路地裏にて

文字数 3,005文字

 モバイルバッテリーを電源にした簡易ライトだけが照らす室内、髪をピンク色に染めたアポルと髪を青色に染めたサウラは用意された夕食にありついていた。
 彼女達を支援している団体は、国境を廃する事で全人類的な幸福が訪れると考える地球市民運動を主導しており、彼女達はその資金源となる家電リサイクル工場で使役されている。だが、毎日仕事があるわけではなく、仕事の無い日は団体の活動に従事するか、この室内で過ごす事しか出来ない。
 しかし、彼女達はこの生活が幸せな物だと信じていた。無論、団体の掲げる理想郷の実現こそが真の幸福であるとは考えているが、例え食事が茹でた野菜と豆ばかりだったとしても、雨風の凌げる場所で毎日食事が得られるだけで十分だった。
 二人で過ごす夕食の時間は、酷く静かで短い物である。毎日食事が与えられる様になってからも、食べられる時に出来るだけ食べるという習慣は改まる事が無かった。
「アポル、電気消す、バッテリー減る」
 食事を終えたサウラはライトの電源を切ろうとするが、アポルは首を振る。
「バッテリー、有る」
 アポルはソヨンが支援物資として持ってきたモバイルバッテリーを指差す。
「じゅーでん、ない。じゅーでん、ボスがやる」
「暗い、いや」
「がまんする」
 電源を切られたくないアポルは手を伸ばすが、サウラは明かりを消そうとその手を払おうとする。この問答は日常の事だが、今日はその終わりが違った。
「アポル、サウラ、ワーキング」
 鍵を持つ支援者の一人が現れ、二人の前に立ちはだかった。
「ターゲット、ディス・マン」
 男はある男の顔写真を印刷した紙を手渡す。
「ディス・マン・ハヴ・ノート、ノート、ニード・ブリング・バック。ドント・キル、マスト」
 男は英語も日本語も不十分な二人に、断片的な英単語で指示を出す。
「ディス・マン、ステイ・ディス・ホテル」
 男は続けてとあるビジネスホテルの外観の写真と道順を示した紙を手渡した。
「ディス・マン、リターン、アバウト・ナイン」
「OK、ボス。アイ・シー」
 サウラは真剣な眼差しで男を見上げて承諾する。
「ゴー、アポル」
 サウラは立ち上がり、アポルを従えて建物を出る。 
 目的のホテルは近い距離ではなかったが、指定の時刻までには辿り着けるだけの距離だった。
 一見すると、パンクファッションの外国人女性が二人歩いているだけの後姿。だが、二人にとって夜の街はあまりにも眩しく、未だ手の届かない貴族の世界に等しかった。
 指定された路地へ入ろうとした時、アポルの足が止まる。
「アポル、行く」
 サウラはアポルの手を掴むが、アポルはそれを振り払う。
「いや、きらい」
「オーダーはマスト」
「いや」
「キルされる」
 アポルは呻き声を上げながら、引き摺られる様に路地へと進む。
「がまん、オーダーはマスト」
 震えるアポルを抱きしめながら、サウラはターゲットの男性を待った。
 サウラの腕の中で震えるアポルには、ビルの谷間の路地に悪い記憶があった。
 アポルは東南アジアにある貧富の格差が激しい国の、貧しい側に生まれた。しかし、貧しい側の人間は多く、それが当然のはずだったが、彼女はそれでもなお望まれぬ形で生を受けていた。彼女の母親はすでに結婚していたが、金銭の為違法な売春行為に手を染めており、夫が出稼ぎで留守にしていた数カ月の間に生まれたのが彼女だった。結果的に夫は激怒し、彼女の母親の片方の目を顔の骨ごと潰し、片方の耳の鼓膜を破って家に縛り付け、生まれた娘を納屋に閉じ込めた。
