憧憬

文字数 1,681文字

 東京丸の内、皇居を望む二重橋のたもとで惨劇が繰り広げられたその夜、土谷はその光景を古びた一軒家で眺めていた。
 自分がスパイを使う事も、自分自身がスパイになる事も向いていないと土谷は公安課の職を辞し、皇宮警察の下請け組織への派遣を希望しようとしていた。だが、入国管理局が拘束していた不法滞在者が一斉に保釈されるとの決定が下された事で事態は一変、遺留された土谷は県警本部に残り、土地勘のある商店街や住宅地を警戒する業務に従事する事となった。
 それは協会の保安部に居た頃とあまり変わりの無い地道な業務で、応援要請を受けては危険な現場へと向かう警備課の仕事よりもずっと単調かつ、何らかの危険が有った時には、自分以外に信じられるものの無い過酷な仕事だった。しかも、戦力として高く評価された土谷には夜勤が割り振られない代わりに、事が起これば休日も昼夜も問わず出動を命ぜられる。そもそもこの住宅も、近隣の商店街や住宅地で問題が起こった時、速やかに移動できる様にと警察が手配した宿舎なのだから。
「羨ましいですか?」
 宿舎となっている一軒家で土谷と同居している佐倉は、二重橋の惨劇を報道する動画を眺める土谷に声を掛けた。
「そりゃ、こんな派手な現場の第一線に立てる傭兵は花形だからな」
「そうですね……ただ、彼等が安心して、目立つ暴徒を鎮圧出来るのは、私達の様に、各地の隅々に配備された傭兵が居るからだという事、教えてやりたいものですね」
「そうだな」
 佐倉は土谷より少し年上で、土谷と同じく商業施設の守衛を務めていた、穏やかで知的な男である。それもそのはずで、佐倉は教育者として一時は教鞭をとっていた。だが、不法滞在移民がきっかけとなった事件に子供達が巻き込まれているのを看過出来なかった事、学校という職場で物量的にも精神的にも過重な労働を強いられた事もあり、警備員の職を経て傭兵の道に進んだのだ。
「今夜も、何事も無ければいいな」
「そうですね」
 土谷はパソコンの電源を落とし、寝室のある二階へと向かう。集合住宅での暮らしが長い土谷にとって、二階の有る一軒家の二階というのは、一つの夢だった。他方、同じく集合住宅での暮らしの長かった佐倉にしてみれば、一軒家の一階というのはこの上なく便利で、一刻を争う出動求められる今は、とても理に適った場所だった。
 佐倉は居間の灯りを落とし、自身も寝床へと向かう。そして身を横たえながら、土谷が最前線の警備に当たる傭兵に憧れを抱いている事に思いを馳せた。機会さえあれば、彼はその花形を目指していたのだろう、と。
 だが、土谷が協会を辞めた理由を知る佐倉は、土谷にはおそらく思いを寄せている人が居るのだろうと勘付いていた。上司から慰留されたとはいえ、断って皇宮警備に志願出来たはずの彼が、危険ではあるが最前線ほど花の無い警察に留まっているのは、何か理由が有るのだろう、と。
 佐倉自身もまた、本心ではあの最前線に立つ傭兵への憧れが有った。だが、彼は傭兵を志すよりも前、まだ教壇に立っていた頃に亡くした恋人に残された言葉を守り続けていた。その女性は幼馴染だったが、彼が教師を志している頃、まだ治す術の無い病に蝕まれ、延命を拒んだ。そんな女性は佐倉に対し、この国を良くしたいという自分の願いを受け継いで欲しい、生きてこの国の行く末を見届けて欲しいと言った。
 ただ、その女性が望んでいた未来は平等と平和の新しい世界で、二千七百年の歴史を守る事を良しとする佐倉の理想とは違っていた。だが、その女性の理想は至って平和的で、一つの理想郷を描いている様な優しい物だった。しかし、佐倉は志の方向性こそ違っても、その女性が自分に向けてくれた感情には関係が無いと思い至り、最前線への志願はせず、穏やかで知的な性分と生真面目な勤務態度を買われるまま、警察での仕事を続けている。
 彼は今、無き女性から向けられたのと同じ様な思いを土谷に向けている。若く熱意が有る一方、人間らしい感情を隠し切れない土谷にこそ、この国の行く末を生きて見届けて欲しい、と。
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