#20-1 娼婦 <祥子視点>

文字数 9,660文字

「これ練習しましょう」

マーラー 第9交響曲の楽譜を叩いて皆を促した。

「今回、私はピッコロ担当です」

リサが言った。私はピッコロも(まと)める事になる。
椅子を円形に並べて向き合う様に座る。

この曲は指揮者によって色々な解釈になる。全体的に重暗い感じを引きずりながら時折明るさを引き寄せる。そんな曲だ。

カルシーニ・バッソは初めて会う指揮者だ。どんな伝え方をしてくるのだろう。
まずは、曲のイメージ合わせだ。
皆に聞いたらこの曲のイメージは死の恐怖との凄絶な闘い。楽譜と皆の演奏を聴いて私もイメージを固めていく。
三人共技術は文句のつけようが無い。さすがこの楽団に居るだけある。
ただひとつ。三人それぞれが無機質に聞こえる。譜面通りでイメージが合っている。それだけだ。
シャンドリーが遅れ気味のように感じる。

「ありがとう。イメージが分かりました。シャンドリー、ここの部分遅れるから耳で聴いて合わせて」
「はい」
「じゃ、皆で合わせていきましょう」



練習を終えても私には残りの曲がある。小部屋に入って楽譜を整理していく。

モーツアルト フルート四重奏曲ニ長調

この曲は明日の夜に練習が入っている。この曲は楽しく吹ける。だけど、こっち。

バッハ 無伴奏フルート パルティータ イ短調

無伴奏なのは構わない。ただこの曲が嫌い。練習曲として使われるからよく吹いていた。単調なメロディーが続くんだ。
短いけれど4つの楽章で出来ている。

アルマンド (Allemande) コレンテ (Corrente) サラバンド (Sarabande) ブーレ・アングレーゼ (Bourree Anglaise)

どんな情景でも載せれるけど。

「どうしてこの曲なんだろ」

リサが言ってた音楽のABCも知らない人が聞きにくるのに。
クラッシックに係わってるか、(つう)の人じゃないと分からない曲だ。
フルート四重奏にしたって同じだろう。第9交響曲はサビの部分でわかるだろうけど。

「カルシーニ・バッソって人は私に何を期待してるのだろう」

嫌いだろうが苦手だろうが練習しなきゃならない。

 ♪~♪♪♪♪~

 トントン

小部屋の戸が叩かれた。

「はい」

戸を開けたら小柄な男性が立っていた。

「ミス苅谷、私カルシーニ・バッソね。フルートと楽譜全部持ってついてくる」
「あ、はい」

カルシーニが身振りで伝えてきたから、言われた通りにする。
練習室に連れてこられた。

「ミスター バッソ。祥子・苅谷です。宜しくお願いします」
「私、英語苦手。だからドイツ語混じる。OK?」
「OK」
「マーラーから始める。吹いて」
「はい」

私が吹いていくと、度々中断されてバッソの要求が入ってくる。ドイツ語でも楽譜に書かれてる単語なら分かるから、注意された箇所に記入していく。カルシーニは無駄話も何もせず伝えてくる。

「ここまで」
「はい」

スタスタとカルシーニがCDプレーヤーを持ってきて再生する。

バッハ 無伴奏フルート パルティータ イ短調 が流れ出す。

「君の好きな様に」
「え?」
「私は指揮しない」
「しない?」

カルシーニが頷いて言葉をつなぎ合わせてるみたいに黙ってから口を開く。

「今、君がどう言われてるか知ってるね?」
「は、はい」
「楽団の汚点だ」
「…すみません(私のせいじゃないのに)」
「音で消したまえ」
「消す?」
「そう。君の音でしか消せない」
「…はい」
「私が手助け出来るのはマーラーとモーツアルトだけ」
「…」

