第123話 神様の町の夏祭り

文字数 3,055文字

 七月の終わりから八月の頭までの一週間、神様の町では子供のための夏のイベントが行われる。
 アヒル顔のキャラクターが形づくられた植込みの花が色づき、緑の中にだんだんと黄色の顔が浮き上がって見えてきた。
 大きく掲げられた三つの約束の言葉を、託児所で覚えたらしい。まだ文字が読めないのに、そこに書かれた立派な言葉を口にする。
 最初は、どのイベントに行くか話していたけど、託児所で見学に回っているうちに、関心がなくなったみたいで、何が見たいか聞いても、どれも行きたくないと言うようになった。商店街の本屋さんで、イベントを紹介した小冊子を五十円で買ったけど、すぐに読まなくなった。
 テーマソングは、よく歌った。
「手と手をつなごう~♪
 だって、みそみだから~♪」
 どうも間違って覚えているようだ。
「みそみって、なに?」
 そう聞くと、娘は自信ありげに答えた。
「みそみは、みそみ!」
 この歌の謎は、なかなか解けなくて、いつか雅楽会の会長さんに聞いてみようかとも思ったけど、娘の単純な記憶違いで、たぶん会長さんに聞いても、この意味不明な単語は解明できないだろうと思って聞かずじまいになった。
 あの夏は、何度か娘に「みそみ」が何か聞いたが、返ってくる答えはいつも「みそみは、みそみ!」だった。
 後々のことだが、ネット検索で歌詞を見つけた。曲とダンスまで判明した。
 きっと「神様」だ。「かみさま」が「みそみ」と聴こえたのだろう。たぶん間違いない。いろいろごっちゃになっているみたいで、「きょうだいだから」が「みそみだから」になったようだ。

 一週間は授業がなく、クラスメートはイベントスタッフを割り振られ、早朝に本部の大食堂で食事を済ませたら、持ち場へ向かう。
 同じ宿泊所で同じクラスの三十代の男性は、食事係で大量のカレーライスを作る部門に行くことになった。私はお茶係で、一日中お茶汲みと湯呑洗いをする。
 一日目の朝、ベビーカーに乗せて、大食堂で朝食を食べていると、昔の時代劇で見たような渋い顔をした年配の男性に声を掛けられた。
「大変ですね。小さい子を連れて」
 どうやら、十数年前に雅楽を習った時の先生のようだ。何となく憶えているような気もするが、ほぼ記憶になかった。雅楽会の会長さんから、事情を聞いていたみたいだ。
 雅楽会の会長さんは、「お祭りの期間は、食事が子供向けになるから、娘さんも喜ぶよ」と言っていたけど、この町に集まる人数が極端に増えるから、手抜き度が極端に上がっただけな気がする。魚や煮物などの手の込んだおかずが消え、あらびきポークウインナー二本、あるいはレンジでチンの冷食ハンバーグに、ゼリーがプラスされる簡素さだ。

 お祭り一日目から、娘は託児所への登校拒否で、お茶所へ一緒に行って、担任の先生に許可をもらった。
 一時間半ごとに交代で休憩を取る。近くの資料館のエアコンの効いたロビーで休む人がほとんどだが、私たち親子は、大学の構内を散歩したり、学内の売店で買い物したりした。
 そこで、娘は生まれて初めて、コロコロコミックを手にした。まだ文字は読めない。
 お茶所に戻ると、私は汗だくでプラスチックの湯呑を水で洗い続ける後ろで、娘はコロコロを読み続けた。時々振り向いて見てみると、時々コロコロを読みながら、笑っている。絵だけで理解できているみたいだ。
 小雨が降って来たため、分厚いコロコロを抱えたまま眠っている娘を、隣の休憩用のテントへ移動させた。そこからは私が見えないから、目が覚めて泣かないか、時々テントの中に確認に戻った。
 また一時間半が経ち、休憩でテントに戻ると、同じクラスの若い級長さんと娘がコロコロを見ながら楽しそうに話し合っていた。
「娘さんから、妖怪ウォッチについて教えてもらっていました」と笑う。
「文字読めないんですけど、内容は分かるみたいです」と私も笑った。

