#28-2 アイーダ <祥子視点>

文字数 9,641文字

アイーダの音がまだ掴めないままだ。
伴奏でいいなんて簡単な事なのに、それが出来ない。声を聞いて音を出す。それだけでいいのに、私の音は声と同じ様に主張してしまう。

「ハレルヤコーラスって知ってるかい?」

アーチャーさんが休憩時間に私を部屋に招き入れて言った。

「はい」
「あれを観客として聞くと分かると思う。声の洪水だろ」
「はい。ハーレルヤ ハーレルヤ ハレルヤ ハレルヤ ハレールヤ って」
「その部分だって伴奏が入ってるんだよ。だけど、聞こえているのに聞いてないだろ」
「あっ。そう、そうですね。声に圧倒(あっとう)されてるから」
「でも、私達はオーケストラの音を頼りに声を出してるんだよ」
調律(チューニング)みたいなものですか?」
「そうだね。声の調律だ」



「そう言うのに、盛り上げる強弱は必要って、舞台の流れを作れって言うのよ」
「へぇ。アーチャーさんはいいアドバイスをくれたんだね」
「アドバイスなんだろうけど、私にはそれが出来ないのよ」

エリックに愚痴(ぐち)聞いて貰ってる。行き詰まってるからエリックに助けを求めていた。

「俺達が出さなきゃいけない音は、声と一緒の音なんだよ」
「声と一緒?」
「そうだよ。歌手に対して歌って下さい。場面を動かして下さいって」
「なら、バレエと同じじゃないの? あれだって踊って下さい。場面を動かして下さい、でしょ?」
「バレエの場合は眼で見る情景だろ。眼で見る情景と耳で聴く情景。イメージさえあっていれば違和感は無い」
「あ…そうね」

眼と耳それぞれでひとつずつ感じとるからか。

「だけど、オペラは声と音。異なるふたつが同時に耳で聴かれるんだ」

オペラは眼で場面、耳で聴く対象がふたつになるのか。

「音は一定に出せるけど、声は出す人の感情で情景が変わっちゃうだろ」
「それは良く知ってる。ソフィがそうだもの」
「ソフィが出るのか。なら、嫌という程身に染みてるね」
「うん。とぉ~ってもね」

力を込めて言ったらエリックが笑う。

「歌い易いように丁寧に、指揮者の指示に従うんだ」
「自分の情景は表に出さないで?」

それが出来ないんだ。

「そうだよ。指揮者に任せればいい。音を拾いやすい様に譜面通り丁寧に出す。祥子は出来る筈なんだけどね」
「今こんなに困ってるのに」
「俺達の音を合わせるのと同じさ。何ていうかなぁ、演奏会で感じるんだけど。…音を惹き立てる、そう、それだな。祥子は声を惹き立てればいいんだ」
「ん~…」

そんな風に言われても、分からない。

「俺もオペラと初めて合わせた時、祥子と同じ様に(つまず)いた」
「エリックも?」
「あぁ」
「で、どうしたの?」

少し間が開く。エリックが思い出そうとしているようだ。

「どうしたっけ。んと…。あぁ、そうだ。ネイチャーサウンドって持ってるかい? ヒーリングとかで使う音」
「鳥のさえずりとか小川のせせらぎの音?」
「そう」
「探せばあるかも」
「それを流しながら合いそうな曲を吹いてごらん。鳥の声なら、それを聴いて貰える様に惹き立てて吹くんだよ」

鳥や川の音を消さない様に音を合わせろって事だ。

「やってみる。エリック、ありがとう」
「俺だって役に立つだろ?」
「うん。とっても。でも、こんな時だからエリックに傍に居て欲しいのよ。あっ、今のは無し。ごめんなさい。仕事だから分かってる。私だって同じなのに」

うっかり言っていた。
電話で傍にいる感じを受けてるのに、手を伸ばしても傍に居ないんだ。
エリックの声が耳に入る。

「遠慮しなくていいんだよ」
「うん。ありがとう」
「祥子が普通の女性だって分かった」
「やだ。今のは無しだってば。それに普通の女性って何よ」
「俺だって祥子の傍にいたいさ」
「あ、も、もうっ! 答えになってないよ」
「好きって気持ちは万国共通なんだなって思ったのさ」
「そうなのかな?」
「そうだろ?」
「う、うん」

