#53 記憶 <祥子視点>

文字数 5,508文字

ロンドンでの公演初日は大盛況で終えた。
楽屋に戻って直ぐにルナが私に言う。

「祥子、音が変わったわね」
「歌い(やす)いでしょ」
「歌い易いどころじゃないわ。祥子とも歌ってたみたいよ」
「私も楽しんでるからよ」
「お父様もそう思うでしょ?」

楽屋に戻ってきたアーチャーさんにルナが声を掛けたら、アーチャーさんが私に目配せしてから、指を立ててルナに向かう。

「ルナ。私の耳は正しいだろ? 祥子は私達に(こた)えてくれる」
「えぇ。歌うのがとても楽しかったわ」
「私もそう思ったよ。祥子、君に何があったのかな?」

悪戯(いたずら)っぽく笑って顔を私に向けたアーチャーさんの顔は、「ラルフから聞いてるよ」と言っている。

「ロンドンの若者と話しただけですよ」
「それは有意義だったね」

そう言ったアーチャーさんがさりげなく私の(そば)に来て(ささや)く。

「ラルフが居たから何事も無く済んだのかもしれないんだ。気をつけて下さいよ」
「はい」

もうしません。きっと。
私が素直に(うなず)いたのを見て、アーチャーさんは笑ってルナの傍に移動した。

私は硝子と金属のフルートを片付けながら、今日の吹き方をおさらいする。
これで一通りの吹き方は身につけたと思う。もう、吹き方で悩む事はないはずだ。

(私も着実に進歩してる。自分で解決出来たんだ)

あと二日、ロンドンで公演して、それから、エディンバラ、マンチェスター、リヴァプールに移動して三日間ずつ。最後にロンドンに戻って来てオックスフォードの学生街で公演になる。



ロンドンからスコットランドのエディンバラに移動だ。飛行機で1時間半位の旅になる。ロンドンから北の位置にある。
飛行機の中でルナが話しかけてくる。

「祥子は初めてよね?」
「えぇ。タータンチェックとウィスキーが有名よね」
「そうよ。それに、今だとあの小説でも有名よ」
「小説?」
「日本でもベストセラーでしょ。ロンドンのキングス・クロス駅って言えば思い出すかしら」
「あ、知ってる。私も好きで読んだわ。そっか。エディンバラのカフェで書いたって」
「そうよ。その街よ」

すっかり忘れてた。私も夢中になって読んでたっけ。
小説と映画を思い出していたら、エディンバラに着いていた。飛行機の中でリラックス出来たのは初めてだった。

ホテルに荷物を置いてから、公演会場に向かう。途中で、グレーフライアーズ・ボビーの像を見る。

「ご主人の墓の傍で14年間暮らしていたのよ」
「ご主人への忠誠と愛情ね」

ルナが説明してくれた。日本でいう忠犬ハチ公。スカイ・テリアという犬種の犬。
こんなに想ってくれるなんて…羨ましい。



劇場でセッティングの指示をだしたアーチャーさんは何故か上機嫌(じょうきげん)。ホテルに帰る間に寄り道してる。

「これこれ。ここに来たらね」

嬉しそうにウィスキーの入った箱を私達に見せた。ルナがちょっと(あき)れてる。

「お父様ったら」
「これは美味しいんだよ。後で皆で飲みましょうね」

アーチャーさんの嬉しそうな顔を見て、エドナとマリーを思い出した。

「私もお土産に買っていこうかな。友達に凄くお酒に強い人が居るんですよ」
「なら、明日も寄り道して行きましょう。いい物を教えますよ」
「お願いしますね」

ふと気がつく。アーチャーさんの「いい物」は、値の張る物だろう。お金用意しとかなくちゃ。カードでもいいけど、手持ちもなくちゃ。チップで細かいのが必要な時がある。

ホテルの部屋で財布を開けた。全部出してみる。
いつの間にか色んな物が入っていた。キャッシュカードは勿論(もちろん)だが、名刺やらレシートやら。
今度、財布とは別にケースを買ったほうがいいかもしれない。

「…まだ、あったんだ」

私がウィーンに来て、ガド爺からエリックを紹介された時のだ。
エリックと征司の住所と携帯番号が書いてあるカード。

「もう、必要ないか」

破こうとして出来なかった。少し()け目が出来たのを見てその先が出来なかった。指が動けなくなった。

カードを持ったままフルートケースの置いてあるテーブルの前にいく。カードを置いてケースを開ける。蓋裏側に挟まっている封筒を引っ張り出して開く。中に花びらが一枚入っている。
この花びらを貰ってから何日経ったんだろう。
封筒を逆さにして花びらをゴミ箱に捨てようとして出来ない。エリックは花びらをどうしたんだろう。IDカードのケースに入れていたっけ。

