第107話 悪しきを払って救いたまえ

文字数 1,890文字

 雅楽会会長のお兄さんが、教会の会長をしているため、お兄さんに案内されて、本部の教会を目指した。
 うちの車に着替えなどを積み込み、両親、会長さん、娘を乗せて数百キロの道のりを走る。
 途中にある上部教会で、修行の許可を得るため、道のりはさらに長くなる。
 この夏、父はこの町と自宅の数百キロを何度も一人で運転して往復したが、いつも「全然眠くならない。不思議や」と話していた。孫娘と息子のために気が張っていただけかもしれないが、長距離ドライブでは帰りに眠くなるのが常で、普段は私と交代で運転しているため、父自身この特殊な体験に何か宗教的な不思議を感じていたようだ。
 朝、家を出て、昼は湖畔の蕎麦屋で食事をして、到着したのは夕方だった。まずは、駐車場に車を止めて、神殿に向かう。
 娘が砂利の上を走っていく。「転ぶとケガするよ」と言っても、嬉しそうに駈けていく。
 何百畳あるのだろう。広い畳敷きの神殿の中央に進み、ひんやりとした空気の中で、会長さんがお祈りを始めた。その周りに、家族みんなで正座した。

「悪しきを払って救いたまえ」
 祈りの言葉に、思わず涙があふれた。
 止め処なく、あふれた。

 悔しかった。

 妻は悪しきものだったのか。
 今、それを切り捨てるしか、娘を守る方法がないのか。

 彼女のような人間を、妻に選んだ私が間違っていたのか。
 悪しき縁を結んだ私の罪なのか。

 悔しく、悲しかった。
 我が身も、妻も、娘も、両親も哀れだった。
 理不尽な司法の裁きから、たとえ一時的であっても身を隠し、すべてを失い、ここまで流されて来る家族全員の運命が悲しかった。

 彼女の両親は別だ。
 彼女をああいう人間に育てた元凶だ。
 しかし、その元凶でさえ、生み育てた親の犠牲者なのかもしれないが、当時の私は、軽率な育児をした伝統工芸職人の老夫婦を心底恨んだ。自らの罪と過ちを背負って、呪われて死ねばいいと思った。

 宿泊所の食堂で、会長さんに妻のことを話しながら、また涙があふれた。
 悔しかったし、申し訳なかった。
 娘のために、家庭を守ってやれなかった。

 嘘の申立書に従って、理不尽に娘を奪い、家庭を崩壊させようとしている家庭裁判所を心の底から恨んだ。
 国家権力の横暴の前には、父である私はあまりに無力だった。

 妻にカウンセリングを続けさせることができなかった。
 若い調査官は「カウンセリングなんて効果ないですよ」と笑ったが、私は妻が娘のために治って家庭に戻ることを期待したし、本人に治そうとする意志があれば良くなったはずと今も信じている。家庭裁判所が彼女の嘘を丸呑みした時点で、彼女は自分の嘘が正しいと確信して、司法とともに嘘にまみれ、自ら嘘の世界へ身を投じていっただけだ。

 家の中で、感情に任せて、理屈の通らないことをわめき続ける妻を、治してあげることができなかったことを申し訳なく思う。
 普通の女性として、妻として、母として、普通の夫として、父として、家庭を維持し、生涯を添い遂げられたら、どんなに幸せだっただろう。
 もう叶わない夢だ。
 妻のため、娘のために用意した、新築の家も失った。
 娘にも、家庭崩壊の主犯である妻にも、家庭を守れなかったことを、申し訳なく思う。

「悪しきを払って救いたまえ」

 今は、娘を守ることを最優先しようと考えた。
 たとえ一時期であっても、心から愛していた女性。一生支え合って生きていくと誓い合った妻。

 料理が苦手でも、すべてにおいて鈍臭くても、育児や家事全般が嫌いでも、私は全然構わなかった。歯医者の予約を忘れて平気ですっぽかす人間であっても、家の掃除はすべて私が担当でも、私自身は何も気にしていなかった。
 私への攻撃が、ついに娘にまで及んだ時、すべては壊れ始めた。

 生まれたばかりの娘を見て、発達障害を心配した妻。
 もし妻が隠していたものがあるなら、いつかは壊れる運命だったのだろう。
 同じ小学校だった知恵遅れの男性が、妻を見かけると寄ってくるのが恐いと言っていたけれど、彼にとってはクラスメートという認識だったのだろう。おそらく、その過去を私に秘密にしていただけだ。
 結婚式では、妻の親戚が「今やめられたら、傷がつかずに済むんですけど」と告げたそうだが、親戚は妻が何者か十分すぎるほどに分かっていたはずだ。それを隠して結婚したのが、失敗の始まりだ。

「悪しきを払って救いたまえ」

 神様、教えて。
 妻は悪しきものだったのか。
 悔しくて、悔しくて、涙があふれた。
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