#2 ガド爺の回想 <ガド爺視点>

文字数 9,477文字

日本の夏は暑い。湿気があるから辛い。
この便利な自動販売機と言う物は、ワシのコインを飲み込んだままウンともスンとも言わない。
途方に暮れている外国人に見向きもしない日本人。いやいや。日本人は忙しいから、外国人の爺さんが自動販売機の前で途方にくれてても眼に止まらんのじゃろう。

「ホワッツ ハプン?(どうしたの?)」

英語棒読みが耳に届いた。ワシの横に女の子が立っていた。強張った笑顔だった。ワシはその子が手にコインを持っているのに気づく。ジュースを買いに来てワシがどかないから、仕方無しに英語を使ったってトコだろう。

「Juice does not come out.(ジュースが出てこないんじゃ)」
「…ホワット?(何?)」

簡単に喋ったのだが、女の子は聞き取れなかったみたいだ。慌ててる。
なら。ジェスチャーも入れてゆっくり言ってみる。

「アイ プット イン マネー (ワシはコインを入れた) バット ノー ジュース(でも、ジュースが出てこない)」 

コインを入れ、ボタンを押す仕草をしてみせ、取り出し口を指さす。

「…アンダスタンド ウェイト (分かった。待ってて)」

女の子が自動販売機に向かって直ぐに笑ってワシに言う。

「ディス ジュース イズ 150エン。 アッド 50エン(このジュースは150円だよ。50円追加して)」
「I didn't know the price had gone up.(値上げしてたなんて知らなかった)」
「は?」

おっと。愚痴(ぐち)ってもしかたないか。女の子が不思議そうな顔してるから通じてないんだろうけど、いい爺さんがこんな事愚痴ってたなんて恥かしい。
大急ぎで50円を出して入れる。

 ガチャン

出てきたのを、女の子が取り出してワシに向ける。

「ダンケシェーン(ありがとう)」

受け取りながら、うっかりドイツ語だ。それを聞いて女の子が大慌て。

「ん? あら、ドイツ人? えっと、ありがとうって言われたから。ドイツ語で、どういたしまして、ってどう言うんだっけ」

女の子があたふたしている。
ワシ位、世界中公演に行ってると、知っている単語はあるもんだ。

「ダイジョブ。「ドウイタシマシテ」アンダスタンド。アリガトウ」 
「あ、はい。それは良かった」
「ホワット?(何?)」
「えっと、ノープロブレム(問題ない)で、いっか」

女の子が自動販売機にコインを入れてジュースを取り出す。ワシに頭を下げてから、近くのベンチに腰かけてジュースを開けた。

ふと顔を上げた女の子がワシを見て辺りを見渡した。そのまま顔を戻してジュースを飲む。そしてまた辺りを見回してワシを見た。

「お爺ちゃん、ここ座って飲めば?(何してんだ? 買ったはいいけど、どこで飲んだらいいのか分かんないのか? ドイツに自販機って無いのか? でも、外人なんだよな。英語苦手なんだよな。まぁ仕方無いか。爺ちゃんだから害は無いだろ)」

女の子が何か言った。ワシには分からない。女の子が手招いた。ワシにか? 辺りを見回すと傍に誰もいない。「ワシの事か?」と指で自分を指すと、女の子は(うなず)いた。
女の子の座っているベンチに近づくと、女の子が隣の開いてる所を手で叩いた。

「プリーズ (どうぞ)」
「アリガトウ」

ワシもジュースを開けて口にする。日本も悪いとこじゃないな。
たまには皆の眼をくらまして、街中を歩くのもいいもんじゃな。
そんな事を思っていた。
女の子の持ち物に気づく。ワシは興味が湧いてきたから声を掛ける。文じゃなくて単語の羅列とジェスチャーのほうが良さそうじゃ。

「そのケースは?」

ワシが声を掛けてきたから、女の子は驚いた顔でワシを見る。そして、ワシの指先がケースを指しているのを見て、ケースをワシとの間に置いた。

「これ?(うわっ。話しかけられちゃった!)」
「そう」
「フルートだよ」

そう言ってケースを開けた。中にフルートが入っている。

「君が吹くの?」
「そう」
「君は学生?」
「学生じゃない。働いてる」
「音楽家?」
「違うよ。会社で働いてる。」
「どうしてフルートを持ってるの?」
「これから演奏会があるの」
「演奏会?」
「そう。アマチュアのオーケストラ」
「ワシも行っていいかな?」
「あなたが?」

