トリックスター

文字数 1,498文字

 協会から遠くないビジネスホテルの近くで殺人事件が起こったらしい事は、凛の耳にも届いていた。
 暗くなってから一人で歩くのは止めなければならない。数年前まで、大通りであれば夜に女性が歩いていても何ら問題は無かった事を思い出しながらも、凛は無意識にその現実を受け入れようとしていた。
 そんな朝、破砕処理された書類の残骸を手に凛はゴミ置き場へと向かい、いつも通りに扉を開け、絶句した。引き取りを待つ可燃ごみの下に、損壊された日の丸が有ったのだ。確かにこの数日、玄関先の掲揚塔に日本国旗が掲揚されなくなっていたが、この様な事態になっていた事を凛は知らなかった。
 凛は崩れ落ちる様に膝をつき、破り捨てられた日の丸を拾い上げた。そして、何もかもそのままに、警備課の控室へと走る。
「い、石川さん!」
 控室の脇の廊下で石川の姿を見つけた凛は悲鳴を上げ、彼に駆け寄った。
「どうし……」
 振り返った石川は、凛が抱きしめるそれが日の丸の残骸である事を認めるや否や言葉を失った。
「……こちらに」
 石川は凛を警備課の小会議室に案内し、凛は備え付けの机に引き裂かれた日の丸を広げた。
「一体、何処に……」
「ゴミ捨て場に、有りました……」
「これを見つける前、ゴミ捨て場に人は居ましたか」
 凛は首を振った。
「……分かりました。これは私がお預かりします。あなたはいつも通り、何事も無い様に過ごして下さい、いいですね」
 凛は頷けなかった。
「鈴木さん?」
「わ……私……」
 震える手を握りしめ唇を震わせる凛に石川は目を細め、その隣に立ってこちらを向かせた。
「何かあったんですね」
 凛は大粒の涙を零しながら頷き、マイルズに脅迫された事、彼と見知らぬ誰かの会話に物騒な英単語を聞いた事を、消え入りそうな声で告白した。
「……それが、非番返上で私が呼び出された理由だったんですね。分かりました。しかし、鈴木さん」
 石川は凛の顔を覗き込んだ。
「私はこの事を絶対に誰にも言いません。ですから、あなたは此処で話した事の一切を忘れて下さい」
 凛は涙に濡れた瞳で石川を見上げる。
「あなたは何も見なかったし、何も聞かなかった、そうですよね」
 石川の口調はいたって穏やかだった。だが、凛にとってそれはマイルズから受けた脅迫と同じだけの恐怖を感じる物だった。それでも凛はゆっくりと頷き、濡れた涙袋を拭う。
「さあ、行きなさい」
 促されるまま、凛は小会議室を出た。
 石川は引き裂かれた日の丸の残骸を一つにまとめてハンカチに包む。損壊された証拠があれば、備品の棄損を口実に捜査が出来ると思いながら。
 石川が外に出た時、廊下には人気が無かった。彼は凛が無事にこの入り組んだ廊下から脱出出来たのだと理解する。
 凛は採用された当初から、庁内でしばしば迷っていた。本人は自覚していないが、石川には極端な方向音痴に思われていた。石川はそんな彼女の道案内をしながら、彼女に近付いた。彼女は警察公安課がマークする人物、マイルズ・マックイーンの実質的な部下であり、彼と行動する事の有る人物の一人、近付けばマイルズ・マックイーンに関する情報が得られるかもしれないと石川は考えていた。
 しかし、凛は石川が思ったほどマイルズ・マックイーンの事を把握しなかった。とはいえ、その極端な方向音痴の為に有らぬ所から情報を得たり、非常勤職員故の雑用から物証を得たり、彼の予想出来ない所で妙に役立っている。
 なんでも切り捨てればよい物ではない、何処かで役に立つ事がある。使える物は何でも使うべきと考えていた石川は、改めてそう感じていた。
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