脅迫

文字数 1,247文字

 エンリケから話を聞かされたその日の夕刻、土谷は簿書係長の稲村から退職する日が決まったと報せを受けた。稲村曰く、夫から早く仕事を辞め、安全な職場を探すべきだと強く勧められた事も有り、月末を待たず退職するという。
 話を聞かされた土谷は仕事を終えると和歌子の住むマンションに向かい、係長に退職前の挨拶をするか尋ねようとしていた。だが、和歌子の借りているマンションの駐車場に警察車両が止まっている事に気付き、土谷は慌てて和歌子に電話を掛けた。すると、警察を呼んだのは和歌子で、自身が作品を公表しているとあるサービスのアカウントに殺害予告を含む多数の誹謗中傷が寄せられ、その場で警察署を通して出動を要請するに至ったのだという。
 土谷が玄関先で待って居ると、二人の警察官が外に出ていくのが見えた。土谷は再び和歌子に連絡し、彼女の部屋に向かう。
「八月に賞をもらったあの作品がきっかけで、アクセスは増えていたんですけど……」
 和歌子曰く、公開している作品の中には、人間とエルフの種族間対立を描いた作品や、とある国と国を脅かす闇の種族の戦いを描いた作品があり、現実の国家間対立や愛国主義に基づく要素を多分に含んでいるという。そして、それが地球市民運動過激派の目に留まった可能性が有るのだと言った。
「……こんな時に、ヘンな話をするようだが……実は、稲村係長がもうすぐ退職するんだ」
 証拠品として見せていたパソコンを前に立ち尽くして和歌子は土谷を見た。
「旦那さんに、協会は危ないから早く辞めろと言われたらしい。其処でな、最後に挨拶をしたいなら、明日俺が同行してやるから、一度庁舎に来ないかと思って」
「そうだったんですか……」
「おそらく、もうお前には出勤しろと言えない。荷物を引き揚げるのもそうだし、他に挨拶したい人が居れば、出来るだけ回ってやる」
 市松宮襲撃計画に間接的とは言え関わってしまった時点から、和歌子は協会での仕事が続けられるとは思っていなかった。だが、いざ退職が現実味を帯びてくると、日常が崩壊している事を突き付けられている様で、居心地が悪くなる。
 和歌子は少しばかり思案し、数少ない交流を持っていた上司に思いを馳せる。
「でしたら、情報管理課の課長さんと、この前、書庫で助けて下さった警備のリャヌラさんに、出来ればお礼を言いたいです」
「分った。それじゃあ、明日の朝迎えに来るから、着替えて待っててくれ」
「分かりました……その、ご心配おかけして、すみません」
「謝るな。お前は悪くない。むしろ、正しい判断をした、それだけだ……それはそうと、どうする、この先、また、警察署に戻るつもりは有るのか?」
 和歌子は目を伏せた。
「正直、何がいいのか分かりません。警察の簿書整理は繁忙期とそうでない時の差も大きいですし……確定申告が近くなったら、また、税務署で帳簿の整理が有るかもしれないので、それはその時、仕事を探します」
「そうか……それじゃあ、また明日」
「はい、お願いします」
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