ワシみたいな外人の爺さんが、オーケストラに興味あるなんて思わなかったんじゃろう。そもそもワシが何者なのかも気づいていない。
アマチュアのオーケストラに所属しながらも、フルートは趣味でやってるのじゃろう。

息抜きに丁度いい。

女の子がカバンを開けて紙をワシに差し出す。

「チケット」

見ると値段が印刷されている。ワシが財布を取り出そうとしたら、女の子が笑って言う。

「プレゼント」
「アリガトウ」
「場所知らないよね」
「はい」
「(しょうがない)一緒に行こう。」
「はい。アリガトウ」

空いた瓶を女の子が捨ててきてくれて、ワシは「市民会館」と書かれた建物に連れてこられた。
入り口が閉められている。女の子が困った風にワシを見る。

「ここに置いてったら可哀想だよな。どうしよ」
「 ? 」

ポツリと呟いた。日本語だったからワシには分からなかった。

「来て」
「はい」

女の子にくっ付いて、裏口から建物の中に入る。中には小学生や、ワシの様な老人迄、沢山の人がいた。それぞれ楽器を持っていたりそれらの準備をしていた。
女の子が年配の男性に近づいて行く。
インスペクター(演奏面以外のことで、楽団全体を取り仕切る人)なのじゃろう。

山波(やまなみ)さん。こんにちは」
「苅谷さん、遅かったじゃないか。もう皆、調律に入ってるよ」
「すみません(この爺ちゃんに係わってたからだよ)」

女の子が山波と呼んだ男性に頭を下げる。山波がワシが居るのに気づく。

「で、苅谷さん。そちらの方はって。うわっ!」
「えっ? (この爺ちゃん入れちゃマズかったか)」

ワシの正体がバレたのじゃろう。女の子は慌ててワシの顔を見るから笑ってやる。女の子がワシにまくし立てる。

「お爺ちゃん、チケット、チケット出して(笑ってる場合じゃないでしょう!)」
「はい」

さっき貰ったチケットを出すと、ひったくるようにチケットを取って、女の子が山波に見せる。

「山波さん、大丈夫。このお爺ちゃん、チケット持ってます。開場迄時間あったから、連れて来たんです! お爺ちゃん日本語分からないみたいだし。ほっとけなくて」

山波がチケットを受け取り、ワシに手渡す。流暢(りゅうちょう)な英語でワシに話しかける。

「ようこそお越しくださいました。指揮者のガドリエル・シュナウトゥァーさんですね?」
「そうじゃ」

握手を求められた。女の子が山波とワシが握手してるのを、眼を丸くして見ている。

「来日されているのは知っておりましたが、こんな所にどういった御用で?」
「散歩じゃ」

抜け出して来たとは言えないじゃろう。

「散歩ですか?」
「そうじゃ。そしたら彼女がチケットくれての。面白そうじゃから聴かせて貰おうと思ったんじゃ。見て回っても構わんか?」
「あ、はい。どうぞ。苅谷さんは早く準備に入って」
「は、はいっ(この爺ちゃん何者?)」

女の子が不思議そうにワシを見て急いで荷物を置きに行った。

世界屈指の指揮者が何をしに?
そんな空気があっと言う間に楽屋に広がっている。ワシの名声も嬉しいようでいて少し困る時がある。
舞台上で調律が始まっている。アマチュアだな。時折、口を挟みたくなる音が耳につく。
ワシに気づいた人が握手を求めてくる。握手は減るもんじゃない。快く受けるのがワシの流儀じゃ。

女の子が来た。自分の席に着いて、楽譜を置いた。ワシが居るのに気づいて頭を下げた。ワシは女の子に近づいて行く。

「お爺ちゃんは有名な指揮者だったんだね。オーストリアの人なんだね」
「バレたようじゃな」
「有名な ミスター ガドリエル が何してたの?」
「ジュース飲みに」
「ジュース? あ、散歩にジュースね。確かに確かに」

女の子が笑いながらケースからフルートを出して組み立てる。

「いつからフルートを吹いているのかな?」
「高校から」
「今日までずっと?」
「卒業してから吹いてなかった。先月、復活したの」
「長い間ブランクがあったんじゃな」
「そう」