その後は照れを誤魔化す為に、エリックの事を聞いた。イタリアでの公演の事。一緒に演奏する楽団の事、指揮者の事、観客の事、街の事、食べ物の事。



エリックの言ったネイチャーサウンドが無かったので、練習帰りに買いに行った。

「DVDにしちゃった。これだったら状況は同じ。声があって映像がある。歌があって舞台がある」

家に帰って速攻再生する。
曲を決めて吹いてみる。鳥の声が聞き取れない。

「これじゃ鳥の声が消されちゃう」

何度か繰り返すけど全然駄目だ。DVDの再生が終わり、画面がTVに戻る。映画が流れてた。ボーっと見てて気づく。

「これだって一緒だ」

チャンネルを変えてみる。ドラマだ。

「これもだ」

音が声の邪魔になってない。編集されてるのだけど。

「その編集を私がやるんだ。小さくか」

DVDを再生する。音を小さく。

「何か変になっちゃった」

譜面を眺めてて記号が眼に入る。

「この通りに吹いてみよう。静かに丁寧に」

…今、鳥の声が耳に届いた。
もう少し小さく音を出してみる。

「私の音が浮いてる」

鳥の声に合わせる。違う、鳥の声を惹き立てる。鳥に音を拾って貰うんだ。歌って貰うんだ。
譜面通り丁寧に。鳥の歌を耳で聴いて。

あ、あ、あ……この事か。

この事をエリックは言っていたんだ。
私の音を鳥が拾って情景を響かせてる。私の音から情景を歌ってくれている。声の調律になっている。

基本的な事だった。他の音と合わせる。他の音が声になっただけの違いだった。
私は声を惹き立ててやればいい。
音を創る必要が無いんだ。指揮者の指示を完璧に音で出してやればいい。

先月の定期演奏会で私の情景がメインだったから、すっかり忘れていた。



アイーダのリハーサルが終わり、アーチャーさんが近づいてくる。

「祥子、どうしたのかな? いい音を出してきたね」
「分かりますか?」
「歌い易くなった」
「ありがとうございます。お好きな感情で歌いまくって下さい」
「こりゃ凄い自信だ」
「そりゃ。私には心強い大切な人が居るんですよ。彼が教えてくれたんです」
「恋人なんだね」
「はい」
「誰なのかな? 祥子のハートを掴んだ羨ましい男性は?」
「それは内緒です。アーチャーさんがイギリスに戻ってうっかり口滑らせたら、また私の知らない所でゴシップになっちゃいますから」
「私は口が堅いほうなんだけどな」
「教えませんよ。でも、アーチャーさんが教えて下さった事もあるんですよ。勉強になりました。ありがとうございました」
「いえいえ。私も下心があってね」
「えっ? 下心?」

ドキリとした。アーチャーさんって妻子持ちだったんじゃ?
退()き気味の私を見て、アーチャーさんが笑う。

「最終日にお手合わせ願おうと思いましてね」

楽譜を手渡された。ピノキオ主題歌「星に願いを」

(そ、そっちね…)

変な早合点(はやがてん)をして恥ずかしくなった。

「アーチャーさん。オペラ歌手なのに、この曲?」
「祥子の得意な曲だと聞いていたが、違ったかな?」
「好きな曲ですが」
「私も娘が好きな曲だから知っているんですよ。オペラばかり歌ってる訳じゃないんです。好きな歌は何でも歌うんですよ」
「どうして私とですか?」
「君の音を気に入ったからね」
「ありがとうございます」
「これから一度合わせて欲しいのだが、いいかな?」
「はい」

ツカツカとアーチャーさんは舞台に向かう。
私はオーケストラの自分の位置に移動始めると声が掛かる。

「祥子、君も上に来てくれ」
「えっ? 私、こっちのほうが落ち着けるのですが」

そんな光の当たる場所なんか恥ずかしい。折角、オーケストラの闇場に居られるのに。
アーチャーさんが舞台の上から、私を手招く。

「ダメだめ。写真、撮らせてあげたの忘れてないよね?」
「えっ…」

(写真はその為の前払いだった?!)