どうしたら?とは聞けなかった。カルシーニは私を良く思ってない。ただ楽団の為に動いているのが私に対する物腰で分かったからだ。

「モーツアルトは明日。イメージは娼婦(しょうふ)
「娼婦?」

それって…。カルシーニが鼻で笑った感じを受けた。

「本当に欲しいのは真実の愛」
「真実の愛?」
「だから私は誘われても動かない」
「…(誰とでも寝る女じゃないのに娼婦?)」
「明日の君の音を楽しみにしてる」

カルシーニが部屋を出て行って、残された私が考え込んでいたら部屋の戸が開いた。

「祥子。終わった?」
「ミリファ。もうそんな時間?」
「そうよ。ゴハン食べて帰ろ」
「うん」

ミリファと一緒にご飯を食べながらカルシーニに言われた事を話していた。

「カルシーニが個別で練習つけるなんて珍しいわよ」
「楽団の汚点なんて言われたのよ。よっぽど私が嫌いなんだわ」

愚痴になっている。

「ふ~ん。あの人楽団の名誉を重んじる人だから。陰険な人じゃないんだけどね」
「そう? 「音で消したまえ」なんて全曲フルートばっかりじゃない。私に何を期待してるのか分からないよ。それにモーツアルトのイメージは娼婦って言うし」
「娼婦?」

ミリファが驚いて聞き返す。私は持ってたフォークを握り締めちゃってる。

「そうよ。娼婦って言った。私がそう書かれたからこれ見よがしに」
「祥子、落ち着いて。でも娼婦なんてどうすんのよ。バイオリンは征司。チェロはエリック。ヴィオラはヘンリー。あら。みんな男だ」
「うってつけよね」
「まぁまぁ」
「「本当に欲しいのは真実の愛」「だから私は誘われても動かない」なのに娼婦よ。何が何だか分からないわ。なのに「明日の君の音を楽しみにしてる」なんて言うのよ」
「ふ~ん」

ミリファがテーブルを指でトントン叩きながら考え込んでいる。
その叩く音が止んで私を見た。

「祥子そのままじゃない」
「わ、私? 私、娼婦じゃない! 誰とでも寝ないわよ! 誘ってなんかないわよ!」
「分かってる。そう言う風にとっちゃ駄目」
「え?」
「祥子の噂はでっちあげでしょ?」
「そうだけど」
「でも、周りにいるのは男性が多い」
「そりゃ」
「普通に接してても娼婦に見られちゃう。本当の私は、って事よ」
「本当の私?」
「そうよ。あの曲は青春の淡い恋って感じなんだけどね。大人のエグイ愛って感じになるのかしら」
「エグイ愛?」
(さわ)やかじゃないわよね。ドロドロか」
「この曲吹いたら一生エグイ愛と過ごす事になりそう」
「あははは。ごめん、ごめん」



自分の家に初めて帰ってきた。他の家の窓に灯りが点いていたから、誰かに会うかと思いドキドキしたが誰にも会わなかった。
ご飯の後にミリファが車を出してくれて一緒にシーツとか生活必需品を買いに行った。
水は綺麗だとは言われてたけど、買ってきた。冷蔵庫に入れなきゃ。
暫くの食料も買出ししてきた。

部屋の中をじっくりと見て歩き、自分の荷物を開く。
まず携帯の充電。変換プラグも持って来てる。
服を出して行く。色々持ってきてたんだな。整理してたら寂しくなった。
猫のぬいぐるみをギュッと抱きしめる。柔らかい肌触りに癒やされる。
テレビを点けたけどドイツ語が流れてきたから消す。
携帯に入れてきた音楽を流しながら日本語が懐かしくなってくる。

(私はしょっぱなイジメラレテいます)

ホームシックになっている暇が無かった。
モーツアルトのイメージを作らなきゃならない。シャワーを浴びて、フルートの手入れをしながら「娼婦」のイメージを作っていく。

難しい。「娼婦」と「私」。

ミリファのヒントが頭の中にあるけど、どう表現したらいいのか分からない。
譜面を眼で追い駆けながらイメージを作っていく。
征司の音とエリックの音、そして初めて合わせるヘンリーの音。

「あっ、征司とエリックに挨拶するの忘れてた」

ミリファが征司に言ってるはずだ。そうすると征司からエリックが聞いてるはず。

「どうしよう。電話…ダメ。明日会うからその時でいい」

通話履歴を表示しちゃってる。エリック・ランガーって表示が出てる。

「今は、ダメ。色恋ザタは忘れてなきゃ。また何て書かれるか」

雑誌の記事が思い出されてきた。
お母さんが読んだら卒倒しそうだ。
携帯をテーブルに置いて気持ちを落ち着けてから譜面に集中する。



新しいベッドだったから熟睡出来なかった。もぞもぞと起きて窓をあけると朝焼けの街並みだ。商店街から離れているから静か。

「結局分からなかった」

娼婦のイメージからそれを否定するイメージに持って行く。そこが掴めないままだ。私に置き換えてしまうと、怒りが表に出てしまう。

 そんな事してない。そんなでっちあげするな。

「怒りがでちゃ駄目だよ。真実の愛が欲しいなんて…欲しいけど」

パンと目玉焼きで簡単な朝食にする。
食事は実家だったからお母さんが作ってくれていた。公演の時は食べにいけば良かった。
これからは自分で作る朝食が繰り返されるんだ。

