第108話 神様の住む街で娘と初めての二人暮らし

文字数 1,685文字

 平成二十六年六月中旬、ある宗教の街で、娘と二人きりの生活が始まった。期間は三か月。その後の予定は、未定。未来は一切予想できない旅路だった。
 私が入学する宗教学校の面接まで、二週間あった。

 一キロほどの商店街を歩いて、神殿のそばの教室へ通うことになる。娘は、校舎裏の託児所に預かってもらう。
 宿泊所でベビーカーを借りて、娘を乗せて、託児所まで歩いてみた。
 学校の前の広場で、梅雨の晴れ間の抜けるような青空を、感慨深く見遣った。
「メイちゃん、遠くまで来たなぁ」
 ベビーカーで眠る娘に、話しかけた。
 一人の変な女性と結婚して、狂気の生活を耐え抜いて、嘘だらけの異常な裁判までされて、どんどんと追い込まれ、追いやられて、故郷に住む場所さえなくなった。

 何してるんだろう。この人生は何なんだろう。
 娘と私はどうなっていくんだろう。
 娘を守り切れるのだろうか。

 学校が始まるまで、宿泊所では一般向けの部屋で生活する。
 修行のため、トイレ掃除をし、皿洗いをした。四歳の娘も嬉しそうに、私と一緒に皿を洗った。

 宿泊所の男性職員から、不思議な話を聴いた。
 同じ郷里の男性が目が見えなくなって、一緒に暮らしていた女性に金を持ち逃げされた話だった。手探りで地元の教会を訪ね、三か月の修行生活に入った。神殿で祈り続け、目が見えるようになった。
 娘と私に奇跡が起こることを願った。
 小さい子を連れて入所した母親の話も聴いた。この話は用事で中途になり、聴きそびれた。母子に奇跡は起きたのだろうか。ずっと気になった。

 宿泊所の生活は、予想外にキツイものになった。エアコンが効いて空間は快適だったが、私たち親子への対応は苛烈を極めた。
 事務長の男性に、宿泊所での早朝のお祈りに参加するように命じられた。わざわざ「短パンはやめてほしい」という注意まで付加された。
 朝五時に、まだ眠る娘を一人、部屋に残して、大広間へ向かった。学校の生徒は本部の神殿にお参りに行き、体に障害のある人たちが残って、大広間でお祈りをしていた。
 私のいない部屋で、娘が目を覚まして泣いたらどうしようと気が気ではなかった。眼鏡の奥の目が冷たい男性事務長は、幼児連れであることに配慮する気はなかったようだ。
 娘の泣き声が聞こえないか、耳を澄ませながら、お祈りの歌を唱えた。
 不思議と、娘が目を覚まして、泣き叫びながら私を探すという悲劇的な事態は起こらなかった。
 夕方のお祈りでは、各地の教会から集まった若い男性や女性がお参りしていた。朝、本部に行っていた人たちだ。教会の息子は特別待遇なのか、短パンでお祈りしていた。事務長からの注文に疑問を感じた。
 夕方のお参りのほうが、問題だった。
 お祈りにあきた娘が、大声で泣いた。あわてて抱っこして、広間を後にした。
「おとうさんには、こんなことをしてほしくない!」
 泣きながら、怒った。
 まだ四歳の娘に、今の状況がはっきりと分かっているような口ぶりだった。この春通った幼稚園は、仏教系でお参りもしていたから、宗教については理解できていたのかもしれない。
「おとうさんは、こんなことをする人じゃない!」
 娘の言わんとすることは、私にもよく分かる。もし、何の奇跡も起こらないなら、こんなことにはまったく意味がない。
 狂人相手に、どんどん追い込まれている状況だった。母性優先の家庭裁判所は、父親の育児の事実を黙殺した。あとは、虐待をしかねない母親に、娘を奪い去られるだけだ。
 どこに光明があるのか、まったく分からなかった。

 梅雨の合間の青空は、底抜けに明るかった。
 どこまで行くのだろう。
 いつまで娘を守れるだろうか。
 必死だった。
 娘のために、自分の人生を捨てる覚悟をした。

 狂気の妻が恐かったが、それ以上に、事実を踏みにじって我が子を奪い去ろうとする家庭裁判所は、我が人生最大の恐怖だった。

 祈りに効力がなくても、構わない。
 何とか助ける方法がないか。
 目の前の人生は、一寸先も分からない闇だった。
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