リッププレート(歌口(うたぐち):吹き込み口のある部分)を軽くハンカチで拭いて、女の子は口に当てる。

最初の一音、いや、女の子の息を吹き込む音が耳に入った瞬間、ワシはゾクゾクと背筋が騒ぐ感じを受けた。この感じは最初の一振りの瞬間に似ていた。

 ♪~♪~♪

(何て…)

たかが音階、されど音階じゃ。体中にゾクゾクが走り回っていた。

「もう一度、吹いてくれないか?」
「えっ? (どうしたんだ?)」

興奮しているワシにたじろぎながらも女の子はもう一度フルートを口に当てる。

 ♪~♪~♪

(見つけた!)

ワシが譜面を指さしたから、女の子は譜面のメロディーを吹き始める。
ドヴォルザーク 交響曲第9番ホ短調 「新世界より」 第2楽章「家路」

 ♪~♪~♪

(新しいワシの音じゃ!)

女の子がフルートを置いた時、ワシはすぐさま声を掛ける。

「君の名前は?」
「…祥子・苅谷」
「よろしくな。ワシはガド爺でいい。そう呼んでくれ」
「えっ? あ、はい(何だ?)」

ワシが差し出した手に驚きはしたが、祥子はワシの手に合わせてくれた。





アマチュアの演奏会にしては観客が入っている。チケットの値段が手頃だったからじゃろう。
山波がワシに良い席を用意してくれた。音が集まってくる席だ。

ドヴォルザーク 交響曲第9番ホ短調 「新世界より」

一瞬の緊張が走り、棒が動く。

ワシは祥子の音を探す。簡単に耳に捕らえる事が出来た。その音に聴き入る。
聴き入りながら驚いている。

祥子の音が引っ張っている。
全ての音を引っ張っている。

本来なら弦楽器、木管楽器、それぞれに引っ張ってまとめる楽器がいるものだ。
更にコンマスが控えめになっているからか、今はフルートがその頂点に居る。
所々で飛び出てくる音があるものの、不協和音にはなっていなかった。
祥子の音が柔らかく響いてきているからだ。

(ミスしおったな)

ワシだから見破れる事もある。それでも祥子の立ち直りは早かった。
第2楽章の「家路」のメロディーでは見事と言える程、情景が見えた。
他に短い楽曲を演奏して終わる。

ワシはすぐさま楽屋に走りこんだ。一直線に祥子を探し出す。

「祥子! 最高じゃ! ワシの下で、ワシの下で! ウィーンに来なさい!」
「きゃぁ!」

興奮状態のワシは祥子に抱きついている。日本人は慣れてない。祥子は驚いて悲鳴を上げた。楽屋に居た誰もがワシと祥子に注目している。

「み、ミスター ガドリエル!」
「ガド爺でいいと言っとるじゃろ。ガド爺じゃ。祥子、一緒にウィーンに来なさい!」
「な、何?」

ワシが早口でまくし立ててるから、通じていない。
祥子を抱いている腕を離して、祥子にゆっくり話しかける。

「ワシと一緒にウィーンに来なさい」
「はぁ? ウィーン? (ってドコだ?)」
「そう。祥子のフルートの音は世界に通用する。もっと練習が必要じゃが」
「はい? (何言ってんだ? 練習しろ?)」

祥子が面食(めんく)らっている。山波が近寄って来て、祥子に通訳する。
祥子が驚いている。

「何でそんな事? 私の音のどこが良かったって?」
「だが、ミスター ガドリエルがそう言っている。苅谷さんは話し合ってみるべきだな。いいチャンスだぞ」
「え? 私、英語無理ですよ。簡単な会話しか出来ないから話し合うなんて」
「なら私が通訳しよう。この後、時間取れるか?」
「…大丈夫ですが」

山波がワシに向いて話しかける。

「ミスター ガドリエル。この後、お時間貰えますか?」
「大丈夫じゃ」
「苅谷さんと話し合いませんか? 私が通訳しますから」
「それはありがたい。すまないが頼むよ」
「では、こちらで少しお待ちになって下さい」
「ありがとう」