「お母さんってすごいなぁ。熱っ!」

それを直接言えば良かった。離れてみて初めて分かった。娘は料理で苦しんでいます。

「カップ麺を大量に送って貰おうかな」

もう()を上げてちゃイケナイな。いやいや、何かあった時の非常食と言う事で。

時報が鳴って片付けて、練習所に行く準備をする。暫くの間、ミリファが迎えに来てくれる。
下の玄関に来たと呼び鈴が鳴ったから「すぐ行く」と言って、家を出た。鍵を掛けてたら、隣の家の玄関が開いた。女性が出てきた。

「もう越してきたのね。ミス苅谷だっけ」

英語の出来る人で良かった。でも、私を見てクスリと笑った。

「宜しくお願いします」
「あら、ごめんね。私、エドナ・ウェインよ。ここの奥の住人も女性よ。1階は男性だけどね」
「皆、楽団のかた…ですよね?」
「そうよ。皆、事務ね。企画とかもしてるのよ」

一緒に階段を下りて下の玄関を開けたら、ミリファが少し不機嫌な顔。

「祥子、遅~い! あ、エドナ、おはよう」
「おはよう。ミリファがお迎えなのね」
「そうよ。祥子が慣れるまでお友達兼ガイドなの」
「なにそれ」

エドナが眼鏡を持ち上げて笑った。ちょっと堅物そうな女性に見えたけど親しくなれそうだ。

「祥子、エドナは遅刻にウルサイのよ。気をつけなきゃだめよ」
「分かった。気をつけるわ」

エドナが私をジッと見て口を開く。

「祥子、お噂はよ~く聞いてるわよ。でも、シドがその件については根も葉もない事だからって事務所の人間には言ってるから大丈夫よ。認めたら楽団の名誉にも係わる事になっちゃうからね」
「すみません」
「あら、謝らなくていいのよ。日本人は謝りすぎよ。征司もそうだったけど」
「「征司も?」」

ミリファと声が合って笑ってしまった。

「そうよ。でも、謝ればいいって考えは良くないのよ」
「はい。すみま…。あ」
「言ってる(そば)から」

エドナに笑われて反省した。確かに謝るのが簡単で使ってた気がする。

「だけど、火の無いところに煙は立たないのよ。気をつけなさい」
「はい」

キラリとエドナの眼鏡が光った。



練習所に着いてまず、IDカードをかざし、パートの皆の予定をチェックする。休みとか、どこかに公演に出かけたりするからだ。

午前中から音を合わせていく。

「シャンドリー遅れてる」
「はい」
「小節毎に注意して」
「はい」

出だしで半テンポ遅れるのは何でだろう。
リサの音が外れてきた。リサは年上だから強く言っていいのか迷ってしまう。

「あの、リサ」
「何?」
「音が外れてる」
「あら。気をつけるわ」

暫くしてまたリサの音が外れてくる。

(さっき言ったけど…言ったから大丈夫よね)

続けていく。リサの音が外れたままだ。横のアガシが口を開く。

「リサ、音が外れてる」
「あらら。ごめんなさいね」

リサが私を見る。

「祥子も気づいてましたか?」
「え…あ、…はい。さっき伝えたから直るかと思って」

言い訳めいてた。リサがキッと私を睨むように見つめた。

「祥子、そう言う事はその時にビシッと言って下さい。何を遠慮してるの。外れたまま練習してたって時間の無駄でしょ。あなたがここのリーダーなんですよ。もっとウルサイ位文句言っていいんです。優しいダケじゃ駄目よ。私達だって祥子の音が悪かったら言いますよ」
「はい。分かりました」

