#28-1 アイーダ <祥子視点>
文字数 10,365文字
オペラ「アイーダ」の練習に入る。出演の方達との顔合わせ。楽団の皆と顔合わせ。
はっきり言ってメンドクサイ。一度だけの競演になる確率が高いのに、顔と名前を覚えなきゃならない。
「祥子、アイーダ役のソフィはわがままよ。気分次第で文句つけるのよ。はい、楽譜だって」
私と同じゲストで参加のハープ奏者、ハンナが楽譜を私に手渡しながら言った。
「ありがと。前に競演した事あるの?」
「何度もあるのよ。確かに実力はあるんだけど、性格がねぇ」
ハンナの言った意味が分かった。ソフィを中心に練習が進んでいく。
「ちょっと。この部分、私、息が持たないから短くして」
舞台側の練習の音はCDに落とした物を使っている。私はオペラが初めてだったから、観客側で座って練習を見せて貰っていた。
ソフィが注文をつけると、指揮者がその部分にチェックを入れている。
「大変になりそう」
それでも、ソフィの歌うソプラノの声。張りのあるいい声だ。ラダメス役のザフのテノールを聞いてゾクリときた。
オペラって声の競演なんだ。
アイーダはエチオピアの王女だが、エジプト王女のアムネリスの奴隷として仕えていた。ラダメスはエジプト軍の指揮官に任命される男。アイーダと相思相愛の仲だった。アムネリスもラダメスに好意を寄せていて、アイーダとラダメスの邪魔をする。エチオピア軍がエジプトに迫り、ラダメスは戦場に向かう。アイーダはエチオピア王(父)とラダメスの間で自分の運命を嘆く。
エジプト軍勝利で戻って来たラダメスはエジプト国王からアムネリスを与えられ次代国王に指名される。
エチオピア人捕虜の中にアイーダの父が身分を隠し生き残っていた。アイーダは父の言いつけ通り、司令官となったラダメスに近づき、エジプト軍の行軍経路を聞き出してしまう。アイーダ父娘がラダメスにエチオピアへ逃げようと誘うが、ラダメスは最高機密を漏らしてしまった事を後悔し、その場に残り捕まってしまう。アイーダ父娘は逃亡。
エチオピア軍の再起は鎮圧され、アイーダの父は戦死したがアイーダは行方不明。アムネリスは、ラダメスの減刑を願うが却下される。
ラダメスが地下牢に入れられると、そこにアイーダがいた。2人はそこで死んでいく。
「死んで貫く愛なんて分からないなぁ。愛と立場の板ばさみは辛いだろうけど」
クスリと笑い声が聞こえて振り向くと、エジプト国王役のアーチャーさんだ。
「君は若いからね」
そのいい声(バス)を出しながら、私の隣に座った。50歳を超えたジェントルマンだ。
私は大慌てでカバンを漁 って、アーチャーさんに頼んでる。
「サ、サインお願いできますか?」
「おやおや。こんなお若いレディが、私の事知ってるなんて嬉しいね」
「そりゃ」
(ミリファに「絶~対サイン貰ってきてね」って頼まれたから、色々調べてきたんですよ)
アーチャーさんがスラスラとサインをして返してくれた。
「ありがとうございました」
「いえいえ」
そう言って、アーチャーさんはさりげなく脚を組んだ。
イギリス人=ジェントルマン。この公式は正しい。オジサンなんて表現は似合わない。
感動してた私に声が掛かる。
「君はオーケストラの人?」
「フルート吹いてます。今回、ゲストで呼ばれました」
「祥子?」
「そうです。祥子・苅谷です。宜しくお願いします」
(私も有名人?)
軽く握手をする。
「ガラスのシンデレラだったよね?」
「…あ、はい」
(そっちか)
「オペラは初めて?」
「はい。だから、練習も見たくてお邪魔したんです。迫力あるんですね。負けない様にしなきゃ。ん?」
アーチャーさんが指を立てた。
「声に被 せちゃイケナイよ。オーケストラの音はベースなんだ」
「ベースって単なる伴奏って事ですか?」
「そうだよ」
「何故?」
「オペラでは声が情景を主張する。言葉が観客に伝わって舞台が作られる」
「それは分かります」
「楽器の音で情景を語られたら観客は混乱してしまう。無声の場面はいいんだが」
「でも、その声に合わせた音なら」
アーチャーさんが私を見た。
「君なら出来るのかな?」
「はい。あ(しまった!)」
つい言っちゃった。アーチャーさんが私をジッと見てから立ち上がる。
「ついて来て。フルートは持ってるね?」
「はい」
小部屋に連れ込まれた。アーチャーさんが台本を私に向ける。
「ここの部分の音を演奏してみて」
「はい」
次代国王にラダメス の部分だ。譜面を見ていき、音を出す。
♪~♪~
「そう。じゃ、歌いますよ」
「はい」
アーチャーさんの声が音に載ってきた。迫力のある声が部屋に響き渡った。
途中だったけど音を止めた。
「アーチャーさん。もう一度お願いします」
「いいよ」
♪~♪~
これも途中で音を止めた。
アーチャーさんが笑う。
「もう一度、今のと同じ歌い方をするからね」
「はい」
♪~♪~♪~
音と声が上手く載った。同じ情景で流れていく。
「さすがだね。君が絶賛された意味が分かる。なら、今度は情景を載せずに吹いて欲しい」
「…はい」
♪~♪~♪~
声が音を拾っていく。声だけでも充分情景が伝わってくる。アーチャーさんの声だけで。
最初の二回、私が音を止めたのは、私の情景とアーチャーさんの声の情景が噛み合わなかったからだ。アーチャーさんの声から出てくる情景が一回目と二回目で異なっていたからだ。
三回目は私とアーチャーさんの情景が同じだから上手くいった。
四回目は声だけだ。
「君の演奏力はイギリスにも届いてきました。私が生きているうちに一度はお手合わせ頂きたいと思っていました」
「こ、光栄です」
アーチャーさんが絶賛しているのに、私は素直に喜ぶ余裕が無かった。
アーチャーさんが私の前に椅子を引っ張ってきて座る。
「質問があったら答えますよ。確認したい事でもいいですよ。恥ずかしい事は無いですよ。君は初めてオペラと競演するのだから」
「あの」
「はい。何ですか?」
「間違っていたら直して下さい」
「はい」
私は四回合わせた違いを確認する。
「歌ってる人の気分で情景が変わるから、私達オーケストラは音のままでいいのでしょうか?」
「その通りです」
「気分で変わるものなんですか? 役作りしてるのに?」
「君だって覚えがないかい?」
「練習はそうですけど、本番は切り替えて…。あ、嘘です。やってしまった事があります」
エリック…好きよ
あれは練習してきた情景じゃ無い。私の気持ちが出ていた。
