#36 中身 <祥子視点>

文字数 12,198文字

空を飛ぶイメージ。水が湧き上がるイメージ。空気が漏れていくイメージ。
次々とイメージが変わる。

「さすが祥子だ。いい音だった」
「ありがと。映画で流れると思うと楽しいのよ。上手く曲に載れちゃう」
「明後日のレコーディングが楽しみだね」
「待ち遠しい位よ。ね、この部分、エリックは飛び跳ねる感じだったわよね。嬉しいって」
「そう。俺は嬉しい感じを出した」
「スキップよりも嬉しいを出したほうがいいのね。征司もそんな感じだった」

全体練習の後でエリックと話し込んでいた。全体で合わせる時に各パートのイメージを知って合わせていかなきゃならない。

「祥子、最初から合わせていくよ」
「えぇ」

細かい所までエリックの音と合わせていて思う。

フィルが言ってたっけ。私がエリックに影響を与えてるって。エリックが他の影響を受けるなんて事、あるのだろうか。それともうひとつ。私の音が良くなったって言ってた。エリックと付き合うと音が良くなる。確かにエリックの音に合わせると、自分の出せる音が無限に広がる気がする。
私はエリックの音に近づけるのだろうか。この人はどんどん先に行ってしまう。
楽器が違うから無理なのだろうか。でも、近づきたい。肩を並べる位に、なんて言ったら国内三本の指に入って、世界の肩書き迄貰わなくてはならなくなる。

(先は長いな。キャリアの差があるし)

「祥子、他の事考えないで集中して」

エリックの声が耳に届き、驚いてエリックを見たら、「当たりだろ」と言う顔で見てた。
そうね。私はエリックの音を勉強させて貰うのよ。

突然、練習部屋の戸が開けられて、血相を変えたシドが飛び込んできた。

「祥子! ここに居たんですか。…良かった」
「シド? どうしたんですか?」
「事態が動きました。ややこしいほうに向かってます」
「ややこしい?」
「直ぐ家に帰りましょう。準備して下さい」
「え? あ、はい」

私がエリックに視線を向けたら、シドが急かすように言う。

「エリックも来て下さい。そのほうがいい」
「あ、分かりました。じゃ、祥子、急ごう」
「うん」
「監視室前で待ってます」

シドがそういい残して部屋から出て行った。

「何かあったのかしら?」
「祥子、急ごう。シドの慌てぶりだと、相当な事が起こったんだ。じゃ、監視室前で」

大急ぎで荷物を持って監視室に行くと既に二人が私を待っていた。

「急ぎましょう。タクシー捕まえてますから」
「はい」

タクシーに詰め込まれ、動き出したからシドに聞いてみる。

「シド、何があったんですか?」
「私もユンナから電話を貰って詳しくは分からないんだが、祥子の家がイタズラされたと」
「泥棒ですか?」
「エドナも帰ってきたそうだから今、被害のチェックをして」

シドの話を遮るかの様に、シドの携帯が鳴った。エドナからのようだ。
シドの口から、業者とか警察とか出ている。
私はエリックの腕を掴んでいる。エリックの手が掴んでる私の手に重なる。
エドナからの電話を切ってから、シドは別のところに電話を掛けている。
早口だから私には聞き取れなかった。
重なってるエリックの手に力が入った。かなりの大事(おおごと)になっている気がする。

アパートの前にパトカーが一台。普通の車がニ台止まっていた。アパートの玄関を入ると、中に作業服を着た人がいて、警官に何か聞かれている。事情聴取されているのだろう。そして、階段から上に捜査官なのか、床を調べてる人達が沢山いた。そして、犬がアパートの中に入って来て、階段を見上げて座って吠えた。

 ワン! ワン! ワン!

少し階段の匂いを嗅いでから同じ位置に座り、階段の上を見上げて吠える。

 ワン! ワン! ワン!

