ん?」
「ハッ ハッ ハッ ハッ」
エリックからなのに変な音がする。
「もしもし?」
「クゥ~ ハッ ハッ」
聞こえてきて笑ってしまった。これ、コーダの息だ。エリックとコーダが来てる。
「待ってて。今行くわ」
エリックに聞こえてる筈だから、そう言って通話を切った。
「シド、庭に犬入れて大丈夫ですか? エリックがコーダの散歩でここに寄ってくれたみたいなの」
「構いませんよ。ごゆっくり」
シドが椅子から立ち上がり、私と一緒に部屋を出た。私は玄関を開け、シドはリビングに移動する。
私は庭を突っ切って門の前に座ってるコーダを見つける。尻尾がパタパタと振られている。
門を開けたらコーダが嬉しそうに入ってきて、咥えてた袋を私の前に突き出した。
「あら、私に? ありがとう」
コーダから袋を受け取ると、コーダが体を摺り寄せてきた。
でも、エリックは? コーダの傍に居ない。コーダのリードを頼りに門を出て横を向いて見つける。
柵にくっつくようにして隠れてた。
「エリック」
「やぁ。今、大丈夫?」
「えぇ。丁度、明日の練習終えたとこ。コーダの散歩?」
「俺の家から近いから」
「庭に入って。コーダも大丈夫よ。シドに了解貰ってるから」
「じゃ、少しだけ。おいで、コーダ」
エリックを促して花壇のブロックに座る。コーダは庭を嗅ぎ回っている。
「コーダに電話は無理よ」
「そうかな? それ開けて」
笑ってエリックに言ったら、エリックは私が持ってる袋を指差す。言われるまま袋を開ける。中にチョコが沢山入ってる。
「美味しそう。早速、頂いちゃぉ」
ヒトツ摘む。エリックにもヒトツ。
「甘くて美味しい」
「気分転換にもいいだろ」
「うん。ありがとう」
今日一日、とにかく動いていたのは、皆と一緒に居たかったのは、今日の仕事を忘れていたかったから。悔しいのを忘れていたかったから。
「俺も直前でキャンセルされた事あるから」
「…」
エリックにはお見通しなのかもしれない。
「明日から居ないけど、その間に落ち込んだらこれ食べて。でも、祥子は一気に食べちゃいそうだな」
「この量を一度に食べたら鼻血でちゃうわ」
「なら、大丈夫かな。2日位はもちそうだ」
「エリックったら、もうっ!」
「10日はもたせてくれよ」
「ゆっくり食べるわ」
コーダが私達の前に来て座ったのを見て、エリックがコーダの首を撫ぜて言う。
「さて、祥子の顔も見れたし、そろそろ帰るか」
「明日も最高の音を」
「勿論さ。祥子もだよ」
「えぇ」
エリックが立ち上がろうとするのを私の手が引き止める。エリックの腕を引き寄せて顔を寄せる。エリックの香りが近づく。
「祥子、ここじゃ」
「10日間、寂しくならない為のおまじないをして」
「そうだな」
ゆっくり唇が重なった。これが離れたら暫くの間一人になる。
一人でも大丈夫。大丈夫だけど、離したくない。
エリックも同じなのかもしれない。お互い離すきっかけがないままの様な気がする。
コーダが私達の間に顔を突っ込んで終わりになった。
「コーダったら、妬いてるのかしら」
「俺達に?」
「エリックの事好きなのよ」
私がコーダの首を撫ぜたら、コーダが気持ち良さそうに クゥ と鳴いた。
「いや、祥子の事が好きなんだ。俺と同じだな」
エリックがコーダの頭に掌をのせたら、コーダがエリックを見上げるように顔を上げて尻尾を振った。
☆
エリックとコーダを見送って家に入ると、リビングから声が聞こえてきた。
シドがオペラを聞きながらフルートケースを前に置いて考えているみたいだ。
ソプラノの澄んだ声が私の耳に届いてきた。
- #37 F I N -
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