アーチャーさんが笑う。
「そうなんだよ。私達でも舞台の上でうっかりする時があるんだ。気持ちが入りこんだり、ミスがあったりするとね」
「そうですか」
「オーケストラは指揮者がまとめるが、私達に指揮者はいない。動いてるからね」
「はい」
「その動いてる個々の人間の気持ちはいつも同じじゃないんだよ。それにダブルキャストになったら同じ役を違う人間が演 るんだよ。その度に音を変えていられないだろ?」
「確かにそうですね」
「だから、音は音であって欲しいんだ。もちろん、盛り上げる強弱は必要なんだよ。単なる伴奏って訳じゃないんだ。君達に舞台の流れを作って貰わなきゃならないからね。分かったかな?」
「はい。ありがとうございました」
「ソフィとか今の若い者達はその辺分かっていないから、音が悪いからとか言うのさ。そんなのは気にしなくていい。オペラは声を聴かすんだ。いかに響かせて観客に伝えるかなんだよ」
「アーチャーさんの声、凄かったです。圧倒されました」
「ありがとう。あ、そうだ。折角シンデレラとお近づきになれたんだ、サインを貰っとかなきゃ」
「え? 私のですか?」
「そうさ。仲間に自慢したいからね」
台本の裏表紙に書くように頼まれて、サインを書いた。
☆
家に帰ってエリックに電話している私がいた。
「今日ね、アーチャーさんにオペラとの合わせ方を教わったの」
「アーチャーさんってフランク・アーチャー?」
「そう。その人」
「わぉっ! 祥子、俺、サイン欲しい」
「分かった。貰ってくるね」
「帰る楽しみが増えた」
「エリックは明日は中休みだっけ?」
「そうだよ。一日オフだからのんびり観光するんだ」
「あら、優雅ね。私なんかどこか行っても観光するドコロじゃないのよ」
「どうして? 折角知らない街に来たらうろつかなきゃ」
「そんな度胸ないのよ。怖いから」
「祥子に度胸がない? 本番の舞台度胸があるのに?」
「演奏と観光じゃ違う度胸なのよ」
「そうか」
エリックの笑い声が響く。
「慣れてない所は怖いのよ」
「じゃ、次のオフに祥子をウィーン観光に連れて行くから」
「うん。楽しみにしてるわ」
エリックが帰ってくるのは、アイーダの最終公演の日だ。
☆
今日のアイーダの練習にはソフィが顔を出していた。すこぶる機嫌が悪そう。ウロウロ歩き回ってからドッカと椅子に座る。
オーケストラの練習を腕組みしながら聴いてたソフィが、つかつかと指揮者の横に来たと思ったら、指揮台を叩いた。指揮者が音を止める。
「ちょっと。こんなヘロヘロした音じゃ私の声が引き立たないわ、あなた達オペラをなめてるの? 音が下手くそで足引っ張られちゃたまらないわ!」
周りを見ると、まただよ。と呆 れた表情を出している。ソフィはお構い無しにまくしたててる。
指揮者がソフィをなだめて一旦治まるが、練習が終るまでに何度か中断された。
フルートをしまっていたら、ソフィが近づいてくる。私の傍で片付けていた人達がビクリとソフィを見る。ソフィが私に向かってると気づいてほっとした様に傍から居なくなる。
「あなた、ゲストで呼ばれたっていう人よね」
「はい。祥子・苅谷です」
「ゲストって言うからもっと凄い音を期待してたんだけど全然駄目ね」
「えっ?」
「あんな音でオペラに合わせるつもりなの?」
「なら、どんな音ならいいんですか?」
「そ、そんなの自分で考えなさいよ。あなた随分有名よね。いろいろとねぇ。だからって思いあがってるんじゃないの」
「…すみません」
「わ、分かってりゃいいのよ」
「はい」
(思いあがってなんかない!)
そう言いたかったけど、謝ったらソフィは去っていった。
「祥子、よく耐えたわね。祥子が文句言ったらこれ見よがしにいちゃもんつけられてたわよ」
ハンナが私の肩を叩いて言った。
「ソフィにとってどんな音がいいのかしら?」
「あのコは気分で盛り上げてくるから、私達は盛り上がれる様に音を出してやればいいのよ」
「盛り上がれる音?」
「音を拾いやすい様に譜面通り丁寧に出すのよ」
「丁寧に?」
「歌い易い音ってあるじゃない。大きくもなく小さくもない音。それを出すのよ」
「歌い易い音ね」
カラオケを思い出した。大きすぎると声が聞えないし、小さすぎると声が安定しない。
「オペラって難しいなぁ」
☆
練習所に戻った私は、次の定期演奏会の楽譜をシドから受け取る。
「祥子、初めてのオペラはどうですか?」
「声に拾って貰える音って言うんですか。情景を載せない音を出すのがこんなに難しいとは思いませんでした」
「だからと言ってオペラが出来ない奏者じゃ困りますよ」
「はい」
シドに釘さされた。楽譜の確認と、パートの構成を確認する。
「あ、シャンドリーが明日から出てくるのか。良かった」
シャンドリーとはあの時以来だ。これで全員が揃う。
「指揮者はドッヂさんか。なら大丈夫」
招待公演の時に指揮をした人だ。あの人はハッキリ言ってくるから合わせ易い。
暫くはアイーダの練習の合間に定期演奏会の準備が入る。
地元に居るからには強制参加。トップ奏者の責務だ。
廊下を歩いてたら、ミリファがパートの練習部屋から出てきて私に気づく。
「祥子、待ってたのよ。付き合って」
「何?」
ミリファの小部屋に引っ張り込まれた。
「ミリファ、練習中じゃないの?」
クラリネットの人達が吹いている。
「大丈夫。楽譜の確認して各自曲チェックしてるの。まだドッヂと合わせてないから」
「そか。で、何?」
ミリファが譜面を私の前に広げる。一通り眼を通す。
「CMの曲よね。私に見せていいの?」
「大丈夫よ。聴いてくれる?」
「うん」
♪♪♪~~♪♪♪♪ ♪~♪♪
ミリファが吹き始める。爽 やかな風が吹いてくる。そんな感じを受ける。
「いい音ね。曲も」
「ありがと。でね、イメージを貰ったのよ。見て」
ミリファがDVDを流す。
昼の街中。風が吹いて街路樹の枯れ葉が舞う。歩いて行く女性の顔のアップが太陽の光で照らされる。夜の街中に変わる。車が通りすぎる。歩いて行く女性の顔のアップが車のライトで浮かび上がる。化粧品のテロップと女性の後姿が小さくなる。
画面を消してミリファが私に向かう。
「私が受け取ったイメージを言うわ。昼の顔と夜の顔。風とスピード。枯れ葉と車。太陽の光と車のライト。女の顔はこんなに違う」
「ミリファ、「違う」んじゃないわよ。「変わる」のよ」
「「変わる」?」
「同じ服装で同じ化粧の仕方だったじゃない。昼と夜の条件でこんなに変わるのよ」