階段の上から、掃除機の音がしている。

シドに長身の警察官が近づいて話し出す。
私とエリックが紹介されて、警官が身分証(IDカード)を見せ、手を差し出す。

「私はジャック・ハミルトン。あなたが祥子・苅谷だな。こちらはエリック・ランガーか」

私とエリックに握手を求めてから直ぐにペンを取り出した。ICレコーダーもスイッチが入る。

「苅谷。今日の行動をここを出た時間から話して下さい」
「はい。あの、英語で構いませんか? 英語のほうが正確に話せると思います。質問はドイツ語でもなんとか聞き取れます」
「そう。おい、アリシア! こっち来て通訳してくれ」

作業員と話していた女性がやってきて、私とエリックに身分証を見せ手を差し出した。

私は、朝、アパートを出るところからをアリシアを介して話していく。
こうなると、エリックと一夜を過ごしていたのはバレバレになってしまう。

「苅谷の言ってる事は合ってるかい?」

ハミルトン氏に聞かれてエリックが頷く。

「間違いありません」
「ハミルトン警部、これが今日の祥子の就業時間です」

シドが紙を差し出した。それを見てハミルトン氏が(うなず)いた。

「今日は練習所から一歩も出てないようですね」

私を見て言ったから頷いて返す。

「はい」

私の返事を聞いてからハミルトン氏は階段の上に声を掛ける。

「上、もう終ったか?」
「警部、あと少しです」
「早くしてくれ。後がつかえてるぞ」
「はい」

私達に向き直ったハミルトン氏が口を開く。

「苅谷、あなたはドラッグをやった事があるのか?」
「そんなの持った事すらないです!」
「日本でも?」
「ないです!」
「そう。じゃ、もう少し、君達はここに居てくれたまえ。アリシア、今のうちに彼らのチェックを。シド、ちょっとこっちの話に加わってくれ」

ハミルトン氏がシドを引き連れて作業員のほうに行った。
アリシアが私達の荷物を調べ、セキュリティチェックをした。

「チェックはこれで終わりです。もう少しここで待ってて」
「「 はい 」」

アリシアがハミルトン氏に合流する。
エリックが私を邪魔にならない壁際に連れて行く。

「凄い事になってるな」
「えぇ。何がなんだか分からない」
「ハミルトン氏は警部の階級だ。麻薬関係だな」
「警部?」
「シドもあっちの警官もそう呼んでた」
「エライ人なんだ。そうすると、あの犬って麻薬捜査犬?」
「そうだろ」
「さっき吠えたって事は、上に麻薬があったって事よね」
「そうだな」

犬は一階のフロアの隅々を嗅ぎまわっている。私の所にも来た。眼があってドキリとした。執拗に嗅がれた気がする。唸られた。

「エリックのほうが美味しいよ」
「おいっ」

つい口に出ちゃいました。

(にら)んでるんだもの」
「だからといってそれは無いだろ」

タクシーの中のように、私の手はエリックの腕を掴み、エリックの手が重なっていた。



暫くして二階の作業が終ったようだ。
ハミルトン警部が私達を二階に手招きした。

(何が起こったんだろう)

一段一段が険しい崖を上っているみたいだ。
階段を上りきって直ぐに分かる。私の家の扉に赤いペンキで書かれてる。

 Ruckkehr nach Japan (日本に帰れ)
 gelber Affe  (黄色い猿)
 JAP

ハミルトン警部の声が聞えてくる。

「苅谷、ここは君の家で間違いないね?」
「はい」
「苅谷、これに見覚えは?」
「朝は無かったです」
「ランガー、これに見覚えは?」
「朝は無かった」

隣のエドナの家の扉が叩かれて警官が一人、その後をユンナとエドナが出てきた。
ユンナがハミルトン警部に聞かれて答える。

「君が最初に見つけたんだね?」
「私、六時に戻ってきたらこうなってたの」

エドナも頷いた。

「私もユンナの直ぐ後にここに戻ってきたのよ。もう、こうなってたわ」
「彼女達の言う事は信用できますよ。俺も見てる。アパートに入ったら、ユンナの驚いた声が耳に入った。「何よこれっ!」って。その時のユンナはまだ荷物持って、自分の家に入って無かった。ここにつっ立ってた」