小さな部屋に通された。
待ってる間も祥子の音が耳について体中がゾクゾクしている。
「最高じゃ。最高じゃ」そう言って祥子を抱き締めていたい位じゃった。

エリックと征司を見つけた時、それと同じじゃ。
大学に公演に出かけて同時に見つけた二人。どちらか一人でワシには精一杯だと思われた。だが、どちらも手離せなかった。どちらの音も世界に通用する。そう思ったら、ワシの持てる全てを同じように二人に注いでやろう。そう心に誓った。一人ずつなんて時期をずらしたら、片方が死んでしまう。やるなら今同時にやるしかない。

あの時の興奮だ。それが再現されている。あれ以来、もうワシの魂を揺さぶる音には出会えんと諦めていたから、祥子の音に対するショックは大きく爆発したんじゃ。速攻で祥子を誘っていたくらいじゃ。

暫く待たされて、祥子と山波が入って来た。
祥子は緊張してガチガチだった。部屋に来る前に山波に、ワシが声を掛けたと言う事について聞かされたんじゃろう。
山波が口を開く前にワシが口火を切る。

「ワシの下に来い」

おっと。ワシでもこんなにストレートに言うつもりは無かったんじゃが、口を出て行った。
山波が祥子に伝えると、祥子がさっきと同じ様に驚いて答える。

「冗談ですよね?(ブラックジョーク?)」
「冗談じゃない。ワシは祥子のバックアップをしたい」
「本気ですか?」
「本気じゃ。ワシの日本での公演が全て終了したら、一緒にウィーンに来てくれないか?」
「何故、私なんですか? 他に上手な人が居るじゃないですか」
「ワシの耳は祥子の音を捉えた。祥子の音じゃ。君はワシの耳を疑うのか?」
「…(しまった。怒らせたみたいだ。本気でやってるんじゃないのに。海外なんて行っても無駄だよ。行きたくも無い。何とか断らなきゃ。いい理由。何か)」

山波が祥子に声を掛けている。日本語だからよくは分からないが、山波は勧めているようだ。

「苅谷さん、世界屈指の名指揮者からのお誘いじゃないか。これは両手を挙げてでも喜ばしい事なんだよ。演奏家にとって喉から手が出る事なんだ。光栄に思わなくちゃ」
「でも、山波さん。私はフルートをやってきた訳じゃない。会社に勤めて仕事してるんです。音楽なんて先の分からない事に時間を掛けるなんて出来ません。折角、仕事に慣れてきてるのに。(そうだ。仕事を理由にすればいいかも)仕事してるから無理ですって伝えて下さい」
「いいのか? 折角のお誘いだ。彼が言えば君の音楽家としての先は確定されたも同じなんだよ。それでも断るのか?」
「はい。断って下さい(音楽で食っていけないよ)」

山波が祥子の言葉をワシに伝える。ここから祥子は山波を通してワシに答えて来る様になった。下手な英語で言って誤解を招きたくなかったのじゃろう。

「仕事をしているから無理です」
「仕事を辞めて貰えんかの?」
「いやです」
「祥子の音は世界に通用するんじゃ。今の仕事を辞めて音楽に身を投じる冒険をしてもいいじゃろ?」
「いやです。辞めるなんて出来ません。辞めて音楽にいっても私じゃダメです。だから、今の生活を捨てられません」
「日本人は保守的じゃの」
「ここでは女性が就職するのが大変なんです。歳とればとる程難しいんです。折角慣れてきた仕事辞められません」
「祥子はフルート吹くのが嫌いなのか?」
「嫌いじゃないです。でも、いやです」

祥子が頑なに拒否する。ワシは諦めたくなかった。だから一歩譲る条件を出す。

「祥子の気持ちは分かった。なら、ワシのわがままを聞いて貰えないか?」
「何?」
「二年間だけ、ワシの言う事を聞いて欲しい。その間も君は仕事をしてていい」
「二年間だけ?」
「そうじゃ。仕事が終ってからの時間、必ずフルートのレッスンを受けて欲しい。手配はしておく」

少し考え込んでから祥子が口を開く。

「その位なら」
「オーケー。二年間で、祥子の腕がどれだけのモノか教えてあげられると思う。仕事を辞めるかはその時考えればいい。それでどうじゃ?」
「分かりました。でも、両親が何と言うか」
「親御さんか?」
「はい」
「じゃ、善は急げじゃ。祥子の家に行くぞ。山波さん。申し訳ないがもう少し付き合ってくれんかの?」
「いいですよ」