「もう渡しちゃってるよね? なら来るしかないよね」
「…はい」

(ミリファ、あの写真には大きな陰謀が隠されてたわよ)

ジェントルマンは腹黒かった。
アーチャーさんは笑いながら私を手招いてるから、腹黒くは無いんだけど。しかし、アーチャーさんといい、ガド爺といい、カノンといい…計算高い。
諦めて舞台の上に行くと、アーチャーさんが小道具係の人に指示を出してる。

「譜面台をひとつ、この辺に出して欲しい」

直ぐに譜面台が置かれる。

「祥子、ここでいいかな?」
「はい。もうどこでも」

楽譜を並べていく。

「私は最後に歌うからね。ソフィ、ザフ、キャロル、そして、私の順番だ」
「はい」
「この曲の、後半から最後迄、私に合わせて吹いて欲しい」
「情景を吹いていいんですか?」
「そう。私がどの情景をこめるかは、感動次第なんだけどね。出来るかい?」
「はい。前半で読み取ります」
「じゃぁ、始めるよ。一度きりだからね」
「はい」

アーチャーさんの靴の音が響く。

 ♪♪♪♪♪♪♪~

 ベッドにお入り。夢は願い。幸せの夢を願ってごらん。星が叶えてくれるよ。

子守唄の情景でアーチャーさんの声が響く。
声とフルートの音が響く。この声を惹き立てて、後半、私もアーチャーさんと同じ情景を載せる。

 いい夢を。幸せの夢を。誰でも願っていいんだよ。星は皆を見てるから。

オペラ歌手と1対1で合わせている。初めての経験だ。
気持ちいいよりも面白い。声がこうしろって教えてくれる情景を奏でればいい。

「祥子、短く切って。跳ねてる感じに」

アーチャーさんが声を挟んだ。

(跳ねてる感じ? ジャズっぽくでいいのかな)

 ♪ ♪ ♪  ♪ ♪♪♪~

アーチャーさんが音に載ってくれる。

楽しい。こんな楽しい演奏も出来るなんて思わなかった。
声と音が止まったら、拍手が沸きあがった。

「おや、こんなに注目あびちゃいました」
「アーチャーさんの声が響いたんですよ」
「祥子の音もだよ」

そう言って、アーチャーさんが私の手をとって、明日の準備をしていた人達にお辞儀をした。



アイーダ初日前夜なのに落ち着いているのは不思議だった。
オペラの裏方みたいなものだから。嘘だ。携帯握り締めて嬉しくなっているんだ。

「祥子、明日、最高の音を」
「エリックもね」

そう言って通話を切ったのは、ついさっき。
エリックに甘えているのは分かってる。だけど、通話が繋がった時、エリックの第一声が喜んでくれている。そんな感じを受けるから好き。

毎日、毎日かけたいけど、それじゃ鬱陶(うっとう)しい女になりそうで、私がどうしても話したい時だけにしている。大人の女。だから耐える。好きだから耐えられる。変なコダワリかもしれないが、恋愛の失敗はいかさなくちゃ。

「今は遠距離恋愛って感じ。やだ。国が違うじゃない。遠距離の遠距離」

人種の違いも恋愛の距離に追加されるのかもしれない。「人類皆兄弟」なんて言われてたけれど、やはり距離がある。今は手探り状態だ。

アイーダの気持ちが分かる様な気がする。恋愛と立場。恋愛と人種。

「私のは誰かが邪魔する訳でもないし」

でも、こういう場合、ベタな展開だと元彼女が登場したり、異国で浮気されたり、事故にあっちゃうとか、あるんだろうな。

「ドラマじゃあるまいし」

携帯を充電器に置いて、頭を明日の公演に切り替える。
最終日までは、最後に紹介されるだけで、ワンフレーズ挨拶程度に吹けばいい。気が楽だ。

アイーダの公演はミューラー財閥主催だ。初日と最終日にはカノンがやってくる。
ガド爺はカノンから「いい席」が贈られている。
私はゲストとして呼ばれているから何枚かチケットを貰えた。

最終日のチケットを征司とミリファに。エドナとヘンリーにも渡した。時間が合えばエリックに。
シドには仕事の都合があるからと言われ、初日のチケットを渡した。

ちなみにユンナも誘ってみたが、あっちの集会があって、と断られちゃった。ユンナは楽団の仕事に就いているけど、オペラとか演奏には興味が無いらしい。

 カタ

「緊張…始まっちゃった」

パッとカーテンを開けた。

「出てないや」

雲が出てないのに、今日は月が見えない。



オペラの迫力に驚かされている。

音で声を惹き立てる。楽譜通りに丁寧に指揮者の言う音を出す。
その音をソフィの、ザフの、キャロルの、アーチャーさんの声が拾ってくれるのが分かる。
音で声の調律されてる。音をひとつでも間違えたら声が外れる。
曲が終るとホッとする。でも、指揮者が棒を上げたのが眼に入ると、完璧な音を出さなきゃならない。
こんなに正確さを求められると怖くなる。