 幼い彼女は最低限の養育だけをされながら生き延びる事に成功し、歩き始めた頃、同じ様に納屋に放り込まれていた、産みの母親の夫の、新しい妻が結婚前に売春によって身籠っていた赤ん坊を連れて納屋を抜け出したまま、人身売買組織に拾われる事になった。
 それからの生活も、納屋でのものとあまり変わりは無く、物心ついた時には拒否権も無いまま体を弄ばれていた。だが、彼女は食べる為にそれを受け入れていた。しかし、二人分の食料を得る為にはそれだけでは足らず、幼い弟を抱えて同じ様な境遇の子供達が押し込まれている小屋を抜けだしては物乞いをする様になった。
 彼女は幼いなりに食べていこうと懸命だったが、その賢明さは悪い大人の汚い欲望に犯された。それがビルの谷間での出来事だった。その心的外傷を決定的にしたのは、幼い弟を連れて物乞いをした後、食べさせた物を弟が吐き戻してしまった事だった。幼すぎる彼女にとっては、殆ど命懸けで得た食料を粗末にされた事は許せなかった。
 その事件の翌日も、彼女は幼い弟を連れていれば物乞いが出来ると、ぐったりとした弟を背負って路地に立ち、いつもと同じ様に金銭を得て、僅かな食料を手にした。とは言え、その日は弟の分が無かった事、前日の嘔吐の事があり、それを彼女一人で食べてしまった。あくる朝、小屋の大人に弟が死んでいると教えられるなど知らずに。弟を取り上げられ、一人ぼっちになる事など知らずに。
 その時の彼女には、病院や医者の概念だけでなく、病気という概念さえなかった。その概念があったところで出来る事は無いに等しかったが、もっと優しくしてやればよかったという感情だけは彼女にも有った。
 サウラは過去の苦い記憶に震えるアポルを抱きしめていたが、遂にターゲットの男性が現れてしまう。
「ここにステイやる、わたし、ブリングする」
 サウラはアポルの体を離し、表通りに出た。だが、サウラが男に接近するよりも早く、事件は起こってしまった。目当ての男性が、すれ違った別の男に刺されてしまったのだ。
 手帖を持ち帰らなければ殺される。サウラは無我夢中で倒れかかる男を抱き留め、助けるふりをして懐に手を入れた。
「だ、誰かっ」
 サウラが手帖を盗み出したのは一瞬の出来事だった。だが、通りがかった若い女は刺された男から離れて走り去るサウラを目撃し、彼女を追いかけた。刺された男は出血こそしていたが、致命傷を負ったわけではない。
「ドロボー、ドロボー!」
 サウラを追いかける女は声を上げながら、サウラと同じ路地へと駆け込む。
 サウラは立ち尽くすアポルの手を掴んで別の路地へと走ろうとするが、アポルは間に合わない事を悟り、拳を握り締めた。
 それは無言の一撃だった。アポルは追いついた女のあごの下に拳を突っ込み、全力で殴りつけていた。女はその衝撃のまま真後ろに倒れ込み、頭を強打するまま血溜まりを作る。
「アポル!」
 サウラはそれ以上何もさせまいとしたが、アポルはとどめを刺すべく女の頭に膝を入れ、その顔面を叩き潰した。絶対に自分達の事を知られない為に。
「ゴー、ゴー!」
 女の血に足を汚したアポルを連れ、サウラは闇雲に走った。そして、人気の無い路地裏で足を止めた。
「Why!」
 サウラは悲鳴を上げる様にアポルを問い詰めた。しかし、アポルはあっけらかんとした表情を浮かべ、弾んだ息の隙間で答えた。
「金持ち、いらない。わたし不幸なる、金持ち悪い、わたし悪いない」
 サウラは目の前で起こった人殺しに動揺しながらも、金持ちという言葉に怒りがかき消されていくのを感じていた。
 サウラもまた、貧困故に愛情を知らず、体を弄ばれ、盗みを働いて生きていたのだから。
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