#56 記憶の隅 <エリック視点>

文字数 6,990文字

俺がアメリカの演奏会に出ている時に、祥子が事故に()ったのを聞いた。
テレビでも中継されてる。行方不明の乗客リストが流れる度、画面に釘付けになっている。祥子の無事を祈ってる俺がテレビの前に居る。無事じゃないと困る。このまま永久に別れるのは嫌だ。

携帯が鳴って飛び上がった。エドナからだ。

「新しい情報が入ったわ」
「祥子が見つかったのか?」
「祥子はロンドンの病院に居るわ」
「怪我、酷いのか?」
「詳しい事は入ってこないのよ。シドがロンドンに向かったわ。また情報が入ったら連絡するから」
「頼む」

祥子が見つかったと分かって力が抜けた。テレビの画面ではまだ祥子は行方不明になっているが、エドナからの連絡のほうが正しい。そうであるはずだ。

こんな時に仕事が詰まっているなんて。仕事を投げ出して祥子の傍に行きたい。祥子に全てを話して謝るんだ。祥子が許してくれたら、俺はフルートケースに隠してる指輪を取り出して…祥子に渡すんだ。

「祥子は指輪に気づいたんだろうか」

フルートケースのもうひとつの仕掛けに俺は指輪を忍ばせておいた。
買った時の事を思い出す。



祥子と付き合い始めてまだ日が浅いのに、俺は指輪を選んでいる。初めは普通の指輪を見ていた。祥子に似合う指輪。見て回っていて、祥子は演奏中、ネックレスしか身につけてない事に気づく。気が散るからって話だった。なら、指輪を贈るのならこれにしよう。エンゲージリングの並んでる前に行った。デザインで気に入ったのを出して貰う。支配人に「サイズは?」と聞かれ、祥子の手を思い出す。
分からなかったから傍にいた女性店員のサイズを出して貰う。

「多分この位…かな。あ、もう少し細かったかも。でも、入らなかったら怒るよな。おっと、失礼」

女性の視線が突き刺さったから謝った。うっかり口に出てた。出して貰った指輪に刻印を頼んで帰った。
翌日、その指輪を受け取って、余りにも早急な事をしてる自分に驚いていた。

祥子の事を全て知っている訳じゃないのに。
祥子と付き合えて浮かれているのか? 祥子が外人だから、特別に思えたのか?

「いつもの俺らしくないな。…でも、祥子が好きだ。ずっと一緒に居たい」

祥子に一目惚れしていたのかもしれない。祥子の音にも。
祥子と音を合わせていて、俺の音が惹き込まれるのを感じていた。そんな音を出せる女性が居るとは思ってなかったから驚いたのもある。

「いきなり贈ったら、やっぱ駄目だよなぁ。まだキスだけで、デートだってしてない。…夜だって」

買って来た指輪の刻印を確かめる。祥子の名前が刻まれている。指輪に付いてるダイヤだって鑑定書付だ。キラリと部屋の灯りで光らせて、指先でクルクル回した。

「日本人ってこだわるのかなぁ。征司に聞いとけば良かった」

これが祥子の指にはまる時、祥子はどんな顔をするんだろう。クルクル指輪を回しながら俺は笑ってる。

「俺は祥子と一生、一緒に居たいんだ」

次の仕事がイタリアだったのを思い出した。イタリアのミラノに有名なケース工房がある。スケジュールを確認する。ミラノに行く移動日に時間がとれる。指輪の前に祥子にフルートケースを贈ろう。そこで作るケースは頑丈だ、プロポーズに贈る一品の言われもある。祥子がそんな言われに気づかないでもいい。それを祥子が使ってくれれば。

「確か、ケースに仕掛け細工が出来る」

フルートケースに仕掛けを。祥子が驚く仕掛けを。
イメージを書き出してから、工房に連絡を取りイメージを送った。
急ぎ扱いになるから割り増し料金になったが、そんなのはいい。

イタリアでの演奏会が始まって、ミラノに移動して真っ先にケースを頼んでいた工房に行った。俺の前に置かれたケースの隅々迄確認して、祥子の名前の刻印も確認する。仕掛け細工の確認をして、指輪をケースごと仕掛けに隠した。これが祥子に見つかるのが早いか、俺が驚かせるのが早いか。



