陽の昇らない朝

文字数 3,027文字

 協会庁舎にほど近いマンションの一室が土谷の自宅だった。住民票を置いているのは所属する特殊警備会社の社員寮という事も有り、室内には最低限の家具しか備えられていない。ただ、簡易な机の上に積まれた数冊の書籍が、其処に今も人が生活している様子を窺わせる。
 国際交流協会は世界中との連携が求められる事から、無人になる時刻も休日も無く運営が続けられており、外部との連絡を行う渉外部や保安部警備課には当直勤務の当番もある。だが、土谷は情報管理課が本来の所属であり、警備課の業務に関わる一方、勤務は事務職と同じである。
 午前八時二十分を少し過ぎた頃、土谷は安物の背広姿で自宅を出る。だが、今朝は庁舎に直行せず、昨日襲撃された衣料品店が見える通りを選んで歩く。
 昨日放火被害に遭ったブティックの店主は、幼い頃に戦火を逃れて父親の故郷である日本に移住した女性だった。とあるメディアのインタビューに答えたその女性は、二つの故郷を持つ事が今は誇らしいと語っていた。しかし、その念願が叶った自身のブランドショップは一発の火炎瓶によって全焼した。
 既にビニールシートが掛けられ、店舗の様子を覗い知る事は出来ないが、火炎瓶での襲撃など想定されていない店舗内には、多くの可燃物が置かれていたのだろうと、鼻を突く焦げ臭さに土谷は思いを馳せる。
 国を誇りに思う、ただそれだけが許されないというのかと思案しながら歩く内、土谷の足は協会庁舎のすぐ傍まで来ていた。そして彼は玄関先の掲揚塔にはためく日本国旗と協会旗を見上げた。
 だが、其処に日本国旗は無かった。
 彼は愕然として立ち尽くした。つい昨日まで、他の官公庁と同じ様に、国際親善を表現する為の協会旗と、この国の国旗がはためいていたはずの空。だが、今日は其処に太陽が昇っていないかの様に、日の丸が無かった。
 一体いつからだ。其処に思い至った彼は急ぎ足で庁舎の裏へと回り、国旗掲揚を取り止めた決議簿が無いかと探した。しかし、国旗掲揚を取り止めた理由は分からず、備品であれば廃棄の記録が有るはずだと調べたがそれも見つける事も出来ず、彼は警備課の控室へと向かう。当直の警備部員であれば、何かを知っているだろう、と。
「あぁ石川さん、おはようございます」
 土谷は勤務時間の終了を目前にした石川を呼び止めた。
「おはようございます、土谷さん。どうかしましたか」
 血相を変える土谷に対し、事情を知らな石川はいつも通りの穏やかさを保っていた。
「国旗掲揚がされていない様なのですが……何かあったんですか、破れてしまったとか」
「え……聞いていませんよ」
 穏やかだった石川の表情が、一瞬の内に曇る。
「それじゃあ、一体いつから」
「分かりません。私が最後に確認したのは深夜二時で、その後は中の巡回しかしていません」
「そうですか……」
「私はこれで帰る時刻になってしまいますが……それとなく聞いて回れば、何か分かるかもしれません」
「あぁ、そうさせてもらう。疲れているところ、申し訳ありません」
 土谷は小さく頭を下げ、再び情報管理課の事務所に向かう。始業前の点呼までには、制服に着替えなければならない。
 午前八時四十五分、保安部警備課の点呼と引継ぎが始まる頃、警備課の控室では正面玄関を目にした職員も同様に国旗の掲揚がされていない事に気付き、それが話題になっていた。だが、定刻通り警備課と支援に入る土谷を含む職員を前にして始まった朝礼で、国旗掲揚に関する告知はなされなかった。
 何が起こっているのか分からないまま、土谷は平常の業務に就く。今は廃棄する簿書の確認と、来週から始まる破砕処理の為の準備をしなければならない。簿書係は有るが、係長と非常勤の和歌子しかおらず、大掛かりな仕事は情報管理課が責任を負う事になるのだ。
