第130話 かみさまー!! バイバァーイ!!!

文字数 2,107文字

 平成二十六年の夏。
 八月に入り、毎朝早朝のお参りは、宿舎ではなく、本部の神殿に行くことになっていた。
 前月までは、体の不自由な人やお年寄りが多く、早朝に本部まで行くのが大変なため、宿舎でのお参りが許可されていた。彼らの卒業間近、中尾から来月からは全員本部でお参りするように義務付けられた。

 中尾は、私たち親子と同期の若い男女をワゴン車に乗せて、夜が明ける前に神殿に向かう。
 それよりも早い時間に私は、まだ眠る娘を抱えて、静かに三階の部屋を出て、暗い玄関でベビーカーに乗せて、商店街を歩き始める。
 一度、娘と一緒にワゴン車に乗ろうとしたが、娘が泣いて嫌がったため、断念した経緯がある。
 理由ははっきりしている。娘は、お漏らしのことを口にしなかったが、中尾の運転する車に乗るのが嫌なのだ。
 もともと、前歯がなく、斜視で視線が読めない中尾の特徴的な顔は、子供に好かれるものではない。それが、四歳の幼児にトラウマになるような虐待を行ったのだ。中尾が殴ったという被虐待児の里子も同じ思いではなかっただろうか。

 ベビーカーに娘を乗せ、玄関を出ていく私たちを、静かに見つめている眼鏡の冷たい視線があった。
 宿舎の主任、野村だ。非常用の電灯だけの薄暗い玄関ホールで、柱の脇から黙って、娘を座らせ靴を履かせる私を見ているようだった。見送りの挨拶をするわけでもなかったから、私も静かにドアを開け、ベビーカーを押し出した。
 大変なのは、参拝が済んだら宿舎に戻り、風呂掃除や朝食の準備をして、朝食を済ませてまた本部の学校へ向かわなければいけないことだ。ベビーカーを押して、二十分余りの道を二往復することになる。
 その苦労に対して、野村主任から労いの言葉は一度もなかった。

 この宿舎の人間関係は、不可思議だった。
 七月の終わり、前期生の修了パーティーが宿舎で行われた。和室の奥へ向かって、左手が私たち継続組、右手が卒業生のグループが座った。
 そして、奥の上座には、中央に野村主任、その両脇に二人の副主任が陣取った。卒業して見送られる人たちより、ここでは宿舎の管理者が偉いようだ。
 変わったシステムだと思った。
 何よりも、幼児連れに一切の配慮がない野村主任の人間的な冷たさが気になっていたから、パーティーでの座席が気になったのかもしれない。眼鏡をかけた笑顔のない五十代の野村主任が、宿舎を旅立つお年寄りたちに偉そうに訓示を垂れる様子も鼻についた。

 八月十二日、授業が終わったあと、地元の教会の会長さんから電話が入った。
「朝の神殿参拝ですが、他の皆さんと一緒に車に乗っていってもらえませんか」
 娘が車に乗るのを嫌がっているから無理だと伝えたが、中尾のお漏らし虐待事件については話さなかった。会長は、なおも執拗に車に乗っていくように頼んだ。会長としての面子があるのだろうか。
 野村主任から告げ口があったのだろう。
 この人は、私たち親子の現状について、何も分かってない。もう話すことは、何もなかった。
 もうすぐ、お盆だからかな。直感的に、そう思った。
 お盆には、ご先祖様が帰ってくる。そろそろ、僕らも帰らなきゃ。
 家に帰らなきゃいけないから、会長さんはわざわざこんな電話をかけてきたのだろう。

 校舎を出て、神殿のそばを通り過ぎる。もう、この景色とも、お別れだ。
「メイちゃん、もう、帰ろうか!」
 ストレス解消の大きな声で、ベビーカーの娘に声をかけた。
「うん! かえろう!」
 元気な返事が返ってきた。
 託児所でさえ、登校拒否した娘だ。私と一緒にいること、帰りの妖怪ウォッチのカードガチャ、食堂前の自販機のアイス以外、ここには何の楽しみもなかったかもしれない。
「つらかったなぁ! ひどかったよなぁ!」
 大きな声で、娘に言った。
「うん! 中尾センセイにおもらしさせられて、きもちわるかった!」
「そうか、気持ち悪かったか! 悪かったなぁ! ごめんなぁ!
 よし、もう帰ろう!」
「かえる! おじいちゃんにお迎えにきてもらう!」
 右手に見える神殿の敷地の白い砂利が、夏の日差しを浴びてまぶしかった。
 足を止め、タオルで汗をぬぐう。
「メイちゃん、最後に神殿にお参りして、神様にバイバイして来ようか!」
 神殿にベビーカーを向けようとした瞬間、娘は言った。
「ううん、だいじょうぶ! ここでいい!」
 歩道に止めたベビーカーの上で体を起こし、数十メートル先の神殿に顔を向けた。
「かみさまー!! バイバァーイ!!!」
 力いっぱいの大声とともに、神殿に向けて大きく手を振る姿がおかしかった。
「はい、おわった。かえろぉ!」
 そこに実際に神様が住んでいるものとして、元気いっぱいにお別れを告げた。
 異常な妻と、不条理な家裁によって、理不尽に情け容赦なく追い込まれた親子の不思議な夏のひとときが終わろうとしていた。
 私は、娘と過ごしたこの夏の日を一生忘れることはない。

 そして、最後のじいちゃんの来訪によって、中尾も西山も野村主任も全員が手ひどい大目玉を食らうことになる。
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