テレビから事故の状況を伝える声が聞えて来て我に返った。
俺が贈ったフルートケースを今も使っている祥子。まだ、俺は戻れるのだろうか。

アメリカに居る間、祥子の事はエドナから連絡を貰っていた。脚の骨折で暫くはロンドンで療養するとの事だった。

祥子の見舞いに行ってた征司から連絡がくる。祥子の様子を話してた征司が、言い(にく)いのか声のトーンを下げる。

「だが、ひとつ、いや、ふたつ驚く事がある」
「何かあったのか?」
「祥子の記憶が少しおかしいんだ」
「記憶がおかしい?」
「一時的な記憶喪失になってる」
「記憶喪失? でも、征司達の事は分かってたんだろ?」
「俺達の事は分かってた。だが、エリック、お前の事が祥子の記憶に無いんだ」
「え? 何が無いって?」
「エリック、お前の事だ」
「俺?! 俺の事?!」
「そうだ。名前も顔も付きあってた事すら記憶に無い」
「…」

俺が愕然(がくぜん)として声も出ないから、征司が次の話を始める。

「そして、フルートの事も忘れてる」
「…フルートも」
「祥子はバイオリンを弾いていると言ってる」
「バイオリン?」
「そう。祥子は高校の時、少しだけバイオリンを弾いていたんだ」
「高校の時? 征司は知ってたのか?」
「すまん。皆に言ってなかった。俺と祥子は同じ高校だったんだ。祥子と会って直ぐには気づけなかったんだ」
「そう…か」
「バイオリンを弾いていたんだが、首を痛めてフルートに移ったんだ」
「でも、今、弾けるのか?」
「驚く事だが、昨日、俺のバイオリンを弾いた。その音がエリック、お前の音だった」
「俺の音?」
「そうだ。お前の弾き方で「星に願いを」を弾いた。同じ音だった」
「祥子が俺と同じ音…」
「弾き終わった後で泣いてた。祥子は驚いてたけど、この音はエリックの音ってどこかで知っているんだ」
「俺の事を忘れてても音は覚えてるのか」

少しは望みがあるのかもしれない。俺の事を思いだす望み。

「フルートケースが戻って来れば、思い出すかもしれないが」
「ケースが無いのか?」
「戻ってきてないそうだ」



征司の電話の後で、俺はシドに電話をかけている。ウィーンに帰ってから休みを貰えないか頼んでいる。12月はモーツアルトの演奏会が毎日のように入っていた。楽団員が分散して小規模での演奏会をローテーションで開く。演奏会毎に曲目が変わるから練習も大変だ。俺はアメリカの仕事が12月に入り込んでいたから、帰ったらそのままモーツアルトに参加の予定だった。

「ニ日だけ休みを入れましょう。祥子の事は聞いてますね?」
「はい。征司から詳しく聞いてます。我侭(わがまま)言ってすみません」

その二日間をイギリスに。俺はウィーンに帰ってから直ぐ動ける様に手配をする。飛行機とロンドン滞在の確保だ。



ニューヨークを飛び立って、朝の9時にはウィーンに到着していた。練習所に行き、シドに報告をして、チェロのパートに顔を出し、指示を出してから一旦家に帰る。荷物を解いて、直ぐにロンドンに向かう為に仕度をする。仕度たって二日分の着替えだけ。仕事に行くより身軽だ。
仕度をしてたらコーダが部屋に入って来て()り寄った。

「コーダ。ごめんな。今、構ってやれないんだ」

俺が動く横で、コーダは座ってジッと俺を見ていた。俺が見ると嬉しそうに尻尾がパタパタ床を掃いた。俺は動かす手を止めてコーダに向かう。

「コーダ。俺、祥子と元に戻れるんだろうか」

ペロリと顔を舐められた。思わずコーダの耳を掻いている。コーダは嬉しそうに クゥ と鳴いた。

「お前も応援してくれるんだな」

コーダの首を掻いた時、思い出す。

「そういえばお前、あの時、俺を噛んだんだ」

シェリルに誘われて大学に行った時の朝だ。…祥子の誕生日。
朝、出かける前にコーダが執拗(しつよう)に俺の服を引っ張ってて、俺が叱ったら手に噛み付いてきたんだ。噛み付くったって、じゃれた感じだったから傷にはならなかった。
今迄忘れてた。

手を引っ込めてコーダをジッと見たせいか、コーダが申し訳なさそうに頭を下げて俺を見る。

「お前には分かってたのかもしれないな。「行っちゃイケナイ」って俺に教えてたんだ。何だ? お前、「そうだよ」って言ってるのか?」

グイッとコーダが俺の手を舐め始めたから、笑ってしまった。コーダの頭を撫ぜる。

「お前も祥子の事、好きだったな。俺、どうなるか分からないけど、祥子にこれから会ってくる」

飛行機の時間はまだ充分にあったが、荷物が纏まったから早く出ようと思った。空きがあれば前の便にして行ける。

コーダと一緒に一階に下りて、母さんに留守にする事を伝えた。
その時、呼び鈴が鳴った。玄関を開けたら郵便屋が大きな小包を持って立っていた。
受け取って宛名を見れば、俺宛になっている。ロンドン郊外の町からになっている。
差出人の女性の名前に覚えはない。

