伝えたい思い

文字数 1,478文字

 ソヨンと優菜は滞在許可の無い移民の隠れ家となっているマンションを再び訪ねた。前回尋ねた時よりもエレベーターの床の段差が酷くなっているのを感じながら、あの部屋へと向かう。
「ハロー?」
 扉を叩いて応対したのは、いつも顔を出す堀の深い顔立ちの男ではなく、別の男だった。
「Who are you?」
 多少ぎこちない英語で問われ、優菜は国際交流協会の人間であると、簡易な英語で返した。
「Binzのトモダチか」
 優菜とソヨンはいつも顔を出す男の名前を知らなかった。だが、それがあの男の名前だろうと仮定し、優菜は頷いた。
「Yes. トモダチ、ユナ、ビンズのトモダチ。彼女、ソヨン。ソヨン、ビンズのトモダチ」
 優菜は同行するソヨンを指差し、共に危害を加えない事を示そうとした。それが伝わったのか、男は部屋の扉を開け、二人を奥に通す。
「Can I meet Apol and Saula」
 ソヨンは流暢な英語で男に問い掛ける。
「Why?」
「I want to pass mobile battery to Apol and Saula」
「OK, came」
 男はソヨンに付いて来るよう促し、部屋を出る。残された優菜は廊下を進み、リビングダイニングの扉を開けた。
「ハァイ、ジョー、ユナ、カムヒアー」
 雑然とした空間でソファベッドに横たわっている坊主頭の男に向け、優菜は笑顔を見せた。男は優菜の名前を繰り返し、喜びを表す。
「ボディ、ファイン?」
 優菜はソファベッドの傍らに腰を下ろし、元気かと尋ねる代わりに単語を並べて問い掛ける。
「ノー、ノー、バッド、バッド」
 男は関節の変形した手で腰を叩く。
「うん、うん……」
 優菜は男の言わんとする事を理解し、男の体を摩る。優菜がこの男に関して知っている事は、ビンズと呼ばれる男から聞かされた事柄のみで、断片的な情報でしかない。しかも、それは多くの憶測を含んでいた。だが、彼女はそれをあまり気に留めていなかった。目の前で困っている人の今困っている事を少しでも解決するのが自分の役割である、と。
 程無くしてソヨンと彼女を連れ出していた男は部屋に戻った。優菜は一枚の紙を男に手渡し、滑らかな英語で要件を述べる。
「Need to take Joe to hospital. This hospital will see him. Please pass this letter to Binz」
 男は十分に英語を理解して居ないのか、怪訝そうに優菜の顔と手紙を交互に見やる。
「これ、渡す、ビンズに、絶対」
 優菜は手紙を指差しながら簡単な単語を並べ、日本語で言い直す。
「コレ、ワタス、ビンズに」
 男の復唱に対し、優菜は大きく頷いた。
「お願いします」
 優菜は手紙を男に託すと、再び横たわる坊主頭の男の傍に屈む。
「アイ、リターン。ヒア、アゲイン。グッバイ」
「グッバイ、グッバイ」
 別れの挨拶を繰り返す男に優菜は微笑み、立ち上がった。
 そして二人は整備の悪いエレベーターで地上へと戻る。
「ユナ、あなたはとても優しいです。私は、うまく伝える事が出来ません」
「あまり深く考えないのがいいわ、ソヨン。簡単な言葉で、必要な事を並べるだけでも、案外何とか通じるものよ」
「そう、ですか?」
「えぇ、格式ばった文法よりも、伝わる事が大切だから」
「……努力します」
 相変わらず大きな段差の生じたエレベーターを降り、二人は次の目的地へと歩き始めた。
 その道すがら、すれ違う男には気付かずに。
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