第38話 はじめての海水浴

文字数 885文字

 八月初旬、妻が謝罪に来る少し前。
 娘と私と両親、私の妹夫婦とその子供たち、みんなで海水浴に出かけた。
 娘にとって生まれて初めての海水浴だった。
 娘の初の海水浴に、母親を一緒に連れて行けなかった。連れて行けるような状況じゃなかったが、もし一緒に暮らしていたら、来ていただろうか。
 三月に私の友人からアンパンマンミュージカルのチケットを二人分もらったが、娘を連れていったのは、私だった。家の中でさえ、娘の世話が大変だという妻が、オムツの交換が不便な場所にわざわざ自分から進んで行くはずもなかった。
 まして海水浴は、日焼けが大嫌いな妻にとって、最悪のレジャーだ。
 私の初めての海水浴は、アルバムの中に今も思い出として残っている。母によれば、砂にまみれ「ばっちい」と泣いたそうだ。
 娘にとっては、初めての海が楽しくて仕方ない様子だった。
 小さな浮き輪をつけ、波に揺られながら、大きな声で何度も歌った。
「うみな~、うみな~、ひぃろいかな~♪
 どおっちかな~、ひろいかな~♪」
 ちゃんとメロディーになっていた。
 一歳から保育園に行っていた娘は、お兄ちゃんお姉ちゃんたちの歌を聞いていたかもしれない。ただ、あきらかに「海は広いな~」とは違っていたし、あまりにも歌詞が独自過ぎるから保育園の歌ではなく、娘のオリジナルソングのように思えた。
 娘よ、迷うことなく、海は広い。浮き輪の上の体はまだ小さくて、遠くまで見渡せないかもしれないけど、とっても海は広い。
 私は何も指摘しなかったが、歌だけじゃなく、海のことを「うみな」と呼ぶ娘に、じいちゃんは「うみなじゃなくて、海。『な』は付けなくていいの」と訂正していた。
 顔に波をかぶった娘は、海水が口に入った途端、しぶい顔をして急に無口になった。
 だから、代わりに私が歌った。
「うみな~、うみな~、ひぃろいかな~♪
 どおっちかな~、ひろいかな~♪」
 あの日の海水浴を、私は一生忘れない。
 記憶の中で、今も娘の歌声が聞こえる。またいつか海水浴に行く日が来たら、きっと私は、娘の作った海の歌を口ずさむだろう。
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