エドナの家からヘンリーが出てきた。
ハミルトン警部が写真を見せる。

「この状態だったかな?」
「「「 はい 」」」

ユンナとエドナにヘンリーの声がした。
私とエリックとシドにもその写真が向けられる。
玄関前の床が白くなっていた。粉が撒かれたんだ。それで、掃除機だったんだ。
ハミルトン警部が私に聞いてくる。

「苅谷、この白い粉に見覚えは?」
「無いです」
「そう。ランガー、君は?」
「無いです」
「これは、コカインだ」
「身に覚えないです。あら」

いつの間にか犬が階段を上ってきてて、ピタリと私の家の前で座った。

 ワン! ワン! ワン!

アパートの中が一斉に静まった気がした。皆の視線が犬に集まった。
犬が歩き出し、扉を嗅ぎ、前足で引っ掻いて座る。

(その動作は何よ!)

 ワン! ワン! ワン!

(え? ドラッグなんか家に無い!)

でも、扉前に座って犬は動こうとしない。ハミルトン警部がアリシアに聞く。

「鍵は?」
「鍵は掛かってます」
「開けて」
「苅谷、鍵を貸して下さい」
「はい」

私はカバンから鍵を出してアリシアに渡す。

私達は扉から離され、警官が前を固める。拳銃構えてる。
アリシアがゆっくり鍵を回す。緊張が走る。鍵が掛かっているけど中に誰か居る事を想定しているのだろう。
他人事(ひとごと)じゃない。ここは私の家じゃないか。

 カチャリ

ゆっくりと扉が動いていく。開いた隙間から犬が入っていった。
暫くして戻ってくる。

「誰も居ないようだ。入るぞ」

ハミルトン警部が、それでも拳銃を握ったまま、私の家に踏み込んで行った。警官が次々と入っていく。犬もまた入っていった。

(私の家なのに)

朝のままだから、クッションの山はそのままだ。何してたかは分からないだろうけど、少し恥ずかしい。

 ワン! ワン! ワン!

中から聞えてきた。
その吠え方は…。そんな筈ない!

 ワン! ワン! ワン!

アリシアが私を呼びに来た。

「苅谷、中に」
「はい」

(犬だって間違うのよ。今のは間違い。絶対間違い)

犬は壁に掛かってるレターラックに向かって座って居る。

「見てもいいですか?」
「はい」

アリシアがレターラックを外して、テーブルの上に中を出していった。
請求書や、お母さんからの手紙に混じってダイレクトメールも出てきた。
全てを出してから三つの山にして床に置き、アリシアが離れた。

犬が近づいて匂いを嗅いでる。

 ワン! ワン! ワン!

アリシアが右に置いた封筒の束を取り上げ、ひとつずつ犬の前に並べていった。
匂いを嗅いで回った犬がひとつの封筒に前足を掛けた。そして吠えた。

 ワン! ワン! ワン!

(園芸店からのだ)

犬がまだ嗅ぎまわっていて、もうひとつの同じ封筒に前足を掛けた。そして。

 ワン! ワン! ワン!

アリシアが同じ封筒をフタツ取り上げて、ハミルトン警部に手渡した。
犬は「もう何も隠してないよ」と言う様に家から出て行った。
ハミルトン警部が私に見せる。

「これは?」
「園芸店からのダイレクトメールです。中に肥料サンプルが入ってたから、エドナにあげようと思って残しておいたのを忘れてました」
「サンプルだけ残せば良かったんじゃ?」
「エドナに同じダイレクトメールが来てるかなんて分からないじゃないですか。新しい園芸店だからお店の場所とか知りたいだろうと思って」
「どうしてお隣のウェイン(エドナ)に?」 
「私のトコに鉢植えないから。エドナのトコには鉢植えあるから」
「そう。こっちが初めに来たほうだね」