「何だろう」

出かける荷物を玄関に置いたまま、自分の部屋に戻る。コーダがピッタリと俺に付いて来てて、小包の匂いを嗅いで尻尾を振りながら興奮してる。

机の上に置いて包み紙を()がした。

「あ…」

フルートケースだ。泥が付いたのを拭き取った感じがする。所々にキズができてる。
俺の視線が自然と一箇所に向かう。祥子の名前が刻印されている。

「祥子…のだ」

手紙が付いているのに気づいて開く。

 突然、このケースを送りつけて申し訳ありません。先月末、イギリスのロンドン郊外で列車が脱線した事故をご存知でしょうか。私はその事故のあった町に住んでいる者です。
昨日、その事故のあった場所を通りかかった時に、このケースを私の犬が見つけました。落し物だと思い、家に持ち帰りました。鍵が掛かってなかったので、中を確認しました。外の刻印と中の硝子のフルートでこのケースの持ち主が、フルート奏者、祥子・苅谷の物だと分かりました。列車事故に遭われたと聞いております。
ですが、既に事故捜査も終わっており、彼女の所在が分からず、どこに届ければいいか迷っていたところ、ケースの中にあなたの住所が書いてあるカードを見つけました。
警察に届けるより、ウィーンのあなたに届けたほうが彼女に戻るのが早いと思い、送った次第です。このケースを彼女にお渡し下さい。


手紙を置いてケースを見る。
ケースにキズは出来ているが、潰れてなかった。ゆっくり留め金を外した。
手紙に書いてあった通り、鍵がかかってなかったから開いた。

中には硝子のフルートが収まっていた。壊れてなかった。綺麗なまま入っていた。そして、封筒。祥子に尋ねたら「内緒」って教えて貰えなかった封筒だ。

封筒を取り出して開けた。中からカードと花びらだ。

「これ…あの時のだ」

俺のIDケースにもまだ入っている。祥子と約束した花びらだ。俺のはもう色あせてる。
カードは俺と征司の番号と住所が書いてある。初めて会った時に渡したカードだ。
カードに破れ目があった。破こうとして出来なかったんだ。
封筒を元に戻す。

フルートケースの仕掛けを外す。一段目を外す。二段目に入ってるフルートが祥子のフルートじゃないのに気づいた。どういう意味かは分からないが、今は気にしないでおく。
一段目の裏の仕掛けを外す。
裏底に指を滑らして穴に引っ掛けて引っ張る。底板が外れ、カタリと小さい箱が転がり出てきた。

「あれっ?」

俺が忍ばせた箱じゃない。違う箱が出てきた。

「祥子は見つけてたんだ。でも、これは」

蓋を開けて俺は固まった。

「祥子…この意味は…」

箱にはロンドンの店の刻印があった。事故に遭う前に買ったんだ。

「祥子はまだ俺の事…なのに忘れるなんて」

パタンと蓋を閉じて箱をポケットに入れた。フルートケースを閉じて持った。
荷物がひとつ増えた。



空港で2便も早い飛行機に乗れた。ロンドンに着いてそのまま祥子の居る病院に向かった。
病室の前で戸を叩こうとして留まる。中でバイオリンの音が響いてる。防音になってるから小さく耳に届いてきていた。祥子には聞こえないだろうけど、戸を叩いた。ゆっくり戸を開けて病室に入った。戸が閉まった音にすら気づかないで祥子がバイオリンを弾いていた。

ホルスト 組曲『惑星』

俺と祥子が最後に合わせた定期演奏会の楽曲だ。それを祥子が弾いている。その音に驚く。征司が言ってた。この音の創り方は俺と同じ…。時折、弦が引っかかる感じがあるが、この音なら楽団の中で弾くには充分すぎる。

「ぁ…痛っ」

祥子がバイオリンを肩から外した。ゆっくりと首を動かして、俺に気づき驚いて俺を見た。

「あの…何か?」
「(え?)」

征司から聞いてたのに、祥子のこの反応に俺は立ちすくんだままだった。祥子は俺が黙って祥子を見てるから、少し怪訝(けげん)そうな表情で口を開く。

「病室、間違えてませんか?」

我に返った。だけど、どう言ったらいいのか分からなかった。

「どうしました?」
「え…あ、あの。…祥子。お、俺、エリック。エリック・ランガーです」

初対面の挨拶になった気がする。祥子が息を呑んだ。俺を見てた祥子の視線が大きくアチコチに揺れた。そのうち手を口にあてて視線をバイオリンに落とした。

「ごめんなさい。あなたの事、シドやミリファから聞いてるの。でも、ごめんなさい。…覚えてないの」

祥子は俺に視線を戻して、思い出そうとするように俺をジッと見た。

「気にしないでいいよ。無理に思い出そうとすると頭が混乱するんだろ? そのうち思い出せるかもしれないから。今は初めましてでいいよ」

そう言ったら、祥子が笑った。

「初めまして」

祥子の右手が出されて、俺は手を合わせた。その手を離したくなかった。抱き締めたかった。だけど、我慢した。手を離して椅子に座る。
祥子がバイオリンをサイドテーブルに置いた。

