宣言

文字数 1,771文字

 警察に事情を説明し帰路に就いたのは、陽も傾いた頃の事だった。
「多分俺もこれでクビだろうし、君はこの数日で復帰出来る様、上に言っておく」
「お引越し、ですね……実家に戻るだけですけど、配送屋さん頼まないと……」
 和歌子に同行する土谷は玄関を抜け、居住区画の廊下へと進む。
「……え」
 借りている部屋の手前まで来た所で和歌子は有り得ない物を目にし、土谷を見た。
「置き配は……管理室の隣のロッカーですし、個人の荷物は、管理人さんか、守衛さんが、預かってくれるんですけど……」
 扉の前に置かれていたのは、食品の配送によく使われている発泡スチロールの箱。だが、配送票は添付されていない。
「警察を呼ぶ、君は管理室に連絡して、来訪者を聞き出してくれ」
 和歌子は表情を歪めながら、不気味な白い箱の傍らで警察官の到着を待つ事になった。幸か不幸か、ウェブ上での中傷被害の相談をしていた為、警察官にはすぐ話が通じた。
 到着した警察官は箱に金属が使われていない事を確認すると、安全な場所で開封すると言ってその箱を回収する。そして、和歌子が管理室に問い合わせて判明した、正午前に国際交流協会の身分証を持って現れた不審な男女が管理室を介して部屋の前まで来ていたという情報を基に、捜査員は周辺の指紋採取を試みた。
 結果的に指紋は見つからなかったが、鍵穴に何かを押し込んだ様な傷が残っており、ピッキングを試みた事は判明した。警察官は室内も念の為に捜査するが、侵入の痕跡や不審物、盗難の被害は無く、ドアチェーンを掛ける様にと言って引き揚げていった。
「今すぐ此処を出ろ」
 扉を背にした土谷は和歌子を見た。
「当座必要な物をまとめて待ってろ、車を出してくる」
「え……」
 和歌子は困惑を隠しきれない様子で土谷を見つめる。
「おそらく……あれは、何日か前に殺された作家の死体の一部だ」
 和歌子は目を瞠った。
「保守系とか愛国主義とか、そういう方面で知られている作家や評論家、出版社の社長宅に様々な部分が遺棄されていたが、まだ遺体は完全に見つかったわけじゃない……君に送られた脅迫は、言葉だけではないだろう」
「で、でも……あのサービス上には、郵便番号も登録していないのに……」
「コンテストの公募で、連絡先を出したりはしなかったか?」
「応募した時には……でも、その後に出版社の方に、此処の連絡先は……まさか、出版社にスパイが居るとでも言うの?」
 表情を歪ませる和歌子に、土谷は黙って頷いた。
「そんな……」
 漸く叶った夢が、奈落の底への入り口だった事に和歌子は絶望を覚えた。
「……荷物をまとめろ。俺が部屋を出たら、すぐに鍵とチェーンを掛けろ。誰か尋ねてきても、絶対に出るな」
 そう言って土谷は扉を開け、鍵の閉まる金属音を背にマンションを出てゆく。
 部屋に残された和歌子は暫くの間扉の前に立ち尽くしていたが、やがて動き出し、棚の下段のスーツケースを開けた床に引き出した。あまり治安の良くない地域での下宿とあり、生活に直結しない荷物はあまり無い。だが、突然に家を出るとなった時、持ち出すべき物を考えるのは容易ではない。幸いにして災害の様に一刻を争う状況ではないが、風雨や揺れが収まれば家に帰れる避難とは違い、二度とこの部屋に戻る事は無い退避である。だがそれ故に、洗っていない衣類や回収日に達していない生活ごみも有る。
 何をどうすればいいのか考えあぐねている内に、和歌子の携帯電話が土谷の到着を知らせた。
「い、今すぐじゃないと、駄目ですか……もう、何がなんだか、何持って帰ったらいいかとか、訳が分からなくて」
 駐車場の土谷は車内から空を見上げながら和歌子の話を聞き、歯噛みした。
「俺が一晩その部屋に居てもいいなら、明るくなってからの方がいい。車は鉄格子付きのパーキングに預けて、明るくなったら荷物をまとめて運び出す、それでいいだろう。それと、ブレーカーを落として部屋を出る事になる、冷蔵庫の中身も始末しなきゃならん」
「分かりました……」
「玄関まで行ったらまた電話する」
 土谷は通話を切り、和歌子は台所を見遣る。運び出せない食材を処分するなら、生ごみ乾燥機が少しでも稼働している間がいい。和歌子は携帯電話を握り締めたまま冷蔵庫を開けた。
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