第32話 一緒におうちへ帰ろう

文字数 1,921文字

 出雲大社参拝から十日が過ぎた。
 私も父も母も、「おかあさん、こわい」と言っていた娘の安否が気がかりでならなかった。
 家族で話し合い、これ以上妻のもとに娘を置いておくのは心配だから、もう一度話し合って、心から頼み込んで、いったん娘を返してもらおうという結論に至った。

 朝、両親の車に乗り、妻の実家へ向かった。
 妻の出勤後の時間を選んだのは、少しでも余計なトラブルを避けられたらという思いからだった。
「娘を返してください」
 そうお願いする様子を想像して、緊張で胸が高鳴る。
 必死で土下座する姿も思い浮かんだ。
 どう頼んだら、娘を返してもらえるだろう。
 冷静に考えれば、家族の話で警察を呼ぶ義父があっさり返してくれるわけはないのだが、当時は普通に正攻法で考えていた。

 大通りで車を降り、妻の実家に続く細い道を一人で歩き出した。
 あれこれ考えながら、結論は出なかった。結局、出たとこ勝負でしかないのだ。
 玄関の引き戸を開けて、声をかけた。
「おはようございます」
 何の応答もない。
「すみませーん」
 誰も出てこない。

 娘の泣く声が聞こえた。
 奥のほうを見ると、娘が大声で泣いていた。
「メイちゃん!」
 娘の名前を呼んでも、娘は自分の泣声で、私に気づかない。

 勝手口に回って、ドアを開けると、すぐそばに娘が立っていた。
 周りには誰もいなかった。
 一人ぼっちだった。一人ぼっちで泣いていた。
 娘を哀れに思うとともに、義父母に対して怒りを覚えた。まだ、たった二歳の娘を一人で泣かせておく神経が理解できなかった。
「おとうさん…」
 娘が振り向き、私に気づいた。
「一緒におうちへ帰ろう」
 私に抱きつく娘を抱え上げた。
 無事に娘が戻ってきたという思いで、胸が高鳴る。

「きちんと話ができたのか」
 車の戻ると、父が尋ねた。
「一人で泣いていたから、連れてきた」
「連れてきたことを知らんのなら、ちゃんと伝えなあかん。電話しなさい」

「家に連れて帰ります」
 そう電話で話しても、私の声は義母のわめき声でかき消された。
「警察を呼びます! 警察を呼びます!」
 後ろでは、義父が大声で誰かに怒鳴っているのが聞こえた。
 携帯電話で警察に通報しているようだった。

 自宅へ戻る途中、私の携帯電話に警察署から電話があり、事情を話した。
 帰宅後、スーツ姿の警察三人が自宅を訪ねた。
 妻のこれまでの様子を話すと、女性の警察官が虐待の痕がないか、娘の体を確認した。
「また連れ戻されないように、しばらく保育園へは出さないほうがいいでしょう」
 私と両親にそう忠告すると、警察は帰って行った。
 警察と話しているあいだもずっと、娘は私のひざから離れなかった。

 これはすでに過去の出来事であり、起きたことに関して、こうすべきだったという忠告は成り立ちません。例えば、「黙って連れ戻さずに話し合えばよかった」のかもしれませんが、おそらく警察に電話されて大騒ぎになっただけでしょう。
 それは、臨床心理学の知識や世間的な知恵があれば、妻との婚姻が回避できたのではないか?という、私自身の無意味な後悔と同種のものです。
 きっと私の人生にとって、妻との地獄の結婚生活は不可避だったし、妻の言い分だけで一方的に進められる家庭裁判所の家事審判(中世の異端審問や魔女裁判のような理不尽な内容です)も不可避だったのです。ある種の精神障害が(世間に周知されないだけで)日常に普通にあること、そして家庭裁判所による魔女裁判の実態を身をもって知ることが、私にとって必要な経験だったのだと思います。それでも、もし他に為すすべがあったと言われるなら、当時の哀れな私に直接アドバイスをしてあげていただきたいと思います。

 ここから、裁判編に入ります。
 裁判が進む中、娘を片親にしたくないという思いで、必死に家庭が壊れていくのを防ごうとした私の努力がまったく無駄な抵抗であったとしても、こんな境遇に生まれた娘が哀れで何度も流れた私の涙と必死の戦いは、無駄ではなく、私と娘にとって意味のある経験だったと信じます。
 同じ苦しみを経験されている方も、すでに通り過ぎた方も、あの時こうすべきだったという後悔を生きるのではなく、未来に希望を持って、今を大切に生きていただきたいと思います。
 その苦しみには、必ず意味があります。
 同じ境遇にない方にはなかなか理解されず、時には孤独を感じるかもしれません。その時は、あなたと同じ苦しみを味わった人間が他にも存在することを思い出してください。
 いつかその苦しみから抜け出せる日が来ます。
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