危急

文字数 1,944文字

 和歌子が警察署の一室で状況の説明を受けている間に、事態は急転した。殺害宣言が殺害予告として現実味を帯びた形で再び公開され、その対象には和歌子も選ばれていた。更に其処にはエンリケと妻の聡美の名前も有り、既に居場所は突き止めていると言わんばかりの物騒な宣言が警察に送り付けられていたのだ。そんな状況の中、再び土谷の携帯電話が鳴る。
「土谷、今大丈夫か」
「エンリケ、お前こそ」
「土谷、聴いてくれ。今夜、聡美を此処から逃がす事にした。福岡の港から台湾への船が出る、それで逃がす」
「外国だが……台湾は入国規制が厳しいだろう?」
「あぁ、だが、現地には既に日本を逃れた論客や研究者が何人か居て、聡美の師匠の様な先生も居る」
「それで、どうしてその話を」
「御田川さんも、その便で逃がせるかもしれない」
 土谷は目を瞠った。
「だが、彼女には何の伝も無い」
「御田川さんの実家は輸入雑貨の店だろう? 仕事だと言えば滞在出来るかもしれない。それに、彼女だって一時は保守言論の活動をしていたんだ、聡美の知り合いと言って同行させれば、先に逃れた先生方も悪くは思わないはずだ」
「それはそうかもしれないが……」
「特に彼女は協会関係者に知られている、逃がすなら今しかない」
 土谷にはそう簡単な話に聞こえなかった。だが、一度最愛の人を奪われたエンリケの言葉は、あまりにも重たい物だった。
 電話を切り上げた土谷は、仕事が無く金銭的に困窮しており、家族からの協力も得られない状況では逃げる事など出来ないと途方に暮れていた和歌子を連れて車に戻る。
「御田川さん……今なら、台湾に逃げる事が出来る」
「え……」
 唐突に切り出された話題に、和歌子は困惑した。
「エンリケから連絡が有って、彼の奥さんが台湾に渡ると……彼の奥さんは保守系の研究者で、大学の助教をしている。知っているかもしれないが、台湾には何人も論客が逃げている。その伝があれば、入国や滞在の制限が厳しい中でもどうにかなるかもしれない」
「でも」
 何の伝も無いというより先に、土谷は続けた。
「それに、君の実家はアジア雑貨の店だろう? 家業の手伝いで仕入れに来たと言い訳をする事も出来る。事態があちら側の当局に伝われば、滞在の延長が認められるかもしれない」
「でも、そんなのどう言えばいいの? 私は勝手に警察の仕事を辞めたって思われているのよ? 家の仕事なんて持ち出したらもっと話がこじれちゃう……」
「家族を説得するんだったら、俺が何とでもしてやる。だが、逃げる機会は居間しかないんだ。それに、出発は日付が変わる頃、君は家族が寝静まった頃に家を抜け出す事になる。だから、後始末は俺がするしかないんだよ」
「え……それ、どういう……」
 突然示された予定に困惑を隠しきれない和歌子へ、土谷は畳みかけた。
「エンリケの奥さんは今夜脱出して、福岡に向かうんだ。君もこの夜が明けるより前に家を出て逃げる事になる」
「ちょっと、ちょっと待ってよ、そんな急に」
「逃げられるのは今しかないんだ。それに、もう警備保障の手配はしてある」
「そんな、そんな勝手に」
「俺は君に死んで欲しくないんだ!」
 土谷は声を張り上げた。
「このまま此処に留まれば、確実に君は殺されてしまう。そんなの俺は見たくない。なんでエンリケがこの話を俺にしたかと言えば、彼は故郷で自分の恋人を惨たらしく奪われたからに他ならない……守らせてくれ、愛する人の事も、愛する国の事も」
 和歌子は反論の言葉を見つけられず沈黙した。
「もし……もしこのまま君を奪われてしまったなら、俺は……英霊の誉れなんか捨てて、君に手を下した犯人を殺す。どうせ一度は諦めた名誉なんだ、今更後悔なんてしない」
 和歌子はもう何も言えなかった。彼女の理性は土谷がこの国の為に殉ずる事を望む傭兵であって欲しいと願っている。だが、彼女の感情はまた別の事を考えていた。彼と一緒に生きていきたい、と。
「そんな……そんなのって……酷い」
「とにかく、もう警備保障の手配はしてある。家族を説得するのなら、俺が後から何とでもしてやる。とにかく俺は……君を死なせるような事だけはしたくない」
「土谷さん……」
「……君はこの国の為に生きるべき人間だ。俺みたいに、傭兵として戦う事しか出来ない人間と違って、君は言葉の力を以て人を動かす事の出来る人間だ」
「そんな、そんな事は……」
「だから……今は安全な所に逃げてくれ。この国を離れなければならない事が悔しくても……君はこの国の為に生きていなければ勿体ない人間なんだ……だから俺は……俺は君の為に、この国の平穏な日常を取り戻す。もう二度と、君がこんな風に悲しまなくていい様に」
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