「変わる…変わるのね。こんな感じ」
♪♪♪~~♪♪♪♪ ♪~♪♪
柔らかい感じを途中からテンポを上げて鋭く吹いてきた。
「どう? 聴いた感想そのまま頂戴」
「イメージには載ったわよ。さっきよりもずっといい。最後、「どっちがお好き?」って欲しいかな」
「どっちがお好き?」
「女性にも男性にもどっちの顔が好き?って。最後の女性、顔を出してないから」
「ちょっと待って。なら、問いかける感じね」
♪♪♪~~♪♪♪♪ ♪~♪♪
直ぐに反応出来る。さすがだと思った。ミリファだってトップ奏者だ。私が出来る事位、出来て当たり前なんだ。
だからって思いあがってるんじゃないの
ソフィの言葉を思い出した。そうかもしれない。私はミリファに対して優越感を持っていたのかもしれない。
「どう?」
私が答えなかったからミリファが心配そうな顔で聞いた。
「あ、うん。これなら一発オッケーよ。大丈夫。つい、聴き惚れちゃった。いい曲貰ったのね」
「ありがとう! 祥子に言われたら俄然 自信持てちゃうわ」
「私を買いかぶりすぎよ」
「でも、私は祥子が羨 ましいもの」
ドキリとした。羨ましく思うものって私のどこにあるんだろう。
「…どうして?」
「祥子は私に無い物を持ってるから」
「何?」
「今みたいに客観的に見る眼と表現力よ」
「表現力だったらミリファは持ってるわよ。直ぐに反応出来るし」
「そう? それは嬉しいわ」
「そろそろ戻るわ」
「祥子、ありがとう。絶対モノにしてみせるから」
「本番頑張ってね。お祝い準備しとくから」
「えぇ。楽しみにしてて」
自分の小部屋に戻って、定期演奏会の楽譜を眺めていた。
今の私を小さい頃は想像出来なかった。大人になってからだって。
短期間で何もかも上手くいって…私は思いあがっていた。
「私が正しいなんて事は無いのよ」
今はミリファが運を掴むのを祈るだけだ。
☆
定期演奏会の音合わせに出た。
ドッヂは几帳面な人だ。寸分の狂いも無く指示が飛んでくる。振りが大きいから指示の区別はつき易い。パート毎に細かく指示をつけてくれる。
この人の場合、この時間に全てを伝えてくるから聞き逃しちゃいけない。
時間内集中しているから、終わる時には抜け殻状態だ。
パートの練習に入る。
シャンドリーが復帰してきたから、一番最初に音を出させた。
「練習はしてたのね」
「はい」
「シャンドリーは遅れ易いから、1小節単位の音を意識して。楽章の最後に気持ちを切り替えて。最初の出だしに躊躇 しないで」
「はい」
癖になっているのを修正するのは大変だ。多分、ランスの音より先に出ないように意識しすぎてたのだろう。出す時に躊躇して遅れる。微妙なズレなんだけど、私の耳がそれを雑音に感じてるから治す。治さなきゃならない。
アガシに後を任せて、私はシャンドリーを練習室に連れ出す。
「この部屋しか空いてなくて悪いんだけど」
シャンドリーが辞めると言った時に引っ張ってきた部屋だ。
「平気です」
「じゃ、始めるわよ」
譜面を指さして促すと、シャンドリーは私を見て口を開く。
「待って下さい」
「はい? 何か?」
「祥子は何も聞かないんですね。僕が…あの…」
「今、ここに居るからいいんじゃないかな」
「祥子。僕、あなたに迷惑かけました」
「もういいのよ。終わった事だし。噂も消えてるし」
「ごめんなさい」
「今はどうなの?」
「シドがいいようにしてくれました。アパートを移ったし、彼からの連絡も切りました」
「良かったわね」
「はい。祥子のお陰です。あのまま辞めてたら、まだ彼と繋がっていたと思います」
「そう」
「祥子とここで一緒に吹いたから、僕は自分の気持ちを探し当てたんだと思います。フルートを辞めたくない。彼が居ないなら僕は自分の音を吹けると気づいたんです」
「そうよ。シャンドリーはこの楽団に迎えられたんだもの。あなたの実力は自信持っていいものなのよ」
「ありがとうございます」
「じゃ、始めるわよ。遅れたらそこで止めるから」
「はい」
この練習は私のほうがボロボロに疲れた。癖にされてるから本人は気づけないみたいだ。
メトロノームを出してきても駄目だった。
「ちょっと待ってて。もっと簡単な曲にしましょう」
「はい」
自分の小部屋に戻って楽譜を引っぱり出す。アガシの時に使った曲。
きらきら星 (Twinkle Twinkle Little Star) の楽譜をシャンドリーに渡す。
「じゃ、全音スタッカート(音を切って)で吹いてみましょうか」
「え?」
「息の吹き込みに躊躇してると音が切れないわよ」
「あ、はい」
「今度は止めないで、通しでいくわよ。耳で音を聴いて」
「はい」
シャンドリーの音が追いついてきた。音が短いから遅れると目立つ。
「これ、暫く続けましょう。私の空き時間になっちゃうけどいいかしら?」
「はい。僕の為にすみません。祥子のほうが忙しいのに」
「いいのよ」
大急ぎでアイーダの練習に向かう。
シャンドリーの練習の影響か、今日は妙に音が自己主張しちゃってる。何度か注意された。
今日はソフィが居なかった。居たらここぞとばかり嫌味の連発だっただろう。
家に帰って脱力感だ。エドナの家にヘンリーが来てる。開け放した窓から笑い声が聞こえてくる。
いいな…いいな…いいな
☆
目まぐるしい日が続いている。
アイーダの練習の合間に定期演奏会の練習。そしてシャンドリーの練習を繰り返す。
嬉しいニュースが入る。
「祥子! 上手くいったの!」
「わっ!」
ミリファが後ろから抱きついてきた。
「スポンサー契約も上手くいったの!」
「やったじゃない! おめでとう」
「祥子のお陰よ。あのイメージで誉められたの」
「本番で出せたんだもの。ミリファの力よ」
「違うわ。祥子のお陰なのよ」
「良かったわね」
「うん」
ミリファが私から離れて前に回る。
「本っ当にありがとう!」
「いいってば。あ、じゃぁ、帰りウチに寄ってって。お祝いしましょ」
「えっ? ホントに? 嬉しい! 征司と一緒にいい?」
「いいわよ。二人で来て」
ミリファと時間を合わせてから、私はシャンドリーの練習に向かう。
いい気分の時は何でも上手くいく。
「シャンドリー、もう大丈夫ね。でも、油断しないで。暫くはこの練習を続けてね」
「はい。ありがとうございました」
私と合わせても遅れる事が無くなった。
☆
今日はダッシュで家に帰る。ミリファ達が来る前に掃除しなくては。
