第36話 渾身の演技

文字数 1,169文字

 八月十二日、改心を思わせるメールが届いた当日。
 妻が私の仕事場の駐車場で待っていた。
 少し話がしたいと言われ、近くのドーナツ屋へ向かった。
「本当は実家に帰りたくなかったが、父が帰って来るように繰り返し言うから、仕方なく帰っただけで、私の意思じゃないの」
「崇司さんの笑った顔が好きだったのに、今は笑顔がなくなったのは私のせい」
「メイちゃんに、弟や妹を作ってあげたい」
「家に帰りたい」
 反省した様子で、妻は話した。
 今回のことで娘の心が傷ついていることを妻に伝えた。雑貨店に入るのを嫌がり、号泣したことについて。以前は普通に入っていた店だった。
「実家へ戻った十二日間の間に、娘が風邪で入院して、点滴まで受けていたから、他の建物を怖がるのだと思う」
 そう妻は説明した。
 入院…。
 いつも元気に過ごしている娘が、生まれて初めて入院して点滴までされたことが、私にはショックだった。自宅へ戻って以降、娘は私の実家、本屋やスーパーなどに入るのを怖がったことはなく、妻の説明には無理があると感じた。あの暗い家がよほど恐かったのだろう。
「十六日にある離婚調停を取り下げようと思う」
 これで、すべて元に戻る。そう、信じた。いろいろ傷が残ったけど、元の鞘に収まるんだ。
 明るい表情はできなかったけど、内心ホッとしていた。
「カウンセリングを受けるから、どこに行ったらいいか教えて」
 最後に、そう頼まれた。
「まだ調べてないから、調べて連絡する」
 それだけ伝えて、店を出た。

 その日の夜、妻から届いたメール。
 突然行ったのに、怒らず話しを聞いてくれてありがとう。感謝しています。
 崇司さんの優しいところと笑った顔が好きだったのに、いつの間にか笑いの無い生活をさせてしまっていたね。これからは、何かあっても笑って終われるような「意見交換」をしていきたいです。メイちゃんのために、家族のために。
 有名なお寺に行った時に、近くにお祓い?をしてくれるお店があって、そこで私に付いていた霊を祓ってもらい、家の土地の神様が家族にさわっていると言われ祓ってもらいました。
 もう逃げません。家族みんな仲良く暮らしていけるように、メイちゃんが幸せに成長してくれるように、良いお母さん、お嫁さんでいられるようにします。
 本当にごめんなさい。そしてありがとうございます。もちろん義父さん義母さんにも。メイちゃんにも。
 明日は花火大会でしたね。行くのなら気をつけて行ってくださいね。

 翌日の妻からのメール。
 昨日は話しを聞いてくれてありがとうございました。
 調停は取り下げできるはずなので、取り下げします。本当にごめんなさい。勝手な行動で、本当に申し訳ありません。

 すべて嘘だったと、あとで知る。
 妻の渾身の演技だった。
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