最後の紹介で吹く時が、私らしい音が出せる時間の様な気がした。

公演後、人でごったがえしてる中、オーケストラの楽屋の前にシドが居た。私を見つけて笑う。

「祥子」
「シド。来てくれたんですね。どうでした?」
「素晴らしかったですよ。初めてのオペラでしたがクリアしましたね」
「はい。わぁ。花束まで」

私の手にシドが花束を差しだす。

「頑張りましたね」
「ありがとうございます」
「あと少し。ウチの本業も入っちゃいますけど、大丈夫ですね?」
「はい。終わったら休み貰いますから」
「休み貰える程、祥子は暇じゃないですよ」
「えぇっ? 今月休日全部返上してるのに?」
「祥子には沢山依頼来てますからね」
「強制労働ですか。…仕方ないですね」

シドがふきだした。

「冗談ですよ」
「シド! 冗談はやめて下さい。全く、私をからかって遊ぶんだから」
「これは失礼。ですが、確かに依頼は沢山きていますよ」
「あら」
「少しだけ休みをあげますよ。強制労働なんて言われないようにね」
「少しだけですか」
「仕事減らしましょうか?」
「減らさないで下さい」(それでご飯食べてるんです)
「そうでしょ」

移動日が休日と同じ事だし。仕方ないよなぁ。

「シド・ガーディナー君」

私達の横から、声が掛かった。この声はアーチャーさんだ。この声が響いた時、シドの顔が強張った気がした。

アーチャーさんが嬉しそうに近づいてくるのに、シドの顔は困った顔をしていた。

「やっぱりシド君だ。元気だったかい?」
「…はい。アーチャーさんもお変わり無いようですね。…お元気ですか?」
「皆、元気だよ。それより、君、今はインスペクターをやってるそうだね」
「…はい。もう吹けませんので」

アーチャーさんが怪訝(けげん)そうな顔をした。

「どうして?」
「これが言う事聞かなくて」

そう言ってシドは左手をアーチャーさんに見せた。アーチャーさんが息を呑んだ様な気がした。

「そうか。…それでか。残念だよ。娘も君の音を好きだったんだが」
「…練習程度にならまだ吹く事が。あ、すみません。用事が入ってたのを思い出しました。失礼します」

シドが逃げる様に、アーチャーさんと私に頭を下げて戻っていった。

「あの。アーチャーさん?」

シドの後姿を見送ってたアーチャーさんが私に視線を移す。

「何かな?」
「シドと知り合いだったんですね」

アーチャーさんが、私の持ってた花束の中からバラを抜き取って香りをかいだ。

「そう。昔…と言ってもそんなに昔じゃないが、彼のフルートの音を知っているんだよ。バラ、貰ってもいいかい?」

そう言って、持ってたバラの花を揺らした。

「どうぞ」
「ありがとう。祥子、明日も頼むよ。今日の出来以上にね」
「はい」

アーチャーさんが楽屋に向かいかけて振り向いた。

「祥子。シド君は…笑うかい?」
「? はい。笑いますが」
「そうか」

アーチャーさんは向きを戻して歩いていった。

「何だろ。シドは良く笑ってる。笑い上戸だよ。アーチャーさんたら変な事聞くのね」

アーチャーさんと喋ってるシドは、いつもと違う感じだったけど、それはフルートを吹けなくなったのを彼に知られたからかもしれない。



明日は午後と夜の二部ある。それから二日間空いて、そのニ日には定期演奏会とそのリハーサルが入ってる。終わればまたアイーダが二部ずつニ日続き、最終日は夜の部だけが行われる。

「休みって緊張が解かれる時の事を言うんだよな。早く休みが欲しいな」

今日エリックはローマ入りしてる。移動後の空き時間、観光してるのだろう。
家でシドから貰った花束を花瓶に挿して想っていた。



定期演奏会を無事に終えた。後半のアイーダだって失敗も無くこなしてきた。
「本番に強い」って皆に言われているが、当の本人は小心者だ。絶対そうだ。「舞台度胸」だって必死に搾り出している。