簡単な食事を用意して、ミリファに渡すお祝いを準備する。
時間通りにミリファと征司が来た。
「デザート仕入れて来たのよ」
「飲み物も」
「ありがとう。どうぞ座って」
食べ物を広げて、グラスにビールを注いでまずは乾杯だ。
「「 ミリファ、おめでとう 」」
「ありがとう」
ミリファが本番の緊張とレコーディングの話をしてくれた。
「そうそう。これ貰ってきたの。祥子にもあげる」
ミリファが袋を出して中から化粧品を出す。
「凄いわね」
「祥子に合いそうな色を選んできたの」
そう言って、口紅を三本私に向けた。
「こんなにいいの? ファンデーションまで」
「お好きなだけどうぞ、って言われたから貰ってきたのよ」
「でも、限度があるぞ」
征司が呆れて口を挟んだ。
「いいのよ。女性は使うものなんだから。あ、それ、新色なんだって。まだ店頭に出てないから、私達が先取りなのよ。祥子、つけてみて」
私が出して見てた口紅を指差してミリファが言った。
「新色の先取りなんて嬉しいわ」
ファンデーションの鏡を見て口紅を塗った。ミリファが私を見て頷いた。
「祥子に合ってるわ。ピンクでも落ち着いてる色のほうにしたのよ。私はこっちの新色にしたの」
私が持ってたファンデーションを受け取って、鏡を見ながらミリファが口紅を塗った。
「それは赤系なのね。ミリファに似合う色ね」
「ありがとう。征司の感想は?」
いきなり質問を投げられた征司は大慌てで、私とミリファを見る。
「お二人共大変お似合いですよ」
「あらやだ。征司ったら照れてるの?」
ミリファと私に笑われた征司は照れを誤魔化すようにビールを飲んだ。
「あ、そうだ。私からミリファにとっておきのお祝いね」
準備しておいた袋から出して、ミリファに渡す。ミリファがそれを見て歓声を上げる。
「わぁっ! 凄い! 祥子、ありがとう。大切にするわ。征司、見て! フランク・アーチャーよ!」
「オペラ歌手の?」
ミリファの手から征司に渡る。
「そうよ。祥子がアイーダで競演するからサイン頼んだのよ。こんな形で貰ってくれるなんて、嬉しいわ!」
「私が撮ったヤツだからイマイチかもしれないけど」
「えっ?! これ、祥子が撮った写真なの?」
「よく写真撮らせて貰えたね」
二人が驚いている。何故驚くんだろう? ただの写真なんだけど。
「アーチャーさんに「写真撮っていいですか?」って聞いたら「いいですよ」って。一緒に撮ったのもあるのよ」
「えっ? 見せて! それ、見せて!」
「う、うん。ちょっと待ってて」
寝室から写真を持ってきてミリファに渡す。
ミリファが目の色を変えて見る。
「うわぁ。…祥子、これ凄い」
アーチャーさんとのツーショット。もちろんサイン入り。
「何で? アーチャーさんて気さくで面白い人よ」
「写真嫌いだった筈なんだけどな」
ミリファの横から写真を見ていた征司が言った。
「え? 確かに3枚だけだけど」
アップを一枚。私と一枚。そして主役級の四人で一枚撮った。
その最後の一枚をミリファが見て指をさした。
「この人がザフよね。テノールの王子って言われてる」
「そう。で、こっちがソフィ」
「知ってる。気分屋でしょ。この女性がキャロルでお嬢様よ」
「ミリファったら、詳しいのね」
「オペラはよく行くのよ。でもこの写真のアーチャーさんってむすっとしてるのね」
「これ、私がアーチャーさんを撮ってるのに気づいたソフィが無理矢理傍に居た人を巻き込んだのよ。だからじゃないかな」
ソフィが「写真出来たら持ってきなさいよ」って言うから持っていったら、四人のサインまで書かれて返ってきたんだ。
ミリファが私があげた写真をまじまじと見てため息混じりに言う。
「凄いわ。祥子ったらこんなアップで撮らせて貰って。笑ってるから、買った物にサイン書いて貰ったのかと思ったのよ」
「アーチャーさんってそんな人なの?」
「そうよ。こんな自然な写真滅多に出てこないわよ。ツーショットまでいいなぁ」
「へぇ」
気軽に写真を撮らせて貰ったら、「じゃ、一緒にどうだい?」なんて誘われて撮った。
それがこの写真なんだけど。
その代わり、ツーショットの写真はアーチャーさんに「仲間に見せびらかしたいからくれないか」と言われたから一枚あげた。私のサイン入りで。
ガラスのシンデレラって言われてた女性と写真撮ってきた。って見せびらかすのだろうか?
ミリファ達が帰って、後片付けをしながらアーチャーさんとの写真を撮った時の事を思い出している。
★
ミリファのお祝い用に、アーチャーさんの写真を思いついた。
休憩時間にアーチャーさんに近づいて声を掛ける。
「アーチャーさん、休憩中にすみません」
「祥子、どうしました?」
「お願いがあるのですが」
「何でしょうか?」
「あの。写真撮っていいですか?」
「写真? あ…いいですよ」
写真を撮るのにデジカメを準備してたら、アーチャーさんが私に問いかけてくる。
「誰の為に私の写真が必要なのかな?」
私が欲しいからって言ったほうがいいのだろうけど、私は正直に言う。
「私のこっちで出来た友達が近々運を掴む筈なんです。いえ、絶対掴むんです。だから、そのお祝いにあげたくて。彼女、アーチャーさんのファンだって言っていたから喜ぶと思ったんです」
「内緒なんだね」
「はい。絶対お祝いになるから、驚かせてあげたくて」
「なら、運がつくようにしなくちゃね」
そう言って、私がデジカメを構えたら笑ってくれたんだ。
その顔を見て嬉しくなった。
カシャッ
「ありがとうございました。…あの」
「何かな?」
「この写真、もう一人にあげてもいいでしょうか?」
「祥子の大切な人かな?」
「はい」
「いいですよ」
「ありがとうございます」
丁寧に頭を下げたらアーチャーさんが悪戯っぽく笑って聞く。
「祥子も飾ってくれるのかな?」
「え? 私? 勿論飾らせて頂きます!」
「じゃ、一緒にどうだい?」
「お願いします」
カシャッ
その時にソフィに見つかり、バタバタと周りを巻き込んで、三枚目が撮られたんだ。
☆
ベッドに腰掛けて写真を眺めていた。
「エリックも驚くのかなぁ。こんなに嬉しそうに笑う人なのにねぇ。そんな人とツーショットなんてラッキーだったんだ」
三枚の写真を机に置いてベッドに入った。
「エリックに会いたいな」
完全に恋愛の初期症状だ。
本来なら、毎日のように電話を掛けている時期なのだが。