エリックと一緒にいたい。そう HOPE TREE に願った。私はその願いにしがみついているのかもしれない。

私はカードを花びらの入ってる封筒に入れて、元の様に封筒をしまう。
そのうち笑って捨てる日がくるかもしれない。友達のまま一緒に奏でる事が出来るかもしれない。

ロンドンで買ったジュエリーケースをカバンから出した。
フルートケースの仕掛けを外し、指輪のケースを出す。私が買ったケースに取り替えて元通りに仕掛けを閉じる。これがエリックに渡る事は無いけれど。



エディンバラからマンチェスター、そこからリヴァプールでの公演も無事に終わる。最後のロンドンに向かって列車が走る。
向かいに座るルナが私に言う。

「祥子、私ね次の最終日にシドを呼んでるの」
「あら」
「チケットを送ったのよ」
「今度は来るわよ。余程大きな仕事が無い限り」
「来るかしら」
「えぇ」
「祥子に言われると心強いわ」
「そう?」
「そう思えるのよ。祥子は私の幸せを運んでくるポストマンよ」
「それもいいわね。転職できちゃうわ」
「ね、祥子。フルート見せて」
「いいわよ」

シドのフルートを取り出してルナに渡す。ルナはそれを愛おしそうに自分の左手で包む。
それを見て羨ましくなる。

「ルナ。私が使っちゃってごめんなさい」
「いいのよ。シドの音と一緒に歌えるんだもの。ありがとう」
「分かりますか?」
「勿論よ。祥子がディズニーを吹く時、このフルートからシドの音だわ」
「シドの音そのものにはなれないですが」
「祥子の音をベースにシドの音が載ってるのよ。そうね。シドの音に深みが出たって感じがするわ」

ルナの声と合わせる時はこのフルートにしている。この音質が一番ルナの事を知っているからだ。シドから教わった音を曲に載せると、ルナは気持ちよく声を出せるんだ。それが吹いている私にも分かる。

ルナの想いは、フルートから出たシドの音で繋がったんだ。私もずっと想っていればいつか繋がれるのだろうか。静かに忘れるのを待っていたほうがいいのだろうか。フルートが…私の硝子のフルートが運んできてくれるのだろうか。

ルナからフルートが私の手に戻ってきたから、ケースに収める。蓋をゆっくり閉めた。留め金をかけて、鍵を掛けようとダイヤルに指をかける。

(ぇっ?)

突然、私の体が大きく揺れた。

「きゃぁ!」

ルナの声が響く。辺りから人の悲鳴と、金属音が響き渡った。
車内の電気が消えた。視界が奪われる。何かが上から落ちてくる。



「・・・・子・・・子・・・祥子・・祥子! 祥子!」

(ウルサイなぁ)

私の名前が連呼されてる。でも、布団の中だ。もう少し寝させて。仕事…あぁ、仕事だった。起きなきゃ。
目を開けようとしてるのに顔が引っ張られて痛い。やっと開けても目の焦点が合わない。(まばた)きの痛みに耐えながらも焦点が合ってきた。目の前に女の人の顔がある。何で青い眼なんだろう。誰だか分からなくて、ジッと見ていたら思い出せた。

「ル…っ!」
「×××××」

声を出したら顔中から痛みが襲ってきた。
ルナが何か言ってバタバタと私の前から居なくなった。一気に私の周りが静まった。
口の中が切れているみたいだ。血の味がする。手で顔を触ってみようとして痛くて動かない。手を動かすのに集中してて気づく。脚…右脚の感覚が無い。頭も痛む。自分の体なのに上手くいかない。

手が顔に触れてた。何か変な感じがする。顔にガーゼがついてる。怪我してる?
起き上がれないから、顔を動かそうとして首が固定されている。
白い天井から視線を動かしていく。窓がある。全体的に白い部屋だ。この匂い…消毒の匂いだ。

(病院? 何で?)

戸が開く音がした。近づいてくる人が居る。ルナだろう。
そう思った私の視界に男の人が飛び込んできた。この人は…えっと…シド、そうだ、シドだ。

「祥子! 大丈夫ですか?!」
「シド、痛っ!」

起き上がって迎えなくちゃ失礼なのに体が動けない。一気に喋ったら、顔の表面から痛みが襲ってきた。シドが椅子に座る。

「祥子、そのままでいいです。無理に体を動かさないでいいから」
「シド…何で?」
「列車が脱線したんだ」
「列車…ぁ」

あの揺れは脱線だったんだ。それで、今、寝ている私は?

「シド…今日…何日?」
「25日です」
「私」

所々で頭が働かない。25日って何? 何日って聞いておいて私の中では分からなかった。
そんな私を見て、シドは心配そうに言う。

「ゆっくり休むんだ。祥子、君は怪我をしたんだ。それを聞いて慌てて駆けつけたんだ。日本のご両親にも連絡してます。明日、到着すると連絡貰ってます」
「日本? …何で? ここ…日本じゃ?」
「祥子、記憶が曖昧になって…」

シドが驚いた顔をしてる。

日本って? 私、えっと。…そうだ。日本人だ。それよりも私、ドイツ語喋ってる。理解出来てる。凄いかも。じゃあ、ここは?

