#4 ホーム シック <祥子視点>

文字数 2,656文字

頭に冷たい感触を受けて気がつく。

 ゴホッゴホゴホゴホ

喉が違和感を訴えて咳こむ。頭の冷たい感触が無くなった。それもそのはずだ。仰向けで咳込みは辛い。体を縮める様に横向きに丸まって、力一杯咳込んでいたりする。冷たい感触の物は頬の下にある。

「大丈夫か?」

(えっ?!)

体が凍りついた。私の耳に言葉が聞こえた。私が寝ているここに…誰か居る。男の人の声だ。日本語じゃない気がした。私の背中側に誰か男の人が居、居る。
私、何してるんだろう。
布団に気づく。
この布団、私のじゃない。家の布団の匂いじゃないし、少し薄手だ。枕だって感触が違う。丸まってる体を布団の下で伸ばす。体がだるい。そっと布団を下げていく。布団の外は明るい。家じゃない。ラブホテルでもない。
なら、この男性の声は?
大きな窓が見えた。カーテンが半分閉じている。窓から空だ。
ここは…どこだ? 声の主の部屋?

視線をゆっくり動かしていく。白い壁に絵が掛かっている。テーブルの上に花束が沢山載っている。その隣にフルートケースが置いてあった。

(そうだ。ここ、ウィーンだ。私が滞在しているホテルの部屋だ)

「祥子、大丈夫か?」

男性の声が聞えてギクリとしたけど、今度は聞き取れた。英語だ。

「うん」

ひとまず答える。この男性は何で私の部屋に居るのだろう。私、変な事しちゃった?
でも、この体のだるさは風邪だ。それに、体は何もされていない。

(誰?)

私の背中に居る男性が動く音がする。私に近づいてくる。体が強張る。何かされたら抵抗出来るのだろうか。

「ヒッ!」

変な声を上げてしまった。後ろから男性の手が伸びてきたのが視界に入ってきたと思ったら、私の額に触れたからだ。
男性が静かに笑った気がする。

「まだ熱が高いな。タオルとるよ」

そう聞こえたら、私の顔をずらして、頬の下にあった濡れたタオルを探し当てる。目の前に男性の手がある。細い人差し指の第二関節が固くなっている。それが分かった。
それを見たからか、その手の持ち主への警戒心が無くなった。不思議な気持ちだった。

タオルを濡らしている音がする。濡れタオルなんて日本と同じだ。日本と…。

 ゴホッゴホゴホゴホ

体が丸まる。辛い。
英語だって半分位しか通じないトコで風邪になって、私、何やってるのだろう。
心細くなった。日本が恋しい。家が恋しい。

「日本に帰りたい」

日本語が口から出ていった。

 ピチョン

水の音が響き渡った。

「祥子、上向いて。タオル乗せるから」

外国では親切で騙される事がある。頭を過ぎった。でも、傍に誰か居て欲しい気がしてきている。私を名前で呼んでくれる、この人が誰でも構わない。

言われるまま、恐る恐る上を向く。声の主の顔が眼に入る。

「あ、エリック」

知ってる人だった。鼻筋の通った青年。笑うと学生でも通用する気がする。ここに来て、結構喋ってるのに、声で気づけなかった。
エリックが私のおでこに濡れタオルを乗せてくれた。

「俺って気づけなかった?」

エリックが少し拗ねた表情で私を見た。

「ごめんなさい」
「いいさ」

謝ったらエリックが笑う。その顔を見てたら私の中が(ゆる)んだ。

「私…日本に帰りたい」

英語で言ったからエリックに通じた筈だ。なのにエリックは何も言わないで私を見る。ゆっくりエリックの手が動く。タオルの上にエリックの手が乗った。

「ホームシックになっちゃったか」

エリックの声が私の耳に届いた。エリックの声って低いんだ。こんな時だから気づけたんだと思う。普段は、英語を聞き取らなくちゃ。英語で話さなくちゃ。で、声には注意を向けられなかった。今は言葉が音として耳に入って来る。英語で喋る事に構えなくても大丈夫だ。

「家に帰りたい」

答えはノーだって分かってるけど言いたかった。エリックが口を開く。ノーと出てくるんだろう。エリックの手が離れる。

「祥子はウィーンに来る時、怖かった?」

こんな事を聞かれるとは思わなかった。私が答えないから聞き方を変えてくる。

「ガド爺に呼ばれた時、どう思った?」
「わ、私、嬉しかったけど、怖かった。そう。怖かった」
「どの位、怖かった?」

ガド爺からの依頼を承諾した時を思い出してみる。
ウィーンでの公演。私の音が海外に流れる。北見先輩と同じウィーンで! 嬉しい!
その嬉しさが、出国が近づいてきて薄らいでいった。怖さが出てきた。
ウィーンは音楽のメッカじゃないか。私の音が通用するのだろうか。日本で絶賛されても、海外で受け入れられない事もあるんだ。私の音は…。

「半分、怖かった」
「今は?」
「今…」

エリックがテーブルの上にあった新聞を持って来て、ベッドの横に椅子を引き寄せて座る。
新聞を捲っていき、指が止る。

「昨日の事が載ってるんだ。読むよ」

エリックが文面を読んでいく。

 「ボレロ」最終日。バレエの音楽としては出来がはっきりと分かる楽曲であるが、三日間全て大成功で終える。最終日の出来は絶賛するに値するものであった。終演後、祥子・苅谷が奏でた「家路」の音は、観客の心に深く残る音であった。追加公演後、日本に帰してしまうのは惜しい逸材である。祥子の今後の活動は公表されていない。次回はソロを期待したい。

エリックが新聞から顔を上げる。

「どう? 次回はソロを。って」
「う、嬉しい」

素直に答えた。私のソロが期待されている。私の音は認められたんだ。
エリックはそんな私を見て笑う。

「そうだろ。君の音が音楽の中心地、ここウィーンで認められたんだ。ここで認められたって事がどういう意味を持つか分かるよね」
「えぇ」
「祥子は世界で通用するフルート奏者になったんだ」
「そ、そうかな?」
「そうさ。ちょっと気分転換になったかな?」
「…うん。うん」
「俺も、祥子の音が好きだ」
「ありがとう」

エリックが時計に眼を走らせて椅子から立ち上がる。

「俺、行かなきゃ。明日、定期演奏会なんだ。祥子に聴きに来て欲しかったんだけど」
「今日中に治すから。聴きに行く」
「無理しちゃ駄目だよ」
「聴きに行きたい」
「じゃ、早く治るように」
「 ! 」

エリックの顔が近づいて唇が触れた。いきなりで、避ける事も叩く事も出来なかった。

「他の人に移すと治るんだよな。俺、祥子に聴いて欲しいから」
「エ、エリック…」
「ルームサービス頼んでおくから、ちゃんと食べるんだぞ」
「う、うん」

私は布団を口まで引き上げたまま、エリックが部屋から出て行くのを見送った。

ドキドキしていた。久々に男性からキスを受けた。単なる挨拶と同じだろうけど、ドキドキしていた。

小娘じゃないのに…酸いも甘いも知っている…筈なのに。


- #4 F I N -
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