第12話 妻との思い出

文字数 1,426文字

 すべてが、悪い思い出ばかりじゃない。
 新婚旅行は、私の希望でタヒチになった。一生に一度でいいから行きたかったボラボラ島だ。
 タヒチ行きの飛行機を待って、東京で一泊したけど、あの日は二人でよく歩いた。僕が卒業した大学を見に行き、カフェでアイスコーヒーを飲んだ。新婚旅行のデジカメのデータは、カフェで撮った彼女の写真で始まっている。
 ボラボラ島は、海がきれいすぎて写真を撮りまくった。曇りがちだったけど、どれも宝石のように美しい海だった。
 時差ボケで初日に二人で寝坊して、クルージングに行けなかった。あわてて準備しても間に合わないぐらいの遅刻だったから、二人で大笑いした。
 帰りにタヒチ島で一泊したが、「ロマンティックディナー」というフランス料理の途方もない量に二人とも驚いたし、大笑いした。
 有名なホテルなのに、エアコンが壊れていて、僕がフロントへ電話した。フランス領のタヒチで通じるか分からないけど、片言の英語で説明して、修理に来てくれたのだから、きっと通じたのだろう。
 早朝の出発だったから、また寝坊するのが怖くて、その日は二人で一睡もしないことに決めた。
 でも、テレビはフランス語で見ていて面白くないし、南十字星が見えるというガイドブックの情報だけを頼りに、二人でホテルを一周した。結局、東西南北どっちの空を見ているのかも分からなくて、二人でガイドブックを見ながら、「あれかな?」「こっちじゃない?!」とか言い合った。
 普段見ている北極星ぐらいはっきりした指針あって、進むべき道がはっきりしているなら人生も楽だろうけど、ああやって二人で迷いながら星を探すような人生も、きっと悪くなかっただろう。
 あのあと、彼女は言っていた。
「明日早いから、さっさと寝ようという人じゃなくて、最後の夜に寝ないで星を見ようと言ってくれる人が結婚相手でよかった」

 新築の家の階段で、僕が「疲れた。人生であと何回この階段を昇り降りするんだろう」と言ったら、彼女は「そんな寂しいことを言わないで」と涙をこぼした。
 彼女が休みの日、仕事中に携帯に「家の中を探してみても、あなたがいなくて寂しいの」と電話してきたこともあった。
 思春期に好きだった歌がずっとお気に入りで、「この歌がたぶん僕の人生で一番好き」と言ったら、「そんなことない。二人でいれば、いつかもっと好きな歌が見つかる」って言っていたけど、それはなかった。もしかしたら、人生でもっと好きな曲を見つけるかもしれないけど、もう彼女とではない。

 亡くなった奥さんの妄想と暮らす夫の映画を見に行って、二人で涙を流した。二度目を見たいと言ったら不機嫌そうだったけど、我慢して一緒に見てくれた。
「もし、いつか私が別れると言ったら、またこの映画を見せてほしい」と言っていたが、見せる機会はなかった。見せて元に戻るものではないし、それ以上に、いろいろ手を尽くした結果、映画ぐらいで心が改まる人じゃないってことを痛感させられたから。
「今度は愛妻家」
 映画のタイトルのように、もう二度と恐妻家ではなく、今度こそ誰か良い人と縁があったら、そうなりたいと心から思う。

 ボラボラ島では、島唯一の街ヴァイタペのお店のトイレの汚さに妻が不機嫌になるという不穏な空気から始まったが、あの一週間が二人ともよく笑った時間だった。その後、一緒に暮らした三年の新婚生活で、あんなふうに笑うことは、もうなかった。
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