あと一日。あと一日我慢すれば緊張から開放される。

「こんなに緊張してたらどうにかなっちゃいそう」

フルートの手入れをする。

「あら。また届いてたんだ」

ポストから持って来た手紙の中に、園芸店からの封筒が眼に入った。フルートを置いて、封筒を取り上げると、カサカサと音がした。中に肥料サンプルが入っているようだ。

「エドナにあげなきゃ」

封を開けずにレターラックに突っ込んだ。



最終日の今日は最後にアーチャーさんのお相手だ。
舞台に上がってなんて…それも大物オペラ歌手と。

「だめだ。いらん緊張が襲ってくる」

ブルブルと頭を振って舞台袖(ぶたいそで)から観客席を覗いた。

「ここが埋まっちゃうんだ。良かった下の闇場で」

私の傍で音がしたから顔を上げると、アーチャーさんの姿が眼に入った。
アーチャーさんも私と同じ様に観客席を見ていた。

「アーチャーさん」
「ん? 祥子か」

観客席から視線を動かして、私に気づく。

「大盛況ですね」
「そうだね」

そう言ってアーチャーさんはまた観客席のほうに視線を飛ばした。気になる事があるみたいだ。

「誰かお探しですか?」
「あ、来た来た」
「 ? 」
「私の娘ですよ。最終日だから来る様に言ったんだ」

VIP席にカノンが居る。ガド爺が居る。その後ろの席に女性が座ったところだった。

「祥子も誰か探してるのかな?」
「そうだった。探しに来たんでした」

VIP席は無理だったから普通の席で一番いい席をとったんだ。
居た。征司、ミリファ、エドナ、ヘンリー。エリックの席は空いたまま。

朝、練習所のエリックの小部屋の戸にチケットを貼ってきた。「間に合ったら来て」とメッセージを添えて。

午前中にローマを飛び立つって言ってたから、6時には間に合うと思ったけど。ここまで来るのに時間が掛かっているのかもしれない。

空いてる席を見てがっかりしていた。
エリックに教えて貰ったから、オペラの音も吹ける様になったんだよ。
…聴いて欲しかった。

ふとアーチャーさんが居るのを思い出して横を見ると、アーチャーさんもどこか私と同じ様な気がした。娘さんのほうを見ているようだけど。

ハンナが呼びに来たから、アーチャーさんに聞けずに闇場に行った。

最後の公演だ。



幕が上がる。

静かに指揮棒が動いていく。それに合わせて音を吹いていく。声を惹き立てていく。
最終公演だから、ソフィも感情に乗りきって演じてる。あんなにワガママ言っているのに、皆が許してしまうのは、この実力があるからなんだ。