ハミルトン警部が開いてる封筒の消印を確認して言った。

「はい。何だろうと思って開けて見たんです。ドイツ語だったけど、辞書で読みました。二通目は同じ封筒で、中に入ってるから、またサンプルだろうと思って残しておいたんです」
「二通目が来た時にウェインに渡せたんじゃないですか?」
「タイミングが悪かっただけです。エドナにお客が来てたり、私に公演が入って忙しくて」
「中身確認しますよ」
「はい」

ハミルトン警部がフタツ共開封して中身を広げる。同じ物がはいってる。園芸店のパンフレットと一緒に肥料サンプルと書かれた紙と粉の入った包みが出てきた。

粉の包みを持ち上げて警部がアリシアに渡す。

「多分、コカインだろう。確認して。このダイレクトメールが届いてないか他に聞いて。その園芸店もだ」
「はい」

アリシアが出て行った。ハミルトン警部が私に向き直る。

「すみませんが、モノが出ちゃったんで、一緒に来て貰えませんかな」
「わ、私、知らない。そんなの知らない!」
「お話を伺うだけですから。昨夜一緒に過ごした彼も一緒にね」
「え?! 彼、エリックは関係無いです!」
「あの封筒から指紋が出るかもしれないからね。申し訳ないが、疑うのが私達の仕事だから、来て貰いますよ。貴重品だけ持って来て下さい。家のほうは暫く捜査させて貰います。シドに立ち会って貰いますから。終ったら鍵は掛けてお返ししますよ。えっと、そうだ、何か盗られた物が無いかチェックして下さい」
「…はい」

家を出たら皆が心配そうな顔で立っていた。
エドナが口を開く。

「祥子、大丈夫よ。あのダイレクトメールは私も受け取ってたわよ。サンプルは入って無かったけど」
「…うん」
「私のトコにも来てたわよ。捨てるつもりで置いてあったから渡してるわ。大丈夫よ」

ユンナが言った。

「ありがとう。皆、迷惑かけてごめんなさい」

皆に頭を下げる。泣きたくなってる。エリックの前に行って謝る。

「エリック、ごめんなさい。関係ない事であなたまで巻き込んでる」
「祥子の疑いが晴れればいいさ。弱気になっちゃ駄目だ」

そう言って、エリックは私を引き寄せた。

「では、行きましょうか。彼もね」

エリックから引き剥がされるように、私の肩がハミルトン警部に掴まれた。



罪を犯すとこうなんだ。
指紋を取られてから、狭い部屋に入れられて私は座らされた。前にハミルトン警部とアリシアが座る。
私のパスポートが戻ってくる。

「本人に間違いなしですね」
「当たり前です」

「弱気になっちゃ駄目だ」エリックが言った事を肝に銘じて強気でいく。私には身に覚えが無いのだから、ありのままを言えばいい。

ウィーンに来てからのことが詳しく述べられる。さすが警察だ。私ですら忘れてた演奏の事まで知っている。

そして、ランスとの関係に入っていく。

「ランス・ダッカードとの面識は?」
「楽団に任命された日の一回だけです」
「何か話しましたか?」
「一方的に何か言ってました。私はドイツ語が挨拶程度しか話せなかったので、言ってる事が分かりませんでした」
「何かされましたか?」
「私の硝子のフルートが壊されました」
「その後、彼から連絡は?」
「ありません」
「そうですか。ところで、どうして、あの粉を大事にとっておいたんですか?」
「肥料サンプルと書いてあったからです」
「もし、あなたの家に鉢植えがあったらどうしますか?」
「鉢植えの土に混ぜてましたね」
「捨てようとは考えなかったですか?」
「はい」
「どうして?」
「タダだから」
「初めて送ってきたのに?」
「自分で直に使う物なら警戒して捨てますけど、肥料って書いてあったから害は無いと思いました」
「それをウェインにあげようとしてたんですね」
「はい。有効利用したほうがいいと思ったんです」
「ドラッグについて知っていますか?」
「日本でもドラッグは厳しく罰せられます」
「触った事は?」
「今回のサンプルの袋を触ったと見るのでしたら、その時だけです。開けてはいません」
「今回のサンプルをドラッグだとは思いませんでしたか?」
「はい。肥料で似た様な粉を見ましたから」
「それはどこで見たんですか?」
「日本に居る時、実家の庭に撒いてました。もちろん肥料で購入した物です」
「そうですか」
「はい。私には区別がつきません」
「あなたは、あれをドラッグだとは思わなかったんですね?」
「はい」