リサに怒られてたじろいでしまった。パートを(まと)めるって初めてだから。…言い訳だ。

休憩にして、私はミリファの部屋を訪ねる。丁度、ミリファも音あわせをしていた。

「どうしたの?」
「ちょっと練習見てていい?」
「いいけど」

部屋の隅に椅子を貰って座る。私を興味津々(きょうみしんしん)に見る視線が痛い。

「はい。続けるわよ」

ミリファの声でクラリネットの音が響き渡る。
途中、音が飛んだ。ミリファの耳はそれを聞き(のが)さなかった。

「また! 何度言わせるのよ。ここはタッタ タタでしょ! 15分個別!」

ザワッと部屋の中が動いて、ミリファが私の所に来る。

「個別って?」
「個別練習よ。各自の見直し時間。で、どうしたの?」
「パートを纏めるのってどうやったらいいのか分からなくて」
「気づいたらガンガン言うのよ」
「直ぐに?」
「遠慮しちゃだめよ。パートの音はトップの責任なんだからね」
「そ、そう」
「他見てみる?」
「うん」

ミリファにつれられてオーボエ、トランペットを見て歩く。言い合いをしてた部屋もあった。

「イメージが違う時は、ああやって言い合うのよ」

ミリファがそっと戸を閉めて言った。
そのままミリファは私の見覚えのある部屋に私を連れて行く。チェロ…エリックの部屋だ。そっと戸を開ける。

チェロの音が響いていた。この音はエリックの音だ。エリックの音を皆が聞いている。

「ここは一人ずつ聞きあってから纏めるのよ」

いろいろやり方があるもんだ。エリックがこちらを向く前に戸が閉められた。少し残念な気がしてる。

「ヴィオラのヘンリーを教えてあげる。こっちよ」

隣の部屋をそっと開けたミリファが私を手招きする。部屋の中から怒鳴り声だ。ミリファが通訳してくれる。

「全く、何年弾いてんだ。ビブラートの揺れを合わせる位出来ないのか?! お前暫く弾くな。そこで聞いてろ」

ヴィオラの音が響いてきた。私はその声の主に視線を飛ばして固まってる。戸が閉まり、ミリファの声が耳に入る。

「あら。娼婦の次のターゲットはヘンリーかしら?」
「えっ? あ、ミリファ!」
「ごめん、ごめん。確かにいい男だけどね、あれは彼女持ちよ」
「そうだろうねぇ」

映画から抜け出てきた俳優かと思った程、端整(たんせい)な顔だちだった。

「征司は午後からだから行っても見れないわね」
「ありがとう。参考になった。私なりにやってみる」
「頑張ってね」

部屋に戻りながらミリファに聞いてみる。

「目上の人に対しても同じにしていいの?」
「いいのよ。トップだもの。音に関しては立場は一緒。人間的な事は目上をたてるわよ」
「うん。分かった。それと、私の相手ばかりで征司のほうは」
「大丈夫よ。お昼一緒に食べてるからね」
「良かった」
「じゃ、またね」
「ありがとう」



フルートパートの部屋に戻ると個別に練習していた。
リサの所に近づく。

「リサ。私の音と合わせましょう。でも、私の音を良く聴いて。私もリサの音を聴くから」
「分かったわ」

 ♪~♪♪♪~♪♪

私とリサの音が響き出して、アガシは音を止めて聞き始める。

「気づいた事があったらどんどん言って」

アガシが頷いて時折口を挟んでくる。

私はリサの音を惹き寄せながら音の外れを直していく。ピッコロの音はフルートよりも高い。小鳥のさえずりに相応(ふさわ)しい。こんないい音色が死神の誘いなら付いて行っちゃいそうだ。これを死の恐怖の音にしなくてはならない。
リサの音が私の音と合ってくる。イメージが重なって情景が動き出す。

 迎えに行くぞ。お前の魂を。

日本の昔話を思い出す。
血の池で上がろうとすると鬼が棒で池の中に沈めるんだ。針山を歩かされて頂上に着く直前に鬼が転ばせて下迄落とすんだ。おっと、それは死んでからの話だ。

 いつでも狩りとってやるぞ。お前の魂を。

「あぁ。祥子の音に合わせるのって楽しいわ。死神なのに恐怖が楽しい」
「そう? リサが私の音を聴いて反応してくれるからよ」



次はシャンドリーと合わせる。
やっぱり出だしに躊躇(ちゅうちょ)しているのか遅れる。だけど、私の音を聴き取ってくれる。直ぐイメージが重なってきた。情景が動く。

 お前の魂は美味しそうだな。私が行こうか? お前が来るか?

