第56話 チリーン

文字数 1,118文字

 妻とカウンセリングに通い始めた秋、リビングの本棚の上に神棚を置いた。
 平然と人前で大声を出したり、理屈に合わないことを言ってキレる妻ではあるが、娘のためにうまく元の鞘に収まったらと考えていた。
 隠れていた妻の本性を見て、これ以後、家庭裁判所の理不尽さを身をもって知り、娘が哀れで何度も涙を流すという大変な時期に突入していく。あの時期は、もう神頼みしかなかったのかもしれない。
 結婚と同時に入居できるように、妻と将来の子供たちのために用意した新居。
 家庭崩壊が始まった時期に用意した、新しい神棚。初詣で娘が欲しがった破魔矢も、和室の床の間から神棚の横へ移した。
 保育園に行くのを泣いて嫌がるようになっていて、日中の世話は両親に任せていたため、ほぼ毎日、娘と私は実家で暮らすようになっていた。それでも、仕事帰りには、新居に寄って神棚の水と米を換えてお参りした。苦しくて、神棚に手を合わすことが、せめてもの救いだった。

 十一月、娘と水族館に出かけた。
 五月に、妻が反省して三人で暮らしたいと言って、仲直りのために行った水族館。三人で小さな魚にエサをあげた思い出の場所だ。
 その時の記憶がまだ残っていたみたいで、魚にエサをあげる屋外の水路の前で、娘が一言。
「お母さんと来たねぇ」
 まだ片言で話していた娘の一言は効いた。胸にズシンと響いた。
 小雨の中で、涙が流れた。「ごめんね…」声には出さなかった。
 約束がすべて破られて、新居は空き家になり、審判がどんな結果になろうとも片親が確定の娘が哀れだった。人を見る目がなくて、本質的に狂った人を嫁にもらった自分の罪だ。娘に申し訳ないという思いで一杯だった。
 今思えば、神棚は祈りと懺悔のためだったのだろう。

 正月、初詣の前に一人で神棚の御札を取りに寄った時のこと。
「ありがとうございました」
 手を合わせて、御札を取り出し、リビングのドアへ向かう。
「チリーン」
 なんだろう。振り返ったが、何もない。
 もう一度、神棚まで戻って気づいた。
 娘の破魔矢の鈴。音を出しそうなものは他にない。
 不思議だった。本棚は重くガッシリとした作りで、簡単に揺れるようなものではない。リビングのドアまで三メートルほど歩いたところで、床の振動が伝わって破魔矢が揺れたとは考えられない。
 リビングで一人、本棚の前でジャンプしてみた。鈴は鳴らない。もちろん、御札を取り出す時も触ってはいない。手が触れたなら、破魔矢に気づいただろう。
「忘れてるよ」
 そう声を掛けられたような気がした。
 家事審判という地獄の日々の始まりに体験した不思議な出来事だったため、今も鮮明に記憶している。
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