第111話 大阪の空手仙人

文字数 2,519文字

 平成二十六年六月二十五日、宿舎面接の前日。USJに行った十日後のこと。
 娘を連れて、昔、空手を習った大阪の先生を訪ねた。

 かつて大阪で仕事をしていた頃、唯一の趣味が空手だった。
 今のように空手が競技化される遥か以前に空手を始めた先生は、厳しい稽古で私に古流の空手を教えてくれた。スポーツではない組手の稽古は並々ならぬ緊張感があり、毎回恐い思いをしたが、そんな稽古でしか身に着けられない何かが確かにあった。武術家然とした先生の厳格な雰囲気、道場内の凛と張り詰めた空気は、他では味わえないものだった。

 昨年末にも、一人で先生を訪ねていた。
 戦後の焼け野原の大阪を生き抜いた先生は、現代人とは器の大きさが違い、どんな相談も軽く受け止めてくれるだけの度量と安心感があった。
 監護権の裁判は、最高裁の却下で終わり、誘拐の刑事告訴が始まったばかりだった。
「父親が誘拐犯なんて、そんなもんあるか!」
 一笑する先生は、私よりももっと恐ろしい地獄を経験して来たことが想像できる。先生の来歴を詳しく聞いたことはないし、そんな質問が許されるとも思わない。
 弁護士は「人身保護請求なんて昔の話で、今はあり得ないですよ」と経験もないのに否定したが、着々と追い詰められていることは私自身がひしひしと感じていた。この弁護士が甘ちゃんで、危機意識が薄かっただけだ。
「刑事や民事は得意だけど、家事事件は経験がなくて苦手みたいです」
 弁護士のことを話すと、先生は軽く否定した。
「そんなもん全部同じやで。経験ないから苦手て、おかしな話やな」
 今思えば、先生の言うとおりだった。田舎の弁護士で、ほぼ裁判沙汰全般が苦手だっただけだ。どちらかと言うと、不動産や倒産の問題を請け負う代書屋さんだったのだろう。
 年末の相談は、ひとまずの身の隠し場所だった。
 裁判所は、娘の意思など一切考慮しない。調査官は非行少年の専門であって、心理の専門家ではまったくない。幼児の愛着対象などについては無知どころか、判決のためなら養育の事実も娘の思いも簡単に踏みにじる、ただの無責任公務員でしかない。
 何度強制執行を掛けられようと、今の娘の希望が「おとうさんと暮らしたい」であるあいだは、引き渡すつもりはない。
 ただ、誘拐となると話は別で、私が逮捕された瞬間、娘が泣こうがわめこうが、嬉々として裁判所は幼児を略取するだろう。
 娘が少しでも成長し、精神的に落ち着くまで、そばにいてやりたかった。
「もう道場もやってないから、お前の父ちゃん母ちゃんも来て一緒に住んだらいいんちゃうか。犬もいるんなら、連れて来てもええぞ。わしも犬飼っとるからな、あいつも喜ぶやろ」
 もうすぐ犯罪者になるかもしれない私に、大した問題ではないかのように軽く応じる。大阪人独特の冗談のようでもあり、それ以上の危険を乗り越えてきた人間の懐の深さにも感じられた。
「女の子は、跡を継がんからな。母親に渡すことはできんのか?
 母親にやってもたら楽やろうに。
 お前もまだ若いんやから、別の女に男の子を産ませたほうが跡継ぎができて、親も安心するやろ。
 お前の父さんも同じ考えか?」
「孫がかわいくて、幼稚園へ行くのに、じいちゃんが弁当を作ってやってるくらいなので、難しいでしょうね」
「あらら…、お前ら親子して情が深いんやなぁ」
 先生のご意見は、もっともだと思う。ただ、今この時期に手放して、母親と同じ傷を負わせたくないだけだった。

 そして、人身保護請求を受け、とうとう娘を連れて相談に来た。
「S島に、わしの別荘があるんや」
 先生の懐の深さを測るのは容易ではない。
 とりあえずの逃げ場所だけは確保できたことに安心した。
 家の後ろから、吠える声が聞こえる。うちのかわいらしい雑種とは違い、大型のドーベルマンだ。
「せんせい、イヌが見たい」
 お孫さんのいる先生は、相好を崩して娘を裏へ案内する。戻って私と話し、また娘に頼まれて裏口へ向かう。犬小屋までの往復を二三度繰り返した。
「うちの孫は小学生やけどな、この子のほうが話すことが大人びとる。
 母親のことで苦労しとるからやろうな」
「おい、先生に手を貸せ」
 娘の手を、日に焼けたしわしわの両手でそっと包み込む。
「これで、少し落ち着くやろう」
 昔の空手家の言動と能力は、現代人には未知の世界で、「それは何ですか」と突っ込む度胸は私にはなかった。
「おまえ、ちょっとこの子の耳ふさげるか」
 先生が娘の隙をうかがい、娘の頭越しに小声で言うから、後ろから耳に手を当てようとしたら、娘が泣き出した。
「悪い、悪い、堪忍な」
 娘に謝りながら、先生がそっと私にささやく。
「どうしても手放すことはできんのやな」
「今はまだ。先生にご迷惑をおかけして申し訳ないんですが…」
「わかった。しゃあないな」

 その数日後、七十歳も半ばを過ぎた先生が、梅雨の土砂降りの中、軽ワゴン車を走らせて、神様の町へやってきた。
「ここに、わしの昔の女がいるからな。男の意見だけやと、偏るかもしれんやろ。そいつの意見も聞いたほうがええ思うて来たんや」
 見知らぬおばあさんを助手席に乗せ、娘と四人で喫茶店へ向かう。
 チョコレートパフェを頼んだ娘の相手を先生がしているあいだ、その女性に私はこれまでの事情を話した。
「男やのに、情が深いんやなぁ」
 先生の女友達がため息をついた。
 これが先生なりの説得方法で、弟子に対する思いやりなのだろう。
 自分の弟子を犯罪者にしたくないのだ。当然だ。

「わしは自分を正義の味方やと思うとるからな」
 かつて、先生は笑って言った。
 残念ながら、私も一人の武術家だ。
 曲がったことが大嫌いで、自分なりの筋の通し方がある。
 我が身かわいいだけの公務員とは、根本が違う。
 正義は我にあり。愛情はそれ以上だ。
 娘のために、父親として、できる限りのことはしよう。
「おとうさん、守って」と娘が望むなら、家裁も警察も恐れない。
 娘のためなら、喜んで犯罪者になろう。
 何の勝算もないが、その覚悟だけはあった。
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