「祥子と合わせると、僕のイメージが湧いてきます」

翻訳アプリごしだけど嬉しくなる。

「ありがとう。イメージはいいわ。でも、やっぱり出だしが遅れるわよ」
「はい。直します」



午前の練習が終わりフルートを片付けてたらリサが近づいてくる。

「祥子、お昼一緒しましょ」
「はい」

リサに連れられて建物内にあるカフェに着いた。

此所(ここ)だったら安いからね。外よりも気軽でしょ。祥子にとっても」
「ありがたいです」

席に着いて食べ始める。リサが話し始める。

「祥子が入って来て私も嬉しいのよ。英語が喋れるって嬉しいの」
「あ、それ分かります。私も征司と日本語で喋ってると嬉しくて」
「そうよね~」
「リサはここに入ってからドイツ語覚えたの?」
「そうよ。私はこの国にバカンスで来た時に、ここでフルート奏者募集してたから応募したら受かっちゃったって人間」
「えっ? ええ~?!」
「何驚いてるのよ」
「だって、バカンスで来てたんでしょ。遊びに来てて何で」
「就職先決まってなかったんだもの」
「…」
「ここのフルート貸して貰って試験受けたら合格しちゃったのよ」
「合格しちゃったって。でも、書類とか」
「そんなの後から送りますって。とにかく音聞いて頂戴って押しかけたの」
「…たくましい」
「そう?」

驚いてる私を見てリサはケタケタと笑う。

「確かに異例な事だったけどね。音が認められたのよ。ピッコロも任せてってセールスポイントもあったしね」
「そっか。ピッコロね」
「ラッキーだったのよ。でも、そこからが大変よ。ドイツ語覚えて旦那こっちに呼んで」
「旦那? リサって結婚したのいつ?」
「大学の4年だったわ」
「えっ?! (学生結婚!)旦那さんも同じ歳なの?」
「旦那は5つ上よ。助教授だったの。今はこっちの大学で教鞭(きょうべん)振ってるわよ」
「そ、そう」

驚きすぎて唖然(あぜん)としてしまった。

「ただねぇ、息子がドイツ語ペラペラなのが気にくわないわ」
「英語じゃないの?」
「こっちで産んでるからね。そのうち英語も教えてやらなきゃ」

リサの事が分かった気がする。そんなリサが少し頭を下げる。

「申し訳ないんだけど、時間になったら帰るのは覚えておいて下さいね」
「あ、はい。分かりました」

家庭も大事にしてるんだ。

「だから、私の居る時間は無駄にしないで、気づいたらバシバシ言って頂戴」
「じゃ、遠慮なく言わせてもらいますね」
「そうよ」

午後の練習に戻ろうと席を立ったらエリックの姿が眼に入った。傍に征司とミリファも居た。ミリファが私に気づいて手を上げたから、私も軽く手を上げる。エリックが笑った。

「祥子はエリックの事好きなのね」

リサの声が聞こえてきて大慌て。

「やだ。リサったら何言うの!」

リサを見ると、笑って私の顔からエリックに視線を移した。

「エリックはいい子よ。才能がある羨ましい子。祥子はいい子に眼をつけたわね」
「リサ! 私、ま、まだ分からない。エリックの事、好き…かなんて」
「エリックと付き合うと音が伸びるわよ。って、これは余談ね」
「えっ?」
「エリックだってずっとヒトリって訳じゃないのよ」
「そう、よね」

リサが顔を私の耳に近づけて小声で囁く。

「祥子、安心して。この楽団内にはいなかったから」
「えっ。リサ?!」
「私みたいに古株だと何でも情報は入ってくるのよ」
「怖い。リサったら怖いよ」
「そう?」

(お局様(つぼねさま)! リサはこの楽団のお局様だ!)

大笑いしながら私の前を歩いて行くリサの背中をみて、そう思っていた。



午後も引き続いての練習だ。
今度はアガシと合わせていく。洗練されている音を出す人だ。
この音を私の音に惹き寄せようとして失敗した。ジッと立っている死神のまま。
リサとシャンドリーの音は惹き寄せられたのに、アガシの音はイメージは合うのに寄ってこない。
ランスがトップの時に情景を乗せるのを()めさせられたか()めたのか。
音を()めて確認する。