 お茶所のすぐ近くには、冷房がキンキンに効いた涼しい宗教資料館がある。休憩のあいだ、交代でここを訪れ、ソファーで昼寝したり、教祖さんのアニメ見たりしてくつろぎ、汗を乾かした。
 掲示板には、海外布教の募集チラシがあった。
 もし、家裁が無理やりに強制執行を続けるつもりなら、いっそ海外へ娘と布教の旅にでも出ようかと考え、ケータイでチラシを撮った。
 同じクラスに、海外からの留学生もいた。日本語を上手に話した。故郷はバングラデシュかインドネシアか、どちらか失念してしまった。名前も特徴的で覚えやすかったのに、今は思い出せない。
 朝の食堂の前で、地元のコーヒーキャンディーをもらった。とてもおいしかった。
 布教の旅は、彼の郷里にしようかと密かに考えていた。

 コロコロを買った日、すぐ後ろにあるトイレに間に合わず、大きいほうでパンツが汚れたため、娘にはズボンだけはかせて、パンツを洗って干すというトラブルもあった。
 大きくなった娘がこんな話を読んだら、きっと嫌がるだろうけど、どんな出来事も、私にとっては家裁に引き裂かれる前の大事な大事な思い出になっている。

 私が朝から夕方までイベントスタッフとして拘束されるため、結局、私の両親に迎えに来てもらって、この期間、娘は故郷に帰ることになった。
 娘が故郷に帰っている間は、心配で仕方なかった。時々、家裁に連れ去られていないか父に電話した。
 債務者の目の前で強制執行という大前提があるから、余計な心配なのは分かっているが、錯乱した嫁と弁護士の自力執行の可能性もあるし、私がそばにいるかどうかは強制執行が行われるまで分からないから、少なくとも執行官が実家へ押し寄せる危険性は常にある。

 娘のことを心配しながら、一人で子供向けの食事を口にし、一人で過ごした。結婚から五年ぶりに訪れた、一人ぼっちの生活だった。
 まだ真っ暗な中、朝の神殿掃除に向かう。こういう時は一人は楽だが、娘がいなければ、この町にいる意味はあまりない。
 雅楽以外ではまったく縁がない宗教で、宿泊所の先輩に習った参拝方法以外は、踊りも歌もまったく覚えられなかった。
 神殿の柱にある箱が何か分からなかったが、他の信者さんの様子を見ていると、賽銭箱のようだ。
 どうする。家の宗教は仏教で、本当はこの宗教の信者ではない。
 お参りに来る人たちは、柱の箱に小銭を入れて、神殿の中央へ向かう。娘がいなくなって、娘の世話がなくなると、普段は気にしてなかったことが急に気になってくる。
 財布から百円玉を出して、入れてみた。

 お参りを済ませると、食堂へ向かう。同じクラスで仲の良いおじいさんと会った。娘だけ、一時的に実家へ帰ったことを話した。
 先に食べていたおじいさんは、先に立ち上がって食堂を出て行った。
 朝の神殿掃除で早朝に来たため、お茶汲みまでは時間がある。一人でゆっくり食事を済ませ、食堂を出た。
 食堂前の自販機で、飲み物を買おうと立ち止まった。
 まだ暗い道路のほうから、おじいさんが戻って来た。
「神代さん、これ! お疲れさま。ゆっくりして、(お茶所に)来てや!」
 まだ冷たいエナジードリンクの瓶。
 私に渡そうと、待っていたのだろうか。

 目の前の自販機を見た。
 百円。
 お賽銭が返ってきた。そう感じた。
「気遣いは不要」と、神様から言われた気がした。

 シンクロニシティ。意味のある偶然の一致を、自然に信じたくなる場所だった。
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