祥子の家に行くと、得体のしれない外人の爺さんが来た事で、家中ごった返してるかの様じゃった。ワシは見世物状態じゃ。

祥子の親御さんは始終、恐縮しておった。祥子は途方に暮れた感じじゃった。
親御さんのほうはあっさりと承諾してくれた。
その場で知り合いのつてを手繰(たぐ)って、レッスンの手配を済ませた。

祥子と別れ際、ワシは一枚紙を手渡し指示を出す。
山波がタクシーの中で聞いてくる。

「どうして、苅谷さんを選んだんですか?」
「ワシの耳が反応したんじゃよ」
「反応?」
「そうじゃ。第2楽章の「家路」。指揮者の注文だったじゃろ。一日の終わり、家路を帰る人、今日はお休みゆっくりと、って情景じゃ。違うか?」
「確かにそうです」
「祥子に「家路」を楽しく吹いてくれと注文すれば分かる。祥子なら子供が遊びの余韻を引き連れて帰って来る、明日もまた遊ぼうね、晩御飯は何だろう、大好きなカレーの匂いがするぞ、って吹いてくるはずじゃ」
「確かに、彼女の音には気持ちが籠められてますね」
「君にも分かってたんじゃな。祥子の技術はまだまだじゃが、音はすばらしい物を秘めている。ワシは祥子との出会いを神に感謝したいくらいじゃ。それと、君には祥子を引き抜く事になるから謝らんとな。すまない」
「謝らなくていいですよ」
「君達の公演には祥子を参加させてやってくれ。君も祥子の成長ぶりが見たいじゃろ?」
「はい」
「それと、今日のお詫びと感謝に」

祥子に渡したのと同じチケットを、山波に手渡す。

「ワシの最終公演のチケットじゃ。いい席じゃぞ。聴く価値はあるじゃろう。音も日本一の楽団じゃからな」
「ありがとうございます」



ワシは日本各地を飛び回り東京に戻ってきた。
祥子に出会ってから1ヶ月が過ぎていた。

最終公演で祥子に会える。フルートを持参するように言ってある。どれだけ成長したのだろう。まるで、デートの待ち合わせをしてる様じゃった。

ワシは指揮台から祥子を確認する。
そこからワシの引き出す音を聴いてるがよい。その音を超える位になってこい。
ワシは祥子の為に棒を振っていた。

祥子がワシの控え室に顔を出す。

「ミスター ガドリエル。こんにちは。最高でした。勉強になりました」
「祥子、ガド爺でいい」
「はい」
「どんな調子かな?」
「自分では分からないです」
「練習の記録は毎日届いてきている。二、三日休んだようだが、土日に振り替えてたね」
「(知ってる?!)はい。その日は残業になっちゃって行けなかったんです」
「では、今習っている曲を吹いてくれんか?」
「はい」

ケースからフルートを出して組み立てる。フルートが手入れされているのを見て嬉しくなった。祥子がフルートに向き合ったと言う事じゃ。

祥子がリッププレートを軽くハンカチで拭いて、口に当てる。

  ♪~♪~♪~

驚いた。
毎日二時間程の練習だったにも係わらず、祥子は短期間で成長していた。過去に吹いてた体が覚えているのじゃろう。

  ♪~♪~♪~

曲調が変わった。可笑しくなる。

「祥子、ワシを試してるのか? ここは crescendo(クレッシェンド:だんだん強く)じゃろ」

祥子は diminuendo(ディミヌエンド:だんだん弱く=decrescendo デクレッシェンド)で吹いてくる。

「ここは pp(ピアニッシモ:とても弱く)じゃ」

祥子は ff(フォルティッシモ:とても強く)で吹いてくる。

「Adagio(アダージョ:ゆるやかに)が Vivace(ヴィヴァーチェ:活発に)になっとる」

祥子に視線を飛ばすと、楽しそうにワシを見ていた。
テヌート(音を保って)も音が揺れず完璧にこなしている。

ワシは嬉しくなっている。腕が自然と動き出す。

「祥子、tranquillo(トランクィッロ:静かに)。ワシに合わせて」

  ♪~♪~♪~

「そのまま crescendo(クレッシェンド:だんだん強く)。それっ」

ワシの腕が止る。祥子がフルートを置いて、腕を曲げ伸ばしする。

「祥子! 最高! 最高じゃ! ワシの耳に狂いは無かったのじゃ!」
「きゃぁ!」

感動してる時は無礼講じゃ。セクハラだ何だ言われそうだが、感動は止められない。ワシはしっかり祥子を抱き締めている。
ワシがもっともっと若かったら感動のキス位浴びせてるじゃろう。

