残り香

文字数 2,187文字

「土谷、お前はセザール・リベルジャンの犯行だと思うか」
 石川が殺害された男子便所の規制線が解除された正午過ぎ、通気口を仰ぎ見ながら、エンリケは呟いた。
「あぁ。彼は格闘技の経験者で、彼の体格なら、通気口を介して動く事も出来るだろう……生駒に見せてもらった設計図面を見るに、其処の通気口はバックヤードの多目的トイレと繋がっていて、そのトイレと控室は離れている……一定時間鍵がかかった状態だと警報が作動するが、あの多目的トイレはカメラの死角にもなっている……状況証拠すら、まともに揃う事は無いだろう……もしかしたら、何かしらの証拠がこの先出てくるかもしれないが……海外に逃げられたら終わりだ」
「国境撤廃などという割に、海外逃亡には国境の壁を利用する。矛盾の極みだな」
「まったくだ……それにしても……こりゃ、明日は我が身と思った方がいいだろうな」
 土谷は溜息を吐くように言って、便器を見遣った。そしてエンリケは、そんな土谷を見遣る。エンリケは土谷が実質的な警察からのスパイである事を理解し、その上で彼に協力している。だが、それは彼にとって有益な事であるというよりは、土谷と名乗るこの男に、不思議な魅力を感じているからであった。
「……愛国者に対する見せしめか、あるいは、単純に消されたのか……判然としねぇが、どちらにせよ、俺は当てはまる」
「土谷、警察に戻る気は無いのか」
 土谷はエンリケを見た。
「どうするべきが最善か、まだ分からねぇんだよ。此処に居るべきか、戻るべきか……どちらが本当にこの国の為になるのか……事が動き出すまでは、分からない。だが……限界は近いのかもしれねぇな」
「限界、か」
 エンリケは目を伏せる。此処に来てからというもの、今の政権が保護しようとする不法滞在者への感情が悪化の一途を辿っている彼にとって、此処での仕事を続けられている理由は土谷の存在だけだった。
「あぁ、もう既に、限界が見えている人間も居るだろう?」
 エンリケはそれが御田川和歌子であると理解する。
「……例の件が阻止出来るかどうか、それだけは見届けなきゃならんだろうが、それは俺だけで十分だからな」
 土谷は静かに殺害現場となった男子便所に背を向け、エンリケもまた土谷に続く。
 彼等はその会話を物陰で聞いていた凛の存在に気付かないまま、広い廊下へと出て行った。
 そんな二人の気配が消えた頃、配電盤の扉を背に息を殺していた凛は、誰も居ない事を確かめながら、男子便所に足を踏み入れた。
 ――ここで、石川さんは……。
 警察が踏み込んだ事は庁内でもすぐに知れ渡り、程無くして、一階のバックヤードにある男子便所で、警備課の職員が心臓発作の為に死亡していたと通告がなされた。非常勤職員で部署も違う凛は、葬儀にはきっといく事が出来ないだろうから、せめて亡くなっていた場所で手を合わせようと入り組んだ通路を進んだ。ところが、便所の中から声が聞こえた為、近くの陰に隠れてやり過ごそうとしていた。
 ――セザール・リベルジャン。
 凛の耳に焼き付いたその名前は、彼女にとって覚えのある名前だった。その男は、企画部の印刷物の予算執行にかかわっていたのだ。
 ――許さない。
 土谷とエンリケは日の丸が棄損された一件に関連しているとは語っていなかったが、愛国者という言葉から、石川が日の丸棄損の一件に関わった事が殺された原因であると凛は思い至った。
「あれ……あなたは」
 物陰から出たところで、凛はある警備課の職員と鉢合わせた。
「……もしかして、石川さんの」
 相手は見ず知らずの職員であったが、凛は頷いて返す。
「俺は警備課の松原です、石川さんとバディーを組んでいました」
 凛は松原の顔を見た。
「少し聞いたんですけど……よく迷子になっている職員さんっていうのは……」
 凛は悲しげな苦笑いでそれを肯定する。
「そう、でしたか……こんな事になって、驚きましたよね……石川さんも、なんでこんな死に方しなきゃいけないのかって、無念がってるでしょう」
「いわゆる、突然死、だったんですよね……」
 凛は恐る恐る尋ねてみる。すると、松原は表情を曇らせる。
「それは何とも言えないです……松原さん、国旗掲揚がされなくなっていた事、気にしてたみたいですし……中にはどこの国の国旗だろうと、国旗を掲げる事を嫌う方も居られるそうですから……いやな予感は、しています……まぁ、鑑識の臨場も有りましたし、きっといずれ分かりますよ」
 石川が命を落とした現場に手を合わせる為か松原は歩き出し、凛は来た道を引き返す。だが、案の定入りんだ廊下で道を間違い、別の階段を登ってしまった。そして、決定的な会話を耳にした。
「セザール、あなたは、自分が何をしたのか、分っているのですか?」
「ミスターマックイーン、私は、あなたの為に、国旗を調べる男を、殺したのです」
「誰が殺せと言いましたか、証拠の旗を、持ち出せばよかっただけです」
「証拠の旗は、見つからなかった。口を封じるには、殺す」
「セザール!」
 凛は登りかけた階段を引き返し、出鱈目に逃げ回った。その結果、偶然にも、元来た怪談まで彼女は引き返していた。
 ――セザール・リベルジャン。
 彼女は石川を殺したであろう男の名を反芻する。絶対に間違わない為に。
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