その時、部屋の戸が叩かれて警官が入ってきた。ファイルと私の家の鍵を置いていった。
ハミルトン警部がファイルを開いて目を通してから、隣のアリシアに渡した。

「長い時間ありがとうございました。家に入って構いません。鍵をお返しします。今回は玄関の外だけの被害です」

家の鍵が戻ってきた。

「封筒のほうからはあなたの指紋だけが出てます。封を貼りなおした跡もありました。つまり、誰かが配達される時にあなたのふりをして直接受け取って、封を開けて入れたんでしょう。綺麗に指紋を拭きとってね」
「なら、エリックは?」
「彼のほうは封筒の存在すら知らなかったと言ってるので、大丈夫ですよ」
「良かった」
「あなたのほうも大丈夫ですよ。ですが、これからはサンプルといえども残しておくのは危険ですよ。直ぐに相談するかして下さい」
「気をつけます」
「あなたがランスに狙われているのはコチラでも承知してます。昨夜、あなたの頬に傷をつけた男がランスとの関係を喋ってます。時間の問題です。今回あれだけ大量のドラッグを出してきたとなると相当組織(バック)が大きいのでしょう。こちらとしても慎重に進めていきますから」
「お願いします」

ハミルトン警部が立ち上がって私を促す。

「さて、あなたを解放しますよ」
「はい」

部屋を出たらエリックが待っていた。

「エリック」
「疑い晴れたな」
「うん。…良かった」

エリックの胸に頭を着けたら、後ろからハミルトン警部の声がする。

「ランスが捕まるまで一人暮らしは危ないですよ。住所が(知ら)れてるからね。あなたの彼は有名なチェロ奏者だから、いつも一緒にいられないだろ?」
「あ、はい。シドと相談してみます」

私が振り向いてそう答えたら、ハミルトン警部が初めて笑った。

「シドも最近明るくなったな。君達のお陰かな」
「え? ハミルトン警部はシドと知り合いなんですか?」
「私はシドが遭遇した事故を担当したんだ。それからの付き合いだ」
「そうですか」
「あ、何かあったらここに電話してくれ。直接私にかかる」

思い出した様に、名刺をエリックと私にくれた。

「「 ありがとうございます 」」



タクシーの中でエリックに尋ねてる。

「シドってそんなに変わったの? アーチャーさんにも「シドが笑うか?」って聞かれたのよ。ハミルトン警部は「明るくなった」って。エリックは私が来る前のシドを知ってるのよね。どうだったの?」

そう聞いたら、エリックが思い出す様に手を顎に当てた。

「真面目なインスペクターに見てた。シドは打ち上げでも直ぐ帰ってたからね。最近シドと喋る様になった気がする」
「真面目? 私は笑い上戸のシドとばかり思ってたのよ」

タクシーの薄暗がりの中でエリックが私を向く。

「シドと話す様になったのって、祥子がここに来てからだ」
「私?」
「そうだよ。祥子が来てからだ」
「ランスと係わったからなのかしら」
「そうかもな」
「嫌な事思い出しちゃったわ」
「大丈夫だよ」

エリックが私の手を握った。



アパートに着いて、いつもの様に家に向かう。

「さっきの物々しさが嘘みたいね」
「本当だな」

家の扉の文字が綺麗に消されていた。

「エドナ達が消してくれたのね」

鍵を差し込んだら隣の扉が開いた。

「祥子、エリック、こっちよ」

エドナが顔を出して手招いた。二人でエドナの家に入る。
エドナとヘンリー、そしてシドが居た。

「あれ? ユンナは?」
「ユンナは用事があるって、あの後出て行ったわ」

(もうそんな時期だったっけ)