「ガド爺~、止めて~」
「おっと済まなかったな」

ワシが離れると、祥子は笑いながら言う。

「ガド爺、気をつけないと警察に捕まるよ」
「日本では感動もうかうか出来ないな」
「気をつけないとね」
「警察は苦手じゃ」
「ガド爺」
「なんじゃ?」

祥子が笑顔を止めて真面目な顔でワシを見る。

「いい先生をつけてくれてありがとう。フルート吹くのが楽しい。仕事で嫌な事があっても、後でレッスンがあるって思うと忘れられる。先生は厳しいけど、吹けると嬉しい」
「良かったな」

時間が短いから容赦なく仕込んでくれと言っておいたんじゃ。祥子には内緒じゃ。

「それと」
「なんじゃ?」
「月謝、ガド爺が出してくれてるって聞いた。私だって払えます」
「いいんじゃ。ワシが祥子に投資したんじゃ。じゃが、レッスン代だけじゃぞ」
「でも」
「じゃ、出世払いでいいぞ。祥子が演奏する時に、タダで招待ってので手を打つ」
「そんなんでいいんですか? 出世しないかもしれないのに」
「ワシは祥子の音に惚れこんだんじゃ」
「ありがとう。先は分からないけど、今、吹いてるのが楽しい。それが分かった」
「そうじゃろ、そうじゃろ」

祥子は音楽家に向かい始めている。

「じゃ、練習の成果を出しておくれ。「家路」を楽しくな」
「楽しく?」
「そうじゃ」

少し考え込んだ祥子が顔を上げる。
リッププレートを軽くハンカチで拭いて、口に当てる。

  ♪~♪~♪~

思った通りじゃ。祥子は子供が遊び疲れて帰って来る、明日もまた遊ぼうね、晩御飯は何だろう、大好きなカレーの匂いがするぞ。
その情景がわかる。ウキウキしてくる。

「同じ「家路」を憂鬱そうにな」
「憂鬱ですか」

そう言って考え込んでから、口に当てる。

  ♪~♪~♪~

仕事で怒られた、家に帰っても楽しい事はない、このまま明日が来る、明日も仕事に行かなきゃならない。
祥子の経験からか?

「「寂しさ」「悲しさ」で吹いてみてくれ」
「さ、寂しさ…かぁ。「家路」ですよねぇ。家に帰るんですよねぇ」

  ♪~♪~♪~

誰かの死の情景が出てくるかと思っていたのだが、祥子は別の情景を奏でだす。

「祥子。最近、恋人と別れたんじゃな?」
「えっ?」

祥子が真っ赤になって視線を床に落とした。

「若いんじゃ。何でもいい経験じゃよ」
「…」

家に帰りたくない、帰らなくちゃならない、帰りたくない、あの人の温もりが恋しい、一緒にいたい、なのにドウシテ。



ワシは日本を離れてからも祥子の事から眼を離さなかった。公演で出かける時には必ず日本に立ち寄って、祥子の音を直に聞いていた。

祥子は、一年のうちに、日本で開催されるコンテストで優勝する程、成長していた。
国際コンクールに出してみたら、銅賞を取ってきたのじゃ。
二年間の約束じゃったから、レッスンを更に厳しくする。祥子は愚痴をこぼしながらもついてきた。そして、国際コンクールで金賞を取った。

ここまでくれば、日本国内で祥子の名前は広がってくる。あちこちに招かれ始める。
祥子の表現力と完璧な技術が揃ったのじゃ。

「ガド爺に負けました。仕事、辞めてきました」

そして、最後の仕上げに、ワシの指揮でソロの大舞台じゃ。

「祥子! 最高じゃ! 最高!」

ワシの腕から祥子が飛び立った瞬間じゃ。


- #2 F I N -




ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み