揮発した理性

文字数 2,165文字

「俺が君に言いたい事はただ一つ、立場を弁えろ、という事だ」
 パイプ椅子に腰掛けた保安部警備課の吉田は眉間に深い皺を作り、不貞腐れた様に俯く優菜に言葉を突き付ける。
「いいか、君は此処の協会の職員なんだ、市民活動家ではない」
「でも! 私は誰もが平穏に暮らせる世界を」
 顔を上げた優菜の目は、昨日の催涙ガスにまだ充血していた。
「志は理解する、だが、君がすべきはシュプレヒコールを上げる事じゃあない、合理的な判断と合法的で平和な手段を以て理想を実現させる事だ。感情を優先させ、騒動を起こす事では無い!」
「でも……でも、警察は私達の邪魔をして……それにどうやって対抗しろっていうんですか! 何より、モスクはイスラーム教徒の子供や女性が避難できる数少ない施設なんですよ! そこを、そこを塞ぐなんて!」
「許せないのは分かる。だが、警備課の業務を妨害したところで、警察がその役を負うだけだ。警察よりも外国人に関する情報を多く持つ協会が、それを代行する事が許せないといったところで、俺達の中にも警察官は混ざっている」
 感情的に叫ぶ優菜を、吉田は合理的な論で窘めようとする。
「でも!」
「あぁ、文化的な制約が多いイスラム文化圏の女性や子供を保護出来る施設はあまりない。だが、不法入国の時点で彼等の権利は著しく制限される」
 堪らず優菜は机を叩いて立ち上がる。
「それでもあなたは国境なき世界の実現を」
「手段と目的を間違うな。不法入国は国境なき世界を実現する手段ではない。現状、日本国の法律は無許可での渡航を許していない。その法改正がなされない内から既成事実を作る事は、多くの賛同を得た法改正にはつながらない、むしろ、反感を買っているだけだ」
「だとしても、既に多くの方々が」
「勝手に入国しているのは確かだ。だが、君が憤るべきは其処ではない。君がすべき事は、寄り添う事だ。活動家と一緒になって叫ぶ事では無い。来てしまった物はどうにもならないというのなら、彼等に寄り添い、合法的な解決策を模索する、それが君の仕事であり、君が本来望んでいた事では無いのかね」
 机に手を突いたまま、優菜は俯く。彼女は以前より、日本はもっと世界に開かれるべきだと考えていた。だが、その手段を考えた事は無かった。何か出来るだろうと考え、その熱意だけで協会の職を得たのだ。
「私は……」
「どうするべきかは君が考えろ、上には一時の気の昂ぶりだったと釈明してやる……説教する相手はまだ残っている、それも、日本語の怪しい連中がな。分かったら戻れ、考えるのは、自分のデスクにしてくれ」
 優菜はパイプ椅子を押し退け、部屋を後にする。吉田は溜息を吐いて立ち上がり、パイプ椅子の配置を直した。
 それからも優菜に話したのと同じ様な内容を、出来る限り分かり易い言葉を選びながら繰り返し、庁舎で騒動を起こした職員に厳重注意という名の説教を続けた。
「悪い、休憩は外に出させてもらうぞ」
 関係者全員に注意処分を下した吉田は保安部の事務所に外出を告げ、公用の大型二輪を借りて市街地へと向かった。昼食を兼ねて目指すのは、商店街の一角にある蕎麦屋。官公庁や企業の昼休憩が集中する時刻を過ぎた店内は、少し遅めの昼食を採る営業周りと思しき勤め人が居るだけで随分と静かだった。
 そんな店の中で吉田は注文の品が来るまでの間、優菜との出会いを思い返していた。
 彼が彼女と出会ったのは、彼女が国際交流協会に採用された春の事だった。彼は彼女が採用されたのと同じ年、防衛相国防部から協会へ出向を命ぜられた。採用された当初二人に接点は無かったが、福祉部保護課で素性の知れない外国人と直接対面する事になった優菜に、安全な避難方法を中心とした護身術を教えたのが始まりだった。
 講習当初、優菜をはじめとする女性職員達は、相手が悪い人と疑ってかかる様な事はしたくないと反発したが、吉田は道着の襟を開き、深く刻まれた傷跡を彼女達に見せた。かつて派遣された東南アジアでの邦人保護活動の折り、暴徒と揉み合いになってつけられた傷だった。
 ――防具があってもこれだけの傷が残っている。ましてや刃物は破傷風菌に汚染されている危険性も高い。女だからと見下したくはないが、戦闘のプロでもこの様だ、君達が傷つく様な事を俺は望まない。
 それでも反発し、講習をボイコットした職員は居たが、優菜はその言葉に感銘を受け、誰よりも熱心にその講習を受け、折に触れて彼に護身術を教わる様になり、仕事の相談する事も増えた。だが、優菜の熱意に任せた後先を考えない行動は、まだ成長しない。
 ――社会経験の差、だな。
 中学二年生までは母一人、中学三年生の時には老いた祖母だけが身寄りだった彼は高校への進学を国防部の高等工科学校への入学に代え、十代半ばから公務員という名の社会人として生きてきた。一方、優菜は今や大企業の支社で重役任されている様な父親の許に生まれ、ホームステイに始まる何度かの留学を経験し、国際機関の正職員に採用された人物である。だが、吉田はそれを妬ましくは思っていない、むしろ一回りほど離れた年齢の所為か、半ば親の様な心持で彼女を見守っている。
 心の何処かでは、これ以上この国が開かれなくてもよいと思いながら。
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