エリックと付き合ってからは、どう接していいのか困ってる私がいた。エリックは大切な人なのに、私の日本式の付き合いを押し付けていいのか…それを受け止めてくれるのか…。
一緒に居たい。その気持ちで一杯なんだけど。
- TO BE CONTINUED -
はっきり言ってメンドクサイ。一度だけの競演になる確率が高いのに、顔と名前を覚えなきゃならない。
「祥子、アイーダ役のソフィはわがままよ。気分次第で文句つけるのよ。はい、楽譜だって」
私と同じゲストで参加のハープ奏者、ハンナが楽譜を私に手渡しながら言った。
「ありがと。前に競演した事あるの?」
「何度もあるのよ。確かに実力はあるんだけど、性格がねぇ」
ハンナの言った意味が分かった。ソフィを中心に練習が進んでいく。
「ちょっと。この部分、私、息が持たないから短くして」
舞台側の練習の音はCDに落とした物を使っている。私はオペラが初めてだったから、観客側で座って練習を見せて貰っていた。
ソフィが注文をつけると、指揮者がその部分にチェックを入れている。
「大変になりそう」
それでも、ソフィの歌うソプラノの声。張りのあるいい声だ。ラダメス役のザフのテノールを聞いてゾクリときた。
オペラって声の競演なんだ。
アイーダはエチオピアの王女だが、エジプト王女のアムネリスの奴隷として仕えていた。ラダメスはエジプト軍の指揮官に任命される男。アイーダと相思相愛の仲だった。アムネリスもラダメスに好意を寄せていて、アイーダとラダメスの邪魔をする。エチオピア軍がエジプトに迫り、ラダメスは戦場に向かう。アイーダはエチオピア王(父)とラダメスの間で自分の運命を嘆く。
エジプト軍勝利で戻って来たラダメスはエジプト国王からアムネリスを与えられ次代国王に指名される。
エチオピア人捕虜の中にアイーダの父が身分を隠し生き残っていた。アイーダは父の言いつけ通り、司令官となったラダメスに近づき、エジプト軍の行軍経路を聞き出してしまう。アイーダ父娘がラダメスにエチオピアへ逃げようと誘うが、ラダメスは最高機密を漏らしてしまった事を後悔し、その場に残り捕まってしまう。アイーダ父娘は逃亡。
エチオピア軍の再起は鎮圧され、アイーダの父は戦死したがアイーダは行方不明。アムネリスは、ラダメスの減刑を願うが却下される。
ラダメスが地下牢に入れられると、そこにアイーダがいた。2人はそこで死んでいく。
「死んで貫く愛なんて分からないなぁ。愛と立場の板ばさみは辛いだろうけど」
クスリと笑い声が聞こえて振り向くと、エジプト国王役のアーチャーさんだ。
「君は若いからね」
そのいい声(バス)を出しながら、私の隣に座った。50歳を超えたジェントルマンだ。
私は大慌てでカバンを
「サ、サインお願いできますか?」
「おやおや。こんなお若いレディが、私の事知ってるなんて嬉しいね」
「そりゃ」
(ミリファに「絶~対サイン貰ってきてね」って頼まれたから、色々調べてきたんですよ)
アーチャーさんがスラスラとサインをして返してくれた。
「ありがとうございました」
「いえいえ」
そう言って、アーチャーさんはさりげなく脚を組んだ。
イギリス人=ジェントルマン。この公式は正しい。オジサンなんて表現は似合わない。
感動してた私に声が掛かる。
「君はオーケストラの人?」
「フルート吹いてます。今回、ゲストで呼ばれました」
「祥子?」
「そうです。祥子・苅谷です。宜しくお願いします」
(私も有名人?)
軽く握手をする。
「ガラスのシンデレラだったよね?」
「…あ、はい」
(そっちか)
「オペラは初めて?」
「はい。だから、練習も見たくてお邪魔したんです。迫力あるんですね。負けない様にしなきゃ。ん?」
アーチャーさんが指を立てた。
「声に
「ベースって単なる伴奏って事ですか?」
「そうだよ」
「何故?」
「オペラでは声が情景を主張する。言葉が観客に伝わって舞台が作られる」
「それは分かります」
「楽器の音で情景を語られたら観客は混乱してしまう。無声の場面はいいんだが」
「でも、その声に合わせた音なら」
アーチャーさんが私を見た。
「君なら出来るのかな?」
「はい。あ(しまった!)」
つい言っちゃった。アーチャーさんが私をジッと見てから立ち上がる。
「ついて来て。フルートは持ってるね?」
「はい」
小部屋に連れ込まれた。アーチャーさんが台本を私に向ける。
「ここの部分の音を演奏してみて」
「はい」
次代国王にラダメス の部分だ。譜面を見ていき、音を出す。
♪~♪~
「そう。じゃ、歌いますよ」
「はい」
アーチャーさんの声が音に載ってきた。迫力のある声が部屋に響き渡った。
途中だったけど音を止めた。
「アーチャーさん。もう一度お願いします」
「いいよ」
♪~♪~
これも途中で音を止めた。
アーチャーさんが笑う。
「もう一度、今のと同じ歌い方をするからね」
「はい」
♪~♪~♪~
音と声が上手く載った。同じ情景で流れていく。
「さすがだね。君が絶賛された意味が分かる。なら、今度は情景を載せずに吹いて欲しい」
「…はい」
♪~♪~♪~
声が音を拾っていく。声だけでも充分情景が伝わってくる。アーチャーさんの声だけで。
最初の二回、私が音を止めたのは、私の情景とアーチャーさんの声の情景が噛み合わなかったからだ。アーチャーさんの声から出てくる情景が一回目と二回目で異なっていたからだ。
三回目は私とアーチャーさんの情景が同じだから上手くいった。
四回目は声だけだ。
「君の演奏力はイギリスにも届いてきました。私が生きているうちに一度はお手合わせ頂きたいと思っていました」
「こ、光栄です」
アーチャーさんが絶賛しているのに、私は素直に喜ぶ余裕が無かった。
アーチャーさんが私の前に椅子を引っ張ってきて座る。
「質問があったら答えますよ。確認したい事でもいいですよ。恥ずかしい事は無いですよ。君は初めてオペラと競演するのだから」
「あの」
「はい。何ですか?」
「間違っていたら直して下さい」
「はい」
私は四回合わせた違いを確認する。
「歌ってる人の気分で情景が変わるから、私達オーケストラは音のままでいいのでしょうか?」
「その通りです」
「気分で変わるものなんですか? 役作りしてるのに?」
「君だって覚えがないかい?」
「練習はそうですけど、本番は切り替えて…。あ、嘘です。やってしまった事があります」
エリック…好きよ
あれは練習してきた情景じゃ無い。私の気持ちが出ていた。
アーチャーさんが笑う。