「シド…ここ…どこ…ですか?」
「ロンドンの病院です」
「ロン…ドン? どう…して?」

ロンドンだったら英語の筈だ。

「演奏会に呼ばれてですよ。仕事です」
「仕事…ですね。仕事…あぁ、そうだ」

一気に思い出してきた。アーチャーさんに呼ばれて来てたんだ。25日はロンドンのオックスフォードでの公演初日じゃないか。

「シド…今日の公演は?」
「残りはキャンセルです。アーチャーさんも怪我しているんです」
「アーチャーさんも?」
「はい。腕を折ってましてね。でも、祥子の怪我が一番酷いんですよ」
「どう酷いんでしょうか?」

口を動かしていたら、慣れてきたようだ。時折顔から激痛が走るけれど。

「右脚が折れてるんです」
「それだけですか? 全身痛むんですけど」
「頭を打って気絶してたんですよ。祥子は車内で立ってて飛ばされたそうですから全身打撲です。内臓は無事だそうです」
「か、顔は?」

顔面から激痛が走ってるから、酷い状態になっているんじゃ。

「ガラスで切ったのとスリキズです。祥子は、事故の時の事、思い出せますか?」
漠然(ばくぜん)としか。体が大きく揺れて、何かが上から落ちてきた位しか覚えてません」
「そうですか。でも…無事で良かった」

シドが安心した顔で、私を上から見下ろすから、ドキドキしている。
戸が開いた音が耳に届く。

「あ…シド」

ルナの声が響いた。それを聞いてシドが戸に顔を向けて固まった。

「…ルナ」

二人共その場で固まっている。私は動けない体でその雰囲気(ふんいき)を感じていた。
思い出した。私、知っている。この二人…愛し合ってる。

「シド、ルナ。感動の再会は別の部屋でお願いね」
「え? あ…あぁ、祥子。そのほうがいいね。少し一人になるけどいいかな?」

シドが私に顔を向けて慌てて言った。

「どうぞ。ごゆっくり。私は動けないから逃げないわよ」
「そうだね」

私に笑いかけて、シドが椅子から立ち上がった。

「ルナ、久しぶりだね。話したい事が沢山…あるよ」
「えぇ。えぇ。シド、私もよ」

ルナの声が聞えてきて戸が閉まる音が聞えてきた。
一人になった私は静かに思い出していく。私…苅谷祥子だ。生年月日は・・・。

まず、基本的な自分の事から。それから友達の事、仕事の事、最近あった事、昔の事。
簡単な足し算、引き算、掛け算の九九。

(大丈夫。苅谷祥子は怪我以外、無事でした。でも、後で鏡見せて貰わなきゃ)

手を布団の下で動かして、右脚に触れた。骨折するとギプスになってるはずだ。
固い感触を指先に受けた。

大腿骨(だいたいこつ)からか。…悲惨」

戸が開いて看護師と医者が入ってきた。色々と聞かれ「とにかく痛い」と言ったら、腕に痛み止めの針が刺さった。私が動けないからやりたい放題だ。「顔を見せて」とお願いしたら看護師が鏡を私の前にかざしてくれた。

「うわっ」
「右頬の切り傷は(あと)になっちゃうかもしれないわ。でも、傷が(ふさ)がっちゃえば形成外科でなんとか出来ますよ」

看護師が慰めてくれた。額には包帯が巻かれて、(ほお)(あご)には大きなガーゼがつけられ、皮膚の出ている所は鼻だけ。そこもスリキズで赤くカサブタの筋になっている。

(これ本当に治るのかな)

鏡が離されてホッとした。自分の顔をマジマジと見れなかった。
痛み止めが効いたのか眠くなってきた。うつらうつらしていたら、誰かが横に座った。

「祥子、ありがとう」

シドの声が聞えてきた。目を開けられなくて、声を出していく。

「良かった…ですね」
「祥子にお礼を」
「ん?…」

私の唇に暖かい感触が当たって離れた。

「空いてる箇所がここだけなので。許して下さい」
「良かった…ですね」
「何故、祥子は泣くんですか?」

シドの声が聞え、シドの指が私の目尻を滑っていく。

「分かりません。…でも」

何故だか、私は悲しくなっている。シドの存在は私にとって大切な気がしてる。ルナとの事を知ってるのに…何故だろう。胸が締め付けられる。
シドの指がもう一度私の目尻を(ぬぐ)う。

「祥子にはエリックが待ってますよ」
「誰?」
「エリックですよ」
「エリック? 新しく入った人?」
「祥子? …忘れてしまったのですか?」
「え? シドは誰の事を言ってるの?」

重い目をなんとか開けたら、シドが驚いた顔で私を見ている。
でも、私にはエリックという名前に覚えが無かった。会った事もない人だ。シドが誰かと間違えてるのか、私が聞き間違ってるのかもしれない。記憶が混乱する。痛みが襲い掛かる。

「シド、頭が痛い」
「今はゆっくり休んだほうがいい」
「…はい」

シドの顔が消えていった。


- #53 F I N -
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み