洗濯室にて

文字数 1,573文字

 破られたブラウスを証拠品としてエンリケに渡し、着替えに置いていた半袖のブラウスに着替えた和歌子は四階の洗濯室に居た。彼女の所属は警備部情報管理課簿書係であるが、警備部には外部から雇われた傭兵が少なからず所属しており、協会は彼等に支給した制服の持ち帰りを許可していない。和歌子が勤める以前には清掃や洗濯を担う用務員も在籍していたが、経費節減の為、毎日ではない洗濯と簿書整理は非常勤職員に一括して任せる事となり、それが今の彼女である。
「あぁ、書庫係の」
「御田川です」
 洗濯室に入ってきた若い男は、見覚えは有るが名前を覚えていない和歌子に声を掛けた。
「そう、御田川さん。ちょっとこれ借りるよ」
「いいですけど、それは」
「これは一旦衛生洗いだ、洗濯は明日以降でいい。タグは此処に置いておくよ」
「構いませんけど……」
 男は血液や汚物に汚染された制服を下洗いする専用の洗濯機に汚れた制服を放り込む。投入されるのは傭兵を派遣している警備会社が開発させた漂白剤で、洗浄後には高温と紫外線で殺菌が行われる。
「まったく……白鳥首相になってからという物、ろくな事がないな……得体の知れん外国人が、なんでこの田舎にうじゃうじゃ居るんだか……空からオタマジャクシが降ってくる方がよっぽどましだ」
 溜息を吐く様に洗濯機へ向かって発せられた言葉に和歌子は眉を顰めた。
「……なぁ、御田川さん」
 男の言葉に、和歌子は男を見た。
「もし、もしもだけどさ……今、明治の頃みたいに、天皇陛下が直接政治のトップになったとしたら……この国はまともになると思うか?」
 意外な問いに和歌子は目を瞠った。考えた事が無かったのだ。
「それは……」
「国民、が、こんな風に嫌な思いをしている事を……国家元首がどう捉えているのかって、考えた事が有るか?」
 和歌子は伏し目がちに、しかし、はっきりと言葉を紡いだ
「……それはなかったです。ただ……私達がまだ平常心で居られるのは、首相と元首が別にあって、元首が天皇であるからだと思っています。もし元首と首相が同じだったら……この国は、とっくに真っ二つに割れて、血みどろの殺し合いでもしているんじゃないでしょうか。国境を求める者と、求めない者で」
「そっか……なんか、ちょっと安心したかな」
「え……」
 和歌子は男の顔を見た。男は虚しそうな笑みを浮かべていた。
「此処にも、その前者が居て……あぁ、この洗濯は半日かかるから、放っておいていいよ。それじゃあ」
 男は足早に洗濯室を去る。和歌子は名前も知らないその男の後姿に、無意識の祈りを捧げていた。今日も一日無事で居て欲しい、と。
 和歌子がそんな感傷に浸っている内に、彼女がタグ付けを確認し、洗濯機に放り込んだ制服が洗いあがる。匂いで気配を察知されない様に、何の香り付けもされていない業務用の洗剤で洗われたそれらからは、水道水の塩素の香りがする様だった。ただ、そんな制服の中から、彼女は決まって土谷の物を見つける。大体の場合、釦が取れかかっているか、解れている部分がある。だが、乱暴に取り扱われる制服に傷みは付き物で、殆どは洗濯槽に取れた釦が残っている事で気付かされる。
 和歌子はなぜ土谷の物だけ気付くのか、その事を気に留めてはいなかった。ただ、また彼の制服が傷んでいるとだけ捉えていた。しかし今日は違っている。何ら傷みなど無い彼の制服に、彼女は目を止めていた。
 「あ……」
 金網に囲まれた物干し場所に出た和歌子は、警備部の車両が出動していくのを目にした。また、小競り合いとはいいがたい騒動が起こってしまったのだ。
 和歌子は遠ざかる車両の天井を見下ろしながら、重く湿った土谷の制服を祈る様に握りしめた。思考回路の何処かで、彼の制服をもう一度洗えますようにと願いながら。
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