考え方

文字数 2,668文字

 九月末日が保管期限となっている各種簿書の整理が始まり、それらの運び出しを始めたその日、和歌子は力仕事の手伝いに来ていた土谷に誘われ、食堂に居た。
「あら、あなたは……書庫で働いている職員さんね? 名前は……」
 目敏く和歌子を見つけた優菜は和歌子に声を掛ける。だが、優菜は和歌子の名前を知らなかった。
「御田川です。あなたは……山本さんっていうんですね、何度か書庫でお見掛けしました」
 和歌子は優菜の名札を見ていた。
「そう、私は山本優菜っていうの。一度お話してみたかったんだけど、機会が無くて。それより、いつも食堂には来ていないみたいだけど、今日はどうして?」
「いや……今日はお昼ご飯じゃなくて、ちょっと休憩に」
 不思議そうに和歌子を見つめる優菜に、和歌子は淡々と続ける。
「書庫の整理で力仕事をしていたから、お昼休憩が早かったんです。それで、ちょっと甘い物でも飲めないかと思って」
「へー、書庫のお仕事って大変なんですね。そうだ、私の友達も一緒に来てるの、こっちで少しお話しませんか?」
 和歌子は逡巡した。他の部署の人間とは、あまり関わりたくないのが本音である。だが、何故自分が此処に来たのかといえば、そういう事なのだ、と。
「よろしいんですか?」
「もちろん!」
「それじゃ、ご挨拶させて下さい」
「こっちよ」
 優菜は笑みを浮かべて和歌子を席へと案内する。そんな和歌子を遠巻きに見つめる男の存在には気づかないまま。
 席に着いた優菜は凛とアイシャに簿書係の職員だと和歌子を紹介する。和歌子はそれとなく話を合わせながら注文の列に並び、配膳の婦人に怪訝な顔をされながら具の無い汁粉を受け取った。
 席に戻った女性達は、それぞれの作法で食膳の祈りを捧げてから食事を始める。アイシャはイスラームの作法にのっとり、優菜は洗礼こそ受けてはいないが、キリスト教式の祈りを捧げる。凛は特定の宗教を自覚しているわけではないが、単にいただきますというよりは長く手を合わせ、二人の作法を尊重していた。和歌子は伏し目がちにその様子を眺めながら、口を付ける直前に一言だけいただきますと言った。
 優菜を中心とする会話の主題は、やはり白鳥首相の宣言であった。前日の夕方、政権を担う白鳥首相は超過滞在や非正規の手段で入国した不法滞在の外国人に関して、特別な在留許可を本格的に検討すると宣言した。それは正式なビザではないが、今までの様に身柄の拘束をせず、正当な滞在が出来る様に審査を行う間は一時的な行動制限を課すとの事だった。その行動制限は、現状就労している職場や学校、現時点で居住している住居の往来を中心に、生活に必要最低限の移動だけで生活する事を求めるという物で、法的には拘束しないとの事だった。同時に、全ての宗教施設はどの様な境遇にあっても信徒をはじめとする来訪者を拒んではならないと定める事も検討すると宣言した。
 この宣言には賛否両論があり、とりわけ保守系とされる論客や知識人からは法規制の崩壊を招くと強い非難が起こっているが、彼等の意見は尽く抹殺され、独自に公開されている動画や書き込みには見るに堪えない批判が殺到し、コメント欄の閉鎖や投稿の非公開措置が運営会社から下され続けている状態だった。
 だが、優菜はその宣言を好意的に捉えており、イスラーム教徒の女性達を保護したいと願うアイシャは福祉部の人員強化に志願したいと言う。凛は入国管理庁における交流の実態は劣悪だから、それがどうにかなるならいいと曖昧に話を合わせていた。
「御田川さんはどう思う?」
 和歌子と背中合わせの位置に座る土谷は、和歌子が優菜の問いに何と答えるのか、神経を尖らせる。
「そうですね……正直、ちょっとやり方が急すぎると思います。入ってしまえばこっちのもの、みたいな既成事実が正義になる様な風潮になりそうで、検討を間違うと、取り返しが付かなくなるように思います」
「御田川さんは総理に反対なの?」
 優菜は嫌悪を露わに和歌子の顔を見た。
「いいえ、反対はしません、親に連れてこられた子供達に罪は有りませんし。ただ、入管法の改正や、拘留施設の設備改修、あるいは増設によって、現状の法律では違法とされている人達であっても、人道的に管理する方向にする必要は有ると思います」
「それでも、身柄を拘束して、自由を奪われるなんて、やっぱり許せないと思わない?」
 優菜は更に和歌子の顔を覗き込むが、和歌子は表情を変える事も、視線を汁粉から動かす事もしない。
「正当に入国した外国人であっても、この国の国民であっても、法律に違反したら、拘置所に放り込まれます。日本の法律は、そうなってるんですから」
「それは、そうだけど……」
「もし、入国した人全てにビザを認めるというのであれば、選挙が必要だと思います。このままいけば、外国人参政権の問題も再燃してしまいまうでしょうし、まずは、今選挙権を持つ人達の意見を取りまとめないと、順番が狂うと思います」
「そう……」
 優菜はどこか不服そうに和歌子の顔から視線を逸らす。
「選挙か……そういう面倒な手段、さっさといらなくなって欲しいわね」
 優菜の言葉に吐き気を催したのは、和歌子だけではなかった。凛もまた、選挙権がどの様にして全国民に認められたのかを知らないのかと、激しい嫌悪感を覚えていた。それだけではない、背中でその話を聞いていた土谷も、その向こうに居るエンリケも、同じ様に嫌悪感を覚えていた。
「国籍とか、戸籍とか、そんな物があるから、差別や制限が無くならないのよ」
 優菜はそれが正しいと言わんばかりに肩を竦めた。
 場はそのまま険悪な空気に包まれるかと思われたが、優菜はまるで先程の話題が無かったかのように、最近庁舎の近くに開店したブティックが有ると話し始め、アイシャがその話題に乗って空気感は変わった。
 昼休みが半分ほど終わる頃、背後の土谷が席を立ち、和歌子も一足先に仕事に戻ると言って席を立った。
「此処で仕事を続ける自信が無くなってきました」
 情報管理課の事務所に戻った和歌子の第一声はそれだった。
「気持は分かるぜ、あんたは俺達ほど、十分な金を貰ってるわけでもないしな……作家で食っていく気になったか?」
 土谷はいつもの様に、何処か皮肉めいた笑みを浮かべて和歌子を見た。だが、和歌子は土谷を見なかった。
「文壇、あるいは論壇っていう戦場に出る方が、この国の役に立てるなら……その方が、いいかもしれないです」
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