「そうなんだよ。私達でも舞台の上でうっかりする時があるんだ。気持ちが入りこんだり、ミスがあったりするとね」
「そうですか」
「オーケストラは指揮者がまとめるが、私達に指揮者はいない。動いてるからね」
「はい」
「その動いてる個々の人間の気持ちはいつも同じじゃないんだよ。それにダブルキャストになったら同じ役を違う人間が
「確かにそうですね」
「だから、音は音であって欲しいんだ。もちろん、盛り上げる強弱は必要なんだよ。単なる伴奏って訳じゃないんだ。君達に舞台の流れを作って貰わなきゃならないからね。分かったかな?」
「はい。ありがとうございました」
「ソフィとか今の若い者達はその辺分かっていないから、音が悪いからとか言うのさ。そんなのは気にしなくていい。オペラは声を聴かすんだ。いかに響かせて観客に伝えるかなんだよ」
「アーチャーさんの声、凄かったです。圧倒されました」
「ありがとう。あ、そうだ。折角シンデレラとお近づきになれたんだ、サインを貰っとかなきゃ」
「え? 私のですか?」
「そうさ。仲間に自慢したいからね」
台本の裏表紙に書くように頼まれて、サインを書いた。
☆
家に帰ってエリックに電話している私がいた。
「今日ね、アーチャーさんにオペラとの合わせ方を教わったの」
「アーチャーさんってフランク・アーチャー?」
「そう。その人」
「わぉっ! 祥子、俺、サイン欲しい」
「分かった。貰ってくるね」
「帰る楽しみが増えた」
「エリックは明日は中休みだっけ?」
「そうだよ。一日オフだからのんびり観光するんだ」
「あら、優雅ね。私なんかどこか行っても観光するドコロじゃないのよ」
「どうして? 折角知らない街に来たらうろつかなきゃ」
「そんな度胸ないのよ。怖いから」
「祥子に度胸がない? 本番の舞台度胸があるのに?」
「演奏と観光じゃ違う度胸なのよ」
「そうか」
エリックの笑い声が響く。
「慣れてない所は怖いのよ」
「じゃ、次のオフに祥子をウィーン観光に連れて行くから」
「うん。楽しみにしてるわ」
エリックが帰ってくるのは、アイーダの最終公演の日だ。
☆
今日のアイーダの練習にはソフィが顔を出していた。すこぶる機嫌が悪そう。ウロウロ歩き回ってからドッカと椅子に座る。
オーケストラの練習を腕組みしながら聴いてたソフィが、つかつかと指揮者の横に来たと思ったら、指揮台を叩いた。指揮者が音を止める。
「ちょっと。こんなヘロヘロした音じゃ私の声が引き立たないわ、あなた達オペラをなめてるの? 音が下手くそで足引っ張られちゃたまらないわ!」
周りを見ると、まただよ。と
指揮者がソフィをなだめて一旦治まるが、練習が終るまでに何度か中断された。
フルートをしまっていたら、ソフィが近づいてくる。私の傍で片付けていた人達がビクリとソフィを見る。ソフィが私に向かってると気づいてほっとした様に傍から居なくなる。
「あなた、ゲストで呼ばれたっていう人よね」
「はい。祥子・苅谷です」
「ゲストって言うからもっと凄い音を期待してたんだけど全然駄目ね」
「えっ?」
「あんな音でオペラに合わせるつもりなの?」
「なら、どんな音ならいいんですか?」
「そ、そんなの自分で考えなさいよ。あなた随分有名よね。いろいろとねぇ。だからって思いあがってるんじゃないの」
「…すみません」
「わ、分かってりゃいいのよ」
「はい」
(思いあがってなんかない!)
そう言いたかったけど、謝ったらソフィは去っていった。
「祥子、よく耐えたわね。祥子が文句言ったらこれ見よがしにいちゃもんつけられてたわよ」
ハンナが私の肩を叩いて言った。
「ソフィにとってどんな音がいいのかしら?」
「あのコは気分で盛り上げてくるから、私達は盛り上がれる様に音を出してやればいいのよ」
「盛り上がれる音?」
「音を拾いやすい様に譜面通り丁寧に出すのよ」
「丁寧に?」
「歌い易い音ってあるじゃない。大きくもなく小さくもない音。それを出すのよ」
「歌い易い音ね」
カラオケを思い出した。大きすぎると声が聞えないし、小さすぎると声が安定しない。
「オペラって難しいなぁ」
☆
練習所に戻った私は、次の定期演奏会の楽譜をシドから受け取る。
「祥子、初めてのオペラはどうですか?」
「声に拾って貰える音って言うんですか。情景を載せない音を出すのがこんなに難しいとは思いませんでした」
「だからと言ってオペラが出来ない奏者じゃ困りますよ」
「はい」
シドに釘さされた。楽譜の確認と、パートの構成を確認する。
「あ、シャンドリーが明日から出てくるのか。良かった」
シャンドリーとはあの時以来だ。これで全員が揃う。
「指揮者はドッヂさんか。なら大丈夫」
招待公演の時に指揮をした人だ。あの人はハッキリ言ってくるから合わせ易い。
暫くはアイーダの練習の合間に定期演奏会の準備が入る。
地元に居るからには強制参加。トップ奏者の責務だ。
廊下を歩いてたら、ミリファがパートの練習部屋から出てきて私に気づく。
「祥子、待ってたのよ。付き合って」
「何?」
ミリファの小部屋に引っ張り込まれた。
「ミリファ、練習中じゃないの?」
クラリネットの人達が吹いている。
「大丈夫。楽譜の確認して各自曲チェックしてるの。まだドッヂと合わせてないから」
「そか。で、何?」
ミリファが譜面を私の前に広げる。一通り眼を通す。
「CMの曲よね。私に見せていいの?」
「大丈夫よ。聴いてくれる?」
「うん」
♪♪♪~~♪♪♪♪ ♪~♪♪
ミリファが吹き始める。
「いい音ね。曲も」
「ありがと。でね、イメージを貰ったのよ。見て」
ミリファがDVDを流す。
昼の街中。風が吹いて街路樹の枯れ葉が舞う。歩いて行く女性の顔のアップが太陽の光で照らされる。夜の街中に変わる。車が通りすぎる。歩いて行く女性の顔のアップが車のライトで浮かび上がる。化粧品のテロップと女性の後姿が小さくなる。
画面を消してミリファが私に向かう。
「私が受け取ったイメージを言うわ。昼の顔と夜の顔。風とスピード。枯れ葉と車。太陽の光と車のライト。女の顔はこんなに違う」
「ミリファ、「違う」んじゃないわよ。「変わる」のよ」
「「変わる」?」
「同じ服装で同じ化粧の仕方だったじゃない。昼と夜の条件でこんなに変わるのよ」
「変わる…変わるのね。こんな感じ」
♪♪♪~~♪♪♪♪ ♪~♪♪
柔らかい感じを途中からテンポを上げて鋭く吹いてきた。
「どう? 聴いた感想そのまま頂戴」