 廃棄に問題が無いと決裁された簿書から金具や綴じ紐を取り除き、再利用するファイルが有れば表題を潰す。非常勤の和歌子には権限の無い作業を土谷が進める内、時刻は午前十時となる。出勤した和歌子は土谷に声を掛け、この数日と同じ様に書庫へ向かう。
 書庫に入った和歌子は稼働書架のストッパーを掛け、棚の隙間に脚立を持ち込み、上部の簿書に手を伸ばす。中には廃棄すべき年度に廃棄されずそのまま残されていた古い簿書も有り、また係長が頭を抱えるだろうと思いながら、彼女は作業を続けていた。そんな時だった、突然、動かないはずの書架が動き出したのは。
 和歌子は人が居ると思い切り声を出すが、書架は恐ろしい速度で彼女の脚立に激突し、なおも彼女を圧し潰そうとする。
「やめて、やめてってばやめてーっ!」
〈何をしている!〉
 冊子の様な紙の束が抛り散らかされる衝撃音と英語の怒号が無機質で薄暗い書庫の中に響き渡り、その刹那に、何か重たい物が投げ付けられた様な湿った衝撃音が立つ。そして、怒号の主であるエンリケは片手でテーザー銃を引き抜きながら叫んだ。
「Are you arlight? 大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫じゃないです!」
 エンリケは脚立の幅だけ不自然な空間の空いた棚まで駆け寄り、彼女の背後に迫る書架を力任せに反対へと追いやる。
「今の内に出ろ」
 エンリケは左腕で片側の書架を抑えながら、右手に構えたテーザー銃をこの騒動の元凶に向ける。衝撃に歪んだのか不安定な脚立から何とか床へと降りた和歌子はエンリケの背後に駆け出す。
 和歌子が書架の隙間から脱出した事を確かめると、エンリケはテーザー銃を両手で強く構え、床に叩き付けた男に狙いを定めた。
 男は細身で褐色の肌をしていた。
〈彼女を殺すつもりだったのか?〉
 エンリケは英語で問い掛けるが、男は腰を抜かした様な姿勢のまま、首を振る。
「お前は、彼女を、殺したかったのか」
「ちが、ちがいます。しらなかった、しらなかった」
「あれだけ叫んでいてか? 出入り口に居た俺にも、聞こえたぞ」
「しらなかった、しらなかった!」
 男は両手を上げ、撃つなと示す。だが、エンリケの銃口は男に向けられたまま、彼は間合いを詰めた。
「Emergency call. Emergency call. 警備課リャヌラ、第一書庫」
 緊急連絡に応答したのは、待機していた警備課の生駒だった。生駒は連絡を受けるや否や隣にいた沢井を引き連れ、移動しながら状況を確認する。そんな彼等にエンリケは、所属不明の職員が簿書係の非常勤職員を殺しかけたと伝えた。
 駆け付けた生駒は業務用端末を手に、腰を抜かした男に声を掛けた。
「おい」
 男は飛び上がらんばかりに振り返り、生駒の端末のレンズに顔を見せる。すると、生駒の端末には男の所属が表示された。曰く、男は経理部会計課に所属する職員で、オセアニアのフランス領出身だった。
「沢井さん、フランス語の通訳を」
「は、はい」
 それから暫くの間、男は腰を抜かしたまま、エンリケはその男にテーザー銃を突き付けたまま、通訳を介した事情聴取が繰り広げられた。
「リャヌラ、簿書の方を事務所に送って、土谷に顛末を伝えてくれ、処分はこっちで決める」
「了解」
 生駒の指示にエンリケは銃を下ろし、和歌子に目配せをする。そして、和歌子が男の傍を通る間、再びその銃口を男に突き付けた。和歌子は嫌悪に満ちた表情で男の脇を通り過ぎ、エンリケに従う格好で事務所へと戻った。
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