なんて、ユンナの趣味のほうに注意が向きそうになるのを止める。

エリックと二人で椅子に座ると、シドが喋り出す。

「祥子、エリック、お疲れ様でした。こんなのは初めてでしょう?」
「生まれて初めてですよ」
「俺だってそうだ。指紋まで取られて」
「私だって取られたのよ」
「俺もだ」

エドナとヘンリーが付け加えた。彼等も発見者であると同時に関係者になってたんだ。

「迷惑かけてごめんなさい」

皆に頭を下げて謝った。エドナがそんな私を見て慌ててる。

「祥子を責めてるんじゃないのよ。祥子が被害者なんだもの」
「そうさ。驚いたけど、こんな体験、滅多に出来ないさ」

ヘンリーが顔を上げた私に目配せして笑った。

「そうですよ。でも、何事も無く良かったです。ひとまず、皆さんに、といってもユンナは居ませんが、事の経緯をお話ししますね」

シドの話を聞き漏らさないように、部屋の中が静まり返る。

「今日、アパートの清掃が入る予定がありました。それは知ってますね」
「「 はい 」」

エドナと私が頷いた。私はシドに言われて気づいたんだけど。それは問題じゃない。

「さっき来てた作業員がここの担当です」

ハミルトン警部に話を聞かれてたっけ。

「あの作業員の言う事には、今日10時にここに来てアパートの玄関を開けたら、男が近づいて来て、楽団の人間だと言ってIDを見せたそうです。アパートの改装を考えてるから観に来たと、一緒に玄関を通り作業員が清掃をしている間、色々とメジャーで測ったり写真撮ったり、メモしてたそうだ」
「改装するなんて話聞いてないわ。今日、事務の人間は外に出ててもこことは反対の方面に出てたわ」

エドナが驚いてシドに声を掛けたら、シドが頷いた。

「事務の人間じゃない。だが、IDには写真も認識番号も乗っていて、写真もその人物の物だった」
「作業員は1時間程で清掃を終えて、男に帰ると声を掛けたら、「これから2階もやらなきゃならないから。ご苦労様」と言ったそうだ。作業員は次の場所に行って、ここには戻ってきていない」
「それは本当なんですか?」

私が聞いたらシドが私に視線を向けて言う。

「防犯上、アパートの玄関の開錠に使われた鍵番号の履歴が残るようになっている。作業員の持ってる鍵番号で開けられたのは朝の一回きりだ」
「そうでしたか」
「楽団の人間と偽った男が犯人だろう。作業員が顔を覚えてるからそこから直ぐに捕まるはずです」
「祥子、良かったわね」
「エドナ、ランスが捕まってないんだ。喜ぶのは早い」

ヘンリーが真面目な顔で言った。
私の隣に座ってるエリックが口を開く。

「ハミルトン警部が「ランスが捕まるまで一人暮らしは危ない」って。俺、一緒に居てやりたいけど、公演がまた入ってくるから」
「エリック、大丈夫よ。私ここで大丈夫」
「そうよ。私が隣だもの、任せてよ」

エドナが言ってくれた。でも、エリックは心配そうに私を見る。

「でも、ここが知られている以上、家で一人ってのも危ないんだ。エドナだって、毎日ここに居るって事は無いだろ?」

エリックがエドナとヘンリーを交互に見る。それに気づいてヘンリーがエドナを突く。

「あ、そうね」
「なら、私の家に来ればいい」

シドの言葉に皆が驚いてシドを見た。少し慌てた風にシドが付け加える。

「私の妹も一緒だから安心するといい。両親は老後の楽しみであちこち周って不在だが、妹はまだ大学生なんですよ。それに管理人夫婦も居ますしね」
「あら、随分歳の離れた妹さんですね」

エドナが言うとシドが笑う。(ほら、笑ってる)なんて私はシドの笑顔を見て思っていた。

「私が若気の至りの結果ってヤツですよ。妹のほうが両親の歳と合ってますからね」
「知らなかったわ。ねぇ、ヘンリー」
「聞いてみなけりゃ分からないもんだね」
「そういうものですよ。さて、祥子はどうですか? そしてエリックは?」