終焉になり、カーテンコールが始まった。静かに席を移動して、舞台袖に行く。
アーチャーさんが待っていてくれた。

「祥子、今日は前と違う情景になります。普通に行きましょう」
「テンポを上げないんですね」
「そうしてくれ」
「はい」

キャロルが歌い終わり、大喝采が起こる。

「行きましょう」
「はい」

アーチャーさんの後から舞台中央に向かう。譜面台が用意される。
ライトが舞台に当たっているから観客席は良く見えない。
それが、せめてもの救いだ。

 タン

アーチャーさんの靴の音が響いた。

「ピノキオ」主題歌「星に願いを」

 ♪♪♪♪♪♪♪~

 今は上手くいかなくても信じていて。君が動かないなら、僕が願うよ。君は願いを忘れないで。いつかその願いは叶うんだ。信じていて。

アーチャーさんの声が切なく響いてくる。これは誰に向けているのだろう。
アーチャーさんが私を見た。一緒に合わせていいよと言っている。

 信じていて。その願い。忘れないで。その願い。あなたは一人じゃないよ。きっと願いは叶うから。

アーチャーさんが笑った。だけど、切なくて涙が出そうだ。

声と音が消えていって、静寂が訪れた。長い静寂だった。アーチャーさんがゆっくり私の手を持ってお辞儀をした。私も一緒にお辞儀をした。

耳が痛くなる程の拍手が襲ってきた。

花束を受け取ってから、アーチャーさんはバラの花を一本私に向けた。

「祥子、ありがとう。今度、イギリスに招待しますよ」
「イギリスですか?」
「ロンドンでフルート吹いて貰います」
「ありがとうございます」

楽屋に戻ると、ミリファ達が待っていてくれた。その中にエリックは居ない。

「祥子、凄いじゃない。アーチャーさんとデュオよ。声と音のデュオよ! 隠してたのね」
「驚いた?」
「驚いたに決まってるじゃない」

「ほら、祥子、皆から」

征司が大きな花束を私に向けた。

「皆、ありがとう。こんな大きな花束、うわっ。重いじゃない」

ヘンリーが言う。

「祥子、俺、オペラは苦手だったけど感動できた。祥子の音があったからかもな」
「ヘンリー、おだてたって何もでないわよ」
「なんだ」

エドナが横からヘンリーを小突く。

「ヘンリーったら何期待してたのよ。祥子、良かったわよ」

エドナが親指を立てて目配せする横でヘンリーが大慌て。

「エ、エドナっ! 俺、何も期待なんか」
「祥子襲う気だったんでしょ」
「そんな事しないさ。そんな事したら誰かさんに殺されちゃうさ」
「そうよ。彼を怒らせたら怖そうよ。この場に居たら、あなたなんかのされちゃうかもよ」
「エドナ~」

「あらあら。ヘンリーはエドナの尻に敷かれちゃったわね」

ミリファが茶化して皆で笑った。皆でヘンリーを茶化してる間に、征司が近づいて来る。

「祥子の音、また良くなったな」
「ありがとう」

征司が私だけに聞える様に囁く。

「エリックのお陰なのかな?」
「征司っ!」
「まあまあ。後で観客席に行ってみな。俺達は先に退散するから」
「観客席?」
「そう」

エリックの席は空いたままだった。幕が下りた時だって。

征司が私に頷いてから皆を促す。

「さ~て、俺達は先に出よう。祥子は少しこっちの人達と話があるんだと」
「じゃぁ、終わったらいつものお店よ。来てね」
「うん」

皆を見送って、フルートを片付けて服を着替え、荷物を持つ。

「何だろ。観客席に…ガド爺か?」

一瞬頭を過ぎった。それは怖いかもしれない。成功したから、何されるか。

そっと観客席を覗いた。舞台の片付けやオーケストラの片付けでガタガタしてる。

観客席の一番前に私は居る。下から見上げる様になっている。
VIP席に人影は無い。ガド爺はカノンに連れられて行ったとみた。
カノンからはカードが届けられていて、「素晴らしい音をありがとう。花束贈るわね」と書かれていた。

じゃ、誰が? どこに?

会場を見回してみた。
動かしている視線に何かを捕らえた。視線を戻す。
あの位置の席…あの席に人が居る。

私は急いでその席に向かう。

間違いない。エリックだ。
エリックが椅子に深く座り、肘掛に肘をついて両指を組み考え込んでいるようだった。

席に近づく私の足音に気づいたエリックが指を解いて顔を上げた。私を見つける。
私はエリックの前でエリックよりも早く口を開いてる。
エリックを見つけて嬉しいのだけど。

「エリック。来てくれたの? でも、でも…(終わっちゃった)」
「ごめん。アイーダは聴けなかった。でも、アーチャーさんとのデュオは見事だった。最高だった。俺、感動してて。祥子の音に感動してて」
「(え?! 聴いてた!)楽屋に来れなかったのね」
「ごめん」
「ありがとう」

エリックの顔に近づいていく。私の音に感動してくれる。それだけで私はエリックに認められてるのが分かる。
エリックが驚いているのかもしれない。ゆっくりエリックの手が私の頭に触れて引き寄せられた。

「お帰りなさい」
「ただいま」

照れながら、最初に言うべき言葉をかわした。

「どこで聴いてたの? 幕が下りた時、席は空いてた」
「ここに入る扉のトコさ。飛び込んだら、祥子が舞台に出てきたから驚いて立ち止まったまま聴いた」
「それじゃ見つけられない訳ね。でも、征司が気づいてたみたい。先に行ってるって」
「それで祥子が俺を見つけに来たのか」
「ガド爺かと思って焦ったのよ」
「俺に気づいてどう?」
「来てくれたのが嬉しかった。エリックのお陰でオペラも吹けるようになれた。だから聴いて欲しかったの」
「聴いたよ。声との競演。素晴らしかった」
「ありがとう」


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