第116話 中尾による幼児虐待

文字数 1,348文字

 この宗教の学校は、三か月で終わる。一か月ごとに新しい人が来て、同時に三か月を終えた人が卒業していく。宿泊所では、それぞれの月のグループごとに、世話人として先生と呼ばれる人がつく。
 果たして、先生と呼ばれるほどの人格者なのだろうか。

 宿泊所での夜のお参りや楽器、踊りの稽古は、娘と二人で何度抜け出したか分からない。
 ひと月前のグループの世話人は、西山先生と言った。六十過ぎだろう。
 なんとか、楽器の練習の場にいようとして、娘と二人で楽器を鳴らしていると、西山先生は面倒くさそうに言い放った。
「できないんだから、娘さんは部屋で待っていてもらえないか」
 あり得ない相談だった。それができないから、一緒に練習しているのだ。
 西山の冷たい言葉で泣き出した娘を連れて、大広間を出た。
 あとで、滋賀の教会長である六十過ぎの女性が慰めを言いに来た。
「教会の人が、こういう対応なのだから、世間はもっともっと厳しいと考えたほうがいいです。」
 馬鹿じゃないか。世間は、ここまで他人に介入しないし、他人の行動を制御しようとしない。
 この女性のお孫さんが、最近の検査で発達障害だと分かったという話を聞いた時、私の妻も発達障害だと話したことがある。いつか、この教会長も育児の問題を自身の問題として経験するだろう。あるいは、彼女の娘さんが育児で苦労する姿を目の当たりにするかもしれない。
 その時、この女性教会長は、世間一般と宗教とどちらが優しいと感じるだろうか。

 ある朝、食堂で食事中に歩き出した娘を見て、テーブルの向かいに座る西山がつぶやいた。
「もう我慢ならん」
 その瞬間、隣の中尾が娘を抱えて、外に出た。
 娘が泣いた。おしっこを漏らした。
 あわてて追いかけた私は、娘とともに風呂場に行った。
 この宗教は、地獄でしかなかった。
 日本の家庭裁判所と同じように、幼児の人権を踏みにじる地獄だ。

 娘が食事中に歩き回るようになったのは、楽器や踊りの練習で嫌な思いをさせている大人たちと一緒に食事をしているのが嫌だったからだ。
 前歯なしガチャ目の中尾、幼児の思いを無視して偉そうに楽器の指導をする西山、未婚で育児経験のない二十代の布教所の娘、幼児を怒鳴りつける女性信者たち。
 ここに、私たちの居場所はなかった。
 苦しみ悩む人に寄り添うより、踊りの練習が大事な宗教に、どんな救いがあるのだろうか。

 六月に入った時、修了間近の十代のお姉ちゃんがいた。
「おねえちゃん、おねえちゃん」と言って、娘はよくそばに行った。スマホでレットイットゴーを鳴らしてくれると、娘は嬉しそうに音楽に合わせて大声で歌った。
 六月が終わる頃、その子が卒業すると、次に来た布教所のお姉ちゃんに甘えようとしたが、期待に応えられる女性ではなかった。踊りや楽器の練習に必死で、娘を邪魔者扱いしただけだった。
 娘は、優しい母親の存在を見ようとしていたのかもしれない。それは、どこにも存在しない幻の理想像だった。

 食堂の食器洗いで娘が泣かされた日、「三か月の修了を待たずに、帰らせてしまうことが、私たちには何よりも恥です」と中尾先生は言った。最終的に、私たち親子は、中尾にとって最大の恥を実現することになる。
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