もう迷わない

文字数 2,380文字

 石川が殺害された翌日の事だった。
 石川の殺害も、山中記念病院会員セレモニーに付随して起こりうるテロも、何ら動きは無く、警察からの情報も無いまま土谷は洗濯室で正午を迎えた。もはや和歌子を出勤させられる状況とは言えず、簿書整理にエンリケを呼び出し、土谷は和歌子に代わって洗濯室の仕事を片付けていた。そんな彼の傍らには、大輪の菊の花束が有った。
 休憩をとるべく一階へと戻った土谷は、石川の殺害された男子便所に向かう。惨劇が有ったとはいえ、使わざるを得ない施設は既に人の出入りも戻っていたが、石川の無念が晴れたわけではない。土谷は花瓶ごとラッピングされた花束から包みを外し、男子便所の隅にそれを手向けようとした。
「ん……」
 それは、丁度石川が倒れていた辺りにほど近い、便器の上部にある小さなカウンターの上だった。女性の物と思しき薄い桃色のマグカップに、白い菊が一輪差されていた。
 土谷がそれを不審に思った瞬間、警備課からの緊急連絡が受信機を突き破った。

 事件が起こったのは、正午を過ぎた食堂だった。この日、鈴木凛は一本の水筒と、細長い包みを手に食堂へと向かっていた。いつもと同じ様に、福祉部の山本優菜と、広報課の同僚アイシャと共に。だが、食事のプレートを受け取る列から彼女は外れ、一人の男の近くへと歩いていった。
「ミスター・リベルジャン?」
 凛は細身で浅黒い肌を持ったその青年に声を掛け、政権は見知らぬ凛を訝しんだ。次の瞬間だった。凛は水筒に込めた液体燃料を男の顔面に放ち、何処にでも有る使い捨てのライターで火を点けた。食堂の中は一瞬にして凄まじい騒ぎとなり、近くに居た人物は凛を取り押さえようとする。だが、凛は小刀で喉笛を頸動脈ごと掻き切り、返す刀でそれを自分の腹に突き刺して倒れ込んだ。
 連絡を受けて土谷もまた駆け付けた時には、火傷を負わされたセザール・リベルジャンを介抱する職員と、天井まで血に染めて倒れ込む凛を蹴り飛ばす職員が居る地獄が広がっていた。
 その光景を目の当たりにした土谷は、もはや此処に居てはいけないと走り出し、何の躊躇いも無く女子更衣室へと駆け込んだ。中には外出しようとしていた女子職員が居り、男が駆け込んできた事に悲鳴を上げたが、土谷は構わず実包を込めた拳銃を抜き、鍵の掛けられた凛のロッカーをこじ開ける。
 ロッカーの奥の壁には、一通の封筒が貼りつけられていた。土谷が想像した通り、遺書であった。彼は白いハンカチを通してそれを掴み、地下駐車場へと急ぐ。おそらくすぐにやってくるであろう警察官に、それを引き渡す為だった。
 土谷の予想通り、程無くして地下駐車場にも警察車両が入り、土谷は駆けつけた警察官と共にその遺書を開封した。其処には彼女自身の葛藤の経緯と、石川に対する慕情、セザールとマイルズの会話を聴いた事実、そして、この国に対する憂慮や警鐘にも似た文言が綴られていた。
「土谷さん、さっきから無線が大分うるさいようだが……」
 土谷から事情を聴いていた警察官は、緊急呼び出しにノイズを上げる無線機を見遣る。
「あぁ、放っておけ。あのままこれを置いていたら、握り潰されるところだったからな……それと、昨日石川警視が殺害された現場に、女物のマグカップと菊の花が有りました。おそらく被疑者……鈴木凛の物でしょう、確認しておいてください」
 正義感に駆られた行動を終えた土谷は無線に応じ、上司の下へと向かって事情を説明した。勝手な行動をしたと上司は激怒したが、居合わせた傭兵達は一様に握り潰すつもりだったんだろうと土谷を擁護した。

「土谷」
 情報管理課の事務所に戻った土谷の前に現れたのはエンリケだった。
「クビは覚悟してる。尤も、警察の方は被疑者の遺書が手に入って胸を撫で下ろしているよ」
「しかし、鈴木凛は俺達の会話を聴いていたかもしれない」
「俺達に対する言及は遺書に無かった。彼女はマイルズとセザールが、おそらく日本語で喋っているのを聴いたらしい」
 エンリケは目を瞠った。
「マイルズはイギリス英語、セザールはポリネシアのフランス語が母国語で英語は苦手なのかもしれない……実際、セザールはフランスから直接日本支部に来ている」
「……復讐か」
「あぁ、どちらかと言えば、仇討かもしれない……彼女は石川さんに好意を抱いていたらしい。やや過激な保守系集団の動画制作に関わっていたのは確かで、日の丸の件に怒っていたのかもしれないが……好きな人間を殺された怒りが、理性を凌駕したんだろう。もはや思想なんてものは二の次だ。あの遺書だって、石川さんへの思いが先行していた」
 エンリケは目を伏せた。愛する人を失う事、殺される事の悲しみや苦しみ、怒りを彼は知っている。
「……土谷、お前も、逃がすべき相手をどうするか、考えているんだろうな」
「あぁ。警察の方には書面で、俺が此処を去る時には、即日彼女に警察署への復帰を命じるように頼んである。あちらも実質俺のエスだって事は知っているし、後は彼女にロッカーを空にしておけと言っておくだけだよ」
「そうか……しかし、世間はこれを、国際親善に対するテロ行為だのなんだの騒ぐだろうな」
「あぁ、きっとな……だが、もうそれは止められないだろう。此処がテロ組織を支援していたと白日の下に曝されるまではな」
「……戦争になりそうだな」
「あぁ。だが、そうでもしなければ、もうこの国の秩序は戻らないかもしれない……この国を愛する人間と、そうではない人間と、この国をアテにしていた人間と……勝てば官軍の、クソの極みみたいな戦争だろうな」
 土谷は吐き捨てる様に言って立ち上がる。
「何処へ行く」
「簿書係長に詫びを入れてくる。こりゃ、もう簿書整理どころじゃねえし、洗濯どころでもないからな」
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