シドがエリックと私を交互に見て問いかけた。

「妹さんと管理人夫婦が居れば大丈夫だろう。祥子が一人になる機会が減るのはいい事だからね」

エリックが私を見て頷いた。

「なら、暫くの間厄介になります」

そのまま着替えを纏めてシドの家に行く事になった。郵便はエドナが練習所に持って来てくれる。

「エリックも来て下さい。祥子が暮らす場所を見ておいたほうがいい」
「いいんですか?」
「そりゃ。君達の仲を壊す訳じゃないからね。エリックの大事な祥子を暫くの間、保護するだけですから」

そうシドに言われて、エリックと顔を見合わせて照れていた。



タクシーがシドの家の前に着けられた。シドが運転手に待ってる様に言ってチップを渡した。

「さあ、どうぞ。妹には話してますから」

促されてる私達は、凄く驚いている。

「シドの家って大きい」
「そう…だね」

庭を突っ切って玄関に入ると、吹き抜けのロビーだ。二階に上がる階段、ロビーの右手に大人数収容できそうな部屋がある。
肖像画を見たエリックが口早に言う。

「演出家で有名なトム・ガーディナーだ」
「 ? 」

エリックの口から出た名前の人は知らないけど、肖像画の人はシドに目が似てたし、顔の輪郭も似ていた。

「父を知っていましたか」
「俺、小さい頃からこの人の演出する舞台見に行ってたから。シドのお父さんとは知りませんでした」
「妹を呼んできますから」

そう言ってシドが二階に上がって行って直ぐにバタバタと階段を下りてくる人がいた。

「わぁ! エリック・ランガーだぁ! 本物、本物!」

シドの妹だ。エリックに突進してきて、握手してる。
それから私のほうを見て手を差し出した。痛い程の握手になった。

「兄から聞いてます。祥子・苅谷でしょ? 私、あなたのファンよ。でも、ちょっと許せないわ」
「え?」

エリックに視線を投げる。

「だって、エリックを射止めちゃったんでしょ? ここに二人で居るって事は確実な仲って事よね。あ~あ。残念~」

私の手を離してエリックともう一度握手してる。

「あら。エリックったらモテモテね」
「祥子、それ妬いてる?」
「妬いてあげるわ」

「マリー、その位にしときなさい。二人共困ってるじゃないか」
「はーい」

シドが階段を下りてきてマリーと呼ばれた妹さんがシドの横に行く。

「妹のマリーだ。今、大学で」
「演出の勉強してるのよ。あと、特殊メイクの勉強もね。おっと、課題済まさなきゃ。じゃ、エリックはいつでも祥子を呼びに来てね。待ってるわ」

またエリックに握手を求めてから、二階に駆け上がっていった。

「エリック、あんな妹で申し訳ない。少し祥子の落ち着きを見習わせたい位の妹ですが」
「凄く活発な妹さんですね」

シドがマリーの行った二階に視線を飛ばしながら言う。

「歳が離れてるからどう接すればいいか、正直困っているんですよ。暫く祥子が居てくれるから勉強させてもらわないと」
「私、弟しかいないから。でも、マリーは弟みたいな妹ね」
「それでいいですよ。さて、部屋に案内します。二階です」