「ランスが怖かったの?」
「「「 ! 」」」

アガシとリサとシャンドリー、三人が同時にうろたえた。

「アガシはセカンドだからモロに影響受けてるのね」
「ぇ…どうして分かる?」
「リサとシャンドリーの音は、私の音に惹き寄せたら死神が生きたのよ」
「…俺は?」
「アガシの音は私の音に寄ってこない。死神が死んでるの」
「死んでる?」
「変な表現だけど情景が固まってるの。動かないの」
「音が合ってれば…観客は誤魔化せる」
「私はそんなのは嫌。…だって」
「 ? 」
「追加公演の時の音、後悔したから」
「…」
「観客でも分かる人には分かるのよ」
「な、なら、どうすれば」
「…少し考えさせて。リサは午前中のイメージで音の外れだけは絶対しないように」
「はい」
「アガシは譜面通りで練習して」
「え? …はい。あ、あの」
「直したいのなら、今は譜面通りで。ランスとは長かったんでしょ?」
「…分かりました」
「あと、シャンドリー」
「は、はい」
「あなたも影響受けてるのね。良く遅れるのはそのせいね」
「…ぁ」
「シャンドリーは出だしに注意してイメージをどんどん載せて」
「はい」

さて、どうしたらいいんだろう。
私の音に惹き寄せる事が出来れば望みはある。ランスの恐怖を取り除ければ…。
ランスの顔が思い出されてきてゾッとした。ある意味私もランスの恐怖を知っている。

でも、三人皆、最高の音を奏でて貰いたい。



三人の練習の音を聴きながら考える。
自分の事すら出来ていないのに、他人(ひと)の事なんて。でも、音の乱れはトップの責任だ。
リサの音外れとシャンドリーの遅れは練習で直せる。
アガシの場合は…。

「祥子、大丈夫?」
「あ、リサ」
「余り思い詰めないで。でも、私達とても嬉しいのよ」
「嬉しい…の? どうして?」
「祥子は各自の音を尊重してくれるからよ。ランスが私達に求めた事は、「譜面通りに吹け」と、「目立つな」だったのよ」
「それは面白くないわね」
「そうなのよ。だからさっき合わせた時、私のイメージを惹き寄せてくれて、それを音に載せてもいいって
感じて、とても楽しかったの」
「そう。ね、それって、シャンドリーとアガシもそう思ってるかしら?」
「シャンドリーはそう思ってるはずよ。アガシだって昔を思い出せば」
「アガシの昔?」
「そう。彼が入ってきた時は技術は申し分なく、情景だって思いのまま載せてたわよ」
「確かに技術は凄いと思うわ。洗練されてるって感じてるもの」
「さすが祥子ね。洗練されてるか。そうね、技術だけはランスに壊されずに守ってるわね」
「そう。何とか出来るといいのだけれど」
「祥子にだったらついて行けるわ。ひとつずつやって行きましょう。それより祥子、自分のほうは? 私達祥子の音も聴きますよ」
「え? あ、そう? なら、聴いて貰おうかしら」



「バッハのパルティータ聞いて頂戴」

 ♪~♪~~♪♪

情景は載せられなかった。どんなイメージにするかも決めてないから。今は技術だけ。それだけを丁寧に。

「さすがですね」

アガシが言った。

「これにカルシーニは好きな情景を載せろって言うのよ。困ってるのよ」
「どうして?」

シャンドリーが尋ねた。

「だって、マーラーのイメージは「死」でしょ。その後のモーツアルトなんか「娼婦」って言われたのよ。このフタツの前奏曲ったらねぇ」

「深く考えないでいいと思う」
「シャンドリー、どうして?」

シャンドリーが翻訳アプリを使う。

「祥子の気持ちそのままでいい」
「私の気持ち?」

シャンドリーがまどろっこしくなったのか、ドイツ語で話し出す。
リサが通訳してくれる。

「カルシーニが「娼婦」を要求してきたのなら、それは祥子の今流れている噂をその曲で打ち消せって事でしょ。本当の私は違うわよって。その前の「死」ってのは今の混沌(こんとん)と流れてる噂の事だと思う。どれが本当でどれが嘘。それを知ってるのは祥子しかいない。だから、最初は、祥子の気持ち。どうしてこうなったの?って。私の言う事も聞いて頂戴って」

「どうしてこうなったの? 私の言う事も聞いて…」

(まさ)に叫びたい言葉だ。

「シャンドリー、ありがとう」
「あっ。出しゃばってごめんなさい」
「いいのよ。何でも言って頂戴。助かった気がしてる。ありがとう。今日はお疲れ様」

シャンドリーは感性豊かだ。カルシーニの要求を自分の言葉で表現出来るんだ。


- TO BE CONTINUED -
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