「イメージには載ったわよ。さっきよりもずっといい。最後、「どっちがお好き?」って欲しいかな」
「どっちがお好き?」
「女性にも男性にもどっちの顔が好き?って。最後の女性、顔を出してないから」
「ちょっと待って。なら、問いかける感じね」
♪♪♪~~♪♪♪♪ ♪~♪♪
直ぐに反応出来る。さすがだと思った。ミリファだってトップ奏者だ。私が出来る事位、出来て当たり前なんだ。
だからって思いあがってるんじゃないの
ソフィの言葉を思い出した。そうかもしれない。私はミリファに対して優越感を持っていたのかもしれない。
「どう?」
私が答えなかったからミリファが心配そうな顔で聞いた。
「あ、うん。これなら一発オッケーよ。大丈夫。つい、聴き惚れちゃった。いい曲貰ったのね」
「ありがとう! 祥子に言われたら
「私を買いかぶりすぎよ」
「でも、私は祥子が
ドキリとした。羨ましく思うものって私のどこにあるんだろう。
「…どうして?」
「祥子は私に無い物を持ってるから」
「何?」
「今みたいに客観的に見る眼と表現力よ」
「表現力だったらミリファは持ってるわよ。直ぐに反応出来るし」
「そう? それは嬉しいわ」
「そろそろ戻るわ」
「祥子、ありがとう。絶対モノにしてみせるから」
「本番頑張ってね。お祝い準備しとくから」
「えぇ。楽しみにしてて」
自分の小部屋に戻って、定期演奏会の楽譜を眺めていた。
今の私を小さい頃は想像出来なかった。大人になってからだって。
短期間で何もかも上手くいって…私は思いあがっていた。
「私が正しいなんて事は無いのよ」
今はミリファが運を掴むのを祈るだけだ。
☆
定期演奏会の音合わせに出た。
ドッヂは几帳面な人だ。寸分の狂いも無く指示が飛んでくる。振りが大きいから指示の区別はつき易い。パート毎に細かく指示をつけてくれる。
この人の場合、この時間に全てを伝えてくるから聞き逃しちゃいけない。
時間内集中しているから、終わる時には抜け殻状態だ。
パートの練習に入る。
シャンドリーが復帰してきたから、一番最初に音を出させた。
「練習はしてたのね」
「はい」
「シャンドリーは遅れ易いから、1小節単位の音を意識して。楽章の最後に気持ちを切り替えて。最初の出だしに
「はい」
癖になっているのを修正するのは大変だ。多分、ランスの音より先に出ないように意識しすぎてたのだろう。出す時に躊躇して遅れる。微妙なズレなんだけど、私の耳がそれを雑音に感じてるから治す。治さなきゃならない。
アガシに後を任せて、私はシャンドリーを練習室に連れ出す。
「この部屋しか空いてなくて悪いんだけど」
シャンドリーが辞めると言った時に引っ張ってきた部屋だ。
「平気です」
「じゃ、始めるわよ」
譜面を指さして促すと、シャンドリーは私を見て口を開く。
「待って下さい」
「はい? 何か?」
「祥子は何も聞かないんですね。僕が…あの…」
「今、ここに居るからいいんじゃないかな」
「祥子。僕、あなたに迷惑かけました」
「もういいのよ。終わった事だし。噂も消えてるし」
「ごめんなさい」
「今はどうなの?」
「シドがいいようにしてくれました。アパートを移ったし、彼からの連絡も切りました」
「良かったわね」
「はい。祥子のお陰です。あのまま辞めてたら、まだ彼と繋がっていたと思います」
「そう」
「祥子とここで一緒に吹いたから、僕は自分の気持ちを探し当てたんだと思います。フルートを辞めたくない。彼が居ないなら僕は自分の音を吹けると気づいたんです」
「そうよ。シャンドリーはこの楽団に迎えられたんだもの。あなたの実力は自信持っていいものなのよ」
「ありがとうございます」
「じゃ、始めるわよ。遅れたらそこで止めるから」
「はい」
この練習は私のほうがボロボロに疲れた。癖にされてるから本人は気づけないみたいだ。
メトロノームを出してきても駄目だった。
「ちょっと待ってて。もっと簡単な曲にしましょう」
「はい」
自分の小部屋に戻って楽譜を引っぱり出す。アガシの時に使った曲。
きらきら星 (Twinkle Twinkle Little Star) の楽譜をシャンドリーに渡す。
「じゃ、全音スタッカート(音を切って)で吹いてみましょうか」
「え?」
「息の吹き込みに躊躇してると音が切れないわよ」
「あ、はい」
「今度は止めないで、通しでいくわよ。耳で音を聴いて」
「はい」
シャンドリーの音が追いついてきた。音が短いから遅れると目立つ。
「これ、暫く続けましょう。私の空き時間になっちゃうけどいいかしら?」
「はい。僕の為にすみません。祥子のほうが忙しいのに」
「いいのよ」
大急ぎでアイーダの練習に向かう。
シャンドリーの練習の影響か、今日は妙に音が自己主張しちゃってる。何度か注意された。
今日はソフィが居なかった。居たらここぞとばかり嫌味の連発だっただろう。
家に帰って脱力感だ。エドナの家にヘンリーが来てる。開け放した窓から笑い声が聞こえてくる。
いいな…いいな…いいな
☆
目まぐるしい日が続いている。
アイーダの練習の合間に定期演奏会の練習。そしてシャンドリーの練習を繰り返す。
嬉しいニュースが入る。
「祥子! 上手くいったの!」
「わっ!」
ミリファが後ろから抱きついてきた。
「スポンサー契約も上手くいったの!」
「やったじゃない! おめでとう」
「祥子のお陰よ。あのイメージで誉められたの」
「本番で出せたんだもの。ミリファの力よ」
「違うわ。祥子のお陰なのよ」
「良かったわね」
「うん」
ミリファが私から離れて前に回る。
「本っ当にありがとう!」
「いいってば。あ、じゃぁ、帰りウチに寄ってって。お祝いしましょ」
「えっ? ホントに? 嬉しい! 征司と一緒にいい?」
「いいわよ。二人で来て」
ミリファと時間を合わせてから、私はシャンドリーの練習に向かう。
いい気分の時は何でも上手くいく。
「シャンドリー、もう大丈夫ね。でも、油断しないで。暫くはこの練習を続けてね」
「はい。ありがとうございました」
私と合わせても遅れる事が無くなった。
☆
今日はダッシュで家に帰る。ミリファ達が来る前に掃除しなくては。
簡単な食事を用意して、ミリファに渡すお祝いを準備する。
時間通りにミリファと征司が来た。
「デザート仕入れて来たのよ」
「飲み物も」
「ありがとう。どうぞ座って」
食べ物を広げて、グラスにビールを注いでまずは乾杯だ。
「「 ミリファ、おめでとう 」」
「ありがとう」