「祥子はバイオリンも弾けたんだね。いい音だった」
「ありがとう。でも、私、ずっとバイオリンを弾いていたのよ。私のバイオリンが無くなっちゃったから、アーチャーさんに貸して貰ってるの」

そう答えてから、祥子は首筋を(さす)った。

「首が痛むのかい?」
「バイオリン弾いてると痛むようになったの。きっと事故の影響ね」
「大丈夫かい?」
「…え? …あ」
「ご、ごめん!」

自然と祥子の首筋に手を当ててた。祥子が赤くなって俺を見たから、大慌てで手を離した。

「あ、祥子、祥子にこれを持って来たんだ。俺の家に届いたんだ」
「届いた?」

フルートケースを祥子に渡す。祥子は普通にそれを開けた。

「あら、フルートね。これ誰の? 硝子なんて珍しいわ」
「これは祥子のなんだよ」
「私の? やだわ。私が吹ける訳無いじゃない」

そう言いながら、祥子は仕掛けを外して二段目を出した。金属のフルートを見て動かしてた手を止めた。

「あぁ。思い出したわ。これシドのよ。シドのフルートを預かってきたのよ。これでルナの前で吹いてくれって。吹いてくれ…? 吹いたの? 私、吹けないわ。吹いた事なんて無いもの」

祥子は混乱したのか、両手で頭を押さえてる。何かに気づいたのか両手が離される。

「そう。そうだわ。これをルナに見せてくれ、ってシドに言われて持ってきたのよ。ケースごと。これ、シドのケースよ」

そう言いながらも、祥子は一段目の裏底を気にしてる。指を引っ掛けて底板を外した。
そこにあった物は俺のポケットの中にある。
何も出てこないからか、祥子は動揺している。ふと俺が見てるのに気づいて誤魔化す様に笑った。

「あら、やだ。私ったら何してるのかしら。こんな仕掛け…どうして知ってるのかしら…」

外した底板を見ながら祥子は驚いている。

「これはシドのなのよ」

そう言いながら底板を戻し、元の様にフルートケースを閉じた。鍵もかけた。
いつもの様に、身についてる動作なんだ。

「そこに置いて貰えるかしら」
「あぁ」

祥子に言われてフルートケースをサイドテーブルの横に置いた。

「祥子、明日もここに来ていいかな?」
「大歓迎よ。一人だとつまらないのよ。脚だけで他は元気だから」
「良かった。何か食べたい物あったら持ってくるよ」
「そう? なら冷たい物が欲しいわ。ジェラートが食べたい」
「じゃ、ご希望に添う様に致しましょう」
「ありがとう。楽しみにしてるわ」

祥子の笑顔が俺に向けられ、俺も嬉しくて笑ってる。

「下迄送るわ」
「無理しなくていいよ」
「大丈夫よ。もう松葉杖のプロなんだから。って、これに慣れなきゃ駄目、ってお医者様から言われてるのよ」

俺が止めるのも聞かずに、祥子は無事な脚をベッドから下ろして、松葉杖に手を掛けてる。

「右脚は棒みたいよ。よいしょっと」

ゆっくり立ち上がって、大丈夫よ、って俺を見た。
エレベーターで下に降り、入り口迄一緒に来た。

「あら。雨降ってたのね。きゃっ!」
「祥子!」

運び込まれた雨で床が濡れていて、松葉杖の先が滑って祥子の体が揺れた。咄嗟に俺は祥子を抱え込んだ。祥子からあの香りがする。これは、祥子の香り。

「祥子、大丈夫?」
「…」
「祥子?」

俺が抱え込んでる中で、祥子が大きく息を吸い込んだ。

「…懐…かしい」

小さく祥子の声が耳に届いた。ゆっくり祥子の顔が俺を向いた。俺を見て何か言いたそうな顔をした。口が開くけど言葉に出来ないようだ。祥子の視線が大きく揺れ始める。

「何か…分からないわ。でも…。あ、どうもありがとう。大丈夫よ」

ゆっくり祥子を立たせた。松葉杖をしっかり床につけた祥子が俺を見て恥ずかしそうな表情を見せた。

「明日、待ってるわ。…エリック…ありがとう」
「祥子、また明日」

タクシーの中で嬉しくなっている。祥子が俺の名前を呼んでくれた。


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