エリックが私の荷物を持ってくれて二階の部屋に案内される。

「うわっ。ここ使っていいんですか?」
「どうぞ」

直ぐに暮らせる状態だ。ホテルの部屋みたい。

「暫くお二人で荷物を解いてて下さい。タクシーは大丈夫ですから」

シドが部屋から出て行き、エリックと二人きりになった。

「ここなら、祥子は安全だ。シドは俺の知ってる人だし、マリーもいい子だ」
「そうよね」
「妬いてるのか?」
「ちょっとね」

エリックが荷物を解こうとしてる私の腕を掴んで立たせる。

「妬く必要は無いよ」

唇が触れて離れた。

「エリック。今日はありがと」
「あぁ」
「荷物は私一人で大丈夫よ。エリックが遅くなっちゃう」
「お休みだね」
「えぇ。お休みなさい」

エリックをタクシー迄送り手を振った。シドの家に入るとシドの声が掛かる。

「祥子、こちらにどうぞ」

声を頼りにロビーに続いた小さいほうの部屋に入る。暖炉があって、この部屋がリビングなんだ。
シドがテーブルにコーヒーを置いてくれた。

「どうぞ」
「ありがとうございます」
「今日は大変な一日でしたね」
「はい。初めて警察のご厄介になりました。私の人生上の汚点なのか良い体験なのか。もう、ごちゃごちゃです」
「滅多に体験しませんよ。警察なんかとはね」

シドが笑って言った。ハミルトン警部の事を思い出した。

「そういえば、シドってハミルトン警部とお知り合いだったんですね」

一瞬でシドの笑顔が消えた。

「あ、そう。そうですよ。昔、この傷の事故の時にお世話になったんです」

そう言って、左指を軽く上げた。

「ごめんなさい。余計な事聞いたようですね」
「気にしないでいいですよ。これから、ここでの生活を簡単に話しますね」
「はい」

食事の事、掃除の事、トイレとかお風呂の事、この家の場所、買い物の場所…などなど。
地図を広げて練習所迄を追っていたら声が掛かる。

「夜遅くなる時は送って貰うかタクシー使って下さい」
「はい」

シドの指が地図の一点に置かれた。

「それと。エリックの家はこの辺だから、ここから遠くない」
「あら、本当ですね」

練習所からエリックの家、そしてシドの家といった順番だ。ドナウ川が傍にある。

「普段、私は帰りが遅いですが、大丈夫ですか?」
「はい。注意して行動します。女性にくっ付いて行くとか。あ、私が怪しくなっちゃいますね」
「祥子、普通でいいんですよ。ただ、周りに気をつけて。朝は私と一緒に出ればいいし、まぁ、泊まってくる時は、管理人夫婦に連絡入れて下さい。管理人夫婦は玄関出て左手の家に住んでいます。日中はこちらに居ますが、夜中とか何かあったらここ押せば繋がります。二階にも同じのがあります」
「はい。これですね」
「マリーは夕方に帰ってきます。泊まりもありますが、その時は連絡が入りますから。休日にバイトに出てます」
「分かりました」
「今日はもう遅いですからゆっくり休んで下さい」
「はい。あ、片付け位は私がします」
「では、ついでですから食器の場所を教えましょう」

シドと二人でキッチンで洗い物して、場所を覚える。

「覚える事がありすぎて大変ですよ」
「フルートみたいにはいきませんか?」
「はい。もう大変」

リビングに戻って暖炉の前に行った。暖炉の上に見慣れた物があったからだ。
フルートケースだ。でも、ケースがひしゃげてる。事故に…もしかしてこれ、シドが事故にあった時のそのまま? ケースの中にフルートは入っているのだろうか?
ケースの隅に刻印があった。

 L A

ロサンゼルス? それとも工房名なのだろうか。
ケースに私の指が掛かるその瞬間、大声が私に襲い掛かる。

「それに触るな!」
「っ!」

ビクリと私の指がケースに触れる直前で止まる。慌てて手を戻し恐る恐る振り向く。
シドが私の後ろに隠れるフルートケースに視線を止めたままだった。

「ごめんなさい。フルートケースだったから」

私の声が耳に入って我に返ったようにシドが私を見る。ぎこちなく笑顔を作った。

「大声を出してしまってすみません」

シドが私の横に来てフルートケースを見た。

「私と事故に合って二度と吹けなくなったから…遺品です」

そう言って、ゆっくりとケースを撫ぜた。シドが泣いた様な気がした。居心地悪くなって逃げる事にする。

「わ、私、お先にシャワー使わせて貰います。お休みなさい」
「…お休み」

(…遺品)

階段を上がりながらシドの言った言葉を繰り返している。
シドの遭遇した事故は相当大きかったんだ。


- #36 F I N -
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