ミリファが本番の緊張とレコーディングの話をしてくれた。
「そうそう。これ貰ってきたの。祥子にもあげる」
ミリファが袋を出して中から化粧品を出す。
「凄いわね」
「祥子に合いそうな色を選んできたの」
そう言って、口紅を三本私に向けた。
「こんなにいいの? ファンデーションまで」
「お好きなだけどうぞ、って言われたから貰ってきたのよ」
「でも、限度があるぞ」
征司が呆れて口を挟んだ。
「いいのよ。女性は使うものなんだから。あ、それ、新色なんだって。まだ店頭に出てないから、私達が先取りなのよ。祥子、つけてみて」
私が出して見てた口紅を指差してミリファが言った。
「新色の先取りなんて嬉しいわ」
ファンデーションの鏡を見て口紅を塗った。ミリファが私を見て頷いた。
「祥子に合ってるわ。ピンクでも落ち着いてる色のほうにしたのよ。私はこっちの新色にしたの」
私が持ってたファンデーションを受け取って、鏡を見ながらミリファが口紅を塗った。
「それは赤系なのね。ミリファに似合う色ね」
「ありがとう。征司の感想は?」
いきなり質問を投げられた征司は大慌てで、私とミリファを見る。
「お二人共大変お似合いですよ」
「あらやだ。征司ったら照れてるの?」
ミリファと私に笑われた征司は照れを誤魔化すようにビールを飲んだ。
「あ、そうだ。私からミリファにとっておきのお祝いね」
準備しておいた袋から出して、ミリファに渡す。ミリファがそれを見て歓声を上げる。
「わぁっ! 凄い! 祥子、ありがとう。大切にするわ。征司、見て! フランク・アーチャーよ!」
「オペラ歌手の?」
ミリファの手から征司に渡る。
「そうよ。祥子がアイーダで競演するからサイン頼んだのよ。こんな形で貰ってくれるなんて、嬉しいわ!」
「私が撮ったヤツだからイマイチかもしれないけど」
「えっ?! これ、祥子が撮った写真なの?」
「よく写真撮らせて貰えたね」
二人が驚いている。何故驚くんだろう? ただの写真なんだけど。
「アーチャーさんに「写真撮っていいですか?」って聞いたら「いいですよ」って。一緒に撮ったのもあるのよ」
「えっ? 見せて! それ、見せて!」
「う、うん。ちょっと待ってて」
寝室から写真を持ってきてミリファに渡す。
ミリファが目の色を変えて見る。
「うわぁ。…祥子、これ凄い」
アーチャーさんとのツーショット。もちろんサイン入り。
「何で? アーチャーさんて気さくで面白い人よ」
「写真嫌いだった筈なんだけどな」
ミリファの横から写真を見ていた征司が言った。
「え? 確かに3枚だけだけど」
アップを一枚。私と一枚。そして主役級の四人で一枚撮った。
その最後の一枚をミリファが見て指をさした。
「この人がザフよね。テノールの王子って言われてる」
「そう。で、こっちがソフィ」
「知ってる。気分屋でしょ。この女性がキャロルでお嬢様よ」
「ミリファったら、詳しいのね」
「オペラはよく行くのよ。でもこの写真のアーチャーさんってむすっとしてるのね」
「これ、私がアーチャーさんを撮ってるのに気づいたソフィが無理矢理傍に居た人を巻き込んだのよ。だからじゃないかな」
ソフィが「写真出来たら持ってきなさいよ」って言うから持っていったら、四人のサインまで書かれて返ってきたんだ。
ミリファが私があげた写真をまじまじと見てため息混じりに言う。
「凄いわ。祥子ったらこんなアップで撮らせて貰って。笑ってるから、買った物にサイン書いて貰ったのかと思ったのよ」
「アーチャーさんってそんな人なの?」
「そうよ。こんな自然な写真滅多に出てこないわよ。ツーショットまでいいなぁ」
「へぇ」
気軽に写真を撮らせて貰ったら、「じゃ、一緒にどうだい?」なんて誘われて撮った。
それがこの写真なんだけど。
その代わり、ツーショットの写真はアーチャーさんに「仲間に見せびらかしたいからくれないか」と言われたから一枚あげた。私のサイン入りで。
ガラスのシンデレラって言われてた女性と写真撮ってきた。って見せびらかすのだろうか?
ミリファ達が帰って、後片付けをしながらアーチャーさんとの写真を撮った時の事を思い出している。
★
ミリファのお祝い用に、アーチャーさんの写真を思いついた。
休憩時間にアーチャーさんに近づいて声を掛ける。
「アーチャーさん、休憩中にすみません」
「祥子、どうしました?」
「お願いがあるのですが」
「何でしょうか?」
「あの。写真撮っていいですか?」
「写真? あ…いいですよ」
写真を撮るのにデジカメを準備してたら、アーチャーさんが私に問いかけてくる。
「誰の為に私の写真が必要なのかな?」
私が欲しいからって言ったほうがいいのだろうけど、私は正直に言う。
「私のこっちで出来た友達が近々運を掴む筈なんです。いえ、絶対掴むんです。だから、そのお祝いにあげたくて。彼女、アーチャーさんのファンだって言っていたから喜ぶと思ったんです」
「内緒なんだね」
「はい。絶対お祝いになるから、驚かせてあげたくて」
「なら、運がつくようにしなくちゃね」
そう言って、私がデジカメを構えたら笑ってくれたんだ。
その顔を見て嬉しくなった。
カシャッ
「ありがとうございました。…あの」
「何かな?」
「この写真、もう一人にあげてもいいでしょうか?」
「祥子の大切な人かな?」
「はい」
「いいですよ」
「ありがとうございます」
丁寧に頭を下げたらアーチャーさんが悪戯っぽく笑って聞く。
「祥子も飾ってくれるのかな?」
「え? 私? 勿論飾らせて頂きます!」
「じゃ、一緒にどうだい?」
「お願いします」
カシャッ
その時にソフィに見つかり、バタバタと周りを巻き込んで、三枚目が撮られたんだ。
☆
ベッドに腰掛けて写真を眺めていた。
「エリックも驚くのかなぁ。こんなに嬉しそうに笑う人なのにねぇ。そんな人とツーショットなんてラッキーだったんだ」
三枚の写真を机に置いてベッドに入った。
「エリックに会いたいな」
完全に恋愛の初期症状だ。
本来なら、毎日のように電話を掛けている時期なのだが。
エリックと付き合ってからは、どう接していいのか困ってる私がいた。エリックは大切な人なのに、私の日本式の付き合いを押し付けていいのか…それを受け止めてくれるのか…。
一緒に居たい。その気持ちで一杯なんだけど。
- TO BE CONTINUED -
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